第二十一話 『背中を押されて走りたい』
掌からステラの日記が滑り落ちて暗い絨毯の上にコトンと落ちる。
落下点を中心に波紋は広がる。絨毯の固くなった毛も白い壁紙も波打って、しかしその波頭に赤は二度と輝かなかった。艶やかなリンゴも腐ればドロドロと濁って溶けていくように、無視して放置した本心の信じたいという思いは決裂の後、どうしようもなく不可逆な後悔へと腐っていくしかないのだ。
『――称号なんか、なかったらいいのに』
ローニーの死の背後で呟いた切ない望み。
抑えることができなかった彼女の苦しみが時空を越えて耳に響く。
『――偶々だよ、きっと』
なぜステラだけ呪いの進行が早かったのか、それは単純だ。
彼女が『魔王』の力を持っていると知っていたジュエリーが計画の障害になり得ると考え、早めに始末しようとしたのだ。はずれの町で恐らく唯一人、秘密を明かした協力者でさえ敵だった。ジュエリーが敵だと分かった時、ステラは俺なんかよりよっぽどショックだったはずだ。
『――でも私、ここ結構好きなんだ』
ほとんど誰も立ち入らない風車の閉鎖空間は彼女にとって羽を休められる場所だったのだろう。外の世界は偏見と憎しみに満ちている。孤独になることを選んだ彼女は、でもやっぱり寂しかった。
『――手を貸してくれる人は一人でも多い方がいいよ』
自分には助けてくれる人がいなかったから。
一人の寂しさを誰よりも知っているから。
『――分かったよ。一緒に行けばいいんでしょっ!』
また関りを持てば、裏切られた時に泣くのは自分だ。ステラは散々渋っていたけれども、その言葉の先にある温かさを諦めることができなかった。正体を秘密にしてでも、傍にいたいと願ってくれた。
今にして思えば、今日ステラがあんなに明るく振舞っていたのは別れを予感していたからなのかもしれない。『魔王』であることが勘付かれたと思った彼女は、せめて最後の一ページに楽しかったみんなとの思い出を描こうとしたのかもしれない。
「どうして、気づけなかったんだろう」
やっと絞り出た声はただただ虚しく。
頭の中で壊れたラジオみたいに無数の「どうして」が鳴り響く。しかし、その解答をくれるものがこの世界にいるはずがなかった。なぜならこの結末を生み出したのは自分の愚かさなのだから。
「ステラの優しさが、ただ傍にいたいっていう願いの裏返しなんだって」
思い出が蘇る度に部屋の輪郭を崩していく腐った波紋は耳から侵入してとうとう脳の記憶領域すら突破し、あらゆる判断能力と感覚を摘み取った。
ゆえに、時間を空けて帰ってきたトオルがドアを開ける音にも気づかない。
「――お兄さん、ステラと仲直りは、ってどうしたんですかっ!?」
トオルは部屋に入るなり、壊れて動かなくなったロボットを見て泡を喰らい派手に転んだ。廃人と化したような俺の様相にしばらく呆然としていたが、彼女はまた恐る恐る口を開く。
「どうしたんですか?」
一度目の驚きだけを表現したものではなく、優しく寄り添うような響き。
確かに俺に向けられた音に凍っていた聴覚が反応し、それに呼応して白い線が真っ暗な空間に世界を緩やかに模っていく。テーブルの脚を描くように、天井の照明を描くように、風に揺れるカーテンを描くように、ドアの前で尻もちをついている少女を描くように――何の温度もない真っ白な線が伸びていく。
そこに誰かがいるんだ。
理解した瞬間、体一杯に溜まっていた後悔がブクブクと膨張して、ふわりと体を浮かせた。実際には床に手をついて立ち上がっただけのことなのだが、俺にはそれが風でゆらゆらと持ちあがった洗濯物のように感じられたのだ。乾ききってなお吊るされ続ける洗濯物のように。
「ずっと、苦しんでたんだ」
「え?」
誰でもいいから、俺の愚かさを罵って欲しかった。
裁いて欲しかった。
別に楽になりたかったわけではない。
ただ、俺の罪を客観的に形にして欲しかった。
幽霊みたいに淡く虚ろな声を出しながら支える力のない右脚を前へ放る。
「『魔王』の……称号に苦しんで……苦しんで……やっと……」
言わなきゃいけない。
俺が激しい後悔で息をするだけの肉塊になり果てる前に。
壊れた演奏家が嘘をついた俺の舌を抜き取りに来る前に。
俺の罪を……俺の中だけで消滅させてはいけない。
「やっと……俺たちの隣に……居場所を見つけてくれた……」
白い輪郭が一人の少女を模る手前で体は支えを失って崩れ去る。
一度も寄り添おうとはしなかった。
その優しさを疑うだけで、理由を知ろうと声をかけることはなかった。
