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2章の3

 風を薙いで逆手から順手に持ち直された包丁が走った。

 ごうと空を唸らせ、野を駆ける獣のような速度でハールマンが肉薄してくる。


 殺人鬼は琴美へ次の狙いを定めたようだ。


 愛用の杖で魔女がそれを迎え撃つ。


 傍らには事件に巻き込んでしまった樹里がいる。ここで自分が殺られたら、きっと彼女も殺されるだろう。

 ホームズに襲われ、全身に無数の傷を刻まれていた女性を思い出す。じわじわとなぶり殺しにされた後、人の皮を被った化け物どもに文字通り食い物にされる。


 それだけは避けなくてはならない。


 あの女性のように樹里も救ってみせる。


 自覚はないが長谷川琴美は情に深い面を持つ少女であった。その性質が知らず知らずに発揮されている。



 この場面でそれが果たして吉と出るか凶と出るか。




 わけもわからず混乱と恐怖に身をすくめている彼女を守るように背後に廻し、殺人鬼の攻撃を真正面から受け止めた。


 がきりと木と鉄の打ち合う独特の音と、強い振動が痺れを伴って杖から琴美の手を伝わってくる。

 鋭い刃に少し表面を削がれたが、ホームズの槍を受け止めた時のように強靭な弾力を備えた杖は折れることもなく凶刃を受け止めて見せた。


 しかし、杖の持ち主は必死の形相で耐えながらもわずかに体勢を崩してしまう。

 志郎ならばここで真正面から鍔迫り合いを挑めるほどの腕力・技量もあるかもしれないが、琴美には力も技も実戦経験も不足している。

 必死に踏ん張ろうとしても、ずりずりと脚が後退を始め、すぐに膝が折れそうになる。


「くあっ!」


 苦悶の入り雑じった気合いを発して後方に身を捌き、杖と包丁の迫り合いから逃れた。


 尻餅をつきそうになりながらも、どうにかバランスを立て直そうとしていた隙をつき、ハールマンが土を蹴って踏み込んで来る。


 でっぷりとした太い腕が操る肉切り包丁の光芒に眼を射抜かれそうになりながらも、負けじと琴美も杖を振るった。


 一合、二合、三合と互いの武器が幾度となくぶつかり合う。


「はっ!!」


 腕力の差に押されながらも、琴美は頭上で杖を風車のように旋回させると、その勢いをのせて打突を繰り出した。


 ハールマンの左肩の付け根に、杖の先端が勢い良くぶち当たる。

 骨の砕ける鈍い音と感触。手応えはあった。


 それを証明するように敵の左腕がだらりと垂れ下がったが、殺人鬼は「くけっ」と渇いた笑い声をひとつ発すると、


「それがどうかしたかぁっ!?」


 嘲笑を貼り付けて、動きを止めず猛然と踏み込んでくる。呆気にとられている内に、旋風の素早さで一気に間合いを詰められてしまう。

 腹に前蹴りを食らわされ、魔女が今度こそ尻餅をついて地面に転がされる。

 腹部を圧される強烈な痛みと嘔吐感に気が遠くなりかけたが、背後で上がった樹里の悲鳴が辛うじて意識を繋ぎ止めてくれた。



 ハールマンを見ると、杖で打たれた肩の付け根の筋肉が小山のように盛り上がり、独立した意思を持つ生物のように蠢いている。砕かれた骨格が再生しているのだ。


 一瞬すらもかからず、力なく垂れた腕に再び力が宿った。


 ホームズが備えていた治癒能力はやはりハールマンにもある。骨を砕く程度では足止めにもならないのか。


「死にな、くそアマっ!!」


 品のない罵倒を声高に叩きつけ、ハールマンの手が包丁を頭上へ高々と掲げた。

 それを降り下ろして、彼女の顔面を石榴のように割ろうとした間一髪、



「きええっ!!」



 横合いから志郎の斬撃が落雷のように繰り出された。


 太刀風を吹かせ、脳天めがけて大上段から拝み打ちに振り下ろされる。


 しかし、その刃も俊敏な身のこなしの敵を捉えることは出来ない。

 手土産とばかり母国のドイツ語の悪態と横殴りの斬撃を残して、ハールマンに横っ飛びに逃げられてしまう。


 しかし志郎も優れた動体視力と反射神経を発揮し、首筋の頸動脈すれすれ、薄皮一枚の距離で何とかこれを見切ってみせた。

 ぷつぷつと肌に粟粒が立つのを感じながらも追撃を休めない。



 続く手は、地面を割らんばかりに力強く踏み込みながらの胴払い。


 一撃目、刀身が華麗な半月を閃かせる。


