2章の1
河川敷の橋桁の暗がりで、耳をつんざく悲鳴が上がった。
苦悶の声の主は年若い少年だった。恐らくは中高生程度だろう。
整った顔立ちをしたなかなかの美男であるが、その顔が耐えがたいほどの苦痛に酷くゆがんでいた。
何かに耐えるように口元と下腹部を押さえた指の隙間から、どす黒い液体が粘りを帯びて滴り落ちる。
やがて指を押し退けて血の塊が口と鼻から吐き出され、下腹部から鮮血と臓腑が溢れ出た。
その様子を正面から薄気味の悪い笑みを貼り付けた顔で眺めている者がいた。
鼻の下にちょび髭を生やした、小太りの中年男だ。後ろへ撫で付けた髪は黒だが、肌は黄色人種のそれとは違い白い。
いかにも作業用といった飾り気のない前掛けが、夥しい血を浴びて朱に染まっている。
男が手にしているのは鉈か山刀を思わせる、ぶ厚い刀身の包丁であった。その刀身にも前掛けと同じく、臓腑の臭い漂う鮮血が滴っている。
この男の振るった刃が少年の腹を裂いたことは想像に難くない。
棒立ちになった少年の身体からは瞬く間に血が流れ、足下に赤い水溜まりが出来上がる。
ヒヒヒと男が下衆な笑いを上げた次の瞬間、返す刀で再び刃が振るわれた。
男の背丈の二倍、三倍以上も高く、血の帯を引いて首が飛んだ。
手鞠のように無造作に、生首が生い茂る草のなかへ落ちる。それにやや遅れて、棒立ちとなって噴水のように血を吐き続ける身体がどさりと倒れていった。
どくどくと流れる血の赤にまじり、頸骨の白さだけが嫌に際立つ。
「へっ、俺から逃げられるわけがねえだろ」
男は嘲りの声を向けると、離ればなれとなった首と胴を丈夫な麻袋へ詰め込み、それを肩に担いで何処かへ引きずって行った。
ドイツ語で奏でる調子っぱずれな歌が、哀れな犠牲者を連れ去っていく。
「悪魔になるのは俺様だぜ。ホームズの間抜けを殺ったガキ共も、残るあいつら三人も、いずれまとめて皆殺しにしてやる」
人ひとり詰め込んだ袋を背負っているとは思えないほど余裕に満ちた顔で、殺人鬼は人目を避けて暗い闇へと姿を溶け込ませ、消えていった。
犯行現場の血溜まりを発見し、二人組の少年少女が苦い顔をするのはそれから約10分後のことである。
「くそ、また殺られたか!!」
ふたりのうちの一人、竹刀袋を肩に下げた詰襟の学生服の少年が悔しさを滲ませた顔で歯を噛み締める。
「でもこれ、魔方陣がないわよ?」
少年の傍らでセーラー服の少女も、むせかえる血の臭いに顔をしかめていた。
「それに、今回は死体が丸ごと無いわ。別件じゃないかしら」
「いや、今までの事件の現場で何度か嗅いだ臭いがする。首なし殺人を起こしてる一味だ」
鼻を鳴らしながら、少年が周囲の臭いを嗅いでそう言ってみせる。
「へぇ……どんな臭いがする?」
「強いて言うなら、獣だな」
事件現場には血の臭いに混じり、脂臭い獣の体臭が残されていた。
薄暗い街の夜道を、少女が早足で歩いていた。
活動的な印象を与えるショートカットは艶やかで、卵型の小顔には丸く大きなどんぐり眼。
背丈はやや小柄で、手足もほっそりとしている。
美人というよりは、どちらかといえば「可愛い」とか「愛嬌のある」と形容するのが似合う。なかなかに可愛らしい娘であるが、表情から受ける印象は気の強さを感じさせる。
事実、彼女は学校ではクラス委員長を務めており、男相手にも一歩も引かずはきはきと毅然とした物言いで、同性はもちろん男子からも大いに頼りにされる存在なのだ。
その少女、御堂樹里は帰路を急いでいた。
田舎の飲み屋の閉店時間は早く、9時を過ぎると殆どの店が閉まってしまう。シャッターの降りた薄暗い飲み屋街の裏通りに革靴の音が響くのが、不安を煽った。
家に帰る近道とはいえ、この時間帯にこの道を選んだのは失敗だったと思う。
夜には暴走族などの溜まり場になっていることも多いため、頻繁に喧嘩が起きる治安の悪い界隈に脚を踏み込んでしまった。
しかし、それ以上に町を騒がせている首なし殺人が怖いのだ。
樹里は非科学的なものを信じていない。
オカルトなんて馬鹿馬鹿しいものだと思っていた。
しかし、現在この町では、恐らく魔術を信奉していると思われる変質者が殺人を繰り返している。
