2/26 悪人たちの捜索
とあるバーに常連の男がいた。その男があまりにもツケをため込むので、ある日バーのマスターが詰めよると、男は賭けを持ちかけた。
「俺が今からここで芸を披露する。このバーの全員が笑ったら俺の勝ちで、一人でも笑わなかったらあんたの勝ちだ。賭け金は五千でどうだい」
あんまり無茶苦茶なことを言うのでマスターは迷ったが、結局承諾した。男はにやりと笑ってバーの真ん中のテーブルの上に立つと周りの人間に静かにするよう呼びかけた。何をするかと思えば、ただの三点頭立だ。当然、バーはしんと静まり返ったまま。マスターは快哉をあげた。
「やった、これで五千は俺のものだ」
しかしマスターは信じられないものを見た。男はテーブルのそばにいた中年から金を受け取っていたのだ。マスターは近くに行って、中年に訊ねた。
「あんた、どうしてこいつに金なんか払うんだ」
すると中年は唾を飛ばしてこう言った。
「ああ、よくぞ聞いてくれたな、このトンカチ野郎。さっきあいつと賭けをしたのさ。あいつがくだらない芸を披露して、マスターが笑ったら五万だってな」
ぱたり、本を閉じて目を上げる。テーブルの前に、漆黒のスーツに身を包んだ不健康そうな男が立っていたからだ。
ここは『嗚呼、海馬』。今月はもう働くまいとこの喫茶店に逃げ込んできたのだが、今思えば家にいるよりもこの店で依頼を吹っかけられることの方がよほど多かったようだ。そんな後悔を今更してももう遅い。この『黒』が現れてしまったら、何か不吉なことが起こる運命は避けようがないのだ。
「今日は、青殿。御機嫌如何かな」
「お前の顔を見るまではとても健やかな精神状態だったよ」
「相変わらずなようで何よりだ。それでは、少しだけ失礼するよ」
男は軽く腰を折ってから、対面の席に座った。両目の下にできた濃い隈と少しこけた頬に見合った、死んだ魚のような光のない目をしている。そのうえ無表情で気味が悪い。
「単刀直入に用件を言うと、君の力を見込んで頼みたいことがあるんだ」
そう言って懐から取り出した写真をこちらに差し出してくる。目だけ動かして確認するが、そこに写っている人物に見覚えはない。フレームが横長のまま撮られていて、若い男の首から上だけが写っている写真だ。
「この男を探し出して私の元まで連れてきて欲しい」
行方探しか。話の流れからしてこの男はうろな町に住んでいるようだから、この疫病神もまた誰かから依頼を受けたんだろう。そしてこの町に住んでいる私に探させた方が効率がいいと判断した、というところか。
そんなことより、こいつが他人を頼りにするとは珍しいこともあるものだ。私や夕陽のような協調性のない人間でも形ばかりとはいえ徒党を組んでいるのだ。それほどに一人でいることの危険性は高い。だというのに、こいつはそういった仲間を一切持たない。請け負った仕事の依頼人の意向で一時的にというのはあるが、自身からは一切アプローチをしない。どうも、きな臭いな。
「嫌だと言ったら?」
「別に、強制するつもりは無い。唯、今夜の南うろなは少し騒がしくなるかも知れ無いな」
「っち……」
今夜は南うろなの工場の敷地内で、先日の取引で預かった物を別の連中に渡すことになっている。
もうすぐ今月が終わるっていうのに、最後の最後でとんでもない奴が来てしまった。舌打ちが出たが、取り繕う必要もないだろう。
「それとも、君の持っている物に関して、もう少し言及した方が受ける気になってくれるかな?」
「ああ、ああ、もうわかった。私に選択の余地などないことはわかった。引き受けよう」
両手を上げて降参を示した。しかし、念を押すところは押しておく。
「それを使って脅されてしまうと私は言いなりになるしかないわけだが、頼むから報酬を値切るような真似はしないでくれよ?」
「そこについては心配いらない。必要以上に手をあげれば、忠実な犬も命を捨てて反抗することは知っているからな」
満足げに微笑むと、伝票を取ってカウンターへ歩いて行った。
「……ああ、めんどくさい」
またしても聞き込み作業をすることになってしまった。この類の仕事をするうえで一番嫌いなのがこの作業だ。地道だし、退屈だし、何より時間を費やしても成果を得られるとは限らない。
写真の男を見つけたのは中央公園の近くだと言っていたので、その周りを渦巻くようなルートで聞き込みを始める。しかし、真っ昼間の中央公園ほど閑散としているところもない。ようやく人に出会ったのは聞き込みを開始してから十分後のことだった。地下鉄の中央公園駅の地上出口を通りがかると、見知った人間に出会った。
「要さん、こんにちは」
見上げるほどの巨体を持つこの大男は要亮と言って、この近くにあるカナメ薬局の店主だ。私の挨拶に手をあげて答えると、薬局の目印である緑の看板を示した。
「いえ、今は仕事中なので、お構いなく。それより、聞きたいことがあるんです。この人物を知りませんか」
写真を見せたが、首を傾げられた。理由は未だに分からないが要さんは酷く無口で、そのジェスチャーから言いたいことを推測するしかない。ここで働いている古門縁に聞いたところ、あいつも要さんの声を聞いたことが無いと言っていたが、いつも裏方の仕事をしていて客と会話することはないので大丈夫らしい。
「そうですか。今はこの男を探して聞き込みをしているところなんですよ」
納得したようにうんうんと頷いて、拳をグッと握った。頑張れ、ってことだろう。
「ありがとうございます。また今度近くに来たときは寄らせてもらいます」
聞き込みに戻るため、手を振って別れた。