 後ろへわずかに退かれて回避された。

 小さく黒い前掛けを裂くのみに留まり、切っ先が空を切る。


 まだ志郎の攻撃は終わらない。

 すかさず二撃目、次の手は下段からの斬り上げだ。


 手首の捻りを効かせて、刀を地面から獲物をかっさらう猛禽のように跳ね上げた。


 股間から頭頂まで真っ二つに両断するために剣尖を襲いかからせる。


 これに対してハールマンが取った行動は、上段からの斬撃をぶつけることだった。


 下方から昇る刀と、上方から打ち下ろされる包丁。


 静寂の中で金属の噛み付きあう、甲高く鋭い音色が異様なほどに鳴り響いた。

 ぎりぎりと両者の刃を軋らせ力比べに持ち込む。


 包丁に怪力が込められ、日本刀の動きを封じるように押さえ込んでくる。


「ぬっ……!!」


 武器をこのままへし折られる危険性を感じたか、志郎が顔をしかめて身体ごと刀を引いてホールドから逃れる。


 刃の擦れる嫌な音と、火花が散った。


「うりゃあっ!!」


 距離を取ったらすかさず斬り込む。ハールマンも真正面からこれを迎え撃ち、刀と包丁の奇妙な鍔迫り合いとなった。


「があっ!!」


「おおうっ!!」 


 膂力の限りを尽くしての押し合い。互いの武器が噛み合い潰し合う、嫌な感触が手元を伝った。


 力比べにはハールマンの方に分があるようだ。志郎も峰に左手を押しあて必死に抵抗するも、殺人鬼は片手一本だけで徐々に彼の体勢を崩しにかかっている。


「どうしたガキぃ、ビビッてんのかぁ?」


 すでに勝った気でいるらしく、殺戮への喜悦に歪んだ笑みを浮かべてハールマンが嘲りの言葉を吐くと、それに対して志郎も太く長い犬歯を見せた笑い顔を返した。

 表情こそ笑顔だが、目はまったく笑っていない。


「誰が…………」


 低く声を洩らすと上体を反らし、腰にぐっと力を込める。


「ビビッてるだボケェッッ!!」


 次の瞬間には、ごっ! と鈍い打撃音が鳴り響いた。


 油断したハールマンの額に頭突きを叩き込んだのだ。額がばっくりと割れて、大量の流血が顔面から前掛けまでを彩る。


 さすがに意表をつかれたか、顔を空いた左手で押さえてハールマンが後退した。


 絶好の機会が生まれた。刀を素早く構え直しながら、摺り足で立ち位置を少し変更する。



 遠距離から、体勢を立て直した琴美が指先で小石を敵めがけて撃ち出そうとしているのが見えていた。


 彼女の射撃のラインにたたないようにして、同時攻撃を仕掛ける。


 石礫を爪弾いて、琴美の得意とする“妖精の矢”が放たれた。鋭く風を切って、弾丸のように一直線にハールマンへと襲いかかる。



 志郎もタイミングを合わせ、左手一本で突きを繰り出す。


 柔軟さと強靭さを併せ持った、質のよい筋肉をしならせての片手突きだ。

 刃は横へ平らに寝かせた状態の、所謂“平突き”である。


 肋骨の合間を縫って、心臓を串刺しにするつもりで放つ。


 遠間から左の胸元を狙い、槍のように長く鋭く切っ先が伸び上がった。



「ひょあっ!!」



 それに対し甲高い奇声を発したハールマンが、逆手に持ち換えた包丁を真横にぐるりと旋回させる。


 巻き込んだものを引き裂く殺人独楽となって、琴美の“妖精の矢”を叩き落とし、志郎の突きを弾いて後退させる。


 琴美の石礫は空中で粉々に砕け、志郎は衝撃に危うく刀を取り落としそうになりながら、渋面を浮かべて敵から離れる。 緊迫感に満ちた攻防だった。


 志郎と琴美はいったん距離を取って、再び攻撃の機会を伺う。

 対するハールマンは顔面を血に染めながらも、余裕のある表情で唇の端を吊り上げた、気味の悪い笑みをこちらに投げ掛けている。



 さっきの攻撃は即興にしては上手い連携だったが、相手に更にその上を行かれた。

 ホームズほどのパワーやリーチはないが、スピードはこちらの方が速い。



 加えて、今回の相手は明らかに刃物の扱いにも慣れている。従軍経験や数十人の人間を自らの手で殺害・解体した生前の悪行は伊達ではないという事か。

 志郎と琴美に、ホームズと戦った時以上の緊張が満ちてくる。

 ハールマンにも恐らく、ホームズのような隠し球があるはずだ。自身の信ずる歪みを肉体に反映させたホームズのように、本人の性質にあわせた肉体変異か。それとも別の能力なのか。

