第九話 『迷子歴二十年の大ベテランは知っている!』
§§§
暑く燃え盛るような夏が雪の結晶に閉じ込められていく。一足早く秋色に染まる渓谷の木々を雪の冷気は枯らし、ダムの水面を浮草ごと凍らせた。
激しくガタゴトと揺れる夏に、少女の氷が降り注ぐ。
優しいネミィは、ミシェルの意志を継いで人を助けたい。
そのために、祭りの五日間の出国を禁止した赤の国の称号と戦っても良いのか悩んでいる。称号に逆らったがために命を失ったミシェルや、称号を受け入れて端から諦めている赤の国の人々を、ずっと見てきたから。
だから、少女は答えに迷う――。
『何で、俺にその話をしたんだ?』
全てが凍てつく前に、俺の声がギリギリ少女に届いたのか。天端の鉄柵をすり抜けて宙を歩き出した少女が、雪景色に消える直前に俺の方を振り向く。
少女の瞳に、もう感情は一欠けらも揺れない。
『期待しちゃったんだ』
『え?』
『私には出せない答えを出せる人なんじゃないかって』
そう、何の期待もない氷の瞳で告げて、少女は冬へ消えた。
答えのない俺は、声も発さず溶ける雪だるま。
少女が消えて、一面の雪世界だけが視界に残った。
世界を白く、白く、白く、塗り潰し、だがもう震えるような寒さはなかった。寧ろ暑い。白い世界が太陽光を反射して俺だけに当てているみたいだ。
ガタゴト揺れて、目眩がして、夏はまだ終わらない。
『――――』
不意に鎖がギギギと擦れる音が聞こえた。
瞬きをした途端、世界を覆う白銀は光の粒になって空へ舞い上がり、きめの細かい砂の地面が露わになる。白いベンチに、揺れる二組の赤いブランコ。
この場所には、覚えがある。
真っ暗闇に、歪な輪郭の気味の悪い満月。
赤毛の少女は、泣いていた。
『今までありがとう。楽しかったよ』
称号が定めた暴走の運命に、赤毛の少女は無力だった。
だから背を向けて、少女は裏笑顔。
俺は少女をどうしても繋ぎ止めたかった。
俯いて思いの丈を、声にする。
『俺が、叫び続けてやるよっ!!』
夏の熱に焼かれて声は酷く乾いていた。
間違いなく、心からの声。
『ああ、叫んでやるさ、声が枯れてもっ!』
だけど、自分でも分かっていたはずだ。
具体案のない声は、空っぽの器の中で反響するだけだと。
『叫んで、絶対に』
『――でも、何も思いつかないんでしょ』
経験や知見、人生の哲学が他人の心に共鳴して、声は初めて届く。
故に空っぽの人間が声にどれだけ感情を込めても、同情の部分でしか相手を刺激できない。世界の裏側から目を背けてきた俺の声に、説得力はなかった。
その証拠に、顔を上げて見えたのは、侮蔑に光る瞳だった。
『大勢の人々が、称号のもたらす悪意に千年もの間――』
ブランコが、街路樹が、ベンチが、赤毛の少女の声に呼応して歪み出す。薄水色の服も歪み始め、少女の立っていた場所に代わる代わる人が現れる。
『苦しんで』
陶器のお皿を抱えて、顔色の悪い少年が微笑む。
『苦しんで』
息子の手を引き、タオルを首に掛けた初老の男が微笑む。
『苦しんで』
カフェのメニューを開いて見せ、メイド衣装の女性が微笑む。
『苦しんで』
年老いた馬の顎を撫で、気の良さそうな翁が微笑む。
『何も解決できないでいる』
白髪の少女は、春の雪解けを期待しない。
いつしか、周囲の構造物は完全に原型を留めず、海底に揺蕩う薄っぺらい海藻のように、元々の色だけを残して不気味に揺れていた。
再び現れた赤毛の少女は、とっくに俺の浅い底を見透かしていた。
『そんな問題に、あなたが答えを出せるの?』
『――――』
そうだ。
根性論だけで、俺は具体的な答えを出せなかった。
だって、俺は。
『――特別じゃない』
