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 自室に戻る途中、階段の影からひそひそと話す声が聞こえた。斜め後ろを歩いていた侍女が気がつかないほどの小声だ。さくらはふと気を引かれて、階段の半ばで足を止める。小さくくり貫かれた窓から外を眺めるふりをして、内緒話に耳を澄ませた。


「内親王殿下が生誕祭でお召しになる例のご衣装、ご覧になったことがありまして?」

「もちろん。十六歳という節目にふさわしい、目の覚めるような蒼のドレス……」

「ああん、わたくしも殿下の衣装部屋へお手伝いにうかがえればいいのに! あなただけ見られるなんてずるいわ。このやしきのみんな、あなたに話を聞きたくてうずうずしているわよ」

「知ってるわ、もう何人に訊ねられたことか」


 どうやら話題は一月後に控えた内親王殿下の生誕祭についてらしい。ミュゼガルズには現在、王族は国王と内親王殿下のふたりだけだ。王妃はさくらが召喚された当時すでに身罷られていたし、降嫁した内親王は王族の枠から外されるので、来月に十六歳となり成人を迎える内親王殿下は当然未婚である。


「でも内親王殿下のご衣装があれだけ美しいと、プリンシア・サクラの装いをどうするかが悩みどころよね」


 いきなりさくらの名前が出てきて、窓枠に置いた指先がぴくりと跳ねた。


「内親王殿下の生誕祭なのだから、プリンシアのご衣装が彼女より豪華ではまずいでしょう」

「さすがにご理解くださるわよね」

「わたくしたちの言い方次第ではないかしら? 手放しで賞賛すればご機嫌になるわよ、あの方なら」

「褒められるの好きよね、あの方」

「今のうちから褒める台詞を考えていたほうがいいわよ。あまり同じ言葉で褒めていると不審に思われるわ」

「休憩時間になったら辞書でも引っ張り出しておこうかしら。気の利いた褒め言葉を言えたらお側付きにしていただけるかも」


 彼女たちがくすりと笑った気配がして、さくらは階段下へ飛び込もうかどうか真剣に考えた。桟に乗せたこぶしがふるふると震えていた。

 使用人がさくらの機嫌をとろうとして、やたら褒めているのはわかっている。わかっていたけれど、いざこうして言葉にされてしまうと、疑いようもない事実としてさくらの胸に食い込んだ。


「なんと不敬な……!」


 そばにいた侍女が気づき、咎めるような鋭い声をあげた。さくらはその声に怯え、数歩階段を駆けあがる。


「静かにして! 気づかれる」

「ですが、プリンシア!」

「いいの!」


 噂話をしている使用人たちのところへ乱入しようとしていたくせに、実際に彼女たちに気づかれるとなると尻込みした。頭がくらくらするほどの怒りにさいなまれながら、それでも正面から彼女たちに向き合うのにはとてつもない勇気が必要だった。

 さくらには、この聖都ミュゼガルズで心許せる友はひとりもいない。

 三年間で、ただのひとりとも親しくなれなかったのだ。そのことが、さくらの人間性をよく表している。


「侍従長に申し出ましょう、プリンシア。このまま見過ごしてはいけません」


 廊下を足早に行くさくらを、侍女は強い口調で説得しようとする。

 だが、この女こそが、あの使用人ふたりと同じく「今日、あのひとドレスに染みを作ってたわ。いまだにフォークもまともに使えないのよ」と笑っているのだ。さくらはそれを聞いた。何度も。何度も。何度も。そして彼女は、仲間内でさくらを呼ぶとき「プリンシア」ではなく「あのひと」と言う。決して姫とは呼ばない。


「いいってば。知られたくないの」

「知られたくないとは?」

「だから……」


 さくらの世話をしてくれる使用人たち、さくらを守ってくれる近衛騎士たち、さくらを召喚した神殿関係者に、知られたくないのだ。

 そらみたことか、と思われるから。


「じぶんがっ、ひとにばかにされてるのを言いふらしたいわけないでしょ! 絶対、みんなに知れ渡るに決まってる!」

「も、申し訳ございません、プリンシア。出過ぎたことを申しました」

「こんな話が広がったら、わたしが恥をかくだけなんだよ……」

「……プリンシア」


 ミュゼガルズはさくらの憩いの地だった。プリンシアと呼ばれ、敬われて、たくさんのひとびとに大事にしてもらえる。なんてすばらしい世界だろう。

 けれど、どこにいても、やっぱりさくらはさくらのままで、間違っても姫君なんかではないのだ。みんなにちやほやされる期間は、もう過ぎた。任務を終えたあたりが、最盛期だったのだ。ただそこにいるだけのさくらに求心力はない。さくらは、役目を全うした時点でもとの世界へ帰るべきだった。先代たちがそうしてきたように。神殿関係者が促すままに。

