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第二十七話 『届いているよ(2)―シアン後編―』

シアンの話・続です。

◇◇  競赤祭五日目、午前一時半





『赤の大魔王や地下一帯を覆う<銀>は勇者ボルケの戦果ではない。瘴気を結晶化させ、火焔の王が最後まで封印に抗った証である。その硬度は遂に物質的限界を突破し、世界最硬の物質へと至った。神の鉱石オリハルコンさえ抜いて――』


 猫が再び銀の巨像と相対して最初に頭に思い浮かんだのが、キュリロスという称号研究家の自伝『火焔の結末』終章に記されていた、この一節だった。

 彼が『悠銀の間』と名付けた渓谷墓地の地下空間に踏み込んで、勇者一団は手に汗握る。シアンの背後の階段に展開している後方支援部隊も緊張しているのか、普段以上に静寂の中で、作戦開始の号令を待っていた。そんな荒々しい来客に眠れる銀の巨像はあまりにも無頓着で、意に介すことなく瞑想を続ける。

 銀色は美しく、鮮烈で、しかし味気なく無表情だ。


 最初に放つ一撃で全てが決まる。

 敵の耐久、攻撃手段、速度、特性。あらゆる敵のデータを瞬時に測り、相応する戦略を組み立てなければ勝機はない。即ち、初動が全て。

 果たして、空想の産物さえ上回る銀の肉体とは、如何ほどか。


 競赤祭最終日、深夜一時半。

 ヤマトの号令で――。


「行くぞ!!」


 戦いが、始まる。


「『聖撃砲』!」

「『ヘブンリーリング』」

「『風ドラ』ッ!」


 ヤマトが右手を下ろしたのを合図に、ギーズ、セリーヌ、シアンが眠れる銀像に向けて魔法を撃ち放つ。ほぼ同時に背後の部隊も様々な属性の遠距離魔法を放つ。

 薄紫色の風の龍や火球、迸る雷鳴や水球が眠れる像に衝突し、狭いフロアの最奥で激しく爆炎を散らす。間違いなく、魔法は直撃した。


 しかし、相手は古の大魔王。

 セリーヌが即座に号令を浴びせた。


「まずは今の攻撃で敵の耐久値を計算するわ。遠距離攻撃手段がある者は更に後方へ下がり、防衛部隊は前方へ展開なさい!」


 命令に従って部隊は目まぐるしく入れ替わる。作戦立案から僅か一時間でこれほど滑らかに動ける部隊の様子に、さすがとシアンは内心笑う。

 しかし、その気持ちをすぐに切り替え、爆炎の中に注視した。


 フロアの最奥に緊張した視線が集まった。

 やがて、煙は晴れる。


 銀は――。


「な、何?」


 銀は、傷一つなく輝き続けていた。

 ライフゲージは、一ミリも減らせなかった。


「う、嘘ですよね!?」


「あ、ありえねえっすよ!」


「嫌になりますわ」


 想定外の耐久力に、あちこちで乾いた声が上がる。

 かく言うシアンも、その内の一人だった。


 当初の想定では、今の先制攻撃で大魔王のライフポイントを二割、最低でも一割五分は吹き飛ばせるはずだった。前方に展開した防衛部隊で敵の反撃にすかさず対処し、有効と判断した魔法攻撃を主体に次のプランへ移る。

 そんな想定を、敵の異常性が遥かに凌駕したのだ。


 この中に、侮っていた者など一人もいない。

 ただ目の前の敵が、化け物だっただけ。


『――――』


 困惑するシアンらを、敵は待ってはくれない。

 いや、銀の巨像は待った。もう充分すぎるほどに。


「何、この地響き!?」


「み、見ろよ! 動き出したぞ!」


「封印下で動けるのか!?」


 足元を穿つような衝撃が銀色の床に波立ち、猫の足が一瞬宙に浮く。封印と聞いてその場から動けないのかと思えば、また一つ、新たに想定が破られる。

 王は重い腰を労わるように立ち上がり、ジリリとその太い銀色の右腕を動かして、フロアを支える二対の柱の片方を、人間の何倍もある掌で掴み取った。


 直後、再び強い地響き。


「まさかフロアを崩す気かっ!?」


「違うぜおい! アレはフロアの支柱なんかじゃねえッ!」


 ギーズの切羽詰まった推測を、パジェムが怒号で上書きする。

 そしてその意味を、シアンも遅れて理解した。


「――ハンマー、ですって?」


 天井が抉れて柱の先端が粉々に崩れ、その余白を以てして銀色の大地から引き抜かれたのは、一振り振るえば山をも穿ちそうな巨大な銀色のハンマーだ。赤の大魔王と同じく、勇者ボルケによって封じられていたのだ。