次にやってきたのはショッピングモールだ。中央公園からは若干離れてしまうが、道なりに歩くとショッピングモールの前に広がるロータリーに迷い込んでしまうのだ。行きがかり上、つい来てしまったが、ここでも一応聞き込みをしておくか。
今抱えている仕事に関係がなさそうなことでも首を突っ込んでいくのが私流の仕事のやり方だ。例えばこうしてふらふら歩いていると私が名前を知っているオッサンの不倫現場に出くわすかも知れない。そうすると食うに困った時に売る情報の買い手が一人増える。香我見との情報交換や縁との世間話のように能動的な情報収集は安定性があるが、新規の客を開拓できない。新しい情報に出会うのは運に大きく左右されるが、偶然が起こるタイミングを増やせば確率をあげることもできる。
しかし、残念ながら今日はまったくの空振り。そういえば、黒に会ったということを忘れていた。あいつに会った日は例外なくツキが落ちる。
仕方なく今日は仕事を早めに切り上げてアパートに戻ることにする。新作クレープを食べたり新しい靴を買ったりしているうちにもうカラスが鳴いてるし。別に今日見つけなければならないというわけでもない。最悪、見つからなかったとしても、あいつは不可能を盾に理不尽を押し付けるようなマネはしない。手抜きをしたら制裁が待っているが、どうにもならなければ別の方法を使うだろう。
アパートに帰る前に商店街に寄って、何か買うか。んん、田中さんとこのコロッケにしようかな。あれうまいんだよなあ。
「葵井さん、こんばんは」
「ん。ああ、森田じゃないか」
目的のコロッケの列の先客は以前ちょっとした事件で知り合いになった大学生の青年だった。
「夕奈はどうしたんだ?」
森田にはちょっと独占欲が強い彼女がいる。森田のいるところに夕奈がいないのは、異常と言っていいくらい不自然なことだ。
「友達と泊まりで出掛けてるんです。僕のことを第一に考えてくれるのは幸せですけど、やっぱり友達も大事にしてほしいですから」
「へえ、にわかには信じがたいことだが……。ああ、そういえばお前も協力してくれるか。この人物を探しているんだが」
何度となく繰り返してきた聞き込みの動作を行う。コロッケを買うまでにはもう少し並ばなければならない。
「あれ、これ。たぶんですけど、乾竹ですよ。乾竹富彦です。思い違いじゃなかったら、僕の高校の同級生です」
「おっ、知り合いなら助かる。こいつの住所か何か知らないか?」
「ちょっと待ってください。町の北にあるスーパーでバイトしてるんで、ええっと七時には会えるはずですよ。終わったら連絡するようにメールしておきます」
こうして人脈が繋がりやすいというのは、狭い範囲で活動しているメリットの一つだ。昨日の敵が今日の依頼人だったり、助力者になる。
写真の男に辿り着く見通しがついたので森田と好きなコロッケについて語りながら、しかし私は若干の違和感を胸に抱えていた。
写真の男と思われる乾竹富彦はうろな北東にある自宅に住んでいるという。森田が私を家に入れるよう頼んでくれ、その準備のために時間を開けて午後八時に訪問することになった。
「こ、こんばんは」
私を迎えてくれたのは本人と思しき青年だった。なるほど、写真の男に似ているようだ。
玄関で軽く挨拶を済ませると、リビングで話を聞くことになった。乾竹は一人っ子で、父親の単身赴任に母親がついていっているので今は一人で自由に家を使えるらしい。恋愛シミュレーションゲームの主人公みたいなやつだな。
「そ、それで僕に御用があると聞きましたけど」
常に顔がうつむいていて、上目遣いでこちらの表情を伺う様子はまるで小動物のようだ。
「ああ。私はこの写真の人物を探していて、森田に聞いたところ君に似ているというから事情を聞きにきたんだ」
私が差し出した写真を見ると、分かりやすく顔色を変えた。
「こ、これはどこで撮られたものなんですか」
「中央公園の近くだと聞いたよ。その反応を見ると、どうやらこの写真の男は君で間違いないようだな」
「あ、あなたも……あの人の仲間なんですか」
明らかに尋常ではない怖がりようだ。何かを恐れるような。とりあえず落ちつかせないと話を聞けないな。
「落ちつけ。はっきりさせておくが、私は恐らく君の言う人間とは仲間ではない。そのあたりも力になるために詳しい話を聞かせてくれないか」
今にも壁を破って誰かが襲いかかってくるかのような怯えようだったが、私が森田から紹介された人間ということもあり、だんだん落ちついてきて話を始めた。
「あの……実は僕、深夜に町を歩くのが好きなんです。誰もいない町にいると、酷く落ち着くあの感覚が好きで。中央公園のあたりは夜になると人がいなくなるので、よく行くんですけど、たぶんその写真はそのときに撮られたものだと思います。そのとき、黒いスーツを着た人が何か話しているのを聞いたんです。全部は聞こえなかったんですが、人を攫う、とか、この町、とか、聞こえてきて……僕は頭が真っ白になって、でもこんなこと誰にも相談できないし……だから、最近はナイフを持って人前に出たりして。危ない人間が夜中に徘徊してるって噂が立ったら町の人たちが夜出歩かなくなると思って」
「君は途方もない馬鹿だな。まあしかし、それなら私に任せるといい。私の中にも義憤の心がある。君は視野が狭くなっているから、当分は元の生活をしていればいい。すべてに片が付いたときに、改めて連絡する」
さて、私はどうするのがいいかな。
蓮城さんの『悠久の欠片』から、田中さんの肉屋さんをお借りしました。
ヒロイン不在。




