6章の9
「や、やった……!!」
剣を持つ手を震わせ、琴美が喉から声を絞り出した。
あの殺人鬼ジルが、目の前に倒れている。その光景が、未だに信じられない。
自分の手で、現世に降臨した大悪魔ブネを祓う事に成功したのだ。
「よくやった長谷川君!! では、早く行くぞ。狗賀君も待っている」
シュレック子爵がマントを翻して走り出し、鳥羽と依子がそれに続く。
目指すは最後に倒すべき敵、スカイスタンのいる屋上だ。
「は、はい……!!」
感傷にひたる暇はない。
未だ最凶の妖術師と死闘を繰り広げているであろうパートナーを助けるために、彼女も廃屋へと向かった。
「待ってください、私も行きます!!」
樹里も参加を申し出る。
肩が小さく震えているが、彼女も勇気を振り絞っているのだ。
「好きにしなさい。ただし、命の保証はせんから、死んでも恨むなよ」
セリフは冷淡だが、柔らかい声で鳥羽が返した。
「明久、素直じゃないな。
だが、私も同意見だ。御堂さん、この事件の終わりを皆で見届けよう」
それを見た依子が、微かに笑う。
今さら止める事はない。
彼女にも、全てを見届ける権利があるのだ。
何より、恋をする女は強い。
慌ただしく五人が去った後、立ち上がる者がいた。
胴体を内臓が露出するほどに砕かれ、おびただしい流血に全身を染めながらも、潰れた足で地を踏みしめる。
琴美の白魔術の一撃を受けて敗れたはずの、ジル・ド・レエだ。
「まだだ、まだ死ぬわけにはいかない」
剣を杖代わりにして身体を支え、這いずるような足取りで、彼もまた廃屋の屋上を目指す。
一歩一歩、歩くたびにおびただしい血が溢れ、小川のように流れていく。
文字通りの生命の浪費だが、やり残した事がある。
その一念のみが、今の彼を辛うじて動かし、命を細い糸で繋いでいた。
屋上では二人の剣士が、未だ決着のつかぬ死闘を繰り広げていた。
距離をとって対峙し、互いに隙を伺う。
志郎は蜻蛉の構え。
掲げられた切っ先が月光を弾き、白々とした輝きを放っていた。
対するスカイスタンは、両手をだらりと下げた無構えである。
全身の各所に傷を負った志郎に対して、スカイスタンは傷ひとつ無い万全の身だ。
「……ふっ」
と、妖術師の口元から、微かな呼気が漏れる。
それを合図に全くの自然体で、闇色の怪人がつうっと滑るように間合いをつめた。
鋭く空気が鳴き、サーベルが竜のように昇る。
斬り上げだ。
「!!」
顔面を割られる紙一重、声にならない絶叫を放ち、志郎は後方へ飛んでそれを避けていた。
二撃目。
すかさず、スカイスタンが剣を握る右手首を捻り、胸の高さまで持ち上げる。
フェンシングの構えだ。
「死ぬがいい」
そして、地獄の底から響くような声を放ち、刃を繰り出した。
連続突き。
悪意と殺意を秘めた、おびただしい手数の刺突剣が迫る。
うねるマントの動きと合わせて、まるで何本もの腕が剣を振るっているように、視覚が幻惑されてしまう。
身体を横へわずかにスライドさせ、回避する。
今の自分にできる、最小限度の動きだ。
耳の真横を通過する剣風に背筋を寒くしながらも、反撃に出た。
へし折られたあばら骨だけでなく、全身に刻まれた刀傷がじくじくとした痛みを感じるが、全てを気迫で押さえ込む。
「チェストッ!!」
そして、高い位置に掲げた刃を叩き落とした。
示現流の一手打ちだ。
黒く厚いカーテンのような妖気を裂いて、白刃が迸る。
だが、斬撃は虚しく宙を斬り、既にスカイスタンは高く跳躍して間合いから逃れている。
大鴉の翼のようにマントを広げ、悠々と地に降り立ち、志郎を嘲笑う。
「一太刀すらも私を捉えることが出来ないとは、不甲斐ないな」
悔しいが、その通りだ。
志郎とスカイスタンの、剣士としての力量差は歴然としている。
(クソッタレ……なにか、何か手はないのか)
心のなかで悪態をつきながら、勝機を探る。
強敵である、ジルの元へ残した相棒が気がかりだった。
