2/16 Question Of Last
昨日は久しぶりに遅くまで仕事をしていた。無駄に大きいスーツケースを引きずって町の南から北まで運ぶ仕事だ。しかも人目についてはいけないという理由で公共機関とタクシーは禁止。運転はできるが免許を持っていないので車も貸してもらえなかった。つまり徒歩だ。ったく、悪の組織が道路交通法守ってんじゃねえっての。
そんなわけで今日は自主休日。モーニングセットを食べるついでに『嗚呼、海馬』に入り浸って本を読んでいる。マスターの好みは多岐にわたり、聞いたこともない胡散臭い学術本から初版で絶版になった小説から、なぜか十三巻ある漫画の八巻だけが置いてあったり、その基準はマスターのみぞ知るところだ。どこかの教授が書いた『郷土史三巻』というそっけないタイトルの本をぺらぺらめくっていると、とんとんとテーブルの端が叩かれた。
「ん? なにかな、マスター」
見ると頼んでもいないカフェオレのソーサーにメモが載っている。その紙には東うろなにある病院の名前と病室の番号が書かれていた。
「ここに行けということか」
この店に通っているとたまにこういうことがある。警官には心当たりのない場所の住所が書かれたメモだったり、花屋に対しては珍しい花の一輪だったり、メッセージはさまざまだが、マスターのちょっとした頼み事だ。簡単に無視できることで、それを無視したからといって、例えば私であれば知恵や本の知識の恩恵を受けられなくなるということはないのだが、未だにこれを無視した人間はみたことがない。人の良心がそうさせるのか。
「分かった、行こう。どうせ今日は暇だ」
私の場合は単なる気紛れだ。このマスターはいつも私の機嫌が良い時にメモを持ってくる。指定された病室の表札を見て、合点がいった。
「おう、よく来てくれたな」
窓際の白いベッドに横たわっているのはあの憎たらしい中年オヤジだ。
「あんたがそうやっておとなしく寝っ転がってるというのも新鮮な光景だな。というか、入院なんてするとは思わなかった。てっきり道端で死ぬものかと思っていた」
「ったりめえだろ。貯金だってしてんだぞ」
年齢も年齢だし、入院と聞いてもっと重い病状を想像していたが、存外に元気そうだ。
「私をここに呼んだのは、例の保険を使う必要に迫られた、ということかな」
「ああ、そうだ」
横沢は急に神妙な顔になって、毛布から完全に体を出す形でベッドに座りなおした。腰かけているような状態だ。
「昨日ぶっ倒れてここに連れてこられたんだけどよ、実際のところ、どうも最近調子が悪いってんでこの病院に通ってて、んで、ちゃんと言われてたんだ。次、病院に運ばれた時が最後だってな」
年寄りの話は長いと相場が決まっている。ベッドの横にあった丸に足が四つ付いただけの椅子を引きよせて私も腰を下ろした。
「俺は好き勝手に生きてきたから、最後まで外で好きなことやらしてくれって頼んで今日まできた。けどよ、いざってなるとやっぱり心残りが一つだけあるもんだ」
そこで横沢は私の目をまっすぐ見た。
「俺には娘がいるんだ。若え頃、事業に失敗してスリに手ぇ出し始めた頃にカミさんと一緒に出て行かれちまって、それっきりだけどよ」
「まさかとは思うが、そいつを探し出してここまで連れて来いという話ではないだろうな。私にそんな身の毛もよだつ感動の再会の片棒をかつげと?」
「娘のことは四方手を尽くして分かってんだ。堅気の男と結婚してガキもいる。いつか行こうと思って後回しにしてるうちに、もう俺は出歩けねえ体になっちまった。だから、ここに連れて来てくれるだけでいいんだ」
「なぜ私に頼むんだ。この町には歴とした探偵もいるし、他に頼れそうな人間がいくらでもいると思うが」
「……なんとなく、お前は娘に似てるんだ。声とか見た目もそうだが、なんつうか、雰囲気がよ。ただ使いを送ったってあいつは来ちゃくれねえ。でもお前なら」
