第二十五話 『あなたに笑っていて欲しい』
今回もステラ目線でお送り致しまーす。
◇◇ 九日前 ステラ
これでお別れだ。
別れの挨拶を中々切り出せないで頭を掻いているこの男は、随分と無知で頼りなかったけれど、決して鈍くはなかった。ジェムニ神国まで一緒に行動することに私が乗り気でないことくらい、とっくに勘付いているだろう。それを理解して手を差し出すほど彼はきっと傲慢じゃない。
最初は死ぬ前に最後に誰か一人にでも優しくしてみようと気まぐれに思っただけだったのに、どうしてこうなったのかな。東の空の鮮やかな朝焼けが早く終わるのを心の中で祈ったその時だった。
「なあステラ、お前も一緒に行こうっ!」
始まりの風が衝動を必死に抑え込んでいた蓋を呆気なく攫って行く。
この数日間の思い出が遠い過去に変わることを私は受け入れようとしたのに、沙智は傲慢だと知って手を伸ばしたんだ。偶然の上に成り立った関係を必死に繋ぎ止めようと、彼は必死に。
「え……!?」
長い年月をかけて積み重ねてきた固定観念が崩れ去る音がする。
奇跡的に続いた私たちの関係は、最も美しい瞬間で区切らなければならない。
「……ぅ」
分かってたんだ。
その手を掴めば、もう戻れなくなることくらい。
でも衝動は、自制しなきゃと言い聞かせる心とは対照的で。
「一緒に行けばいいんでしょっ!」
「よっしゃーー!!」
傍にいたいと誰かが叫んでくれたのが嬉しかったんだ。
風車から一人で眺める赤い空はもう飽きたんだ。
§§§ 現在
「よぉ、てめえかぁ」
探し始めて三時間半、ギニーをリトルエッグにようやく見つけた。
相変わらず派手な色合いのレーニン帽が闇夜と白髪のモノクロ景色に不気味に浮かんでいる。俗にフランベルクと呼ばれる、ノコギリザメの吻のような殺傷性の高そうな剣を片手に、彼は逃げ惑う人々が集まってできた球を眺めていた。
「見ろよ。南門が開かないと分かった途端にこれだ。早く開けろ、早く開けろ、と身勝手に叫んで、他人を押しのけて我先に前へ進もうとしてやがる。これが人間の本質さぁ」
彼はとっくに諦めているのだ。
いや、そもそも彼の頭には無いのかもしれない。
人間と分かり合える未来は――。
「ふっ、米粒も集めりゃ腹満たすってなぁ! 雑魚でも充分な経験値量だぁ!」
悪意が殺意の衝動に顔を歪ませ、剣が血を欲して武者震いする。
人の塊の表面で何人かがギニーの放つ只ならぬ雰囲気に怯え出す。
答える時が来た。
今まで選べなかった選択肢を選ぶ時が来た。
「……させないよ」
「あぁ?」
「ギニー、お願い倒されて。『魔王』とはそうされるべき存在なんだ」
事実上の敵対宣言。
同情はしても、やり方は認めない。
剣の武者震いが不意に止まった。
ギニーはようやく振り返って笑顔を歪ませる。
「残念だよ、俺はこれでも本気でてめえを救うつもりだったんだぜぇ?」
それは嘘でも誇張でもないのだろう。
ただ私が彼の提案した“救い”を救いと受け取らなかっただけだ。
「俺と組み、人間の敵であると宣言することだけが、人格を奪われない唯一つの救いだったんだ。だがてめえは俺を選ばなかった」
人間を恨むことでしか存在できない私。
そんな可能性があり得たのなら、私はもうとっくに死んでいるのだ。
あの日沙智と繋がったのは、他でもなく私が声を掛けたからだ。
こんなところで何してるの、と。
「人間と繋がれる――そんなまやかしをてめえは捨てきれなかった」
「まやかし?」
吹けば飛んで消えていくような朧げな希望ではなかった。
目を瞑れば、瞼の裏にはっきりと浮かび上がる無数の記憶。
これが、まやかしなはずがない。
「私はもう充分救われたよ」
襟元に掌を置く私にギニーは目を細める。
きっと人間を疑い続けた彼にこの胸の中は覗けないんだ。
「沙智やトオルと笑ったこの二週間は空の満月よりずっとキラキラしてたから」