自分が負ければ、彼女もただでは済まない。
いつも人をからかってくれるが、根は優しい性格の彼女がこんな奴に殺されるのは耐えられなかった。
その時である。
背後で、爆音のような獣の絶叫が轟く。
屋上の下方、志郎は気付いていなかったが、琴美がブネと一体化したジルと戦いを繰り広げていた、ホテル正面からだ。
それは竜の咆哮、すなわち悪魔ブネの断末魔だった。
「こ、これは!?」
スカイスタンが初めての狼狽を見せる。
その瞬間、顔面から血の気が失せ、肌は蒼白を通り越した土気色となり、手足は枯れ木のように痩せ細っていく。
しゅう、しゅう、と音を立てて、煙のようなものが、妖術師の全身から立ち昇り、霧散してくのが見えた。
生体エネルギーの喪失だ。
「何ということだ、ブネの気配が消えただと……!!」
震える声で、スカイスタンが叫ぶ。
「どうやら、長谷川がやってくれたみたいだな」
ニンマリと、志郎の口に笑みが浮かぶ。
魔術は本来、厳正であるべきものだ。
故に、儀式が失敗に終われば、術者は多大なる代償を支払う羽目になる。
スカイスタンは恐らく、その代償として自らの命を削られたのだ。
「馬鹿な……あんな未熟な魔女に悪魔が祓えるはずが」
「未熟未熟とうるせぇよ、魔術師ってのは悪魔を支配するもんなんだろ。
なら、長谷川は未熟者じゃない。本当に未熟なのは、悪魔に媚びへつらってるテメェの方だ」
「ほざけ、今の状態でも、貴様を千の肉片にまで斬り刻むのは容易い事よ」
スカイスタンが、幽鬼のように立ち上がった。
弱体化しているとはいえ、恐らくその言葉は虚勢ではなく真実だ。
まだ、それを出来るだけの力が相手にはある。
ふと、鬼切丸の刃の根本、刀身の平地に彫刻された、精緻な摩利支天の像が志郎の目に入る。
「こっちも、捨て身でいくしかないか……」
右半身を引き、左半身を前方へ。
右手に持った刀も、敵の視界から隠すように後方へ向ける。
そして、左手は今にも掴みかからんばかりに、掌を開いて前へ伸ばす。
香取神道流“笹の葉隠れ”
依子に教えてもらった技のひとつだ。
香取流を守護する護符に描かれる、摩利支天の姿を元に編み出されたとされる、腕一本相手にくれてやる覚悟が込められた決死の構えである。
「行くぞっ!!」
呼吸を整え、志郎が前へ出た。
身体を掴んで組み付けば、そのまま動きを封じて殺せる自信はある。
「舐めるな!!」
左手を警戒してか、後方へ逃れながら、スカイスタンがサーベルの切っ先で魔方陣を描く。
「サータン・サータン・オムシグ・デニルス、サータン・サータン・オムシグ・デニルス、サータン・サータン……」
「!?」
黒いマントが白い紙へ墨汁を垂らしたように広がり、視界を暗闇へ閉じ込める。
暴走状態だった志郎は覚えていないが、神社での戦いで受けた幻術だ。
だが、この術の対策として行った依子との訓練で、以前よりも五感は研ぎ澄まされている。
生来の鋭い嗅覚だけでなく、聴覚、聴覚を総動員して敵の位置を探る。
(分かる、分かるぞ……)
スカイスタンから漂う体臭だけではない。
呼吸。
衣擦れ。
殺意の乗った刃風。
地面を踏みしめる足音。
全ての情報が、暗闇の中でも敵の位置と攻撃の軌道を教えてくれる。
そして、先程よりも明らかにその太刀捌きは精彩さを欠く。
ムチのようにしなる左手の甲で刀身の腹を叩き、斬撃の尽くを逸らす。
「そんな腕など!!」
攻撃を外されることに焦れたか、スカイスタンが咆哮した。
一瞬で間合いを詰める。
凄まじい踏み込みに、足元で風が巻く。
サーベルを唸らせ、片手斬りを見舞った。
志郎は避けなかった。
そのまま、左腕の前腕部で刃を受け止める。
そして、
……ベキッと、何かが砕ける乾いた音がした。
凶刃は、確かに志郎の左腕の前腕部に食い込んでいるが、浅い。
「こ、これは……?」
「かかったな」
激痛に耐えながらも凄惨な笑みを作り、身を捻った。
右手に握られた刀が回転し、円を描く。
ずしゅっ!!