「そんな重い責任、私にはとても負えない。お前も知っているはずだ。いくら金を積まれたとしても、自分の分を越えた仕事は自分の身を滅ぼす」
「それでも」
横沢はついにベッドから降りて額を床につけ、土下座した。
「頼む、お前にしか頼めないんだ」
そんなことを言われても困る。私がどれほどその娘に好感を抱かれたとしても、横沢に会わせることは、きっとできない。これは一年や二年の話ではなく、心の奥深くに根付いた問題だ。解決するためにはきっともっと時間をかけて、もっと早くに手をつけなければならなかった。後悔するには遅すぎたのだ。ちょうどこれは、横沢の病気と同じ。もう手の施しようがない。今から行うのは治療ではなく、患者の思うように、最後の時を過ごさせる、終末医療にすぎない。
「分かった」
横沢の娘は町外に住んでいて、ここからは一時間半もかかるらしい。日を改めることを勧められたが、天気予報では明日は大雪が降ると言っていた。それに、あまり期待を持たせたくなかった。この先にはたとえどんな奇跡が起こっても変わらない、厳然とした結果だけが待っている。
横沢の娘の家は駅にほど近いマンションの一室だった。今日は日曜だが、旦那の休みは月曜と水曜。今は専業主婦である娘とその息子しかいないと聞いている。躊躇いなくインターホンを押した。ちらっと目に入った手作りの表札には花山という名字の横に一家の名前が並んでいる。それによると娘の名前は陽子というようだ。まさかとは思うがあのオッサン、当時流行ってたアイドルの名前をそのままつけたんじゃないだろうな。
「はい、どちらさまですか」
どうでもいいことを考えていたら、インターホンから女の声が聞こえてきた。
「いきなり訪問して申し訳ない。私は葵井静といって、横沢大地の使いで伺うことになった」
凍りついたような沈黙が落ちる。無視して通話を切るか、しっかり断って退散させるか迷っているようでもあった。
「その人に心当たりはありません。だからもう帰ってくだ」
「死にかけている」
そこで一旦言葉を切ったが、陽子の反駁は続かなかった。
「横沢は今、うろな町の総合病院に入院していて、もう病院から出ることができないくらいに病状が進行しているんだ。今まで後悔しない生き方をしてきたと言っていたが、その人生で唯一の心残りがお前だ。一度、たった一度だけでいい。会いに行ってやってはくれないか」
インターホンの発するわずかなノイズが不快なほど大きく聞こえる、長い間。不意に、ドアの鍵が回る音がして、髪の長い女が出てきた。
「どうぞ。外は寒いですから……中へお入りください」
部屋の中は特にこれといった印象のない、普通の家だった。息子はちょうど寝たところだといって、リビングのテーブルに向かい合って座った。改めて見ると、横沢の言うとおり、私と似ているような気がした。タートルネックのセーターにベージュのスカートの陽子と私とは服による印象がだいぶ違うが、体型や輪郭が近い。年齢が十近くも上のはずだが、こんな出会い方でなければぜひ若づくりの方法を教えてもらいたかったところだ。
「それで、あなたは横沢とどういうご関係なんですか」
「なに、単なる仕事仲間だ。質問を質問で返すようで悪いが、あんたは横沢のことをどのくらい知っているんだ?」
「何も。あの人のすることは今だって私にはわかりませんから。こうしてあなたを寄越したことだって、何のためなんだか私にはわかりません」
「それは。先ほども言ったが、あいつは最後に一目あんたに会いたいんだ。私も内容は聞かされていないが、あんたに聞きたいことがあるのだと言っていた」
「今さら……ですよ。私はもうあの人とは関係のないところで生きているんです。それを今さら父親ぶって、いったい何を私に聞くっていうんですか」
