第二十二話 『色は世界から消え去りたい』
◇◇
氷晶の魔法使い。
人間が嫌いだったギニーにとって彼女だけは特別だった。自分よりずっと年下だが造詣が深く、自分にも負けないくらい願いに対する執念があった。彼が髪を白く染めたのも、彼女を尊敬してのことだ。
別れの時。
彼女は再びギニーの願いを問うた。
「この称号を背負って生きてきた全ての魔王たちのやり切れない思いを形にしなきゃいけねぇー。俺にはその使命があるっ!!」
人間を憎む魔王を生み出したのは、人間である。
鋭く睨み、宣言すると女も不敵に笑う。
「そうか。ならば最後は氷晶の魔法使いとしてではなく、預言者として君に別れの言葉を残そう」
女はギニーの胸にそっと手をかざす。
「ここさ」
「んだよっ?」
「もし、誰かの言葉が理屈抜きにここに響いてしまったなら、それが君の未来を決定することになる。荒々しい言葉で振り払おうとも、冷静な思考で鎮めようとも、揺らいでしまったのならそれが最後だ」
ギニーは彼女らしい言い回しだと感じながらも、その言葉の意味を理解しようとしなかった。自分の固い決意が誰かの軟な言葉で揺らぐことなど決してあり得ない。腹の奥底から湧き上がる人への憎悪と反感が揺らぐはずがない。
「湖面に生じた波紋は静かに、確かに、否応なしに広がっていくものなんだよ」
これはつい先日の出来事。
ギニーが初めて女の言葉を心の隙間から追いやって、キャロルと契約を結ぶ少し前の話。
§§§
「揺らがねーよ、俺はぁ」
通りの中心から南東にある薄暗い路地の廃れた宿の軒でギニーは腰を下ろして彼女との別れを思い出す。そこにはもはや敬意の欠片も残っていない。この宿の目の前にある非常時の警報機――その内部からスピーカーを無理やり剥ぎ取り、彼は静かにその時を待っていた。
「ジェムニ神国の四つの門が機能を失うのが十時だったなぁ」
満月は今日という舞台にふさわしい。
月光が問いを提起するのだ。人間の醜さがドロドロと溶けだして、真っ暗に覆いつくした夜の町に。
男は月を見て暴走する狼男などでは決してなかったが、それでも内から込み上げるどす黒い感情をもはや止められない。ゆえに、男は数手早く王手を宣言する。
「五分後にはドカンと誕生しちまうぜぇ、最悪の魔王がよぉ!」
野望に歪む瞳が見据える指先に黒い魔力の光。
目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目……ユニークスキルにより、目を覚ます。
◇◇ とある宿 ソフィー
「ビビアン手足をモギ取られぇ~、コニーは頭を刳り貫カれぇ~、カーチスお肉でばーべキューっ!」
その夜私はふと目が覚めて、ふらふらと水を一杯飲みにいったの。窓の外で奇妙な発光があったらしいんだけど、その時の私はとても面白い夢から覚めたばかりで寝ぼけてたんだ。
え? どんな夢を見てたんだって?
