第十七話 『取引なんてしたくない』
【キャロル①】
聖域の『守護者』として役目を果たしつつ種々のバイトで生計を立てる苦労人。ちょっぴりお茶目なところもあって、親しみやすい性格だよね。でも彼女の優しさにはどうやら裏があるみたい。その仮面の破れた先にいるのは――。
穏やかな月の光が雲間から溢れて、彼女の口元だけを歪に照らし出す。
口調や雰囲気、外見以外の何もかもが今まで出くわした彼女からかけ離れていた。少しお調子者で親切だった彼女の肉体に、まるで恐ろしい悪魔でも宿ったのではないかと疑わずにはいられないほどに。
だから俺は恐怖を噛み殺して尋ねた。
「お前は、本当にキャロルなのか?」
「ああ、そーだよ」
何が最後の言葉になるか分からない極限の緊張状態で何とか発したその一声を、俺の願いとは裏腹にキャロルは毅然とした態度で肯定する。それでも安易に納得できない俺の表情からキャロルは何が言いたいか察したようだ。
「ああ、私のメニューが見えないからって訝しんでるのか? それならどれだけ目に神経を尖らせても無駄さ」
そう言うとキャロルは柿色の襟元に手を伸ばし、隠していたアイテムを胸元から引きずり出した。月光を淡く浴びた琥珀が薄っすら金を纏って黒光りする。色も、形も、効果も何もかもが同じ。
「――秘密の首飾りっ、何でお前がそれを!?」
「何でも何も、これをステラに送ったのは私さ」
「……は?」
またステラの名前。
疑念を一つ解消しようとしても、新たに浮かび上がった謎でますます混乱するばかりだ。脳の許容量はとっくの昔に超え、激しく呼吸を乱す俺の視界に琥珀が妖しく煌めいた。
「動揺を隠せないのは分かる。だが今……この場を動かすボールはお前に委ねられている。話を聞いて対策を練るのも、恐怖に従って無策に逃げ出すのもお前の自由だ」
「…………」
彼女の意図が全く読めない。
俺をここで口封じしないのはなぜ?
一度スイッチが入ると、自ずと思考は回り始めるものだ。殺人鬼の仲間の掌で踊らされていることは断じて許容できないが、同時に彼女の言うことに一理あると感じたのも事実。
ならば――。
「いいだろう」
冷静に頷いた俺を見てキャロルは満足そうに目を細めた。
彼女が何を企んでいるのか怪しいものだが、答えてくれるというなら答えてもらおう。心に巣くう恐怖を吐息とともに弾き飛ばし、覚悟を決めて俺は核心に迫った。
「ここで何をしていた?」
「人殺し、で済ませてもお前は納得しなさそうだな。レベリングという側面を強調しておこう」
「レベ……リング? どういう……?」
人を殺して経験値を稼いでいたと言うのか?
そんなのは人肉を喰らう化け物と同じだ。まるでゲームのように人間をポップした敵としか見ない、そんな罪悪感の欠片もない非道理的な理由で俺を納得させられるとでも思ったのか。
得体の知れないものへの恐怖と苛立ちに肩を震わせる俺に、キャロルはなおも平然とした顔で続ける。
「鈍いな。教会で話したろ? 魔王はレベル30になると『羽化』して絶大な力を手に入れると」
俺は息を押し殺しながら思考をより深いところまで張り巡らせる。
確か、魔王はレベル30までは絶大な耐久力を誇り、そしてレベル30を超えるとその引き換えに絶大な力を手に入れるんだったな。その進化にも類する強化を人々は「羽化」と呼んだ。
だが、その話がどうしてここで――。
「まさかっ!?」
魔王に起きるその現象を思い出した瞬間、彼女が口にした「レベリング」という文字列がこの世の終わりにも等しい劇的さを伴って意味を模っていく。それは同時にまた別の所にも反響して意味を為していた。狂気に笑みを浮かべる白髪の男――脳裏に浮かんだ彼の忌まわしい表情に死神の放つ黒い吐息が纏わりついていく。