 歴史に名を残さない、大魔王の武器もまた。


 武器を大地から引き抜く振動に、勇者一行は耐え忍ぶので精一杯だった。

 その揺れが、前方の守備陣に大きな穴を産んだことに気づける者はいない。


『――――』


「――。まずい、防御を固めろっ!」


 ヤマトが必死の形相で注意喚起するが、もう遅い。

 見上げると、銀色の大魔王は腕を持ち上げて巨大なハンマーを背後に構え、力を込める声すら発さず、すでに攻撃のモーションに移っていた。亀のような鈍さではあるが、右脚を背後の地面に食い込ませ、王は姿勢を低くする。


 このままでは、不味い。


「今ならまだ『聖撃』でッ!」


 シアンはハンマーさえ大魔王の手から弾ければと、地面に手をついたままカーテナの刀身に自分の目を映す。敵のモーションの鈍さと、猫族の強靭な脚のバネがあれば、まだ攻撃を防げるはずだと、考えて。


 その認識が甘かったと、思い知らされた。


「な」


『――――』


 赤の大魔王は、全てが規格外だった――。


 今までの鈍さはどこへやら、ハンマーはまるで大砲のように恐ろしい速度で放たれた。強烈な風圧が正面から押し寄せ、皮膚が焼かれるような熱気に晒される。何とかその場に踏み留まろうとシアンは地面に身を屈め、体の抵抗を少しでも減らして対処した。その間、猫は耐え忍ぶことしかできない。


「うわぁああああああああ!」


「おお、ご、が」


 すぐ隣を、枯れ葉が飛ばされるように命が飛んでいく。

 風がやんで振り返れば、銀色の壁に、血が。


「――――」


 鼓動が早まる。

 身体が、震える。


「また、死ん、だ」


 何度、仲間の死を見送れば良いのか。

 何度、仲間の死を犠牲にすれば良いのか。


 また死んだ。

 また。


 また――。


「シアン、行くぞッ!」


「――ッ」


 血の色を瞳に浮かべて茫然自失とするシアンに、ヤマトが短い喝を入れて敵に駆け出した。この激しい戦局で後悔に時間を使っている暇などないのだと言われた気がして、シアンはグッと奥歯を噛み、聖剣カーテナの柄に再び力を込める。

 今は、崩れた守備を立て直すまでの時間がどうしても必要だ。


 茶髪の勇者は『加速』スキルを駆使して壁を走り、現『人類最速』の称号の持ち主に相応しい神速で大魔王との距離を詰める。有効な遠距離砲がないシアンも、聖剣カーテナに青い魔力を込めて、ヤマトに続く。


 背後では、セリーヌとパジェムが叫んだ。


「次の守備を展開なさい! 怪我人は私の傍へ! それとパジェム!」


「あいあいわーってるよ! 俺様が守りゃ良いんだろ?」


 態勢を整え直すのは、二人に任せるべき。

 そう判断して、シアンは礫を飛び越える。


 時間稼ぎのために懐に近づくヤマトとシアンに、銀の巨像も気づく。目もないというのによく見えてるものだと内心恨み言を溢しつつ、猫は足を止めずに全身の毛を逆立たせて身構える。大魔王が再び、ハンマーを力強く握り締めたからだ。