それはヒミツだよ。
とにかく水を飲んだの。
乾いていた喉がすっきりと潤って、体が芯から洗われたように気分が良くなったよ。さて、もうひと眠りするか、そう思った時のことだったんだ。
「あれえ、ルビー?」
数か月前に旅を始めてから一緒に布団で眠ることが多くなったピンク色の熊のぬいぐるみさん――ルビーがいつの間にか消えていたんだ。振り返ってみても、脅かそうと私の後ろをこっそりついて来ていた訳でもない。私は慌てて探し始めたよ。だって彼が勝手に行動することは今まで一度もなかったから。
彼がぬいぐるみでいる時は、ね。
「……ん」
ルビーはすぐに見つかった。
ベッドの近くの出窓で一心不乱に外を眺めている。
「窓の外に可愛い牙の女の子でも見つけたのお、ルビー?」
問いかけに彼は答えない。
短く太い腕を交互に振るだけ。
餅みたいな尻尾を左右に揺らすだけ。
窓にぶつかりながらひたすらに行進を繰り返すだけ。まるで小さな水槽の魚のように。
「ルビー?」
さすがにおかしいと思ったよ。
これじゃ本当に壊れたぬいぐるみになったみたい。
でもやっぱり彼の目に私は映らない。
この時、もうそこにルビーの意志はないんだと分かった。
魔法が解ける。
人に恋しき者の仮面がここでも破れ、小さな愛らしいぬいぐるみの指先に固い蹄。満月に照らされ影は広がり、出窓は自らの耐重量を越えてギシギシと軋む。その黒くつぶらな瞳が彼がルビーたる獰猛な赤に塗りつぶされた時、長い長い夜が始まる。
眠れ――。
お伽噺の眠り姫よりも深く、長く。
◇◇ トオル
歯がゆくて、やり切れないんですよ。
誰一人として別れを望んでいないのにどうしてって。
「お願いします……見つかってくださいっ」
この日記に僅かに残っている彼女の魔力を追ってまた路地に入り、静寂の夜を間隔の短い足音で蹴飛ばして。きっとこの『探知』でもう一度ステラに会える。
これでお別れなんて受け入れられないんです。
私だってまだ話し足りないんですよ。
「お願いしますから、ステ」
「よぉー。こんな夜に一人でお散歩かぁ?」
突然響いたのは、どす黒い狂気を匂わす低い男の声。
何だか不愉快な響きに顔をあげると、メッキの剥がれた建物の軒上に男は座っていました。淡く氷が溶け込んだような白い髪を背後の満月に揺らし、にやりと口元を歪ませてこちらを覗いている。
「やめとけやめとけぇ。月夜の妖精が幾ら愛おしいからって、殺人鬼が徘徊する夜に出歩くのはメチャクチャリスクが高すぎるぜぇ!!」
男は高い場所でカラカラ笑いながら私にそう忠告します。
柄の悪さを差し引いても明らかに不審なこの男を放置するのは気が引けますが、こうしている間にもステラが手の届かない遠くへ行ってしまう気がしたんです。
私は意図的に彼から視線を外し、一歩前へ踏み出しました。
「どなたか存じ上げませんが、今急いでいるんです」
「そぉー言うなよ。ちょっとくらい良いじゃねーか。こちとらフラストレーションが溜まってんだ。あの女狐が経験値の高い獲物を早く用意しねーからレベルもチットモ上がらねーし、何より――」
ええ、通り過ぎるべきだったんです。
何も言わず、彼をただの景色にして。
だって、不満げな口から飛び出た名前は……。
「ステラの返答も遅いからな」
何かが、結びつく音が聞こえる。
「……ステラですって?」
「ああ? お前よく見たらあいつと仲良しごっこに興じてるピースケじゃねーか。昨日のクソガキといい、どうしてこう出くわすもんかねぇ」
一転、狂気に満ちていた男の表情が味気ないものへと変貌しました。
一方で私の中では様々な憶測が結びついていきます。
昨日帰ってきてから様子がおかしかったお兄さん。
お兄さんが言った、ステラを信用できなくなったきっかけ。
返答という言葉と、八月十三日の日記に記された提案。
お兄さんやステラの中にずっと何らかの火種が燻ぶっていたのは疑いようのない事実でしょう。しかし、それを着火させた存在がいる。
「どうやらステラとお兄さんが仲違いした理由があなたにありそうですね。詳しい話を聞かせてもらいましょうか」