 どちらにせよ、それを発動させていない状態でこれでは今回も苦戦は必死だろう。



 そして、何よりも志郎と琴美が気にかけているのは同級生の御堂樹里だ。

 視線を向けると血の気が引いて真っ青を通り越して蝋のように白くなった顔色で、奥歯をガチガチと噛み鳴らせて震えている。


 元々荒事になれていない、ごく普通の少女なので無理もないが、もはや誰の目に見てもパニックを起こす寸前だ。


 逃げ出そうとして自分たちの近くから離れてしまったら、果たして守り通せるかどうか。出来れば今の位置から動かないで欲しい。そう願いながら、ハールマンに向かい合う。



「へへへっ、中々やるじゃあねえか」


 額から滴る血をべろりと舐め取り、殺人鬼が大きく歯茎を剥いて笑う。

 その手に光る肉切り包丁は薄暗い夕刻の中で、まるで死神の鎌のように不吉な表情を見せる。


 最初の首切り殺人を起こしてから今まで相当な量の血を吸い続けてきたであろうその刃は、血に曇った不気味な輝きを放っていた。


「お褒めにあずかり光栄だけど、さっさとあたし達に殺され欲しいわね。ホームズみたいに」


 琴美の軽口を受け流し、ハールマンが更に笑顔を深くする。


「そいつぁ俺様も同意見だな。ダラダラ長いのは好きじゃあねえし、お前らは予想していたよりもずっと強え。だからよ、早めに切り札見せてやるぜ」



 何、と志郎が驚きの声を上げる。

 それを嘲笑うような顔でハールマンはぐっと膝を屈め、拳を腰だめに握り締めた。


 額に青筋を浮かべて奥歯をぎりぎりと噛みしめ、全身に力をいれている。



「おおおおおおお!!」



 喉を反らせて天を仰ぎ、うなり声を絞り出す。


 肉体変化が始まった。

 骨が軋みを上げて変形し、全身の筋肉が大きく膨張する。



「おおおおおおお!!」



 腕が、胸が、首が、顔が。

 地肌の露出している部分が急激に伸び始めた体毛に覆われ見えなくなる。

 瞬く間に針金を思わせる、長く硬質な灰色の剛毛が全身を包み込んだ。厚い毛皮の下では、筋肉の瘤がむくむくと蠢いている。



「オオオオオオオ!!」



 力強さを増した声で、もう一度吠える。


 鼻梁が犬のように長くせり出していき、半開きの口から垂れ下がったのは、燃えるように赤い舌だ。

 手指から伸びた爪はナイフを思わせるほどに鋭く、ノコギリのようにずらりと並ぶ牙が唇の端からこぼれ落ちた。

 血走った双眼は灰の毛皮の中で、満月のように煌々とした輝きを湛えている。




「オオオオオオオーーーーン!!」




 おぞましいメタモルフォーゼの完了を告げるように。最後にひときわ高く、長く吠える。


 すでにそれは人の言語ではなく、獣の咆哮。



 そう、狼の遠吠えであった。



 数多くの少年を同性愛行為の末、喉笛を噛み千切って殺害したというケダモノじみた性質が野獣の因子を呼び起こしたのか。


 殺人鬼フリッツ・ハールマンは、生前に恐れられた異名そのものの狼男へと変貌を遂げていた。