 また、あの強烈な一撃が飛んで来る。

 そう警戒して。


「シアン様ッ!!」


「え?」


 その多彩な攻撃手段に、シアンは天井を仰いで目を見開く。

 大魔王は、攻撃を振るうために銀色のハンマーを背後に引くことはなかった。代わりに、勢いよく持ち上げると、そのまま銀色の天井へ激突させる。

 結果、視界に映ったのは――。


「瓦礫の雨ッ!?」


『――――』


「チッ、『GAチェンジ』!」


 シアンは、咄嗟に掌を頭上に伸ばしてユニークスキルを発動する。

 物体の落下による衝撃は、物体が持つ位置エネルギーと衝撃を受ける面積が重要となる。その位置エネルギーは落下物体の質量と、落下開始時の高さ、そして重力加速度という数値の積によって決定される。

 本来は定数である重力加速度を変更し、位置エネルギーを操るのはシアンの十八番だった。位置エネルギーを操るということは、そのまま受ける衝撃の威力を変更できるということに他ならない。


 とは言っても、ダメージを無効化できる能力ではない。

 あくまで、和らげるだけだ。


「シアン様?」


「ぇほっ、――遠距離砲でヤマトを支援!」


「りょ、了解です!」


 瓦礫を押し退け、口から血の塊を吐き捨てて、案じてくれた部下にシアンは手短に指示を出す。今の一撃でシアンが動きを止められたせいで、ヤマトが攻撃の的に絞られてしまうのは避ける必要があったのだ。


 一方の『人類最速』は、軽やかに土煙の中で落下物を躱して、天井の崩壊する音や動揺を孕んだ騒めきの中から、鈍い物音を探り出す。

 引き抜いたのは、伝説の聖剣の一振りだ。


「伸ばせアメノハバキリ、『聖撃』!」


『――――』


 ユニークスキル『果て無き剣』と勇者の一撃『聖撃』の重ね技。不意を狙って打ち込んだヤマトの精一杯の攻撃を、大魔王は左手の甲だけで防ぎ切った。

 どころか、驚くべきことに圧倒的な物量で押し返され始める。


 ヤマトは咄嗟に判断した。

 一人では、無理だと。


「く、デイジィィィィイーーッ!」


「任せろ、『一連花』ァ!」


 颯爽とシアンの隣を駆け抜けて、長い黒髪の女がヤマトの背後から、ヤマトの聖剣の峰を押し出すようにエメラルドグリーンの大剣を振るった。全勇者パーティーを含めても五本の指に入る剛腕なデイジーと、ヤマトの息を合わせた一撃。

 阿吽の呼吸で、大魔王の左手がようやく弾かれる。


 左手が吹き飛ばされ、大魔王の体勢が崩れる。

 その一瞬の隙を、青目の勇者は見逃さない。


「這い蹲れ、――『聖弾』!」


 黒髪の勇者は落下する瓦礫を足場に利用して大魔王の鼻先に飛び込むと、青い魔力を覆った踵を大魔王の後頭部に痛烈に叩き込んだ。勇者ギーズは聖剣を戦闘では使わない。彼が極めた『格闘』スキルは勇者の中で群を抜いている。


 大魔王は地に頭を沈め、ヤマトとシアンが飛び退く。

 そこへ、後方から魔法の賢者の追い打ちだ。


「雷鳴よ、神の名の下に迸れ」


 魔法は通常、普通の魔力を変換して行使される。それは特別な聖属性の魔力を持つ勇者でも変わらない。『砲撃』や『格闘』などの普通スキルはともかく、変換の工程がある魔法攻撃に、聖属性の魔力を組み込むことは難しいのである。


 過去誰も成功しなかった聖属性の魔力を用いた魔法。

 それを、可能にした才ある女がいた。


「『セイクリッド・ヘブンリーリング』!」


 詠唱と共に、緑色の長髪の女が持つ杖の先端に青い魔力が渦巻いていく。それは雷という自然の事象へと見事に変換され、青い電気を帯びて明滅し始める。


 ――最上級雷魔法、別名『鳴神』だ。


 セリーヌが杖を前方の砂塵の方向へ向けると、行き先を知った電子たちは待っていましたと言わんばかりに喜んで、この世のものとは思えないほど雷鳴を轟かせながら何方向にも分岐して飛び出し、砂塵の向こう側で収束して閃光をあげた。


