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ワルい奴ら  作者: 弥塚泉
17/21

2/25 心筆

 今日もまた、昨日と同じく太陽が昇って町を温め始めた頃に裾野に着いた。

「じいさん、入るぞ」

 出迎えなどないことは昨日の経験から分かっているので、一声かけてこの家の主のいる部屋に行く。とはいえ、法律的な主は別の人間だが。室内は相変わらずさながら廃墟のように暗かったが、今日は入る前から片目を閉じていたから、室内に入ってから時間をおかずに私の左目は暗闇に順応している。

 和室の床の間の前には昨日と同じ格好をした老人があぐらをかいて座っていた。周りの半紙や硯もそのままだ。昨日からあまりに変わらないそのたたずまいに、軽く驚きを覚える。この老人はもしかしたら、これまでずっと飲まず食わずでこうしていたのだろうか。

「来たぞ、じいさん。とりあえず、これを見せよう」

 懐から登記簿の写しを取り出して、広げて見せる。老人が少し目をあげたような動きをした。

「律儀な奴だ」

「なに、私もくだらないことだと思っているが、言い逃れさせないようにするために手段を講じるのは、私たちの世界では当然だよ。さあ、これで私の身の証は立てた。立ち退いていただけるかな」

「分からない嬢ちゃんだな。ここから動かんと言ってる」

 もちろんこの程度で分かったと答えが返ってくるとは思っていない。再びその目を半紙に落とす気配を感じながら、紙を懐にしまう。

「いや、今日は説得に来たのではなく、最後通牒を突きつけに来たんだ」

「何?」

「私がここに来るのは今日で最後だ。明後日には業者が来てここを取り潰すことになっている」

「……勝手にしろ」

「ずっとここにいるのか」

「ここを出てくくらいなら下敷きになって死んだ方がマシだ」

「お前、何のためにここにいるんだ」

 老人は答えなかった。その目は目の前の半紙に固定されている。

「今のお前はここにいるためにここにいるように見える。ここに来たころのお前は、ここに居座ると決めたときのお前は、そんなことを望んでいなかったのじゃないか」

「お前に何が分かる」

「何も。知り合いに聞くまで、お前が名のある書道家ということも知らなかったからな。狩屋宗作かりやそうさく、と言ったか。ともかく、私が言っているのはただの一般論にすぎないよ。客観的な感想だ。思い当たる節があるのなら、言い返してみろ」

 深く息を吐いて、老人は語り始めた。

「俺たちは、ここで暮らしてたんだ。あいつは病気がちだったから、空気のうまいここで字を書いてくれって地主の頼みは渡りに船だった。でも、あいつはだんだん弱っていって、ここに来てから一年が過ぎた頃に死んじまった。そんで死ぬ前にあいつは口を酸っぱくして言うわけだ。自分の墓には来るな、できればすぐに忘れろ、あんたは駄目な男だから、って。葬式やらなんやらを済ましてあいつが死んだここに戻ってきたとき、俺は区切りのためにあいつに字を書いて、それで綺麗さっぱり忘れようと決めたんだ」

 目を閉じて聞いていると、声が震えているようだ。それがどのような事由によるものかはわかりかねる。

「あいつは何もかも分かってたんだな。俺は自分に言い訳をして、あいつのいない世界を見たくなかったんだよ。ったく、とんでもない無茶を言いやがるもんだ。こっちは骨の髄まで惚れちまってんだよ……忘れるなんて、できるわけないだろうが。これから、なんもなかったみたいに生きるなんて、できるわけねえだろうが!」

 何かが叩きつけられて、また別の何かが折れる鈍い音がした。この老朽化した家はもうすでに終わりかけている。何もしなくても近い将来に人知れずなくなるのだろう。

「なら、今はどうだ」

「あ?」

 きつい眼光がこちらをねめつける。ああ、そうするともっと分かりやすい。

「まったく、見てるこっちが恥ずかしいくらいだよ。あんたときたら、いいトシしてガキみたいな顔をしていやがるよ」

 老人はしばらく呆けたように動かなかった。そして半紙を見つめる。老人がそこに見た何かを私が捉えることはできない。私にはただ、半紙だった。老人は墨を取り、ゆっくりと硯に解していく。真っ白な筆が真っ黒に染まっても、腕は動かない。震えている。しかしやがて重い筆をあげて、一度深く息を吸ったのち、満心の思いを半紙に刻むように。書きつけられた文字は、『愛』。

「ほう。どうせ近いうちに会いに行くことだしな。なかなか気の利いた文字だ」

 こんな重い空気は私の好むところではない。とりあえずのくだらない冗談に対しても、しかし老人は黙って、こちらに半紙を突き出した。

「駄目だ、とてもこんなもんはあいつに見せられたもんじゃねえな。愛が足りてなさそうだから、嬢ちゃんにやるよ」

「うるさい、余計な御世話だクソジジイ」

 この老人の恋は結局死ぬまで、いや彼が彼であり続ける限り続いてゆくのだろう。

 とある男の恋の物語はいつまでも続く。

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