ならば、俺たちが選べる選択肢は限られている。
不意に背後から漂うレモングラスの香りに、寒暖を繰り返す歪んだ世界で消耗した俺は安堵感を覚える。俺もネミィと同じだった。
別の特別な誰かに、答えを期待する。
暑い、期待、暑い、暑い、する。
別の、誰か、暑い、に――。
『――――』
誰かが呼ぶ、声が聞こえた。
§§§
「――沙智、大丈夫?」
妙な気持ち悪さを抱えたまま瞼を開くと、ステラが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。その奥では窓から外へ飛び出そうとするアルフの腕を、トオルが胸に抱いて掴みながら俺の様子をチラチラ窺っている。
遅れて、ここが馬車の荷台だったと思い出した。
「夢、だったか?」
「ひょっとして白犀にアンテナ齧られる悪夢でも見た?」
「また生えるから別にいいよ」
アホ毛の先端を軽く摘まみ上げるステラの指を振り払い、俺は目尻を擦りながら辺りを見渡した。帰りの馬車に乗り込んだ時と、どうも様相が違っている。
荷台から知っている顔が六つから三つに減っているのだ。
「なあ、他のみんなは?」
「もう夕暮れ時ですし、セシリーとネミィは買い出しをしてからカフェに帰るそうです。もう近場の八百屋に二人で向かいましたよ?」
最初に教えてくれたのは兎と絶賛格闘中のトオルだ。
確かに窓から顔を出せば、俺たちの宿がある方角の空が薄っすらと赤味を帯び始めていた。
亀のように首を引っ込めて、俺はもう一人について尋ねる。
「じゃあレイファは?」
「あの人懐っこい悪魔さんは途中で馬車から降りちゃった。路地の前で言い合いっこしてた男の子たちの方へ歩いてったけど、何だったのかな?」
「子供大好きっ娘め」
ステラは思案顔だが、大方子供たちの喧嘩の仲裁に向かったというところだろう。見た目に反して言動が年寄り臭いレイファらしい。
俺は席から徐に立ち上がり、荷台から外へ出て空気を吸った。
目の前に聳え立っていたのは、ビルのような白い構造物だ。
七階建てのそれは、赤の国では随一の高さを誇っている。
「で、ここが自治会庁舎前って訳ですよ」
「これから勇者会議だけど、本当に平気そう?」
最後に確認したかった事項を先取りして、二人が心配そうに覗き込む。
瞬間、無意識に怯えてしまった。このステラの瞳にも、巧妙に隠されているだけで侮蔑の光が宿っているのではないか。いつまでも魔王問題への打開策を示さない俺に、本当はもう期待していないのではないか。
さっきの気味の悪い夢が、俺をそう不安にさせた。
ああ、本当に暑くて堪らない。
暑いのに、腹の中だけ異様に冷えて気分が悪い。
「ダム程度の高さなら大丈夫かと思ったけど、駄目だったみたいだ」
「そう言えば高所恐怖症でしたね」
「ちょ、ちょっと飲み物でも買ってくるよ」
一旦頭を冷やすべく、逃げるように俺はその場を離れた。
よっぽど堪えたのかと嘘に納得するステラとトオルの脇で、石タイルの地面に映る三角旗の影に留まった一羽の鳩は、俺の背中をじっと見つめていた。
つぶらな両の瞳で、ひたすら見つめていた。
活気付いていた街並みは日が傾くにつれて徐々に落ち着きを取り戻し、街頭に並んでいた店の幟旗もその数を減らしていく。ふと頬に生温かい風を感じて振り返ると、少年が一人レプリカの剣を振り回して駆け抜けていくところだった。幟旗を片付ける男性に少年は抱き着き、嬉しそうに頭を撫でられている。
こんな何気ない景色にもあるのだろうか。
俺が目を向けてこなかった、使命称号の世界が。
「メルポイジュースにしよーかなー?」
「――――」