 それでも醜くしがみつくのは、かりそめの肩書きが惜しいからだ。これがあれば、表立ってさくらをばかにする者はいない。いないが、崖っぷちに立たされているような焦燥感は日毎に増していた。


 国の上層部から帰郷を望まれていることを、さくらはちゃんと知っている。



 部屋に戻ったあとも、侍女とさくらのあいだには気まずい空気が流れていた。いっそ寝室へ下がってしまおうかとも思ったが、一杯の紅茶を飲み終わらないうちに談話室の扉がノックされた。


「プリンシア。近衛騎士団の方がお見えです」


 やってきたのは王族の身辺に控える武装精鋭集団、近衛騎士団の団長だった。


「ご機嫌いかがかな、プリンシア・サクラ」


 金の短髪を掻きながら、彼は朗らかに笑った。黒い制服に身を包んでいても、その体躯がいかに屈強なものであるのかよくわかる。

 ジン・ファウスト。近衛騎士三十名を束ねる、騎士の頂点にして国一番の剣士だ。よく笑うひとで、さくらを襲った輩をひとりで倒したあとも何事もなかったみたいに笑って謝っていた。彼には、さくらに対する罪悪感があるようだった。だから、このひとは決してさくらを悪く言ったりはしない。

 代わりに苦言をこぼすのは、決まって彼の右腕だ。


「あまり顔色が優れないようですが」


 ジンのあとからやってきた、副団長リンナ・ローウェルが無表情でそう言う。

 ジンと同じかそれ以上に立派な体格をしている黒髪の近衛騎士である。笑みとは無縁のような顔をして、いつも冷たい声で話をするひとだ。けれど、一生懸命がんばっているひとにはとても優しい。

 さくらは任務中、彼に三度頭を撫でてもらったことがあった。微笑みかけてもらったことも、数えるほどにではあるけれど確かにあった。うれしかった。さくらの今までの努力が報われたような、そんな気がしたのだ。


「どうぞ、プリンシア。少しでもあなたの心の慰めになりますように」


 ソファに身を沈めるさくらの前に、ジンが片膝をついた。その手にあるのはピンクとホワイトのローズだ。小さな花束は幅の広いリボンでまとめられて、レディにぴったりの可愛らしいプレゼントになっている。

 さくらは薔薇の花束を受け取り、その花のひとつひとつがきちんとトゲの処理をされていることに気がついて胸が震えた。

 どうしよう。とてもうれしい。うれしい。

 こんなふうに特別な扱いをしてくれるひとが、じぶんには、いる。そのことが、涙が滲むほどうれしかった。

 この幸福感を伝えたいと思った。でも、直接言うのは照れる。


「ありがとう、ございます」


 さくらは、花束に鼻を埋めた。これだけではきっと伝わらないだろう。ジンが「トゲはとってあるから怪我はしないと思いますが、そのように無防備な振る舞いをされては危ないですよ」と苦笑した。それでようやくきっかけを得たさくらは、もう一度小さい声でお礼を言った。

 トゲがないのを確認したから、顔を近づけたのだ。無警戒だったわけでは、ない。


「ちなみに、トゲをとったのは私ではありません」


 にやりとしてジンが言うのを、リンナが舌打ちしたいような顔で一瞥した。


「リンナ・ローウェルですよ。この朴念仁がチマチマせっせとトゲを削いでいる姿はなかなか見ものでした」

「ジン!」


 たまらずリンナが声を荒げたが、ジンはなんのその。リンナは忌々しそうに鼻の頭にしわを寄せてそっぽを向いた。


「ところで、先日はご令嬢方とお茶会をなさったとか?」


 さくらが頬をこわばらせてうなずくと、ジンはなだめるようにやわらかな笑みを浮かべた。


「お楽しみいただけましたか? 宮廷作法は窮屈でしょう、同年代の女性と気兼ねなくお話できればと陛下もご心配なさっておりましたよ」

「ご配慮、ありがとうございました……」


 正直、身の置き場のない思いをしただけで終わったお茶会である。同年代とはいっても、さくらと同じ環境で生きてきた女の子たちではないのだ。特に女は、身分が高貴になればなるほど他人の粗に目が行くものらしい。さくらがそういうタイプの人間を引き寄せてしまうからなのかはわからないが、少なくともマナーもおぼつかない小娘が味方もなく参加して素直に楽しめる場ではなかった。