 前掛けと包丁を身に付けた、異形の狼男。


 B級ホラー映画に出てくるようなある種滑稽な姿の怪物であるが、志郎達には余裕などない。


 前回、歪みの力を発動させたホームズにはさんざん苦戦させられた。体力の限界まで戦い、ようやく掴むことが出来た辛勝を思い起こす。

 またあのような苦しい戦いをしなければならないとは。



 力を誇示するように、包丁片手に悠々とした動作で狼男が近付いてくる。


 獣人から漂う脂くさいケダモノの体臭が、志郎の鼻を強烈に刺激した。


「この臭い……そうか、この間の血痕はお前の仕業か」


 数日前の見回りで発見された血溜まり。あそこで嗅いだ獣の臭いはハールマンのものだったのだ。


「へっ、その通りよ。あの夜に仕留めたガキはなかなかいい男だったから、ブッ殺して食ってやったぜぃ。お前らの食い損ねたソーセージもあいつさ」



 獣頭が牙をむいて笑い、おぞましい事を言ってのける。

 そこに残った血の味わいを思い起こすように、長い舌でべろべろと自慢の肉切り包丁を舐る。


 そこでついに少女の悲鳴が上がった。

 理解の範疇を完全に超えた怪物の出現に限界を超えたか、とうとう御堂樹里がこの場からの逃走を図ろうと走り出してしまったのだ。


 普段からあまり鍛えてもいない彼女の脚はお世辞にも速い方ではない。

 獣人へと変化したハールマンには簡単に追いつかれてしまうだろう。



「御堂、待て!!」



 とっさに彼女に追いすがろうと志郎が駆け出す。


 しかし次の瞬間、公園内に植えられた植木の茂みから飛び出してきた人影がふたつ、その華奢な身体に駆け寄り、彼女を捕らえていた。


 特殊繊維で作られているのであろう黒いスーツとマスクで全身を隠し、その上から防弾チョッキを装備している。眼球もゴーグルで保護されており、素顔を伺うことは出来ない。


 腰にはボーガンと、ケースに納められた長い刃物が下げられていた。片割れがケースからそれを抜くと、現れたのは反りのない両刃だった。


 ナイフというよりは、直刀とでも言うべきだろう。


 どこかの特殊部隊の隊員のようないでたちのその男たちは、一人が樹里を羽交い絞めにして、もう一人がその首筋にぴたりと直刀を突きつけた。


 それを皮切りに、公園のあちこちの茂みや暗がりから、続々と同じいでたちの者達が姿を現しはじめる。


 その数、合計七人。 


「あ〜あ〜、余計なことすんなって言ったのによぉ」



 ハールマンが長い舌で器用に舌打ちをしてみせる。



「なんて事、まさか協力者がいたなんて」


 かろうじて気丈な貌を崩さず、琴美が緊張の唾を飲む。


 この危機的状況で樹里を救い、ハールマンを倒すことが、果たして自分たちにできるのかどうか。


 志郎も苦虫を噛み潰したような顔で、周囲の敵を睨んでいた。


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