「それともキャンディージュースにしっちゃおうかなー?」
葛藤の最中、兎のほんわか呑気な鼻唄が中々に苛立たしい。
だが一方で、一人になって思考のドツボに嵌るくらいなら、誤算ではあったが、空気の読めない能天気な兎が傍にいてくれた方がマシというのも事実だった。
どうせこの兎に、俺の心情を見透かす異常な観察眼はないのだから。
そう思っていた。
いや、見下していたのかもしれない。
「何か悩んでるー?」
兎の声は、あまりにも絶妙なタイミングだった。
道の途中で驚いてピタリと固まってしまった俺を、アルフは白い両耳を交互に揺らしながら、瞬き一つせずに視線で焦がす勢いで凝視してくる。
心臓が、バクバクと鳴って怯え始めた。
「べ、別に」
「ダムでネミィと話してた称号の話ぃー?」
慌てて被った嘘のベールを、兎は容易く見破って正鵠を射た。
背中に指を組んで俺の目を離さない兎は、真っ白な長い耳が夕焼け空で染色されたことも相まって、いつもと少し違って見えた。
侮蔑の光とは違うが、浅い底がすでに見透かされている気がする。
どうして兎がその話を知っているのか。
確かめたいと思う反面、唇が震えて上手く声が喉から引っ張り出せない。そんな俺の動揺を兎はさほども気に留めず、自分の両耳を指差して鼻を高くした。
「えへへ~、私たち兎族はすっごく耳が良いのだー!」
「――――」
耳が良いにも限度がある。俺がネミィと話していた際、兎はダムを挟んで向かいの鉄橋を渡っていたはずである。距離にして約五百メートルだ。
俺が元気だったら、一も二もなく呆れ果てていただろう。
ただ、おどけて笑うアルフには、俺は酷く安心した。
この兎は人の心に土足で踏み込んだ自覚がないだけだった。
「使命称号なんて気にするだけ損だよー?」
「――――」
「持ってる人もいるし、持ってない人もいるしさー」
「――お前は?」
「まあ一応は持ってるよー?」
「――――」
「ほら、そんな顔しないー!」
陽気な笑顔で兎は肩を叩くが、俺に笑えるはずがなかった。
今日まで、『魔王』や『奴隷』などの一部を除いて、このシステムに俺はゲーム的な側面しか感じていなかった。だから、メニューに『魔王撃破』の称号やスキルが増えていくのを、俺はどこかで楽しんでいたんだ。
彼らが日常生活の裏側に隠した、苦しみを見ようとしなかった。
何度肩を叩かれて励まされても俺は俯いたままだった。
そんな姿に、兎は顎に手を当てて悩む素振りを見せる。が、数秒後には、ポーチから取り出したペロペロキャンデーを突き立てて、にっかり俺に笑い掛けた。
「じゃあ良いこと教えてあげるー!」
「良いこと?」
「うん、あのね――」
そこで言葉を区切ると、兎はキョロキョロ辺りを見回し始めた。節操のない奴だと呆れる一方で、続く言葉に期待している自分がいることに俺は遅れて気づく。
兎が目を付けたのは、高さ五メートルほどにある赤白緑の三角旗だ。
腰を曲げ、助走もつけずに大ジャンプ。
細いロープに足を乗せると、クルリと向きを変えて兎は叫ぶ。
「迷子歴二十年の大ベテラン、アルフは知っているぅー! 自分の心が迷子になった時はね、納得できるまで何度でも迷い続ければいいのだぁーっ!!」
「――は?」
「全力で迷って辿り着いた結末なら、きっと受け入れられるからさー!」
飴を左手にガッツポーズを掲げて大声を上げた白い兎は、当然行き交う人々の注目を一身に浴びた。子供なんかには指を差されて笑われていた。
でも、アルフは自信に溢れた表情で、堂々とポーズを続けた。
「――――」
「と、いうことで私はキャンディージュースにしまーす!」
やはり能天気な兎だと心底思う。
