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第0.999…話   『今、物語を始めよう』



 ――もう、これは終わった物語だと思っていた。


 長年住み慣れた町はどこまでも暗い闇に包まれている。まだ誰も起きていない未明の町を、高台の境内から見下ろした。眼下に連なる長い石段は、三年前から手入れされなくなったのか、薄い藻のような苔を帯びていた。

 冷たい石段の最上段で、友人から貰ったシャボン玉を吹く。夜に揺れる淡い虹色を瞳に映しながら、俺のモノローグは続いていく。


 思い浮かべれば、その景色はすぐそこにあった。


 麦色の町を見せては隠す風車の羽音も。

 お伽噺みたいに家々を浮かせる賑やかな色合いの風船たちも。

 雪原に空く巨大な空洞に降り頻る雪も。


 いつかは、忘れてしまうのだろうと思っていた景色。

 何度も忘れようとしたあの夢のような冒険の日々を、この三年半、シャボン玉は割れることなく映し続けた。


 ――もう一度、その表紙に手を伸ばすのが怖かった。


 物語は、確かに一人の少女を笑顔にして締め括られた。

 諸手を挙げて喜べるハッピーエンドではなかった。だけど、そのコーヒーのように苦いエンディングを少女は笑って受け入れた。

 だから、俺はそれで良いと思っていたのだ。


 俺は、俺が主人公になれる次の物語を探せばいい。

 サラリーマンだろうか、それとも教師かな。アスリートというのも悪くない。


 心の中で誰かが叫んだ。このエンディングで本当に良いのかって。

 隣にいる誰かが叫んだ。きっとお前ならまだやれるはずだって。


 過去を振り切って前を向こうとする俺に、友人たちが必死に伝えようとしてくれた想いの数々。それを聞きたくなくて耳を塞いだ。

 結局俺は、終わった物語をまた始めるのが怖かっただけだった。


 自信を持てなかったのだ。

 その物語がまだ、俺を必要としてくれているのか。


「そろそろ時間だな」


 左手に掴んでいたボトルのシャボン液が切れたタイミングで、俺もモノローグを終わらせる。

 顔を上げれば、空は夜に奪われていた本来の色をもう思い出していた。片側の支柱だけやけに新しい鳥居も朱色に色付き、その上で、地平線からゆっくり顔を出してきた太陽をキジバトが鳴いて祝福した。


 俺は徐に立ち上がって歩き始める。途中、まだ咲かない桜に着ていた防寒着を投げつけて、神社の裏手へと回り込んだ。俺の終わった場所だ。

 三年ぶりに袖を通した高校時代のポロシャツはどこか頼りない様だ。だけど、もう一度始めるなら、やはりこの勝負服でなくてはならない。


 きっと、この柑子の糸が目指すべき場所を教えてくれる。


 指先に感じる神社の木壁はしっとり冷たい。相変わらず読むことができない落書きを指でなぞると、深く息を吸い込む。

 高鳴る鼓動を抑えながら、かつて閉じたはずの物語を。


「――もう一度!」





※※※





 あなたには将来なりたいものがありますか?

 諦めてしまった夢はありますか?

 もしかしたらあなたは、まだ何になれるか分からない人かもしれない。


 誰もが物語を持っている。それぞれの一冊がある。そしていつだって、その一ページ目に指を添えるのが怖いのだ。

 でも、その最初のページを捲らなければ何も分からない。


 だから一掴みの勇気を振り絞って、ほら――。


                   ――第0.9()99()話『今、物語を始めよう』


※加筆修正しました(2021年5月7日)

文章・段落の整理 


※追記

今回投稿した第0.999…話「今、物語を始めよう」は今作品の導入であり、根幹でもあります。この循環小数0.999…は1であって1でない数です。今後、『第1話』とどのように繋がっていくのか楽しみにしていてください。(活動報告より)


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