「ぐはあああっ」
肉の裂ける生々しい音がして、スカイスタンが絶叫を放った。
弓なりに仰け反った身体から、ドス黒い飛沫が迸る。
鬼切丸に斬られた胸元がバックリと割れ、鮮血を噴き上げているのだ。
「ケッ、ざ、ざまぁみろってんだ……」
それを尻目に左腕を押さえながら、志郎が精一杯の悪態をつく。
同時に幻術が解け、視界が戻った。
まず目に入ったのは、裂けたジャケットの袖だ。その生地の下に、砕けたカーボン材が見える。
念のためにプロテクターを仕込んでいたのである。
殆ど気休めのつもりの装備だったが、何とか肉を切らせて骨を断つ程度の役には立ってくれた。
「でも、やっぱり痛ぇもんは痛ぇな、こりゃ……」
本来の威力よりも減衰していたとはいえ、スカイスタンは凄まじい魔剣の使い手だ。
その剣を真正面から受けた腕に、痺れを伴う痛みが走る。
「志郎!!」
傷みと出血多量で気が遠くなりかけていたが、パートナーが自分を呼ぶ声が、意識を繋ぎ留めた。
屋上のドアが開き、そこに仲間達が集まっている。
長谷川琴美。
御堂樹理。
鳥羽明久。
桐山依子。
マックス・フォン・シュレック子爵。
全員が無事だ。
血に汚れるのも構わず、琴美が彼に駆け寄り、抱き締める。
「志郎、ジルは私が倒したから、後はもうそいつだけだよ」
「ありがとよ……」
言葉少なく、琴美に肩を借りて立ち上がる。
もう肉体的にも精神的にも限界だ。
それは恐らく、スカイスタンも同じである。
次の一手で、決着がつく。
三幹部と樹理も、後方で固唾をのんで様子を見守っている。
「クズどもが、どこまで邪魔をすれば気が済む……」
全身を血に染めて、怨念じみた声と共にスカイスタンが頭上へ剣を掲げた。
ぼっ!
ぼっ!
ぼっ!
周囲に無数の火球が生じると、それが生き物のようにひとつに連なり獣を形作る。
それは、青白く燃える炎によって構築された、巨大な一つ目の馬であった
。
「エド・エグラ・エギオン・ペストール!!」
そして更に、口から不気味な呪文が溢れ出す。
志郎をさんざん苦しめた、剣の威力を高める術だ。
天をつく切っ先が、奇妙な渦巻き状の印章を描くと、妖気が刀身へ竜のように絡みつく。
「ほほぅ、フラシスの呪法か。あんなものまで使えるとはな」
西洋魔術が専門分野のシュレック子爵が、興味深そうにそれを眺めた。
「知っているのか、シュレック?」
「まぁね。あの術は強力だよ。まともに食らえば私達でも危険さ」
鳥羽の質問に対して、呑気な口調で応える。
それは、魔術研究家フランツ・バートン(生年不詳~1958)の著書『喚起魔術の実践』に記された呪法だった。
バートンの経歴はドイツ人であること程度しか判明しておらず、現代の研究においても不気味なほど謎の部分が多い。
しかし、彼の著書の「宇宙空間に住まう精霊の力を喚起し、自在に操る」という独特の思想のもとに記された秘術の数々は強烈な実効力を持ち、一部では神格化される程に恐れられている。
スカイスタンが使用したのは“ものを尖らせる”ことを教示する、妖霊フラシスの印章と呪文だ。
その呪いの真髄は“魂を尖らせる”事による人間関係の不和の誘発や、剣や針といった武器の威力を高めることにある。
「長谷川、あの馬を足止めできるか?」
「任せて、やってみるよ」
名残惜しそうに志郎から身体を離し、琴美が術の構築を開始する。
「ハイル、東の風エウルス!!
