閑話 『桜舞い散る雲の果て(6)』
「――お前は本当に死にたかったのか?」
真っ白な世界でタキシード姿の神様は私に問うた。すでに『神格の儀』は成功し、私は彼と同じ『護り手』、分かりやすく言うと神様に転生したらしい。ボロ臭くなった制服の代わりに、青い流氷のような着物がいつの間にか私を包んでいて、もう引き返すことはできないのだと知った。
「――――」
今更気づいたんだ。
振り返れば、私は夢を思い描いていた。
青臭くて、みっともなくて、他人が笑うような夢。
でも、もうそれを叶えることはできない。
だから夢に気づかないまま死んで後悔しないように、あなたに問います。
『あなたは、何かになれると思えますか?』
§§§ 三年前
そうだった。
私は埃が積もった灰の中から浮かび上がる記憶を前に感極まった。
「お前が……そんな顔してどうするんだよ!」
「私のせいなんだよ!」
あの日、必死に私に伝えようとしてくれたのはあなただったね、沙智。
びしょびしょに濡れて母の墓前に屈んでいた私に傘を差した兄の肩が、少しずつしっとりと暗く染まっていくのが私には耐えられなかったんだ。私という存在があるせいで、また何かが変わっていくのが嫌だったんだ。
「私が……ちゃんと信号を守ってたら……守ってたら……っ」
母は私の代わりにトラックに撥ねられた。
父は仕事に明け暮れて、居間で仏壇にその日あったことを報告する頃にはとっくに憔悴しきっていた。兄だって母の死を皮切りに色んなことにますます手がつかなくなり……。
私が全部壊したんだ。
私が全部奪ったんだ。
でも、私はまだ生きている。
誰も、私という罪人に罰を与えない。
裁き手が世界のどこにもいないというのなら……。
「いっそ……全部忘れたいよ」
自然と出たその言葉は自分の甘さだとすぐに気づいた。これは罪の意識から逃げようとしている弱い私なんだと思った。そんな言葉が自分の口から飛び出たことが猛烈に恥ずかしく、易々と逃げようとする自分が大嫌いだ。
それでも兄は叫び続けた。
「忘れちゃ駄目だ。どんなに辛いことでもきっと意味があるから……」
みっともなく掠れた声で。
意味がある?
そうだね。私がいたから家族という歯車が狂い始めた。
「自棄になっちゃ駄目だ。前を向いて歩くしかないんだ……夢ってのは前にしか転がってないから。その夢が……いつか明るく進むべき道を照らしてくれるはずだからっ!」
聞き心地だけを優先したつまらない言葉で。
照らさないよ。
母の未来を、父の未来を、兄の未来を狂わせた私がそれを望んじゃいけなかった。
それでも激しい雨の音に負けじと張り合う兄の必死な言葉が不思議だった。
ここ最近、学校にも行かず、部屋からほとんど出なかった兄は今日はこうして傘を持っていない私をわざわざ迎えにやって来た。死んで腐ったような虚ろな目をしているいつもの兄の姿はここにない。
不思議だった。
どうして私にだけこんなに本気で向き合おうとするのか不思議で、強い反骨心を覚えた。それだけ当時の私はまだ幼稚だったのだ。だから私も思い切り叫んだ。
「ふざけないでよ! 自分だって学校も行かず、部活もやめて、新しく何も始めようとしない自棄的な生活しかできないくせにっ! 動物園の猿でももっとマシな暮らしをするよっ! あんたはいつも都合のいい言葉ばっかりだっ!」
本心ではなかった。
でも事実だ。
一歩間違えれば兄妹関係を崩壊させるほど危険で尖った言葉だったけれど、私はそれを後悔するよりもぶちまけてやったという爽快感の方が大きかった。あるいは、喧嘩腰の言葉に乗って兄が私を責めてくれるかもしれない――お前のせいで全部壊れたんだろーがって。
私がスカートの端を握り締めて兄の裁きの言葉をビクビクしながら待っていると、兄はまごつきながらもまた言葉をゆっくりしっかり生み出した。怒るわけでもなく、見捨てるわけでもなく、震えながら、それでも雨に消えないように。
「俺の……俺の言葉じゃ届かないかもしれない……だけど! ……だけどもし、俺じゃない誰かが必死に言葉を伝えようとしたら……その時は聞いてやってくれ」
酷く情けない、力のない声だと感じた。
この声は空っぽだ、届くはずない――それを一番理解していたのは兄だった。
それでも諦めずに叫んだのは……どうしてかな?
