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序章
斜陽差す秋半ばの午後。お昼が過ぎたばかりと思っていたら、あっという間に空の縁が朱色に染まってしまった。
庭園に枝を広げる低木たちは、せっかく黄土や紅に色づいた葉を空風に吹かれて裸に剥かれ、寒そうに立ち尽くしている。
この時期になると、鮮やかな花の類は見事に消え失せ都は寂しげな風景に様変わりする。日本風に言えばわびさびなのかもしれないが、聖都ミュゼガルズでは素朴な和の景観に理解があるわけもなかった。
浜辺さくらは、遠い故郷を思って安堵のため息をつく。
三年前、突如呼び出され、世界の枠を越えてこのミュゼガルズにやってきた。そのときに与えられた【祈りの姫君】の任も過去類をみないほどの最短期間で全うし、一時は歴代最高のプリンシアと言われたこともあった。
けれどその成功の鍵となったのは、さくらの心根や努力ではない。
「プリンシア、風が冷えてまいりました。そろそろお部屋に戻られては?」
そばに控えていた使用人が、猫なで声でそう言った。
聖都ミュゼガルズの宮廷に、さくらを邪険に扱える人間はひとりもいない。【祈りの姫君】という存在は、公式の書物では神祇官の長と書かれる。公的な機関からは完全に独立した立場ではあるが、役目の内容としては国の祭事を司る神祇官という部所の管轄らしい。ほかの部所と違って神殿からの派遣という形で神祇官が任命されるので、宮廷内では異色扱いされている。
神秘性を帯びる神祇官、そしてその長である異世界の娘。神祇官に権力はほとんど与えられていないけれど、役目を正しく終え、歴代最高とうたわれるさくらには万の富にも等しい権威が宿っている。
国の王でさえ、さくらに縄をかけることなどできはしないのだ。
自然と笑みがこぼれる。
使用人に片付けを任せてお茶の席を立ったさくらは、最強の魔法使いになった気分で庭園をあとにした。
ミュゼガルズこそ、さくらが望んでやまなかった世界。
日本なんてどうでもいい。故郷なんて知らない。
家族のことは愛しているけれど、それ以外のものはすべて滅びればいいとさえ思っていた。今も思っている。
だから。
じぶんは、もとの世界へなんて戻る気はない。
郷愁に駆られないかといろんなひとが訊ねるのを、さくらはいつも微笑んでかわしながら心の内では鼻で笑っていた。誰があんなところへ戻りたいと思うものか。
姫君――このすばらしい呼び名を、じぶんは絶対に手放さない。
たとえ国の王が、さくらに縄をかけたいと思うほど【祈りの姫君】の故郷への帰還を希求していたとしても。