そのまま右手を握り締め、水平に空を薙いで引き千切る。
風魔法で本来の色に似せて調律することをやめた魔力は果てしなく黒い。地面に音を立てて跳ねた黄金色の輝きを瞳に捉え、ギニーの顔に初めて衝撃が走る。
「てめえ……もう嘘はやめるのかぁ……?」
石のタイルの隙間に転がり落ちた秘密の首飾り。
人恋しき魔物がただ一つの願いを込めて隠した秘密はたった今、完全に千切り捨てられた。この覚悟を目にして嘲笑うほど、ギニーは落ちぶれてはいなかった。
「そうかぁ……馬鹿げた夢の先に妖精が落ちた奈落があると知っても、それを誇りに自分の命を棒に振る超ド級の愚か者だったってことかぁ。甘くても、その甘さを貫く覚悟があってここに来た。だったらぁ――」
生き物の血肉を溶かして作られたこの世で最も穢れた黒い魔力がまるで生き物のようにうねり、周囲の樹木を、ベンチを、地面のタイルを、街灯を焼き焦がして腐食する。彼を象徴するチェック模様のレーニン帽はその風圧に弾き飛ばされ、残ったのは常人では直視すらできない殺意だけ。その瘴気の渦の中で彼は顔のパーツを壊れるほど歪ませてニタリと歯を見せる。
「応じねえ訳にはいかねーよなぁっ!」
羽化前の『魔王』は恐ろしい耐久を誇る。
これは体を覆うように纏わりついた感知しづらい瘴気の鎧が原因だ。水面に落としたコインが床に着く頃にはその威力を失っているように、瘴気の壁は外部からの魔法の威力を軽減してしまう。
けれど、勝算はある。
この瘴気の鎧は自然と発生するもので、意識的に操ることができないのだ。
ただ一つ、私が編み出した風魔法の調律を除いて。
魔王の持つこの黒い魔力は純度百パーセントの瘴気という訳ではなく、普通の人が扱える紫苑の魔力も微量に含んでいる。他人に使う魔力が瘴気と気づかれないようにこれを表面化させるのには苦労したよ。風魔法は魔力の細かいコントロールに向いている。
これを応用して、瘴気の鎧に薄い場所を作ることができたら?
水深が浅ければ、コインの威力がそこまで損なわれることはない。
ウィークポイントさえ作れれば――。
「てめえを殺して羽化するのもいいかもなぁ!」
ゲラゲラ笑って猪のようにギニーが魔力を込めた剣を力任せに振るう。乱暴なだけに思えるほど激しい挙動は思わぬ場所に隙を作りやすい。私は刀をすんでのところで躱し、彼の背後に回り込んで魔法を発動する。
「――『ウィンドカッター』っ!」
「効かねえよっ!!」
風の刃が彼の背中に触れた瞬間、肘によるカウンターで体が弾き飛ばされる。
でも、これでいいんだ。
「まずは一回……」
何度も同じ場所に触れて調律を繰り返せ。
固い鎧を確実に剥いでいけ。
ポケットからひらりと落ちた桃色の封筒。
額から流れ落ちた血とともに十数分後、夢へ誘う。
§§§
どうして私はこんなところにいるのかな。
生と死が移ろう真っ暗な世界。
どこが地面で、どこが空かも分からない。
桃色の封筒が足元に浮いていた――渡さなかった手紙だ。
『拝啓、七瀬沙智様、トオル様。
ちゃんと別れも言わずに勝手に飛び出したこと、本当にごめんなざい』
桃色の癖の強い丸文字が封の隙間から音なく舞い上がる。
まるでライトアップされた桜の花びらが枝に帰ろうとしているようだ。
『私は二人に、ずっと嘘をついてきました。
自分が魔王であることをずっと隠してきたんです』
溢れ出る文字たちの前で、私は無性に悔しくて悔しくて。
皮膚の内側から抑えきれない激情が全身の筋肉を強張らせ、どこにあるのかも分からない心が大粒の涙を流している。拳を強く握りしめて、歯を食いしばって必死に耐えようとしたけど、文字たちに倣って隙間を見つけた涙は呆気なく零れ落ちた。
『全部話してしまおうかと思ったこともありました。
ひょっとすると秘密はもうバレてるんじゃないか。
そう不安になる度に沙智やトオルを疑う自分が嫌だったんです』
あなたは誰?