決してステラは言葉にはしなかったけど、その辛さを何度も偽の笑顔で隠してきた。あるいはそれは、無意識下での悲鳴だったのかもしれない。
悲鳴に対する俺の答えは……今もバルコニーに落ちたままだ。
「それを……俺がぶち壊したんだ……。お前は信じられないって……言っちゃいけないことを……」
消え入りそうなほど小さく、激しい後悔が言葉を震わせる。しかし、そこにいる誰かは俺の懺悔に何の回答も示さない。それが俺にはとても恐ろしいことのように思えて、縋るように手を伸ばした。しかしその行動でさえもステラとの思い出を蘇らせるレコーダーとしては充分で、また後悔が怒涛の勢いで押し寄せる。
――どうして気づけなかったんだろう。
体に何度目かの強い電流が走った時、世界を構成する白い輪郭はいきなりグネグネに曲がって崩壊を始めた。ああ、もう心が耐えきれなくって壊れてこの世から無くなるんだ、そう分かった途端、俺は無性に恐ろしくなった。自分という存在が消滅することにではなく、自分の罪が定義されなくなることにである。
下唇を思い切り噛んだ。
その痛みをもってして魂を無理やり繋ぎ止めなくてはならない。
「お兄さん?」
……ああ、そこにいるのはトオルなのか。
名のなき裁判官がトオルだと分かった瞬間、より大きく後悔の渦は膨張し激しく燃え盛った。
俺を裁くのに彼女以外の適任はいないだろう。
鼻が潰れるくらい、頬が千切れるくらい、目から血が出るくらい表情をボロボロにしながら、俺はまたすすり泣く。
「これでお別れだって……。一緒にいたいって……望んでくれたステラの思いを……俺が……壊して……取り返しのつかないものに……して……」
ああ……冷たい。
ああ……暗い。
やがて白い線は線ですらなくなった。
不安定な輪郭は一段と大きな波紋によって千切れ、壊れ、破け、水の中を漂う小さな泡のように少しずつ曖昧なものへと変わっていく。いずれこの泡が弾けて消えるのは自明だった。
その前に、誰か言ってくれ。
「俺が……俺が……ステラを……」
出会えたのが俺なんかじゃなかったらって。
人の優しさを信じられなくて、人の想いに寄り添えない俺なんかじゃなかったら、ステラはもっと別の道を選べたかもしれない。
苦しみを、悲しみを分け合って、笑顔でいられるこれからを一緒に育てていける人だったならって。
世界から線は消えた。
残ったのは淡く漂う泡――寿命の短い蛍の光である。
終わりの時間だ、そう思った。
もはや体の感覚は全くない。微かにまだ後悔の幻聴が響くだけである。これは精神の防衛反応だ。耐えきれない苦しみに脳が麻酔を打ったのだ。エラーで動かなくなったパソコンの電源を無理やり落とすように、膨らみ続けた後悔で錆びついた俺は眠るだろう。
全ては過去に。
その時、暗闇に響く小さな叫び声。
「――これでお別れってっ、お兄さんはそれでいいんですかっ!?」
「…………」
何も答えられるはずがない。
全て俺が悪かったのだから。
そう、俺が――。
「私は嫌ですよっ!」
「――っ」
今までに聞いたこともないほどの絶叫に俺はようやく目を開けた。
色が、温度があり、輪郭がはっきりとした普段の世界で、俺の目の前で少女は涙ぐみながら、この世界のどこにもこれ以上悔しいものはないという形相で叫んでいた。小さな少女のあまりある覇気にようやく意識は覚醒し、同時に驚きで声を失う。
「ステラが今日までどんな思いで傍にいたかなんて私は分かりません。今だってステラが『魔王』の称号を持っていたって初めて知って……正直腰が抜けるほど驚いています」
トオルは眉間にしわを寄せてまっすぐに俺を睨みながら、もう夜遅い時間だということもお構いなしに喉元を震わせ続ける。
「でもっ! 今追いかけなきゃ……っ!! 追いかけなきゃ、それこそステラを本当に一人にしてしまいます! ずっと誰かと繋がれることを望んでいた寂しがり屋さんなんですよっ!! 何より、何も知らないまま友達を失いたくないっ。それでも追いかける理由には足りませんかっ!?」
涙のまま姿を消したステラを追いかけたくない訳がない。絶叫の後で咳き込みながら息を切らす目の前の少女の言葉に心打たれなかった訳がない。
それでも――。
「もう無理だよ。追いかけたって……掛ける言葉が俺にはもう……」
どこにもないんだよ。
なぜなら言葉は、最初に投げつけたあの紅いお守りが代弁して、それで完結したのだから。今更どれだけ取り繕っても、溝を埋めるだけの力はない。そんなことくらい理解してて、俺は歯ぎしりを……。
――苦しいのはステラを信じたいと思っているからじゃないんですか?
