26
次の日さっそくアッシュは、授業が終わり席を立ったフローラの後を追った。
クラウスにも近寄らず、リナリーに文句ひとつ言わないフローラの魂胆を探るために。
フローラの後ろ姿を追いながら、その髪にゆれる髪飾りを見てアッシュはふと気づいた。
(あの髪飾り今日も着けていないな……)
あの髪飾りとはフローラの誕生日に前世の記憶を呼び起こすきっかけになった髪飾りのことだ。
髪飾りが気になったことで、アッシュの思考がフローラの誕生日の日へ引っ張られた。
「えっ二人は姉弟じゃないのか? じゃあ家に送るには二手に分かれないとな」
改めてリナリーと少年に事情を聞いたアッシュは驚いた。
「いえ! 私は大丈夫です!」
「いやもう日も傾いてきたしさっきの仲間がまだいないとも言い切れないしな」
「あの! 僕も大丈夫だよ! お遣いも終わってないし!」
少年は傷だらけになっても握りしめて守っていた袋をギュッと握った。少年は職人街の子どもで、忙しい両親の代わりに買い出しを頼まれていたところだった。
護衛の半分はいざこざの処理で憲兵の所に行っている。クラウスを一人にはできないし、先程の争いで人の注目も集まっている。これ以上クラウスを連れて街を歩くのは無理だとアッシュは判断した。変装といっても服装を変え、フードを深く被っているだけでクラウスの髪の色を変えた訳ではない。
「よしわかった! そのお遣いってのはオレが付き合ってそのまま家に送る! クラウスは方向も同じだし護衛と孤児院に寄って彼女を送ったらそのまま帰れ」
「いやダメだ。フローラのプレゼントが買えていない」
「いくら変装しててもこれ以上は無理だ。フローラには後から説明したら大丈夫だって! どうせ明日もフローラは城にくるんだから」
「しかし……」
クラウスは渋った。
「わかったわかった! 職人街に家があるようだし、オレがプレゼントを代わりに買ってフローラに持っていって説明してくるよ」
クラウスは悩んだ末了承した。今の状況も理解できたし、嫌がらせに贈る人形のことでかなり心が折れていたクラウスは自分が選ぶよりもずっといい物を選ぶだろう。アッシュの言うように「明日」自分からも説明すればいいと思ったから。
その「明日」はこなかったのだが……。
(気に入らなかったのか……?)
アッシュはフローラの髪飾りを見て急に不安に駆られた。フローラがあの髪飾りをつけているのを一度も見ていないのに気づいたからだ。
アッシュはフローラのことが好きではなかったが、クラウスに頼まれたからにはちゃんとした物を贈らなければと少年の親に腕のいい職人がいる店を聞き、真剣にフローラに似合う物を選んだつもりだ。
(もっと派手なやつがよかったのか? でもあの花の髪飾りも派手ではない……どっちも花モチーフだし何が気に入らなかったんだ? リボンがダメだったのか?)