「あいつは、魔王なのかッ!?」
「大当たり」
厭らしく笑うキャロルに俺は顔をしかめた。
思っている以上に状況は緊迫しているらしい。歴史上、魔王を倒せたのはほんの一握りの勇者だけだ。
「ヤマト、セリーヌ、パジェム、そしてギーズ……今、世界の各地で勇者が魔王を撃破している。これは千年続いた魔神支配の均衡を揺るがしかねない非常事態だ。だからこそ、魔神勢力はついに重い腰を上げた」
淡々と話を続けるキャロルの存在を意識から外して熟考する。
思い出したのは爽やかな笑みを浮かべる群青の男だ。
「この国が滅ぶまでのタイムリミットはレベル二つ上がる経験値分だ。28――ギニーの羽化まで残り二つ」
「羽化したばかりの魔王が勇者に勝てるかは疑問だな」
「おうおう、元気になってきたじゃねーか」
頭に浮かんだ切り札をどうすれば有効に活用できるのか。
キャロルが突発的な行動には出ないと判断すると、俺は冷静に彼女の思惑を確かめることを優先した。もしも切り札にご登場願うなら、俺が少しでも多くの情報を知っている必要がある。
「安心しろよ、我々もそう単純に考えてはいない」
「どういう意味だ?」
「聖域で見ただろう? 聖剣と違って『魔王玉』は来る者を拒まない」
「なっ……!?」
魔王玉――魔王に絶大な力を与えるという禁忌のアイテム。
他でもない、キャロルから俺はその話を聞いたのだ。
もし仮にこの場を凌いで群青の彼に直接助けを求めに行っても、戻ってくることにはギニーはすでに手の負えない化け物となる。ならばギニーが魔王玉を手にするまでの僅かな時間で彼を呼ぶしかない。彼のあのユニークスキルに期待して。
いや、待てよ。
そもそも――。
「お前は『守護者』の権能で、ギニーは『魔王』の枷で聖域には――」
「あいつは種を持っている」
入れないはずだ。
そう言おうとするとキャロルは言葉を被せて否定した。
「羽化すればその種は芽吹き、ユニークスキル『上位結界破り』として花開くだろう。そうなれば聖域の薄っぺらい結界なんて障子のようにビリビリ破れるさ」
「…………」
なるほどな、どこにも隙が無い。
俺は自分の命が惜しい。
だから叶うなら、彼女らの手が届かないところまで逃げてからあの男を呼びたかった。ここで彼のユニークスキルに縋るのは、キャロルへの事実上の敵対宣言に変わらないからだ。
でもさ。
頭にこびり付いた死の映像がステラとトオルの身に重なるのだけは嫌なんだよ。
「――なら、俺も腹を括ったよ」
「ん?」
届け。
戦友の耳に――。
「ヘルプだ、ヤマトっ!!」
腹の底から爆発した叫びは夜を激しく震わせ、建物の外壁やタイル張りの地面に幾度となく反射して丸い月へと弾け散った。魔王の企みを阻止できる唯一の存在を呼んだ俺を、キャロルがここで見逃すはずがない。死への恐怖はあったが、今の俺はただヤマトが俺の声を拾ってくれたことを願うだけだ。
せめて、最後にキャロルのアホ面を拝んでやろう。
すぐに口封じしなかったことを嘲って――。
「……何で……笑ってる?」
「ああ、悪い悪い。お前があまりに勇敢で、あまりにも滑稽だったものだからつい、な」
瞳に映った光景が全く理解できなかった。
だって目の前のキャロルは、腹を抱えてそれは大層おかしそうに爆笑しているのである。勇者の存在を恐れないとでも言うのか。
「どれだけその名を呼んでもヤマトが助けに来ることは絶対にない」
「な……何でそう言え……」
「そりゃ言えるさ。彼の『SOS受信』にこの国内からの叫びが反応しないように、予め細工をしてあるんだからな」
……細工?
この女は何を言っているんだ?