すでに首を切られた被害者は四人にのぼった。
関連性があるかは不明だが、それ以外にも近隣では行方不明者が数名出ているようだ。
それを考えると、とにかく夜に出歩くのは怖い。
自然と家へ向かう速度も早まり、何かに追いかけられているような足取りで走る。
疲れを感じ息切れながら立ち止まると、飲み屋街の出口を抜けたところにある開けた十字路に出た。
ここから左に行けば自宅のある住宅街。右に行けば寂れた商店街。まっすぐ行けば、ラブホテルや風俗店がある区画。
最後のほうは、高校生にはあまり縁のない場所であろう。
そもそも、この繁華街以上にガラの悪い場所なので樹里のような所謂『ガリ勉』タイプは近づかないのだ。
(まあ、同級生の彼氏持ちは何人か行ってるみたいだけど)
くすりと苦笑いを浮かべながら俯きがちな顔を上げて、何とはなしに前方の道へ目をやる。すると、見慣れた制服が視界に飛び込んできた。
目の前に現れたのは、男女二人組だ。
近隣の高校の多くが制服をブレザーへ変更した中、未だ変わらぬ古式ゆかしい黒の詰襟とセーラー服は紛れもなく、自分の通う神代高校のもの。
「え、誰だろ?」
こんな時間にデートだろうか。
何だか焦っているというか、楽しそうな雰囲気ではないが、痴話喧嘩でもしているのだろうか。
だが、なにより明日も学校はあるのに、夜遅くまで遊びまわるとはあまり感心しないと思った。
樹里はクラス委員長を務めている。真面目すぎると言われることも多々ある責任感の強さを発揮し、前方の二人組みを睨みつけた。
場合によってはこの場で注意してやろうと、目をこらす。
薄明かりに照らされて、暗がりから二人の顔が見えてくる。
「えっ!?」
思わず、驚愕の声が漏れていた。
ひとりは、目つきの鋭い少年だった。
長く伸びた前髪の合間から覗く鋭い眼や、口元から時折見える長く太い犬歯から若干の凶暴性が感じられるが、それなりにいい男であろう。
もうひとりの女生徒も、整った顔をしている。
否、整ったというよりは、『美しい』という表現のほうがしっくり来る少女である。
やや瞳が釣り目がちだが目鼻立ちはすっきりとしており、ところどころが跳ねたクセ毛が、どことなく猫を連想させる。
両者とも、知った顔だった。
「もうちょっと廻ろうぜ、次は向こうだ」
「わかったわ。行きましょ」
呆然とする樹里に気づかず、二人は人目を憚るように路地裏へともぐりこんでいった。
「いまの、長谷川さんと……狗賀志郎君?」
予想だにしていない組み合わせだった。
自分の台詞とともに、事実を確認するように先刻の光景を思い浮かべてみる。
確かに、クラスメイトのあの二人で間違いなかった。
長谷川琴美は、自分と同じクラス委員を務めている。
明るく美人で友達も多い人気者だ。自分もいつも委員の仕事を手伝って貰っており、頼りにしている。
対して、狗賀志郎は人を拒絶するような雰囲気を纏った少年だ。
無口で無愛想、口も悪ければ人付き合いも悪い。
以前、不良数人に絡まれて、そのことごとくを叩きのめして病院送りにした等という噂もあるので、樹里はなるべく近寄らないようにしている。
そういえば、この間傷だらけで登校してきた時には驚いた。
彼が怪我をして一日休んだ次の日の事で、その日はやけに琴美が彼の世話を焼いていたのが、今になって思いだされる。
本人は軽く車に撥ねられたと言っていたが、あの時の怪我について何か琴美は事情を知っているのかもしれない。
本人も驚くほどの強さで御堂樹里の好奇心が、むくむくと頭をもたげてきていた。
静かに、密かに、彼女の運命も今夜この時変わった。
夕刻の茜色の日差しが差し込む庭で、剣尖が鮮やかな光を集めて照り返り、蝶のように閃いた。
もとは武家屋敷だった自宅の広い庭で、一人でこの家に住んでいる少年、狗賀志郎は黙々と剣の鍛錬に励んでいた。
真剣の重さを感じさせない速さで数百回の素振りを済ませた後は、イメージトレーニングを行う。
最も長く学んでいる鹿島神道流を中心に、田宮流、示現流の技を織り交ぜ、脳裏に描いた敵と戦う。
現在は多対一を想定している。
正面から斬り付けてくる敵。
脇から槍のような長柄で突いて来る敵。
銃や弓矢のような飛び道具で遠距離から狙撃してくる敵。