記憶にある自分が選んだ髪飾りとフローラの今着けている髪飾りを比較しながら考えているうちに、フローラは図書室に入っていったので見失いそうなる。アッシュは慌ててフローラを追った。ひとつのことしか見えないアッシュに尾行は向いていなかった。
「うーん……やっぱり先生に分けてもらった方が早そうだな……」
図書室で薬学について書かれた本を辿りながらフローラは小さく呟いた。
カインが言っていたように一般的には流通はしておらず、自生しているのを探すしかないようだった。
宝の山のような畑と温室がすぐ近くにあるのに、どこに生えているかわからないハーブをひとつずつ探し求める情熱はなかなか出そうにない。
フローラは早々に薬学の本を棚にしまい、自分の知っている名前とこちらのハーブの名前を一致させるため、今度は薬草について詳しく書かれた本を手にとった。椅子に座ってゆっくり読もうと、来た道を引き返したところで突然の衝撃に本を取り落とす。
フローラはそれが人にぶつかった衝撃だと瞬時に理解できたが、その人物の顔を見て思わず息を呑んだ。グリーンの瞳が獲物を狙うような目で見下ろしていてる。嫌な予感がしたフローラは謝罪を口にしながら急いで本を拾い上げ、すぐにその場を離れようとしたがそれは叶わなかった。
早々に尾行が失敗したことに焦りを感じたアッシュが、思わずフローラの腕を掴んでしまったからだ。腕を掴んでしまったアッシュは益々後にひけなくなり、動揺を隠しフローラに重い声で静かに尋ねた。
「何をたくらんでいるんだ」
何も。としか答えようがないとフローラは思ったが、その答えでは手を離してはくれないだろうと察知した。
(私は最初から悪で……排除すべき対象だと決めつけられているのに……何を言っても公平に判断してくれないのにどうしろと言うの)
悲しみと憤りが込み上げたフローラは瞳を怒りの色に染めアッシュの目を真っ直ぐ見返した。
「こんな所で癇癪を起こすなよ? 面倒だから」
アッシュはこの言葉がフローラの神経をさらに逆撫でするとわかっていながらも、わざと煽るような言葉を選んでしまった。アッシュに自覚はなかったが、心のどこかでフローラに癇癪を起こさせて、やっぱり相応しくない、そうやって自分の正義が正しかったのだと確認したかったのだ。それほどまでに最近のフローラの態度は、アッシュが免罪符にしていたクラウスの婚約者に相応しくない振る舞いとかけ離れていたからだ。
「何もたくらんでいません。クラウス様を諦めただけです」
フローラは事実だけをきっぱりと簡潔に言った。
「今さらそんなことでクラウスの気をひこうとしているのか?」
「そんな気はありません!」
「そんなわけないだろ! あんなに追いかけ回して王妃になろうと必死だったくせに!」
アッシュにフローラの話をきちんと聞く意志がない以上この問答は意味をなさない。無意味なやりとりにイライラを募らせたフローラは、アッシュのその一言で我慢の限界に達した。
フローラの願いはいつだってシンプルな「クラウスの側にいたい」だけで王妃になりたくて必死だったことは一度もない。
「…………それって私じゃないですよね?」
「は? 何を言って……」
「王妃になりたくて必死だったのは私じゃないですよね?」
フローラはついに口を滑らしてしまった。
「アッシュ様が咎めたいのは本当に私なのですか?」
アッシュの顔色がさっと変わった。
フローラは、アッシュの勢いを止めることに成功はしたが、それが達成された気分はなんとも後味の悪いものだった。
アッシュがこの国に留学したきっかけは、淡い恋心を利用された彼にとってトラウマとも呼べる嫌な思い出だろう。フローラは前世の記憶のシナリオで知っていたが本来ならフローラが知っているはずがない。そのことに気がつかないほどにアッシュは呆然としていた。
フローラは一瞬、罪悪感で胸がチクりとしたが、過去の行いを責められるのならまだしも、違う誰かに重ねられて自分の思いを誤解され、それを理由に辛くあたられるのは納得できなかった。
(私は愚かな令嬢だったけれどクラウス様への想いはなんの曇りもない。私だって苦しんでいるのだと知ってほしいと思うのはワガママなの?)