 激しく火花と轟音を散らして、仲間たちは歓声を上げる。

 しかし、これで済む相手を大魔王とは呼ばない。


 だから、猫は油断などしなかった。


「お、え?」


『――――』


 粉塵の中から、今度はノーモーション。

 最速で放たれたハンマーは。


「図に乗んなデカブツ、『砕けぬ盾』!」


『――――』


「俺様の聖剣は防御一筋だぜ?」


 聖剣ゾルファガールとユニークスキル『砕けぬ盾』。

 勇者パジェムの白い聖剣は一切の攻撃力を持たず、何も切れない。その代わり切先から生じる青い半透明の防御膜は、大魔王の一撃すら完璧に跳ね退ける。

 根性のひん曲がった不良勇者には分不相応な聖剣だが、その防御力をしっかり行使してくれるのであれば、シアンとしては文句はない。


 問題は、別だ。

 シアンは表情を引き攣らせる。


『――――』


 粉塵を足元に漂わせて、ハンマーを振るった姿勢のまま固まる銀色の大魔王。そのアイコンのレベル表示は残念ながら見えないが、残りライフポイントを示す水色のゲージは、瞳に魔力を集めれば確かに確認することができた。


 ――まだ九割以上も残っている、ライフゲージが。


「どんな耐久してんのよっ」


 馬鹿げていると、シアンは歯ぎしりした。


 最初の奇襲から、合わせて三十発以上の魔法攻撃。四発の聖属性の魔力を含んだ勇者の一撃。魔王という存在に有効とされた魔法と聖属性の魔力による攻撃を、これだけ与えてなお、銀は未だに衰えぬ輝きを放ち、見る者に絶望を与える。

 仲間の消耗した表情を見るに、ここが引き際だった。


「全軍、撤退しなさい!」


「ええ?」


 セリーヌも同じ判断だったようで、杖を入り口に向ける。

 あまりに早い退却命令ではあったが、シアンも同意見だ。これ以上の攻撃で得られる情報と、これから犠牲になる数を天秤に掛ければ、撤退が妥当。今は手に入れた情報を持ち帰って精査し、あの耐久をどう突破するかを検討する必――。


『――――』


 シアンの思考は、唐突に途切れた。


「はあ?」


 意味が分からなかったのである。

 大魔王が、武器を手放した。


 空へ突き刺すように放り捨てられたハンマーは、シアンを迎撃した時と同じように銀色の天井を抉って、細かい瓦礫の雨を降らし――。

 この時になって、初めて大魔王は声を発した。


『――――ッ!!』


 初めて耳にした彼の叫びは、太く、鋭く、

 誰も逃がさんと、そう告げているかのようで。


「――――」


 シアンは、理解できなかった。

 何も理解できないまま、意識が途切れた。

 最後に思ったことは、一つだけ。


 ――ああ、終わるんだと。





§§§





 猫は、そこが現実ではないと直ちに理解した。

 存在も、五感も、何もかもが曖昧で不確かな世界。定員二名ほどの小舟は、船首の間際に猫を立たせて、長く広い濁り切った川を横断していた。小舟が向かう対岸の石の河原へ視線を遣れば、そこは真っ黒な空気で荒み切っていた。

 ふと、猫は、その対岸に人影が浮かんでいるのが見えた。


 死んだ仲間が、絶望の色を浮かべて立っていた。


『シアン様、どうして』


『死んだ、のか』


 猫は、対岸の仲間たちに声を出せなかった。

 仲間の死を意味あるものに昇華することだけに全霊を注いで生きてきた。だからこそ猫は、自分の死が、死んだ仲間たちにどう映るかを自覚している。誰だって、死んで託した願いの結末が納得できるものであって欲しいと望むもの。

 納得できる結末を教えられないから、唇が震えて声が出ない。


 ――私は、彼らの死の意味を繋げなかった。


 それを自覚してしまったら、猫はどうしようもなくやるせなかった。そしてそれは、自分たちの死が繋がれなかったことを知った対岸の影も同じ。

 感じた絶望は同じだと、猫は思っていたのだ。


『捨てるのか?』


 声は、キッパリと猫の心を切り捨てた。

 全く同じではないと、強く。


 対岸まで距離があるにも拘らず、怒りは濁った水面を駆け抜けて、驚くほど明確に小舟に響き渡る。恐る恐る顔を上げると、対岸の空気は更に黒く、黒く、黒く歪んで、耐え切れないほどの息苦しさの中で、怒りを孕んでいた。