次々と武器や相手の陣形、人数を変更しながら、仮想敵を斬っていく。
長年の鍛錬のおかげか、斬り捨てていく虚像には敵の肉体を刃が捕える手応えや、血飛沫すらも感じられるかと錯覚してしまいそうなほどリアリティがあった。
第三者であろうとも武術の心得がある者が見れば、彼の鍛錬風景のなかにそのイメージされた像を幻視することは容易であろう。
それがひと段落したら、次は一体一の戦いに移る。
想定するのは先日相棒と共に葬り去った、あのハリー・ハワード・ホームズだ。
鞘に納められた腰の刀に手をやり鯉口を切ると、異様に長い腕があのグロテスクな槍で突きを繰り出してくる光景を想像する。
幾度も幾度も、槍が身体をかすめて自分を傷つけていく。それに耐えながら、反撃の機会を伺う。
隙を伺い、刺突を最小限の動きで回避しながら地面を蹴った。
たんっという、小気味良い鳴き声を大地が発すると同時か、それよりも速く鞘走った刀が腰間で解き放たれる。
鹿島神道流跳躍抜刀“飛鳥翔”であった。
喉笛めがけて繰り出された居合いが肉を裂く。だが、浅い。
あのおぞましい眼を持つ顔は胴体から斬り飛ばされることなく、見た目を裏切る俊敏さと柔軟さを備えた上体をそらすことで、刃から逃れていた。
やばい、と思った瞬間には、あのコウモリの槍が自身を虫けらのように弾き、志郎の身体はゴミのように地面へ叩き付けられていた。
むろんそれは現実に起きたことではないがイメージは鮮明で、志郎はまるで本当に槍に打たれたかのように空中でバランスを崩し、無様に地面へ這い蹲る事となった。
「くそっ!!」
志郎は誰の目に見ても分かるほど苛立っていた。
その苛立ち、心の乱れが剣に現れ、普段の凄烈な太刀筋を狂わせているのだ。
勿論、それでもただの人間相手ならば負けるつもりはないが、数々の異能を備えた超人魔人のひしめくこの世界では、わずかな乱れでも即座に命の危機へ直結する。
ホームズを倒してから三日に一度のベースで首を狩られている。
それ以外にも何人かが例の一味の犯行の被害にあっているようだ。
さすがに志郎と琴美だけでは手が足りないと判断し、ファウストの上層部も今回の事件の調査には人材を割いているが、この事態は志郎としては面目を潰されたに近い。
この借りは必ず返す。
犯人を必ず俺たちの手で斬る。
強い誓いを胸に再び剣を振るっていると、縁側に置いた携帯電話が鳴った。
着信はファウストの幹部のひとり、志郎の直属の上司からのものだった。
「で、今度の休みに本部へ直接報告に来いって?」
「ああ、なんか色々話したいことがあるんだとよ」
翌日の昼休み。
二人で人気のない屋上で昼食をつつきながら、志郎と琴美は上司からの指示についての相談を交わしていた。
日当たりの良い出入り口の脇に並んで座り、そこで弁当を食う。
琴美は小さな弁当箱にプチトマトやから揚げや玉子焼きといった定番メニューの込められたオーソドックスな弁当。
志郎は四角い大きな弁当箱に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた白飯に、塩気の効いたメザシと梅干とタクアンという、質より量な弁当である。
「なるべく早くこいっていってたから、土曜日にするかな」
きゅっきゅっ、と硬いタクアンをかみしめながら、志郎がいった。
琴美も特に異論はないようだ。
「ねえ、タクアンか梅干しひとつちょうだい。から揚げひとつあげるから」
「お、まじで。いいけどこれかなりしょっぱいぞ、時田のジジイの自家製」
どうやら時田医師からのおすそ分けらしい。あのまめな老紳士が糠床をかき混ぜたり、梅干を漬けたりしている光景を想像して、少し琴美が笑う。
「そういうの似合ってるよね、先生。いかにも田舎のおじいちゃんて感じがして」
「あれでも昔は、洒落者の伊達男で通ってたそうだけどな。今はただの説教好きなジジイだ」
「それはたぶん、先生狗賀君のことが可愛いのよ」
「…………男にかわいい言うな」
照れくさいのか、そっぽを向いた志郎と、さらに可笑しそうに笑う琴美。
はたから見れば長年の親友か恋人同士のようにも見える、微笑ましい光景であった。
しかし、そこに水を差すものが現れた。
