2/13 カウントゼロ
町外の大学に通う女子学生、藍原夕奈から、交際相手の森田武光の素行調査を依頼されてから今日で三日が過ぎた。朝、森田が家を出てから帰宅するまでの間、片時も離れずに尾行することを続けている。わざわざ定期まで買って大学の授業にも紛れ込んで張り付いているが、今のところ目立った進展は見られない。朝の通学中は夕奈と電車で学校に行き、その後同じ授業のときと昼休みのときは彼女といる。森田は剣道のサークルに所属していて帰りが遅くなるため、帰りは別々だ。夕奈は待つと言ったが、申し訳ないからと固く拒否したらしい。かといってこの三日間の森田は彼女と別れてからも特に怪しい動きを見せることはなく、授業が夕奈と別だったときも女友達と世間話をするくらいだったし、夜遅くまで外を出歩いているときでもカラオケだったり飲み会だったりに行くだけで、歓楽街に行くことすらなかった。三日目の今日はサークルもバイトもなく寄り道せずに帰ってきて、今はうろな駅前の本屋で漫画雑誌を立ち読みしているところだ。森田は入口近くにいるので、私は目立たないように店内で料理雑誌越しに奴を見ているが、なかなか尻尾を出さない森田に対するいら立ちがどうしても足に出てしまう。本屋の中で煙草を吸うわけにもいかないというのも歯痒さに拍車をかけている。
「あ」
と、そんなとき不意に低い位置から聞き覚えのある声がした。
「あおいいいおねえさん」
「二度も同じ間違いをするというのは作為的なものを感じるな。ひょっとしてお前は私のことを青い良いお姉さんだと勘違いしているのか」
「なにしてるの?」
「お前には関係ない」
目を離さずに声だけで受け答えしていたのだが、しかし懲りずにぐいぐいとズボンを引っ張ってくる。このまま一張羅が台無しにされてしまうと明日以降着る服がなくなってしまう。理屈の通じない子どもに対して大人は有効な対抗手段を持たないのだ。近所では有名な頑固親父として知られている次藤さんも「泣いている子どもには敵わんわい」と笑っていた。
「なんだ、どうしたっていうんだ」
その場にしゃがみ込んで相手をすることに決めた。こうすれば本棚の隙間から、視界にはぎりぎり森田の姿が入る。
隣にいるのはもちろん果菜だ。たいていの子どもは私の外見を見て避けるのだが、果菜の場合は知り合ったきっかけがきっかけなので、私のことを怖がる様子はない。そうして改めて果菜の姿を確認すると、違和感を覚えた。
「あれ、お前パイはどうした」
パイというのはこの前まで果菜が連れまわしていたクマのぬいぐるみの名前で、外でも持ち歩いていたくらいお気に入りだったものだ。それが今日はどこにもいない。
「またいなくなっちゃったらいやだから、パイはおうちでおるすばんなの」
「へえ。もしかして、あの後ママに怒られたか?」
そう聞くと頬を桃色に染めてうつむいた。どうやら図星らしい。
「まあいい、私はここに料理の本を探しに来たんだ。果菜はどうした?」
「ママといっしょにきたんだよ」
「ふむ」
あのときは他のことにまで気が回らなかったが、あの事件が果菜の母親にバレたらそれなりに面倒なことになるかもしれないな。
「果菜、パイのことはなんて説明したんだ?」
「あおいいいおねえさんにてつだってもらってみつけたよって」
「……ならいいか」
私、青くないし。なんだったら真っ黒だし。
「しかし、これから私のことは『しずかちゃん』と呼ぶようにな。友達とはそういうものだ」
「うん。あ、そういえばね、このあいだから、ひよちゃんとよくあうようになったの! おかしいっぱいくれるんだよ!」
あの乳牛……餌付けしていやがる。今度会ったらボンレスハムにするしかないようだな。
「いいか、果菜。ああいう奴は適当に利用するのがいいんだぞ。もらうものだけもらって後はポイ。わかったか?」
「ポイ?」
「それだけだと金魚すくいのアレだな。まあ、果菜にはまだ難しいか」
子ども扱いにちょっと不満そうな果菜の頭をなでてやる。
「あれ、葵井さん?」
「げっ」
後ろから聞こえた気の抜けたような声は間違いない。振り向いて確認すると、やはり森田が私に気づいて話しかけてきたのだった。
「偶然ですね。思いっきり、げって言われましたけど……」
「ああいや、探していた本が見つかったので、ゲットだぜ、と言っただけだ。いやあ、恥ずかしいところを見られてしまったな」
「あ、そうだったんですか。その子、可愛いですね。お子さんですか?」
「まさか。知り合いの子どもなんだ。今ちょうど預かっていて……」
耳障りな電子音が私の言葉を中断させた。森田のポケットから響く音だ。
「す、すみません」
しかしポケットに手を突っ込んで、携帯を確認しないまま切ってしまう。
「いいのか?」
「ええ。最近はこうですから」
いまいち意味がわからなかったが、問い直す前に腰を折ってきた。
「すいません、これから夕奈と約束があるので、失礼します」
「そうか。構わない。彼女を待たせるのは男として失格だからな」
森田は慌てて走り去り、転がるように本屋を出て行った。
「あのおにいさん、すごくいそいでたね」
「ああ」
その後、夕奈に確認のメールを送ったところ、約束は本当だということがわかったので、尾行せずにパチンコを打って帰ったのだが、翌日の朝、いつも森田が家を出るはずの時間の一時間前から入口で待ち伏せしていたのにもかかわらず、一向に出てくる様子がなかった。一度夕奈にメールを送ったのだが、昨日は家まで送ってもらい、森田はその後まっすぐ家に帰ったはずで、大学にも森田の姿はないという。
「しょうがないな」
時計の針が十二時を過ぎると、思い切った行動に出ることにした。森田の部屋を実際に見に行くのだ。マンションの管理人室を訪ね、私の身分はいつかと同じく森田の同級生ということにして、大学で姿を見かけないし電話にも出ないから心配してきた、と説明した。そして偽造を依頼しておいた学生証を提示すると疑われることもなく、管理人とともに森田の部屋に行くことになった。マスターキーを使って、管理人に続いて部屋に入る。図書館を彷彿とさせる、特徴のある匂いが鼻をついた。
「森田さん。管理人の青桐だけど。いるかい?」
当然電気はついていなかったので、スイッチを入れながら、部屋の中を見回しながら進んでいく。居間には入口から見て正面に窓があり、左手の壁には一面を覆う大きな本棚が置いてあった。トイレと風呂も覗いてみたが、この部屋には誰もいない。テーブルやシンクの濡れ具合から判断すれば、昨夜は帰っていないように思われた。部屋に森田がいないことを確認すると、管理人に礼を言ってここから一番近い地下鉄のうろな北東駅へ向かった。心当たりはないが、この町のどこかにいる気がした。
YLさんの『"うろな町の教育を考える会" 業務日誌』から、小林夫妻の長女、小林果菜ちゃんをお借りしました。