 戸惑いの猫に、声は続けられる。

 呪いのような信頼を向けて。


『シアン、お前は『魔王』を倒すべき悪と定めた。我々もそれに同意した。だからお前が倒せると思ったなら、『大魔王』に挑むことに文句はない』


 針のように鋭く。


『だが本当は違ったんだろ?』


 厳しく。


『お前は『大魔王』が倒せない敵と分かっていながら、詐欺師のように聞こえの良い言葉で仲間を死地へと送った。『赤毛の魔王』の仲間が口にした絵空事と、我々が死んでまで託した想いを天秤に掛けて、お前は後者を切って捨てたんだ。そしてその力を、あろうことか意識のない魔王の仲間を守るために使おうとしている』


 憎悪を孕んで。


『それは我々の忠誠への裏切りだ』


『――――』


『俺たちが死んだ意味を持っていけ。置いていこうとするな』


 感じた絶望が同じはずなかった。

 自らの信念を否定して、全てを守り切る格好いい勇者を目指したいという衝動に回帰した猫を、猫の信念に賛同して死んでいった仲間は決して認めない。

 自分たちの死が無意味になることを、死者は恐れている。


 対岸の空気は歪んで、やがて黒い怨念の炎となって燃え上がる。

 轟々と、呪いのような願いを吐きながら燃え続ける。


『持っていけ』『お願いシアン様』『持って行って』『持ってって』『持ってくんだ』『持って行ってくれ』『シアン様、持ってって』『置いてかないでくれ』『持っていけ』『持ってけ』『持ってけシアン』『俺たちが死んだ意味を』『持って行ってください』『持ってけ』『持ってくんだ』『持つんだよ』『忘れるな』『持っていけ』『置いてかないで』『持っていけ』『持って行って頂戴』『頼む、持って行ってくれ』『持つんだ』『持っていけ』『持っていけ』『持っていけ』『持っていけ』『持っていけ』『持っていけ』『持っていけ』『持っていけ』『持ってけ』


 この想いを、無意味にして良いはずがない。

 猫には、この想いを持っていく責任がある。


『倒すべきを履き違えるな』


『――――』


『守るべきを履き違えるな』


『――――』


 倒すべきは、『大魔王』か『赤毛の魔王』か。

 守るべきは、仲間の想いか自分の想いか。


『持っていけ』


 影の鋭いダメ押しの一言に、猫はギシシと奥歯を軋ませる。死んだ仲間が猫に託してくれた意味も、七瀬沙智が必死になって叫んでくれた言葉も、猫にはとても大切で、どちらか一つを選ぶのは難しい。だが、二つは二律背反だ。


 答えを出せない猫を、影は諦めて。


『持っていく気がないなら、さっさと終われ』


 失望したように、そう告げた。


 瞬間、対岸から川の水面に黒い泡が浮かび始めて、ドロドロと小舟に不気味な影の掌を伸ばし始めた。泡で出来た掌は小舟の船首をギシリと掴んで、ミシミシと言わせながら岸に向かって小舟を引っ張る。

 激しい怨念の渦の中へ、猫を引きずり込もうとする。


 ――それも、良いかもしれない。


 猫はもう、死を受け入れて。


 目を伏せて。


『――――』


『――――』


『――――』


『――――』


 自分の頬のすぐ隣を桃色の何かが通り過ぎて、猫はハッと目を見開いた。濁った水面に映ったのは、温かく美しい、無数の春。憎悪や怨念を打ち消して、淡く点々と輝く桜の花びらだった。その香りは、唖然とする猫に問いかける。

 静かな美しさで、本当のあなたはどこにいるの、と。


 慌てて振り向くと、青い綿毛の岸に彼らは立っていた。

 諦めそうになった猫に、諦めるなと伝えるために。足元の目一杯の桜の花びらを抱えては放り、抱えては放り、猫にどんな生き方をしたいのか問いかける。

 ミシェルが、ネミィが、アルフが、セシリーが一生懸命に桜を放る。


 その先頭で、少年はまた。


『まだ、足りないかよ?』


 悔しそうに嘆くんだ。


 ――そうだ。





§§§





「――終われないぃ!」


 辛うじて意識をあの世から奪い返して、シアンは右の拳を勢いよく床で割り、その痛みを以てして自らの肉体に意識を確定させた。四本の指の第二関節と第三関節の間に滲んだ血が、そこから腕へ、もう片方の手へ、脚へ、頭へ、全身の隅々へ痛みを送り、死を受け入れようとした愚かな肉体を引き戻す。