 お茶会の終盤では、誰もさくらに話を振らなくなっていた。目の前で交わされる、流行しているドレスや装飾品の話にひたすら耳を傾けるだけの時間。


 最終的に、さくらは早退した。それを受けて令嬢たちは慌てたらしい。自室に籠るさくらのもとへ彼女たちから贈り物がたくさん届いたが、そのときのさくらは大人げなく拗ねていたしいじけていたから、すべていらないとつっぱねた。あとになって自己嫌悪に襲われ、罪悪感に駆られたけれど、どうすればいいのかわからなくて結局放置してしまった。


 後に彼女たちが【祈りの姫】の機嫌を損ねた、と宮廷ではそれなりの噂になり、あちこちからお茶会リベンジの招待状が届けられるほど大きな話になったのである。

 どの招待状へもお断りの返事を書いているから、おそらくまだ噂話は尾びれを付けて宮廷中を泳ぎ回っていることだろう。


 心の中ではさくらを軽んじているくせに、こうしてちやほやすることも多い。だがたとえうわべだけのことでも、さくらを大事にしてくれるうちはさくらの中でのバランスは保たれる。

 ばかみたいだ。

 まるで、都会で失敗して出戻ってきた田舎者が故郷の友人たちに都会のすばらしさを説いているみたい。じぶんは馴染めなかったというのに、そういうのは虎の威を借るなんとやらである。

 そうだ、まさに今のさくらは虎の威を借る狐なのだ。


「それで、例の噂はあなたのお耳にも入っておられるかと存じておりますが」


 困ったように後ろ髪を掻き、こちらを見上げるジン。彼の森林を思わせる濃緑の瞳が、さくらの感情を探っている。

 このひとは優しいけれど、易しいひとではない。


「どうか、もう一度だけお茶会に参加してはくださいませんか」


 今日彼がここへ訊ねてきた理由を、たった今理解した。さくらは、視線を膝に落としてうつむいた。

 それであの令嬢たちが各方面から許されるというならば、安いものだろう。

 けれど、さくらは行きたくないのだ。額が冷たくなって、血の気が引いているのだということを自覚する。断ればジンも国王も落胆することだろう。悪くすればさくらに嫌気が差すかもしれない。それは怖い。だけど……。


 ――わたしは【祈りの姫】だ。歴代最高のプリンシア。そのわたしが、なにかを我慢しなきゃいけないなんて間違ってる。役目は終えたんだから、このひとたちはわたしの望むように振る舞う義務があるはずなんだ。だって、わたしは故郷や故郷での生活から切り離されて、突然ここへ連れてこられたんだから。


 ふたつの気持ちがせめぎあう。

 臆病者なじぶんと傲慢なじぶん。

 それでもやっぱり、生来の臆病さはとても強くて、嫌だ嫌だと叫ぶ心をねじ伏せようとする。


「わ、わたし……」


 行きます。

 ただその一言が、言わなきゃいけないとわかっているのに、言えない。周囲を落胆させ、あきれられるのは怖いのに、行きたくないとわめくじぶんもまた強い。抵抗されて、くちびるが震えた。

 ジンは、そんなさくらを見て、なにか思うところがあったようだった。小さく吐息して、幼い子どもにするみたいな、甘い顔をした。


「行ってくれますか?」


 いやだ。


「行きたくない?」


 うん。

 さくらはうなずいてしまった。恐怖よりも、嫌なことはしたくないと主張するじぶんに負けた。


 ――だって、ここではそれが許されるでしょう?


 許されるはず、許されるはず、許されないわけがない。なぜならさくらはプリンシアだから。

 必死にじぶんに言い聞かせた。じぶんの主張は正しい。これは当然の権利だ、と。罪悪感や恐怖は、見ないふりをした。ずるいことをしているのは、わかっていた。


「了解です、プリンシア。無理強いはいたしません。すべては、あなたの望むままに」


 ほらね、ほら。さくらは膝の上でこぶしを握った。レースをふんだんにあしらったアップルグリーンのドレスは、さくらの心情などおかまいなしで美しくそこに在る。これを着るには相応しくないじぶん。でも、ジンはさくらを許した。許してくれた。いや、許すしかなかったのだ。これこそが今のさくらが持つ力なのだ。


「では、その旨を各御仁へ伝えて参りますので、そろそろおいとまさせていただきます」

「あ……」


 ジンが立ち上がった。本当に用件はそれだけだったのか。一礼する彼の表情が読み取れない。離れた距離が、さくらへの叱責のように思えてついすがるような眼差しを向けてしまう。