この時、俺はまだ目の前の悪意を量り切れていなかったのだ。
冷たく輝く女の瞳に蠢く、全く隙間のない悪意を。
「そもそも、ジュエリーが起こしたはずれの町の呪い事件――そこでお前の物語は幕を閉じるはずだった。だがお前は落ちてくる魔神様を封じ込めた。あたかも神の御業のように。そんな奴がこの国に足を踏み入れたんだ、警戒して当然だろう?」
キャロルは俺のすぐ横を歩きながら冷え切った口調で一言一言、俺の耳に刻み込むように語り出した。ジュエリーを遥かに凌ぐ、犯行の計画性を誇るように。
「だからこそ、優しい『キャロル』の仮面を私は被ったんだよ。すぐ隣で、お前の動向を探るために」
ふと足を止めたキャロルは俺の肩に手を置いた。
この女の何もかもが恐ろしかった。全てが上っ面だけで、仮面の下に隠されていた醜悪な人格が俺の目を焼き毟り、腐らせる。
「結論からして、私はお前の脅威判定を下げるより他なかった。レベルが低ければ、魔法の才がある訳でもない。危険な思想を持っている訳でもなければ、聖剣に選ばれるような資格もなかった。本当にはずれの町の事件終結にお前が関与していたのか疑いたくなる結果だよ」
この夜道で彼女は俺と月に苦労を分かってもらおうと囁いた。
もうこの音を聞いていたくない。
激しく脈動を続ける心臓以外の全てが生きる気力を失っていく。
「こうして不運にもお前が事件に出くわさなければ、私は今でも『キャロル』の仮面を被っていられたんだがなぁ」
殺せば仮面を被り続けられるじゃないか。
俺には彼女が気だるげに溜息をつく理由も、不運と称した理由も分からない。
だがどうやら、俺の命を終わらせるつもりはまだないらしい。
彼女は俺の肩に抱き着くように手を掛けると、耳元で悪魔の契約を迫り始めたのだ。
「そこで、だ。私と取引しねーか?」
「……取引だと?」
「ああ、そうさ」
敵対宣言までした俺をまだ殺さないメリットでもあるのか?
頬に擦れる彼女の冷たい腕の感触がそこはかとなく気持ち悪い。
「現状は双方が望まない展開になっている。お前は死にたくないし、私はまだ『キャロル』でいたい。だからこその取引だ。お前は何も見ていない、何も知らない。そうだろ?」
要するに黙っていろ、ということか。
この選択は慎重に行わなければならない。
「殺した方が手っ取り早いんじゃないのか?」
別に殺されたい訳では当然ないが、取引だなんて抽象的で不安定な口約束で済ませようとする彼女の真意に目を瞑ることはできなかった。
ところが、俺を殺せないことは彼女にとっても悩みの種だったようだ。
俺の問いに彼女は髪の毛を掻き毟って大きく溜息、そして――。
「それはまた別の問題が発生するんだよ」
「……は?」
また意味の分からないことを言う。
俺を生かしておくメリット……犯人視点で何かあるのだろうか。
キャロルの衝撃的な言葉が脳を殴ったのは、思考の糸口が完全に消滅し、それでも下唇を噛みしめて何とか頭の歯車を回そうと足掻いていたまさにその時だった。
「ギニーの我が儘を叶えるというのが契約だ。あの馬鹿はそこまで頭が回っていないようだが、ここでお前を殺すと奴の願いを達成するのに支障をきたすのさ。何より……ステラに申し訳ない」
ステラの名前、これで三度目だ。
さすがにこれ以上聞き流すことはできない。
「何を言って……お前らは……ステラと……っ!?」
「これ以上は契約の問題に抵触する」
死神は俺の唇に指を当てて不気味に笑う。
もう喋るな――彼女からの最後通牒だ。
「で、取引はどうなんだ?」
キャロルが落ち着いた口調で改めて尋ねる。
寂れた看板に背を預け、腕を組んで俺の返答を待つその姿は、足の親足の指先から頭のつむじまで芯の通っているかのようで、俺のちっぽけな勇気で突いたくらいでは決して揺るぎそうにない。
「……頷かなければ?」
「頷かないのか?」
彼女らが何を計画しているのかも、俺をここで殺さない理由も、ステラが彼女らとどういう関係なのかも何も分からない。分からないまま、挑発的な質問返しとともに差し出された彼女の白い掌が俺に言うんだ。
死は、地獄の炎に焼かれるよりもずっと恐ろしい結末だろ、と。
「ふっ、取引成立だな」
俺は無気力に彼女の手を掴んでいた。
未だかつて感じたこともないような罪悪感に包まれて。
§§§