「私はクラウス様がクラウス様であること以外を望んだことはありません。クラウス様が一般貴族でも庶民でも同じことをしました!」
フローラはそこまで言うとハッとして怒りよりも哀しみが一気に押し寄せた。
クラウスルートのバッドエンドが突然頭に浮かぶ。
―――――フローラは愛が憎しみに変わりクラウスの失脚を成功させ、クラウスはヒロインを置いて姿を消す。ゲームの描写での流れはこうだった。
(あれは憎しみじゃない。いっそ身分がなくなれば自分のものになるかもしれないと思ったんだわ…………)
ゲームの中の自分の思考が手に取るようにわかる。
(それでもゲームのクラウス様は私を選ばなかった……)
「…………婚約の見直しも受け入れるつもりです……クラウス様にそう伝えてもらってもかまいません」
フローラは震えそうになる唇をなんとかきゅっと結び、アッシュの目をしっかりと見つめてそう言った。
フローラの腕を掴んでいたアッシュの手はだらりと力なく離れ、掴まれた腕の余韻がゆっくりと冷えてなくなっていくまでアッシュは言葉をなくしていた。
「……なんで……なんで突然…………」
流石にフローラが本心から言っていると感じ取ったアッシュは、やっとの思いで言葉を絞り出したが思考はまったく追い付いていない。さっきのフローラの言葉がぐゎんぐゎんと頭を駆け巡っている。
「……髪飾り……気に入らなかったのか?」
アッシュは我ながら見当違いのことを言ってしまったとすぐに思ったが、どう考えてもフローラが変わったのはあの日以来で、尋ねずにはいられなかった。
「……逆ですね…………」
アッシュは言葉の意味が理解できず、顔を上げてもう一度フローラを見た。
「あまりにも完璧すぎてクラウス様が選んだものじゃないとすぐにわかりました」
フローラはそう言って力なく微笑んで礼をとって下がった。これ以上ここにいれば涙をこぼしてしまいそうだったがアッシュに涙を見せたくなかった精一杯の意地だ。
授業開始の時間になったがアッシュはしばらくその場から動けなかった。
その胸の重みの理由をアッシュが理解するまでにそれほど多くの時間はかからなかった。
正義、浅慮、独善、国、責任、挽回、何故、目的、フローラ。
文にもならない、様々な言葉がドクンドクンと波打つような心臓の鼓動と共に脳裏に浮かんでは消え、また浮かんだ。
(さっき話したのは誰だ? だってオレが見てきたフローラは――――)
『アッシュ様が咎めたいのは本当に私なのですか?』
フローラの台詞が甦りアッシュはぐっと思考を呑み込んだ。自分が見てきたことになんの価値があるのか。アッシュをこれまで突き動かしてきた正義という名の自尊心が揺らいだ瞬間だった。
そして別れ際のアッシュの兄の言葉が時間を経て今、本当の意味としてアッシュに響く。
『アッシュ……お前の真っ直ぐで情に厚いところは美徳だろうが王族としては致命的な欠陥だ。お前の足りないものは何か、視野を狭めているのは何なのかちゃんと考えてこい』
真摯に聞いていたつもりでアッシュは自分がそれになんと返事をしたかも思い出せなかった。
こうなった原因は自分ではなく、人の情に付け込んで利用しようとした女の方が大きいはずだと、被害者意識を捨てきれなかったアッシュは反省していたもののどこか不貞腐れていたからだ。
「何がクラウスのためだ……一番守りたかったのは自分の安いプライドじゃないか」
自分に猛烈に腹が立ったが悔やんでも時間は二度とかえらない。誰かに猛然と罵ってほしい衝動に駆られたが、その権利を持つフローラもすでに目の前にはいない。
ここで最後まで自分は間違っていないと思えるほどまでに愚かであればよかったが、そうはいかなかった。
罪悪感や後悔、羞恥、様々な想いが痛みとなり突き刺さる。彼が持つ情の深さの分、深く。
アッシュは唇を噛み締め強く拳を握り、自身を呪いながら頭の中の嵐が過ぎ去るのを耐える他なかった。
フローラは図書室を出た後、込み上げる涙を振り切るように早足で進んだ。
フローラは、アッシュはそのうち……いや、すぐにでもクラウスに伝えるだろうと想像する。そうなれば確実に婚約見直しの話が進む。覚悟していたはずなのにいよいよその現実に向かうとなるとひどく動揺していた。
フローラが本当に解消を望めばベンハルトは喜んですぐに動いただろうがフローラはそうしなかった。
いずれ解消される婚約とわかっていても、卒業までは……それが無理だとしても一日でも長く婚約者でいたい。
無意識にそう思っていた自分に気づいたフローラは、教室の扉の前で立ち止まり、自分の執念深さに心底呆れながら渇いた笑いを浮かべると、ついにこぼれ落ちた頬を伝う一滴を拭った。