だが迷路で棒立ちしている俺と違って、どうにかして出口に辿り着こうと一生懸命進み続ける兎の姿が、今日だけは少し格好良く見えた気がしたんだ。
どうせ、進んでも迷子になるオチなんだろうけどな。
「お、おおお、落っちるぅぅーっ!!」
「ふ」
バランスを崩して三角旗から落下し、顔から地面に着地するアルフ。
格好つけるなら、せめて最後まで気張って欲しいものだ。
「――ったく」
鼻を押さえて蹲る兎に、俺はそっと手を差し出した。
感謝の言葉は癪だから、今は笑顔を作るだけ。
「ほえ?」
「耳の良さとジャンプ力で、いきなり自分は兎ですアピールしてんじゃねーよ。さっさと行くぞ。一回でも迷子になったら、その白い毛皮剥ぎ取るからな!」
「お、おざなりぃー!!」
確かに迷路で棒立ちするのは馬鹿だ。
考え続けたって埒が明かないのだから、手探りでも試すしかない。ネミィがそうしたように、俺も、答えを出せる誰かを探し出して、託すんだ。
きっと世界には、俺には出せない答えを出せる人がいる。
こうして俺は、決意新たに夕焼けの街をゆっくり進み始める。
数秒後、兎が消えて、俺は本格的な胃潰瘍を覚悟した。
◇◇
赤の国、自治会庁舎裏のアプローチ。
普段は使われない庁舎裏口の銀の扉は、これから数日の間だけ秘密の会談への入り口だ。赤の国の住民は疎か、世界を支配する魔神さえ知らない。
その鍵を持っているのは、世界に挑む者たちだけ。
彼女は、その中の一人である。
「――遅いんだけど?」
灰色髪の猫耳に、黒毛が混じる尻尾。上は肌色のブラウスに下は薄紅色のロングスカートで、腰には白銀の鞘に収まる聖剣カーテナを添えている。
不機嫌に眉を顰めるこの獣人が、五人の勇者の一人、シアンだ。
「敵の特定は完了しました、が」
「アルフの回収なら勇者会議が終わった後で考えましょ。彼らの存在について火急、会議で取り上げなければいけないんだし」
「会議までに間に合えば良かったんですが」
「言ってても仕方ないわ。どうせ、作戦の立案は回収したアルフから詳しい話を聞いた後。記憶力はアレだけど、あの子の耳は確かだから」
熊族の部下コーディと言葉を交わしながら、彼女らはシラカシの街道を歩く。議論は冷静だったが、気持ちは逸っていたのか歩調は速い。
シアンが「索敵を開始して」と命じて、まだ僅か二日。コーディの働きに信頼を寄せる一方で、情報が足りないのも事実だった。
「アルフは、話すでしょうか?」
「……調査だと、思わせなければいい」
「え?」
コーディが隣で目を丸くするのを見て、シアンの胸に罪悪感の棘がチクリと突き刺さる。もしアルフが迷子のところを彼らが保護したなら、あの義理堅い兎は恩を仇で返すような真似は断るだろう。
半年前に保護して以来、アルフを妹のように思っていたから、胸が痛む。
それでも、シアンはこの一件に重きを置いていた。
自分が勇者だと自負している。
『――――』
だからこそ騙されない。
十日前に倒した渓谷の魔王の最後の言葉を雑念と割り切って振り払い、シアンは決意固く、高く聳え立つ白い外壁の自治会庁舎を仰いだ。
今日、ここに五人の挑戦者が集う。
「まずはこの件、他の勇者たちはどう反応するかしら?」
いよいよ、勇者会議が始まる――。
【迷子】
え、自分が迷子になった時どうすればいいかって? 方位磁石に頼ったり、太陽や月の位置から方角を確認したりかな。でも地道だけど人に尋ねるのが一番手っ取り早いんだけ「それでアルフの迷子力が収まるはずないだろ。だからお前はステラなん」沙智、喧嘩売ってるの?
※加筆・修正しました
2020年3月29日 加筆・修正
表記の変更
ストーリーの一部削除