白と黒の少しダサい、随分と古びた靴が潤んだ瞳に映ったんだ。
慌てて涙を拭って顔をあげたんだけど、文字の淡い桃色は下半身しか綺麗に照らしてくれなくて、それが誰なのか分からなかった。彼は先客の私に社交辞令すらせず、地面に落ちている手紙を拾おうとする。
『一緒に街を歩いたり、ケーキを食べ合いっこしたり……瞼を閉じるだけで胸が熱くなるような思い出をたくさんありがとう。寝る前にその日にあったことを日記に綴ることが、いつの間にか私のささやかな楽しみになっていました。トオルは夢が一つ叶ったと笑ってくれたけど、私にとってもドキドキで心臓が壊れてしまわないかと心配になるくらい夢のような日々でした』
ダメ、見ちゃダメっ。
叫ぼうとしたけれど、声が出ない。
取り返そうとしたけれど、腕も脚も動かない。
『今度は夢の続きを、心の底からあなたたちを信じてくれる人と描いてください。
あなたたちに笑っていて欲しい。
今は、ただそれだけです』
沙智やトオル以外には見られたくなかった。
時の気まぐれが遣わした使者はこの手紙をどう思うのだろう。
『敬具、ステラ』
最後の薄明かりが無限遠点に消えていく。
僅かに残った残雪のような光の中で彼の両手が微かに震え始める。封筒から取り出した一枚の便箋に彼は顔を埋めるのだ、その表情を隠すように。
『――ただそれだけ? 手紙でまで嘘ついてんじゃねーよ』
私は目を見開いたよ。
だってその声は私にも負けないくらい悔しそうだったから。
『――テラ』
彼は決して時のきまぐれが遣わした使者なんかじゃなかった。
しわくちゃになった便箋の向こうで何かがキラリと光って、隠されていた彼の表情が透けて見えた。歯を食いしばって、鼻を真っ赤に染めて、今にも破れてしまいそうなほど悔しそうに震えているんだよ。
傲慢だと知ってなお、彼が私の手を引っ張り出そうとした理由。
その一欠けらを知っているでしょ?
『ステラっ!』
頬を伝って零れ落ちた光は地盤の境界を見つけて反転し、暗闇を掻き消すように広がっていく。その世界はどこまでも眩しくて、羨ましくて――ダメだと分かってるのに問わずにはいられなかったんだ。
「――誰か、そこにいませんか?」
§§§
「後一撃だってのに、米一粒の意味しかねぇ経験値どもが何しに来たぁ?」
重い瞼を薄っすら開くと格好つけようとするあなたがいた。
不機嫌なギニーにすぐに怯えて震えてしまうあなたがいた。
「何を初めてのおつかいみたいに緊張してやがんだ、お前は邪魔だっ!」
「お兄さんはステラを連れて早く。私とキャロルで上手くやりますから」
邪魔者扱いされてアンテナを揺らす後ろ姿は呆れるくらい頼りないままだったけれど、そんなあなたがすぐ傍にいることに安堵する自分がいたんだ。
「お、お前ら、後でまとめて覚えとけよっ!」
細い腕で私を背負い上げて、あなたはまた走るんだね。
私が『魔王』だと知っても、走ってくれるんだね。
今だけはあなたの背中に揺られていたい。
一筋の涙が零れ落ちたら、少し焦げ臭い髪の匂いと一緒に深い眠りへ。
【風魔法】
八つの適性の内、風の適性を持っている人が使える魔法で、極めると称号『緑』を獲得できるそうですよ。魔力の繊細なコントロールが得意な人には相性が良いようです。極小の粒子単位で瘴気の黒い魔力を隠したり、魔王が持つ魔力の鎧に穴を開けたりできるステラって案外すごいのかもしれません。あ、お兄さん、嫉妬は大罪の一つですよ。
※加筆・修正しました。
2019年9月15日 加筆・修正
表記の変更
ストーリーの一部削除・補強