ポケットから『砲撃』用の小石を取り出し、彼に照準を合わせる。
間違いない、きっとこの男が日記にあった『魔王』です。
男は私の攻撃態勢を視界に収めると、特段慌てる様子もなく、またにやにやと笑みを浮かべながらこう問いかけます。
「ほーう、『魔王』であるこの俺とやり合おうってのかぁ? 『逃げる』にカーソル合わせてチョー連打するのがオススメだぜぇ」
「あなたこそ、素直に全てを吐くべきです。お兄さんならこう言いますね。この世界の教会では蘇生できませんが構いませんか、と」
軽口を叩く私に彼は二の句が継げないといった様子で首を振った後、鼻を高く鳴らしました。
「……はっ。てめえ、面白れーなぁ」
その言葉と同時に彼の掌から黒い雷が空高く、まるで美しい満月を破壊するかのような響きを伴って舞い上がる。
彼なりの宣戦布告ですか。
いいでしょう、受けて立ち――。
「残念だよ、ここで死んじまうんだからなぁ!!」
小石は、私の果敢な無謀とともに零れ落ちました。
それは明らかな動揺の証。
「な……何ですか、一体?」
目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目……。
私が進もうとした路地の奥から無数の眼光。
暗闇から静かに、瞳孔を開いて獲物の隙を狙う魔獣の目。
「ど、どうして国内に魔獣が……」
「ふっ、ははははははっ。俺のユニークスキル『眷属』でこの国の地下道に魔獣を潜伏させていたのさぁ」
この時になってようやく私は理解しました。
ここは、袋小路。決して迷い込むべきではなかった場所だったと。
「さて、ここで問題だぁ。クソガキィ。さっき逃げるを選択しなかったお前の判断、正しかったと思うかぁ?」
ジェムニ神国には魔獣の侵入を防ぐ強固な壁があります。
そのおかげで歴史上、ジェムニ神国は地上からの魔獣の上陸を許したことは一度もありません。ゆえに、この国は確実な防衛手段を持っていない。もし、これだけの数の魔獣がこの場所から市街地へ解き放たれることがあれば……。
「はっ、間違ってたに決まってんだろーがぁっ!」
男の醜い叫びが、額を伝う汗が、思考回路を焼き尽くす熱が、絶体絶命の状況が、少しずつ、確実に私から冷静さをもぎ取っていく。
嫌です。嫌です。
嫌です。嫌です。嫌です。嫌です。
嫌です。嫌です。嫌です。嫌です。嫌です。嫌です。
もう、誰も救えないのは――。
「お前は逃げるべきだったぁ。逃げて、逃げて、伝えるべきだったぁ。敵は『魔王』だけじゃないんだって。だがもう手遅れだぁ。血反吐吐いて、地面に這いつくばって、ゴミみたいに足掻くんだなぁ!」
「――ぅ」
男は腰に手を当てて高く笑いながら、軒を伝って闇夜に消えていく。
同時に幾つもの目の光が暗闇から激しさを増して。
「ステラも追わなきゃいけないんですが……っ!」
この非常事態を誰かに伝えなくてはなりません。
動揺も、怒りも、恐怖も、願いも今だけは風呂敷に包んで思考の外側へ。彼らの爛々と燃える赤い瞳はどうやら簡単に私を逃がしてはくれそうにないのですから。
「分かってます。体調が悪いだなんて言い訳は誰も聞いてくれませんよ」
小石をポケットに戻して目の前の魔獣たちに拳を構える。
『砲撃』は私のスキルの中で最大火力ですが、射出できる小石の数に制限があります。乱発はできません。
その一方で『格闘』スキルなら魔力の制限しか受けなくて済みます。尤も一撃で相手を倒せなかったり、敵の懐に入り込むためにダメージを喰らう可能性は高まりますが、背に腹は代えられません。
白犀、赤蛇、黒猿……。
レベル帯は初級から中級というところですが、何分数が多い。
この時、私は自分が思っている以上に緊張していました。それが私の動きに切れを与えるのか、それとも鈍さを与えるのかは分かりません。ただ、緊張していたんです。
だからこそ、背後からお兄さんが聞こえた時……。
『トオルーっ!』
私の中で凝り固まったしこりがまろやかに溶けていくのを感じました。
振り返ると、息を切らしながら私を追い付けたことを嬉しそうに笑うお兄さんの姿。何だかその表情が随分久しぶりのような気がして、私も心の底から舞い上がるような気分で――。
