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ワルい奴ら  作者: 弥塚泉
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   悪人たちの罪

 眩しい輝きを瞼の裏に感じ、目が覚めた。

 右手にある窓から差し込む光が真っ白なシーツに反射して、思わずまた目を細める。シーツだけでなく、この部屋は何もかも白い。病的なまでの潔癖さで壁からソファから机から、何もかも白に染め上げられてそれぞれを区別するのは影の形だけだ。

「目が覚めた?」

 ベッドの上に起き上って周りを見回していると、声をかけられた。声がした左前方はこちら側とは正反対に何も見えない闇が広がっている。声の主の姿は闇からこちら側にはみ出している二本の足しかわからない。

「誰だ?」

 問いを投げると同時にベッドを出て自分の状態を確認する。私の格好は慣れ親しんだ薄い黒のシャツに、墨のように真っ黒なジャケット。内ポケットにはちゃんと香我見印のスタンガンが収まっているし、胸ポケットには煙草もある。十字架に蛇が絡みついたシルバーのネックレスも牙を模した飾りがついた左耳の金属のピアスもいつも通りだ。

「ああ、なるほど。これは夢だな」

「どちらでも。あなたが夢だと思えば夢になるし、現実だと思えばその通りになる」

 闇からの声は不思議な感覚を私に与えた。聞き覚えのあるのは確かなのに、記憶にある人物の誰とも一致しない。

「どちらかを選べるというのは、夢であることの証明だと思うが」

「そうでもないわ。もとより夢と現実は不可逆的なものでしょ。どちらかを選択してその通りになるのはどちらでもない。今はまだどちらでもないのよ」

 こういう韜晦するような話し方も誰かに似ている。これは心当たりが多すぎて分からない。

「なら、ここがどこかという問題は棚上げにしておこう。お前は何をしにきた」

「私ではなく、決定権を持っているのはあなたよ。この場合は義務、と言いかえることもできるかもしれないけれど……あなたは、決断を迫られている。人生の選択肢は突然に現れると言うけど、まさにそうよ。あなたは今、決めなくてはならない。あなたのすべての価値基準。そう、『幸せとは何か』」

「……」

「あなたの心の奥底に沈んでいた命題ね。それこそ物心ついたときからずっと。あなたは今まで色んな方法でその答えを探してきたけれど、もう締切が来てしまったのよ。この一ヵ月、あなたはいろんな人間に遭遇してきたわね。彼ら彼女らと出会って、あなたはもう答えを出したと判断したの。さあ聞かせて頂戴。幸せとはいったい何なの?」