「旅館に着いたわけだが、言い訳はちゃんと考えてあるのか?」
「お前のバイト……南門の門番だったか? それを手伝ってたから遅れたってことでいいだろ?」
「ま、妥当なところだな」
設定した門限から三時間も遅れた言い訳を擦り合わせてから、俺たちは正面口から宿に戻った。白い明かりがさすフロントでペンを持って作業していた女将さんの下へ、キャロルは悠然と歩いていく。足元に真っ黒に伸びた影を引き連れて。
「こんばんは、女将さん。遅れてしまって申し訳ありません」
「――っ」
彼女は驚くほど自然に「キャロル」に戻った。
一度の温もりもこもっていない上っ面の笑顔に誰も気づかない。
「いいのよ、普段は頑張ってもらってるものね。七瀬様もお帰りなさいませ。トオル様が気にかけておりましたよ?」
かく言う俺も今は秘密を抱えている。
キャロルの正体もこの国の危機も何も話そうとせず、差し障りのない返答を端的に済ませてその場から逃げるように立ち去った。俯き、早足で。
「――――」
それなのに二階へ続く階段の一段目を踏みしめることができない。
彼女らと会話で何度も挙がった一人の女の子の名前が俺の足を止めたのだ。
手すりを掴んだまま鼓動を早める俺の瞳に、ステラとの接点を裏付けるようなキャロルの琥珀が首元で妖しく煌めいた。ギニーが去り際に残した「友達ごっこ」という悪意の残り香、それはただ離散して消えるだけのものなのか。
――ギッコンガッコン嘘が匂ウ。
第一、俺を生かした理由は何だ?
俺に一連の事件の濡れ衣でも着せようというのか。
――端から優しい人なんて、慈善家か詐欺師くらいですから。
例えば、俺に何のアリバイもない事を証明できる誰かがいれば?
その誰かが、キャロルらの協力者なら?
――これ以上は契約の問題に抵触する。
全ての条件を満たすかもしれない誰かが、一人いる。
でもそれは根拠のない憶測で――。
「カッコウはステラだったな」
どこまでも響く、凍えるような冷たい声。
振り返ると、今から着替える旅館の服を片手にキャロルは俺を見て微笑み、しかし瞳では蔑むように見下していた。
「……何?」
「お前らモズはどこまでも愚かしい。自身の未来を脅かす天敵を心の底から仲間だと信じ込んでいる。だがお前はステラのことをどれだけ知っていると言うんだ? 何が嘘で、何が冗談か、その境界が分かるほど長く信頼を積み重ねてきたのか?」
空っぽの反発だけが腹の中で反響する。
まるで自分はステラをよく知っているとでも言いたげな口ぶりに、記憶の底から油のようにギトギトとした得体の知れない感情がどろどろと蠢いた。
「喋りすぎたな」
彼女は振り返ると、手を振って歩き出した。
逆上した俺が背中を背後から貫く可能性なんて全く考慮していない。
「取引をくれぐれも忘れるなよ」
そうだ、俺が何も喋らないかをキャロルはどう審議する?
誰かがオブザーバーのように俺の行動をずっと傍で見ていなきゃ不可能だ。
そんな誰か、いる訳が――。
「――――」
§§§
二〇八号室。
お洒落なアルミサッシのプレートがついた戸をゆっくり開くと、一番にトオルの声が戸の隙間からふわりと広がった。
『――にも遅すぎますよ。探しに』
青い縁の丸い時計が二十一時の針を打ち、窓から入り込んで行き場を失っていた風が抜け道を見つけて精一杯淡い肌色のカーテンを揺らす。ベッドに座り込んでいたステラとテーブルからルームキーを持ち去ろうとしていたトオルの視線が、無言でドアノブを持ったまま戸から半分姿を見せて立ち竦んでいる俺に集まった。
「お兄さんっ。あんまり遅いから心配していたんですよっ」
「遅かったね。約束の時間忘れてた?」
ああ、やっぱり優しいな。
二人の言葉は温かいな。
初対面で異性なのに宿を貸してくれたり、手料理をふるまってくれたり、根気よくこの世界のことを教えてくれたり、覗きをちょっとした拳骨で許してくれたり、一緒に行こうって言ったらついて来てくれたり……夢が叶うことを願ってプレゼントをくれたり。
なあ、全部演技なんじゃないのか?
お前らも嘘をついてるんじゃないのか?
無償の優しさなんて存在しない。
この日、彼女らに対する仮面が生まれた。
※加筆・修正しました。
2019年9月3日 加筆・修正
表記の一部変更
ストーリーの加筆