「あいつがあんたたちに対して何をしたのか、ということは少し聞いた。あんたの反応から、私が思うよりも酷い思いをしてきたということも想像できる。だが、あいつにとってはこれで最後なんだ。だから」
「最後だからって、なんで許せることになるんですか。私や母はこれまで何度も辛い目に会ってきました。なのにあの人は一度だって私たちに会いにきたことはなかった! あの人はいつでも、今でもそうなんですね。今はっきりわかりました。あの人はいつでも自分のことだけを考えていて、私たちのことなんてこれっぽっちも……」
陽子の声は黒いカーテンのように顔にかかった髪にさえぎられて、最後まで私の耳に届かなかった。……もう、十分か。
「分かった」
顔をあげないままだったが、どんな顔をしているのか、それは見なくても想像がついたし、見ない方がきっと誰のためにも正しい。
「くだらない話をして済まなかったな。今度、何かうまいものでも送ろう」
そうして、またうろな町に帰ってきた。分かっていたこととはいえ、なんとなく今すぐに横沢に会うのは気まずくて、駅のそばにある中央公園のベンチに腰を下ろした。習慣のように煙草をくわえ、煙を見つめながら思いを巡らせる。
そう、初めから娘を連れてくることができないということは分かっていた。なのに私がこの依頼を引き受けたのは、柄にもない感情論を振り回したのは、たぶん、救ってもらいたかったからだ。私は知らぬ間に横沢に自分を投影して、自分で自分を救おうとしていた。こんなどうしようもない自分も、いつかは必ず横沢と同じく死の瞬間が訪れる。私はあの病室で、自分を見ていた。どこかで名前も知らない誰かに殺されるのならば、それも構わない。だが病に伏したとき、私がついに死んだとき、一人になるということがどういうことかを痛烈に実感させられた。それはとても、寂しいことだ。
ふっと視界の上に足が見えた。
「果菜」
そこにいたのは、今月に入ってから妙に縁のある少女。
「最近よく会うな。今日はどうした?」
曇り空の下で会うのは初めてかもしれない。いつも晴れた空の下で笑っている、そんなところしか見たことがなかった。そのせいかこの曇天の下、果菜は少し元気がないように見えた。
「果菜、お前」
「しずかちゃん、おなかいたいの?」
意図せず、煙草がぽろりと口からこぼれおちる。しかしそれを咄嗟に踏み消すくらいの冷静さはあった。
「ああ、いや……少し困っていた」
「どんなこと?」
「んん、っと……そうだな。どうしても、と頼まれたことがあるんだが、私がそれをすることはできないんだ。だから、困っている」
我ながら随分抽象的な答えだ。うまい喩えが思い浮かばなかった。しかし果菜は間髪入れず声をあげた。
「じゃあかながてつだってあげる!」
「え?」
「だってパイを見つけてくれたおかえし、まだしてないもん。なにかしてもらったら、ちゃんとおかえししなきゃ! それにね」
えへへ、と照れたように笑った。
「ともだちがこまってたら、たすけるのはあたりまえじゃない!」
そう、か。私がやってきたことにも、多少の意味はあったのか。
「私は……馬鹿だな」
「えー、しずかちゃんっておばかさんだったんだー。かなのほうがえらいんだ!」
「ふふっ、なんだと? じゃあ果菜、パンはパンでも食べられないパンは何か知ってるか?」
「そんなのないよ」
「おっと、これがわからないようではまだまだ私には及ばないな」
「もぉぉ! 知ってるもん! えっとね、えっとね!」
自分の評価は自分では下せない。私一人が否定しても、誰かが肯定してくれれば、それは正しいとはいえないかもしれないが、間違っているともいえないのだ。
うろなのどんより曇った空の下、人のまばらな町を私たちは笑いながら帰った。
YLさんの『"うろな町の教育を考える会" 業務日誌』から、小林果菜ちゃんをお借りしました。