そんな気分で、目の前の魔獣から注意を削いでしまったんです。
一瞬の虚を突いて屋根を伝っていった赤蛇が急降下し、その毒牙をお兄さんに向ける。恐怖も涙もなく、ただ突然日常を破壊するように迫りくる死への焦り。その表情が奴隷船で首を掻っ切られた友人の顔と重なった瞬間、世界から色は失われました。
「――――」
首ねっこを落ちていた木の枝で一突き。
赤蛇は呆気なく死にました。
「ト、トオル……その目は……?」
でも私はそれを確かめることができません。
お兄さんの声すら届きません。
瞳の色が変わったその時、もう私は遠い過去への旅に出かけたのですから。
世界は、どこまでも灰色で。
夢は、この一言から始まりました。
『――助けて、ルイス』
§§§
海に無数の灰が光ります。
このウミホタルを人は美しいと思うのでしょうか。
曇り空をしばらく歩くと、甲板の隅に生首が一つ。
長い黒髪の、見覚えのある少女の顔が血の海に沈み、その傍には奴隷の首輪。お喋りが好きで、遠い国にあるという学校という機関に通いたいといつも口にしていた少女はもう二度と喋れません。
船内に入ると、廊下にまた死体が一つ。
将来は名のある冒険者に弟子入りするんだと無邪気に笑っていた、口元のほくろが印象的な男の子は、彼が夢見た銀箔の剣に貫かれ、絶望的な表情のまま息絶えていました。
船の一番大きな部屋、今度は二つ。
双子の少年たちはかつて言っていました。この世界を旅して、どちらがすごい発明をするか勝負しよう、と。木のコンテナに染み付いた血は人間から出たものとは思えないほどの量。兄は目を、弟は耳を無惨に切り刻まれて、脚はバラバラに転がっていました。もう何も見聞きできません。どこへも行けません。
『嫌ですよ、もう見たくない……』
自分で出した声が自分のものかさえ分からず、意識すら朦朧としていました。それでも、最後の一人を私は探したんです。大人たちに立ち向かった勇敢な男の子を。
彼はいつか、ロブ島を出たら大都会のジェムニ神国で暮らすのが夢でした。そこで友達を作って、有名な通りで笑いながら買い物するのが夢でした。いつかその一角で何か新しい商売をして大儲けだと情熱に彼は燃えていました。
『ほら、灰色ですよ』
彼はいました。
壁が崩れて、朝日が差す奥の部屋で、一人コンテナに座っていました。
『リオネル……どうして死んだんですか?』
すっかり焦げて、肌は黒く変色し、ところどころ白い骨が剥き出しになったまま座っている少年が口を開くはずがありません。
私は誰も救えなかったんですよ。
救えない世界は灰色です。
そうだ、お兄さんですよ。
赤蛇に虚を突かれて焦っていたお兄さんはどこですか?
無事なんですか?
『ブレダキフベソナクル……』
答えたのは呪文のような意味を為さない文字列。
急に周囲が赤く眩しく照らされ、感じるのは激しい熱。
『ああ、私もリオネルと同じところに……』
『トオルゥゥゥゥゥーー!!』
灰色の中から黄色い光。
必死に手を伸ばすお兄さんの姿がそこに確かにあって。
その瞬間、全てが焼き尽くされました。
§§§
遥か上空、その一羽の鳥は優雅に羽ばたいていたんですよ。全身の羽毛は真っ赤で、僅かに発光しています。夏の夜空で、羽を広げて飛ぶその姿は花火のように見えるそうです。しかし、美しいものには棘があるとはよく言うものです。エタンセルバード――『主』の称号を持つ、レベル25の極めて危険な魔獣が落とした火焔に、防衛手段を持っていないお兄さんと、意識を失って暴走していた私が為す術はありませんでした。
【『眷属』】
自分よりもレベルの低い魔獣なら意図するままに動かせるそうです。それに任意の場所にも召喚できるようで、ギニーはその力を使って魔獣を地下道に集めていたんですね。数が多ければ複雑な命令は下せないようですが、このユニークスキル、私としてはあまり良い気がしませんね。
※加筆・修正しました
2019年9月11日 加筆・修正
表記の変更
ストーリーの順序変更・削除