「もう……いいよ」
愚かな私は、もう彼の言葉を聞くのをやめた。
聞く必要がない、心の奥底で無意識に判断したのかもしれない。
本当は、ちゃんと響いていたから。
§§
「やあ、初めまして。私はそっちの世界では、ボーダー神というものだ。おっと、神といっても大それたものじゃない。幾つもの世界のバランスを保つ巨大な『意思』とも呼べるものがあって、私たちは『意思』が作った決まりを代行する存在、まあ『護り手』という奴なんだ。だから普通に接してくれて構わないよ」
その男は突然私の前に現れた。
兄とは違って清潔感のあるタキシードがよく似合う高身長でスタイルのいい爽やかな男。しかし、意味不明な発言を淡々と繰り返し、厨二的というか、ナルシストというか、少し痛い人だった。ただ、周囲の月面にいるかのような真っ白で不可思議な世界と、彼の瞳に水平に入る白線が底知れない不安を私に与える。
死ぬつもりだった。
でも、この男は誰もいない明け方の神社に不意に現れ、酷く耳鳴りのする痛烈な音とともに私をあの世界から連れ去った。そのことを私はすぐには理解できなかったんだ。
「何……が……?」
「おや、状況が理解できないかな? まあ無理もない」
彼は戸惑う私から決して視線を外さない。
腕を組んで悩んでいる素振りを見せている時でさえ、意識は自分という存在の外側の一点に固定されているように感じた。それがまた私には不気味だった。
「君は世界間引力に巻き込まれ……いや、この説明では分かり辛いか。簡単に言うと『異世界転移』したんだよ。まあ私は君がちゃんとした座標に着地できるようにするためのゴンドラのようなものだと思って欲しい。ゲームスタートと同時に海の底で溺れ死ぬのは嫌だろう?」
「異世界転移?」
ラノベの読み過ぎで頭がおかしくなってしまったのかな。
兄なら発狂しそうなことをこの男は平然と、笑って誤魔化すこともなく告げる。
当然私にとってこの男は不審者のままだったし、言っている意味が欠片も理解できないことに変わりはないのだけど、確かに周囲の景色は普段目にするものとはまるで違っていて、ごちゃ混ぜと整列が矛盾して存在する未知の世界だった。ひょっとしたら本当にこの男は神様なのかもしれない――だとしたら私の前に現れる理由に一つだけ心当たりがあった。
しかし、タキシード姿の神様はその本題には未だ触れず、襟を正しながら理解不能な説明を続けた。
「混乱しているところ悪いが、ここはまだ君の世界と異世界とのボーダー、つまり境界なんだよ。長居はできない。まあ夢だとでも思って軽く説明を聞いてもらおう」
どうでもよかった。
早く、私に罰を与えて欲しかった。
そのために現れたんでしょ?
「君が異世界へ転移することで記憶に関する変化が大きく二つ起こる。一つ目は君が失われた元の世界では君に関わる膨大な証明は分節化され、同時に消去される。要するに、君の友人や家族から君が消えるということだ。『ディバイン・デリート』――いわゆる『神の削除』だね」
死んだ後の世界なんてどうでもいい。
ブクブクと泡のように浮かんできた寂しさを紛らわせるための言い訳だった。
「次に君の中での変化だ。君は日を追うごとに元の世界の記憶を失っていく。『ワールズ・チョイス』――いわゆる『世界の選択』だね。君がその世界の住人として認識されたという証のようなものさ」
どうせ死ぬんでしょ?