 こんなに怯えているのに、じぶんの持つ権威を振りかざせる傲慢さが同居している。

 矛盾だらけのじぶんに、さくらは心底嫌気が差した。

 去っていくジンは、さくらのためには立ち止まらない。さくらの中の葛藤に気づかなかったのだろうが、どうしてもそれがわざとのように思えて仕方がない。

 続けてジンの背中を追うリンナが、不意に足を止めた。振り向く彼の視線が、さくらの眉間を貫く。立ち位置からしてどうしようもないのはわかるけれど、その視線はさくらを見下している気がした。冷たく、蔑むように。


「自己嫌悪に浸るくらいなら、いっそ傷ついて泣けばよろしいのでは?」


 彼の放った言葉に、頭の芯が冷えた。


「そうなれば、私たちもなんの気兼ねなくお慰めすることができるでしょう」


 それは、いったいどういう意味だ。

 返す言葉も思い浮かばず、はくはくと浅い息を吐く。なにも言い返せないうちに、目の奥が熱くなった。


「リンナ。あまり強い言葉を使うな」


 みかねたジンが仲裁したが、助けられた気はしなかった。ぽたりとドレスにしずくが落ちる。二言三言、痛い言葉を投げられただけですぐに泣く。さくらの涙腺は、ひとよりゆるいらしい。ひとはそれを、弱いと言う。


「あなたは最近、鬱ぎがちだとお聞きしています。それは、あなたがミュゼガルズにいることとは関係のないことですか?」

「……え?」


 甘さの欠片もないリンナの声が、淡々と続く。ジンが咎めるように彼の名を呼んでも、リンナはひるまなかった。


「やはり故郷へお帰りになるべきでは? 歴代のプリンシアは皆、お役目を終えられるとすぐに帰って行かれました。あなたにも、帰るべき場所があるのではないのですか?」

「リンナ、待て。呼び出したのはこちらだ、おまえのそれは恩を仇で返すのと同じことだ」

「そうやって誰もこの方に進言しないから、現状このようなことになっているのです」


 リンナはジンの咎めを振り切って、まだ続けた。


「辛い思いをしてまでこの世界に留まるのはなぜなのですか? 故郷にはあなたのご家族やご友人がいらっしゃるのでしょう。それを忘れたように、役目を終えてもこちらで一年ものあいだ過ごしているのはなぜです。いつでもお帰りいただけるというのに、どうしてミュゼガルズにこだわるのです?」

「こ、こだわってる、わけじゃ」

「では、なんだというのです。執着ですか、未練ですか。見たところ、親しい者がこちらにおられるわけでもなさそうですが?」


 痛いところを突かれて、さくらは赤面した。恥ずかしかった。友人のひとりもいないことを、彼は把握している。さくらがどんな人間なのか、彼はしっかり理解しているのだ。

 ぼたぼたとドレスの膝に染みが広がる。涙というのは、温かい。どれだけ胸が痛くても、震えるほど指先が凍っていても、涙だけは温度がある。さくらに優しくしてくれるのは、実のところ涙だけなのかもしれない。


「リンナ。さすがにそれは言い過ぎだ」

「申し訳ありません。ですが、プリンシア、私はあなたが憎くてこのようなことを申し上げているのではありません。恩知らずとお思いになるかもしれませんが、どうかお耳に痛い諫言もお受け止めください。ここで鬱いだ生活をするよりも――あなたは故郷へお帰りになるべきなのです」


 ちっとも申し訳ないとは思っていない口調でそう言うや、彼は颯爽と退室していった。残されたさくらが、滂沱の涙を拭うこともなくうちひしがれているのを見もせずに。

 ジンはすまなそうにしばらくさくらのそばにいたが、彼が言ったのは「あれがキツいことを言うのは今に始まったことじゃありませんが、今日はいつにも増して鋭かったですね」である。


 帰りたくない。

 けれど、ここのひとたちはさくらに帰って欲しがっている。

 なんだかとても、むしゃくしゃした。


 さくらの存在は、どこへ行ってもちっぽけ。

 さくらがなにをしたところで、時間が経てばみんな忘れる。

 いらいらした。むかむかした。吐き気がするほど、めまいがするほど、頭に血がのぼる。

 今ここで死んでやったら、みんな慌てふためくだろうか。そう考えたら、なんだか少しだけ愉快な気分になった。

 そうだ、祈ってやろう。かつてミュゼガルズの平和を願ったこの身で、今度はミュゼガルズの崩壊を望んでやるのだ。

 さくらは【祈りの姫】。きっとさくらの祈りには力がある。


 涙は止まった。激情も去った。

 残ったのは、ミュゼガルズのひとびとがさくらに泣いて懇願する空想だけだった。

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