2/14 メリーバッド・バレンタイン
うろな駅前の広場に設置されている大きな時計が有名なクラシックの一節を流し始めた。一時間ごとにランダムなメロディーが一分間流れるようになっていて、それは時計が午後四時になったことを示していた。あれから三時間弱、うろな町中をさまよったが森田を見つけることは出来なかった。しかし、森田は急に姿を消したりしてどうするつもりなのか。まさか駆け落ちでもしたってんじゃないだろうし……。
「あ、しずかちゃんだ!」
「ん、果菜か」
適当にふらふらと歩いていたら、いつの間にか商店街まで来ていた。ピグミーの店先にでかでかと『バレンタイン』と書かれた真っ赤なポスターが貼られているのを見て、今日がバレンタインということに気づく。道理でカップルがよく目につくわけだ。
「一人か?」
「うん、ばんごはんのおかいものなの」
母親から渡されたのだろうメモをぐちゃぐちゃに握りしめ、目をきらきら輝かせる果菜。もしかしたら親がこっそり見ているかもしれない。
「魚屋の親父は子どもに甘いから狙い目だぞ。ついていってやりたいが、今私はちょっと探し物をしていてな」
「ねえ、きのうのおにいさんってだがしやさんのちかくにすんでるの?」
「なに?」
果菜の言葉に、一瞬足を動かすことを忘れた。
「だって、さっきだがしやさんのちかくでこえがきこえたから。もしそうだったらいつでもおかしたべられていいよね!」
駄菓子屋の近く……確か駄菓子屋の右脇には細い路地が伸びていて、その先には……。
「悪い、果菜。やはり用事ができてしまった。買い物がうまくいったら、今度山ほどの駄菓子を買ってやるから頑張れよ」
果菜の返事を待たず、その場を蹴った。バレンタイン限定のイベントやセールをやっているところはそれなりにあるが、そこはやはり商店街。そこそこ人はいたが、障害になるほどではない。駄菓子屋までは五分もかからずに辿り着いた。こちらから見てその右脇に人が一人通れるほどの隙間があり、そこを抜けると一つ向こうの路地に出る。ここは主に昔からこの場所に住んでいる家庭ばかりで、人通りはあまりない。そしてその中で比較的新しい洋風の家がある。そこは随分前から放置されていて、近所のガキからは幽霊屋敷なんて噂も建てられているくらいだ。変に小奇麗なだけ、不気味さを放っている。玄関の柵を乗り越えて木製のドアを引いてみるが、案の定鍵がかかっている。まあしかし、家は扉からしか入ってはいけないなんて法律はない。横に回ってみると不法侵入におあつらえ向きのリビングに位置する部分の大きな窓があった。庭に転がっている大きめの石をガラスに放り投げると、簡単に割れ崩れた。胴と同じくらいの大きさの穴が開いたので、ガラスの切り口に注意してくぐる。
「っ……この匂いは」
いやに生臭くて、本能的な部分が嫌悪を訴える。血の匂いだ。視覚的な暗さだけではない、体に空気がのしかかってくるような暗さ。重い足を引きずって階段の近くまで歩みをすすめたところで、上から押し殺されたようなくぐもった声が聞こえてくる。二階に上がって声の聞こえてくる角部屋のドアを開けると、そこには夕奈と森田がいた。
「森田を見つけられたのか……と言うのはしらじらしいかな」
「ああ、葵井さん。ここがわかったんですね」
夕奈はそうして血のついた頬を綻ばせて笑った。赤光を背負って笑う彼女の足元には森田がベッドの脚に胴体を手首ほどもあるロープでくくりつけられている。体が陰になって見えないが、背中に回った両手も縛られているのだろう。赤黒く汚れた白いシャツは両袖が破れ、露出した左の二の腕にはナイフで刻まれた痛々しいバツ印がある。
「どうしてこんなことをしたんだ。私が一日ごとに作成した報告書には浮気の疑いなし、と書いたはずだが」
「うふふ、だって葵井さんがあんまりだらだらしているものだから。私、我慢できなくなっちゃったんです」
事実が判明しても調査を引き延ばして料金を釣り上げるのが私のやり方ではあるが、森田の素行は正真正銘の潔白だった。そう、一般的な基準では潔白だった。
「お前の基準では不十分だったというわけか。自分以外の女と話すことも、ましてや夜遅くにカラオケボックスなんていう密室で女と時を過ごすことは、お前にとっては浮気も同然だった」
「え、違うんですか?」
「アメリカ人を見習え。奴らに聞けば一人残らず、嫉妬というのは黙っておくことだと答えるだろうよ」
一歩踏み出すと、夕奈は包丁をこちらに突きつけた。その瞳は不安定にゆらゆら揺れている。
「近寄らないでください」
「そうして私を退けたとして、それからどうする」
「ここで幸せになります」
その場にうずくまり、包丁を構えた手とは逆の腕で森田の頭を抱きよせた。
「私たちが幸せになるにはこうするしかないんです。武光君だって納得してくれます!」
森田は抱かれるままに彼女の胸に顔を埋めている。彼の顔はこちらからうかがうことはできない。
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ」
「何を言っているんですか。だから私は……」
「お前じゃない。私にはこの広い世の中で許せないものが三つある。クソ生意気なガキと出しゃばりな女と女々しい男だ」
一歩踏み出す。この小さな部屋では大股で歩けば三歩もかからない。
「待ってください! それ以上近寄ったら……」
もう遅い。私の右手に握ったそれは夕奈の腹に密着している。スイッチを押すと激しい痙攣とともに夕奈が崩れ落ちた。その拍子に取り落とした包丁は念のために取り上げておく。
「な、な……」
「何が起こったか、と聞きたいのならば答えよう。コレだ」
倒れた夕奈の顔の前に黒い機械をぶら下げてみせる。
「私の住んでいるアパートの隣には機械いじりが好きな奴がいてな。コレはそいつに作ってもらったものだ。護身用のスタンガン。安心しろ、威力は押さえてある。私が頼んでもいないのに、勝手にリミッターをつけやがったんだ」
しばらくは体が痺れて動けないだろう。ひとまず森田を解放することにした。本当にほどくのが馬鹿らしくなるような太さのロープだったので、手っ取り早く包丁で切ってやった。解放された森田は手首をさすり、なぜか包丁を握った。
「おいおい、この場で君が裏切るという展開は興味深いが、面白くないぞ」
「大丈夫です」
森田は棒のように倒れていた夕奈を起こし、壁に寄り掛からせた。
「夕奈ちゃん。僕、夕奈ちゃんに酷いことをされて、とても怖かった。痛かったよ」
「……ごめん」
「でも、僕もごめん。夕奈ちゃんがそんなに不安がってるって気付かなくて」
森田はそこで深く深呼吸した。一回。二回。三回。そこで息を止め、ゆっくりと包丁を左腕にあてがった。痛みをこらえて唸り、それはこらえきれずに雄たけびになった。
「夕奈ちゃん。僕は、君のことが、大好きだ……っ!」
「…………馬鹿な野郎だな」
森田は左腕のバツ印に二本、線を加えた。すると彼のその傷は歪な『夕』の字となった。
どうも、弥塚泉です。
二話目を書き終えてちょっと話の流れを掴めたような気がするので、良かったと思いました。
YLさんの『"うろな町の教育を考える会" 業務日誌』から、小林果菜ちゃんをお借りしました。