ぎぎいっと重苦しく鳴いて、錆付いた扉が開くと、やや険しい顔をした小柄な少女が二人の前へ歩み寄る。
同じクラスの委員長、御堂樹里だ。
くそ真面目な性格で、志郎は苦手な相手だ。また面倒くさい事をいわれる予感がして、若干顔が引きつるのを自覚した。
「なにかよう?」
対して琴美はいつも通りの暢気な口調で聞き返す。
「…………最近、狗賀君と長谷川さん、仲いいと思ってね」
明らかに含みのあるもの言いだ。これは、夜の見回りでも目撃されたか。
ちらっと志郎の方を見ると、若干あせりの色を浮かべたアイコンタクトを送ってくる。
おそらく、「てきとうに誤魔化せ」と言っている。口下手な志郎ではボロが出そうなので、こういう事に関しては自分が適任だ。
そう判断した琴美の行動は早い。
「そうそう、最近狗賀君に剣道習っててね。それで時々一緒に遊んだりもしてるの」
「本当にそれだけ? だいたい剣道習うなら道場でも行けばいいじゃない」
「いやいや、強くなりたいからさ。狗賀君くらい半端じゃない強さの人じゃないと駄目なの」
部分的に真実を交えつつ、言い包めようとする。コンビを組んでから、剣術や体術を志郎に教えて貰っているのは本当のことだ。
「あと、狗賀君骨董とかにも詳しいのよ。うちのお母さんもそういうの好きだから、今度誕生日プレゼントの買い物手伝って貰おうかと思って」
それを聞いて、樹里の顔が更に疑惑に塗り固められる。
あの狗賀志郎が骨董?
無粋、無骨、無愛想の三拍子そろったこの男に美術や芸術を介する心が本当に存在するのか?
そう口に出したわけではないが、目は口ほどに物を言う。
さすがにそのぶしつけな視線を遺憾と感じたか、この少年には珍しく普段の不貞腐れたような顔ではなく、やや本気で怒りながら口を開いた。
「おい、そりゃいくらなんでも失礼じゃねーか。こちとら骨董屋の息子だぜ」
「え、本当に骨董屋やってるの?」
「ウソじゃねえよ、屋号は狛犬堂だ。番地と電話番号だって言ってやらあ。休みの日にしか開いてねえが、客としてきたらお前だって出迎えてやるぜ」
それでもまだ、樹里の眼には疑わしいものがある。口からでまかせを言っているのではないかと思っていることは容易に想像できた。
すると、琴美が志郎にとっては予想外な事を提案する。
「じゃあさ、今度の土曜日私たちと一緒に遊ぼうよ。隣のS県の比良坂市に行くの」
「はあっ!?」
素っ頓狂な声をあげる志郎の脇にさりげなく肘打ちを入れて黙らせ、さっそく口八丁手八丁で説得に入っている。
なんでも土曜日に比良坂市の骨董屋へ、琴美の母親がほしがっていた家具を見に行くという。
そこに同行して、志郎に本当にその方面の知識があるか確かめたらいいという理屈らしい。
確かに土曜に比良坂には二人でいく予定だが、それはファウスト本部が比良坂にあるからで、別に遊びにいくわけではない。
釈然としないながらも一応納得したのか、なにやら微妙な顔できびすを返し、騒動の種を残して委員長は去っていった。
それを見送った後、狗賀志郎は盛大にため息をはいて背中から壁にへたり込んだ。
本人の意思は無視したまま、うるさい女二人と今度の休日に両手に花のダブルデートと相成ったわけだ。人付き合いの苦手なこの少年にしてみればたまったものではない。
妙な勘繰りを入れられて、拝み屋家業について探られるのはなんとしても避けたい事態なのに、頼みの綱の相棒に余計な事をされてしまうとは。
(適当なところで切り上げればいいでしょ。変に疑われて巻き込まれでもしたら後々面倒だし、こういう事態の対応は早いほうがいいわ)
憮然とした顔の少年の顔に唇を近づけ、そっと耳打ちしてくる。
彼女のいうことにも一理あるかもしれないが、その声音と表情に多分に悪戯めいた感情が含まれているのは気のせいなのか。
それにしても強引な展開だろうがと、軽く頭痛を覚えてこめかみをぐりぐりと押す。
ああ、面倒くさい。
どうも最近ろくな目にあっていない気がする。
ポケットから取り出した煙草に火をつけて、空を見上げてみる。
しみったれた気持ちと裏腹に、ほつれた紫煙ごしに見上げた空はどこまでも青く澄んで、爽やかな春風が頬を撫でていった。