これが裁きだと思っている私にはこれからの事なんてどうでもいい。
「因みにこの権限の一部は私も使うことができる。これだけ説明してもここでの記憶は消してしまうんだがね。――さて、『意思』がどれだけ世界のバランスを調整しても、一定数の確立で異世界転移に巻き込まれる人間は現れる。そのお詫びに私から君に祝福を与えよう。強力なスキル、称号、その世界では存在しない異能、何でも選ぶがいい」
神様はやっぱり私から視線を外さずにそう説明を括った。
言葉の選択権は私に移された。
いつまで待っても私の罪に対する話をしようとしないふざけた神様にいつの間にか勝手な苛立ちを覚え、彼が説明を終えるとともに震えるような怒りが言葉となった。
「そんなのいらない」
「おや、気に入らなかったか? なら他には」
「私は死にたいのよ」
「――――」
私の少し投げやりな告白を神様は片目を瞑って実に嫌そうに咀嚼した。この白と黒で彩られた不安定な空間には時の流れというものが存在しないのか、彼が頭を悩ませている時間が五分、十分、三十分と長く感じた。やがて、瞑っていた片目を開いた時、水平に切るように入るホワイトラインがくっきりと、私の弱さを切り裂いた。
「本当に死にたいのか?」
「……っ。あ、当たり前じゃないっ」
「それは死んだことのない人間の実に愚鈍な妄想だよ」
私は言葉を失った。
神様の放ったその言葉は今までの陽気さの欠片も感じられないほど、私の願いを容赦情けなく切り捨てるものだったからだ。道の背後で兄が『前を見て走れ』と叫ぶ。私が降りようとした道の脇で神様がその選択を愚かしいと断言する。
全部私が悪かったのに。
私のせいで壊れてしまったのに。
私に……前を見て……夢を描いて……走れと無茶を言う。
「まあいい。それなら私が適当に祝福を与えよう。まずは『転生』スキル――行使すれば死んでも第二の人生を歩めるぞ? まあその時はまたここに来ることになるのだがね」
「何を――」
黙りこくってしまった私に神様は淡々と、事務処理を行うように最後の手続きを始めた。それも、私が一番望まないようなスキルを与えて。だから抗議しようとしたのだが、不思議と声が喉を越えなかった。まるで音を遮断する一線が喉元に引かれたように。
「次に『勇者』の称号だ。この称号を持っているとあの世界ではきっと一番死が近くなる。他にも幾つかスキルを与えよう。死んだら転生してまたここに来るといい。その時にもう一度聞こう」
そして私は記憶を失っていく。
失うと同時に刻まれる。
――お前は本当に死にたいのか?
§§§ 現在
「――の者において人と神の間に境界を定める」
気がつくと、そこは再び境界の世界だった。
予想通り、この世界では私は記憶を取り戻せた。
同時に生まれたのだ――元の世界の記憶を失って三年間未来だけを見て生き、そして死んだ私と、神様が愚鈍と称した、知らない死を望んだ私が。
全てを思い出して小刻みに震えていた私の背後で儀式のようなものをしていた神様はそれを終わらせ、私に再び視線を向ける。私は顔を合わせる余裕すらなかったけど、確かに彼は私に視線を向けたのだとなぜか認識できた。
「まずは転生成功を祝福する前に君に聞こう」
「――――」
「お前は本当に死にたかったのか?」
それはかつて聞いた彼の言葉とは全く違った重みを私に感じさせた。それは私が死というものを実際に体験したからだろうか。死が、果てしなく恐怖と絶望に満ちたものであり、裁きや救いといった言葉で片づけられるものではないと理解したからだろうか。
この三年間がなかったら、あるいは無知に頷いて幕引きだったのかもしれない。
でも――。
「――違う」
私は拳を握り締めて振り絞るようにそう呟いていた。
同時に、兄の言葉から耳を塞いで逃げた自分に無性に腹が立った。
「私がお母さんの命を奪って、父や兄の生き方を変えてしまった。だから私は思ったんだ。死ぬべきなのは自分だった。私のせいでみんな不幸になるんだって。誰かに裁いて欲しかった……死にたかった」
ずっと私を支配し続けた罪の意識。
そうやって嘆いて溺れることが、一番家族を壊していたんだ。
「でもあの時、沙智がとっくに教えてくれてたんだ。夢を見つけさえすれば……自分が見る景色は全く違った明るいものになるかもしれないって」
ちゃんと響いていたはずなのに、愚かな私は耳を塞いだ。
――だけどもし、俺じゃない誰かが必死に言葉を伝えようとしたら……その時は聞いてやってくれ。
何も学ばないまま、異世界でも繰り返した。
「レイファが、ボルケが、イアが、ゼイムが、ランスが、アイビーが、もう一度私を奮い立たせてくれた。いつか平和になったあの世界でみんなと一緒に大冒険したいって……思えるように……なったのに……」
でも、私は生きることを諦めてしまった。
記憶を取り戻すことはできたけど、もう戻れないんだ。
――詰めが甘い。
――はーい、サっちゃんもボルケっちもどうどう!
――私は女も大好物よっ!
――ふふっ、ああ。とびっきりのぅっ!