「……そんなものは人それぞれだ。使い古された言い回しになるが、それが一番真実に近い答えだ」

「いやいや、何か普遍的なものがあるはずよ。例えばそう、常に性欲が満たされればいいんじゃない?」

「この間読んだ本に面白い話が載っていた。脳に快楽を感じる電気信号を与える装置を猿の頭につけるんだ。そしてその起動スイッチを猿自身に持たせる」

「仕組みを理解した猿はずっとそのスイッチを押し続けるでしょうね」

「そして常時快楽を感じた猿は平均寿命より遥かに短く死ぬ。単純に長生きすることが幸せだとは言えないが、短命を幸せとは言えないだろう」

「それなら、煩わしい他人なんて誰もいない、世界に一人だけの世界なら幸せかしら」

「人は社会的な生き物だ。人は人がいなければ生きていくことはできない」

「じゃあ世界中の人間がみんな奴隷になったらいいわね?」

「恋人や家族まで『はい』しか答えなくなってしまったら、それは精神的に孤独であるのと何も変わらない」

「いっそ感情を失くしてしまうのが最善かしら」

「感情がなくなってしまったら幸せも感じられないだろう。本末転倒だ」

「単純に好きな物を好きなだけ食べれる世界なら?」

「節制しなければ体に悪影響が出る。命を縮めるぞ」

「何もせず、自分の好きなことだけして過ごすことが幸せかしら」

「人と過ごすのに忍耐は必要不可欠だ。そして社会的な生き物である人間には原始の時代から忍耐する本能が備わっている」

「なら欲しいものが好きなだけ手に入る世界は?」

「望むものが望むだけ手に入ったらすぐに飽きが来て、その先に待っているのは絶望だ」

「なら、これらを冒さなければ幸せなのかしら?」

「……」

「人は誰しも負う罪がある。それは『嘘』よ。自分を良く見せるための嘘、他人を陥れるための嘘。苦労から逃れるための嘘、快楽を得るための嘘。アダムとイブの頃から、人は偽り続けているのよ。そうでしょう、葵井静」

「………………」

「欺き、謀り、偽り、騙す。あなたの人生はそれの繰り返しだった。人間はみんなそうだからね。何も悪くない。そうしなければ生き残れない。他人が騙してくるんだから、嘘をついてくるんだから、傷つけてくるんだから、あなたが嘘をついて、騙して、傷つけて、何の悪いことがあるだろう」

「………………」

「そうでしょう?」

「ああ、そうだな。

快楽に堕する色欲が。

誰にも渡したくないと執着する嫉妬が。

自分の望むまま生きる傲慢が。

世界のすべてに向かう憤怒が。

飽食を知らない暴食が。

変わり進むことを恐れる怠惰が。

他人の不幸を幸とする強欲が。

私は吐き出したくなるほど嫌いだったよ」

「だったら」

「しかし、今は少し違う。いや、気持ちは変わっていないがそれに対する考え方が変わった。

自分とは違う他人を欲するその色欲が。

犠牲を厭わないほど大切に思うその嫉妬が。

純粋に幸せを求めるその傲慢が。

自分という存在をありのままにさらけだせるその憤怒が。

幸せを精一杯に感じるその暴食が。

失われたものを留めんとして未来を捨てるその怠惰が。

妥協なく求め続けるその強欲が。

私は焦がれるほど羨ましかったんだ」

「……」

「人間は醜い生き物だ。何度となく騙されて何度となく傷つけられて、下着まで剥ぎ取られてガムのへばりついたコンクリートに放り出された。そうならないために、生きるために、私も欺き、謀り、偽り、騙し、陥れ、傷つけ、脅し、諂い、裏切ってきた。だけど、もういいんだ。醜いだけではない。自分のためだけに動くのではない。欲望を希望に変えることもできる。この町でいろんな奴らと出会って、私はそう信じることにした。ここではもうそんなことをしなくてもいい。頼ってもいいんだ。縋ってもいいんだ。助けてくれと叫んだっていいんだ」

「…………もう、いいんだ」

「誰かを不幸にする嘘も、誰かを幸せにする嘘になる日がきっと来る」

「………………」

「ようやく分かった。ここは、私が子どもの頃によく思い描いていた部屋だな。清潔で、綺麗で、私以外に誰もいない。そうだ。……お前は、私だ」

 言葉と同時に闇が晴れていく。闇で覆われた部分には扉があり、今まで話していた人物はその前をまるで門番のように立っていた。

 そこにいた姿は、闇におさまっていたのが信じられないほど真っ白な私の姿だった。ウエディングドレスの意匠を取り入れた白いバラのようなドレスを着ていて、右耳に赤いピアスと首にシンプルな十字架のネックレスをしていて腰まである長い髪の毛と瞳は雪のように白かった。目の前の私は何かが入り混じった複雑な表情だったが、微笑んでいた。振り返り、ドアノブが回る音がする。その背中越しに見える向こうにはただ真っ白い空間だけがあった。

「ここを出れば、あなたは目が覚める。あなたの記憶の一番最後の時よ。そこに戻れば、ここでのことは一瞬の幻となって、あなたの記憶には何も残らない」

 それきり、人形になってしまったように押し黙った。そうして私が後ろに来る段になって、白い影はこちらを振り向いた。笑みを湛えた頬に、涙が一筋流れ落ちた。

「どうか、お幸せに」

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