不意に頭に浮かんだトオルの言葉で俺はハッと気づく。
今、俺が悔やんでいるのはステラの思いに気づけなかったことだけではない。決定的な決裂を告げてしまったことで追いかけても関係を修復できる自信がない、そのことが悔しいんだ。
それは、つまり。
腐っても波紋は広がり続ける。
後悔という形に代わってもなお、心が闇夜に包まれないように。
諦めたくないと。
『――――』
「――痛ぁっ!?」
突如、ガラス窓が割れるほどの衝撃が背中を襲った。
部屋中に張り裂けるような音と俺の悲鳴が響き渡り、体は前へと崩れていく。何が起きたのか分からなくて振り返ると、そこには右手を痛そうに掴みながら、歪む顔を必死に堪えて俺をまっすぐに捉える瞳があった。涙が目頭に、しかし決して零れ落ちない。
「お兄さんが私を自由へ解き放ってくれたから……恐怖で竦んでしまったり、間違っていると思った時は、何度だって私がお兄さんの背中を押します。胸を張って前を向けるようにっ」
それだけ思い切り叫ぶと、トオルは絨毯に落ちている日記を拾ってバルコニーから颯爽と飛び降りていった。振り返らず、自分の気持ちに嘘をつかずに、ステラともう一度会いたいという純粋な願いだけを秘めて。
§§§
波紋、胸の中で響き続ける本心。
どれだけ蓋をして閉じようとしても、見て見ぬ振りをしようとも、忘れられなかった彼女との思い出の数々。
後悔のまま終わらせたくない。
偽物の笑顔のまま終わらせたくない。
「間違ってると思ったら背中を押す? 何だよ、それ」
もしも、俺に一歩踏み出す勇気があったなら。
もしも、辛いことを相談したいと思ってもらえる相手だったなら。
もしも、腐れ縁でもなあなあな関係でもなくて――。
「……くそっ」
今度は拳がテーブルを穿つ音が暗闇に響く。
背中からジリジリと響く痛みが、心にもう一度衝動を与えた。
「これでお別れで本当にいいのか、だって?」
月夜に照らされた彼女の裏笑顔が忘れられない。
俺は、あいつの本当の笑顔を見たい。
「いい訳ないだろっ!!」
ようやく仮面を投げ捨てて本音をぶちまけると、覚悟は決まった。伝えなければならなかったありがとうを、ごめんねを、彼女にまだ何も伝えられていない。
「あいつらナチュラルに二階から飛び降りやがって、今更超人アピールはいらねーんだよ!」
バルコニーに出てお守りを拾うと、背中を向けて走りだした。
開きっぱなしのドアを過ぎ去り、旅館の階段をこけそうになりながら前のめりに走り下りる。
ステラ。
悪いけど俺はまた走るぞ。
そして必ずお前に伝えに行く。
お前は『魔王』なんかじゃない。
俺にとってはただの友達の『ステラ』なんだって。
それでもこの世界の物語が彼女に『魔王』であることを強いるなら、彼女に空っぽの笑顔を押し付けるなら、そんなストーリーは、一文字残らず――。
「――『編集』してやるっ!」
◇◇
少年が必死な表情で過ぎ去った後、街灯の影から眺める女が一人。
ステラの名の隣にもチェックマークが刻まれた手帳はパタリとその場に落ちる。
「――――」
女が――キャロルが何を思い、何を発したのか。
沙智たちはまだ知らない。
【キャロルの調査】
はずれの町の事件を収束させた私たちをキャロルは警戒していたようですね。彼女は私たちとの会話で危険度を測っていたようです。そう言えば私も金魚すくいの露店前で会った時に色々と聞かれましたね。やはり確認したかったのは、ギニーと進める計画に支障をきたすかどうか、でしょうか?
※加筆・修正しました
2019年9月11日 加筆・修正
表記の変更