 何とか意識を取り戻し、奥歯を噛みながらシアンは床から上半身を剥がす。頭から数滴零れた血を無視して、視線を前方へ遣ると。


「な、に、これ?」


 地獄が、目の前に広がっていた。


 銀と灰が混じった瓦礫の上には、誰のものかも分からない腕や脚が千切れて転がり、上から塗したように赤い血が飛び散っていた。出入口の階段がある方の銀色の壁には、小さな無数の瓦礫の破片が鋭く突き刺さっており、幾つもの欠損した遺体がまるで標本のように張り付けにされていた。


 何が起きたのか、シアンの頭に憶測が浮かぶ。

 しかしそれは、あまりにも信じられなくて。


「声で、瓦礫を、弾き飛ばしたっていうの?」


「――どうやらそうらしい」


 不意に声が鳴って、シアンは隣を見る。

 そこには、ヤマトがいた。


 尻をついて片膝を立て、右肩から血を流しながら、彼は瞳の中に今にも消えそうな光を揺らしてシアンの背後を眺めている。振り返ると、銀色の巨像は両腕に力を込めて立っていた。圧倒的な銀色を輝かせて、有無も言わずに立っていた。

 ドクドクと、命の終わりが近づく音が、重い足音と一緒にやって来る。


「――――」


 だが、シアンは絶望しなかった。

 絶望なんて、もうできなかった。


「ヤマト、あんたが撤退の指揮を執って」


「シアン?」


「――殿は、私が務める」


 ボロボロの状態で立ち上がり、大魔王に向かい合ってはっきりそう告げたシアンに、ヤマトは驚きの表情を見せる。彼が記憶していたシアンという人物は、不可能と思える行為を率先して行う人物ではなかった。良い意味でも悪い意味でも、堅実に自分の限界ラインを見定めて、最大限の利益を守る人物だったからだ。

 こんな場面でも、殿を申し出るような死に急ぎではなかったのだ。


「何で、そこまで?」


「これが、唯一のメッセージだから」


「は?」


 掠れた声を出すヤマトに、シアンは一瞬微笑んで。


「とっくに見限られても仕方なかった。なのにアイツは、私なんかを勇者だと信じて叫び続けてくれた。仲間の死を言い訳にして、人の称号を都合よく解釈して、いつまで経っても夢に本気になろうとしない私に、諦めるなって叫んでくれた」


「――――」


「感謝の言葉も、謝罪の言葉も、傷つけた私に言う資格はない。だからせめて最後まで諦めずに戦い切って行動で示すんだ」


 そう告げて、シアンは聖剣を片手に思い切り駆け出した。今まで使えなかった勇者の極意『聖撃砲』も今なら使える気がして、本来は掌から魔力球として放つその一撃を、彼女が最も尊敬する勇者に倣って、聖剣の先端から打ち出した。

 相変わらずダメージは通らないが、気分は不思議と悪くなかった。


 壮絶な命のやり取りの最後に、シアンは銀像に飛び掛かる。

 青く放つ聖剣は、もう隠されることのない衝動の光。


「沙智、あなたの言葉はちゃんと私に」


 最後まで、戦い抜け。

 そこにあるのだ。


 ――全部を守りたい、勇者としての衝動が。


「届いてるよって」


 額に飛び掛かった声が、弾んで、落ちていく。

 聖剣カーテナはここに砕けた。


【カーテナ】

 シアンが持ってる聖剣で、刃の先端が欠けたような細身の刀身を持つアイテムだよ。三年前に大陸東方の「鏡島」って場所で手に入れたんだって。沙智がうわ言のように「それってどこかの国に伝わる剣じゃ?」とか言ってるけど、また名付け親が異世界の人なのかな?



※加筆・修正しました

2020年6月22日  加筆・修正

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