――俺、本当は嬉しかったんだよ。
やっと自分に気持ちに素直になれて、でも描いた夢を始めるには遅すぎた。
そう気づいた途端、みんながどんどん遠くへ行ってしまうような気がして、目尻が急に熱くなった。諦めるなと、レイファたちが決死の思いで紡いだ最後の叫びに私は応えようとしなかった。
もし、この夢に気づけていたら。
沙智の言葉に素直になっていれば。
後悔してももう遅い。
――じゃあな。
振り返りもせず去って行ったボルケに伝えたかった言葉も、もう。
「レイファやみんなと……もっと一緒にいたかったよぉーーっ!!」
とうとう自分の溢れ出る気持ちに耐え切れなくなって私は真っ白な何もない空間で思い切り叫んだ。声はどこまでも響き、一切反響せず遠い星へ消えていく。
彼はやっぱり視線を外さずに、いつかのように片目だけを瞑って呟いた。
「その結論に至れたなら、『意思』の不備も少しは役に立ったかな」
§§§
あれから千年。
とはいっても、あの不思議な点の世界では一瞬の時間なんだけどね。神様に転生した私はこっそりティエムニ……ああ、今はジェムニか。ジェムニに教会を作ったり、まあ色々とあったんだけど、今日は新たな異世界転移をする人を迎えに行くところだ。
『渡り』で降りたその場所は、私にとってはとても懐かしい場所だった。
「悠斗のイタズラか?」
懐かしい人だった。
今では分かる。
あの墓地で彼が必死に叫んでくれた理由。
私に本気で向き合ってくれた理由。
色んなことに投げやりになって、それじゃいけないって分かってたのに、お母さんの死をきっかけに反省して歩みだせる機会を見失っちゃったんだね。だから私と一緒に頑張りたかったんだよね。一人じゃ駄目でも、二人なら、みんなでなら歩き出せるってそう信じて。
「けしからんな。うん、けしからん」
でも私は聞こうとしなかった。
だから兄は、今日もここで夢を見つけられずに立ち止まったままだ。
神社にくだらない落書きをして、必死に自分の中にある虚無感を追い出そうとしている沙智へ。遅くなってごめん。でも、あの時、あなたが私に教えてくれたことを、今度は私が伝える番なんだ。
走り出せ。
夢は前にしか転がっていないのだから。
伝えることを心に決めて、私は歩き出して。
「みんなには秘密に――」
ねえ、この時、私がどんなに驚いたか分かる?
『神の削除』の影響で私の事なんて覚えていないはずなのに、沙智は。
『助けて』
私の孤独な叫びを、見つけてくれた。
「――見えたんだ」
うん、そうだよ。
その感動のせいで何を言おうとしていたのか全部吹っ飛んじゃったよ。
だから、しばらくは兄の茶番に付き合って心を落ち着かせることにした。
夢を見つけられない。これからどうやって行けばいいのか分からない。本気になれない。何かを始める勇気がない。
そんなあなたに贈るのは小さなきっかけ。
「じゃあ、あなたを異世界へ送ります!」
世界を救う勇者になるのもいい。
隣にいる誰かを笑顔に出来る友達になるのもいい。
自然を感じて安らかな生き方を探すのもいい。
まだあの世界に学校が浸透していないから、先生になって子供たちと触れ合うのもいいかもね。
あなたがどんな道を選んでも、あの世界の理不尽はきっと牙を剥く。
それでも、諦めないで。
私のように、諦めてしまわないで。
「いってらっしゃい!」
きっと沙智なら、羅針盤を見つけられる。
信じてるからね。
◇◇ そして――。
「ここが、赤の国?」
少女はこの地で命を落とした。
死して後悔すれども少女はやり直すことはできない。この世界にタイムトラベルの技術はないのだから。それでも、未来へ一歩、この少年に繋げた。千年の時を越えて、少年はかつてイズランドと呼ばれた国、赤の国へ踏み出した。
「全然赤くないじゃんっ!!」
「あんた、開口一番に文句って」
「お兄さん」
「いや、普通『赤の国』って聞いたら全体的に赤いのかなーって思うじゃんっ! なあっ!」
――その意味はあなたが見つけるの。
少女が死んでようやく見つけた意味を少年は果たして見つけられるのか。
少女が死んでようやく見つけた未来への羅針盤を果たして見つけられるのか。
今日も少年は挑み続ける。
「む? 何じゃあの男。少し気になるのう」
これは、千年前から始まる物語――。
※加筆・修正しました
2019年9月26日 加筆・修正
表記の変更