夜明けの風よ吹け、人々の心を照らす光の風よ!!
アラディア、アリアンロッド、カルディアヌイトとウラニアの御名にかけて!!」
ギリシャ神話の風神に祈りを捧げる詠唱だが、今まで使ってきた呪文とは違う。
春の訪れを告げる、アネモイの中で最も穏やかな性格を持つゼフィルスの上位である、雨と暖気を運ぶ東風の神の名を込める。
風神がその呼び声に応えたか、魔女の周囲で力強い風が渦を巻く。
「小賢しいわ!!」
猛獣を操る調教師のように、スカイスタンが剣を一振りすると、一つ目馬が爪音を響かせて突進をしかけた。
「行けっ!!」
もはや小細工は無用だ。
琴美も精神を集中させて、風を真っ向からぶつける。
イメージするのは、風が針のようにまっすぐ伸びていき、馬体を貫く様である。
一つ目馬も蹄の音を響かせ、力強く地を蹴った。
空中で、炎と風が激突する。
大量の酸素を消費する、目も眩むほどの火柱が発生し、その場にいた全員の視界が幻惑された。
「やった!?」
琴美が暗闇に向かって必死に目を凝らす。
炎の大部分は風によって削られていたが、身体を縮小させながらも、一つ目馬が自分めがけて突進してくるのが見えた。
「いけない、失敗しちゃっ」
た、と続ける前に、その身体を焼き尽くさんと、燃え盛る馬体が迫る。
だが、その前に、甲冑を纏った巨大な影が立ちはだかった。
「ゴオオオオオオッ!!」
雄々しく咆哮を響かせ、一つ目馬の突進を全身で受け止める。
琴美によって倒されたはずの、ジル・ド・レエだ。
彼が砕けた四肢で炎の馬を抑え込み、動きを封じている。
「今だ、私ごとこいつを消し去れ!!」
「ど、どうして……!?」
「何を躊躇っている長谷川、これを逃せばもう後がないぞ!!」
背後から、依子の厳しい叱責が飛ぶ。
状況を判断しきれていないが、悩む時間などない。
数秒、数瞬の逡巡すら今は惜しいのだ。
「は……ハイル、ノートゥス!!
南から吹く風よ、真の意志の力を我が身に召喚せよ!!」
晩夏と秋嵐、厚い雲と霧を呼び、荒れ狂う災害をもたらす南の風ノートゥスの術を行使する。
余力の全てをこめた、最大級の攻撃魔術だ。
旋風が渦を巻く。
一つ目馬も暴れまくるが、肉片を撒き散らしながらジルも凄まじい怪力でそれを拘束した。
やがて、一つ目馬は完全に消し飛び、飛び散る肉片に混じった細かい火の粉となって霧散する。
「貴様アアアッ!!」
憤怒をたぎらせ、スカイスタンがサーベルを振るう。
風に煽られた炎に炙られたか、その顔面の右半分はケロイド状に爛れた恐ろしい形相となっている。
ジルも大剣を構え、応戦した。
ぎちん、と鋼が鳴る。
もはや死を待つだけの身体でありながら、ジルはスカイスタンの妖剣を正面から受け止めていた。
「裏切り者め」
呪詛を込めた声と共に夜気を裂く音がして、サーベルが縦横無尽に舞い踊る。
ジルは防戦一方だ。
刃を一振りするたび、血が飛沫を立て、肉片が散る。
猫が鼠をいたぶるような、一寸刻み五分試しのなぶり殺しだ。
「死ね……!!」
胴払い。
ぐばん、という鈍い音がして、とうとうジルの胴体が真っ二つに両断された。
肉の断面の傾斜に沿って、上半身が腰からスルリと滑り落ちる。
地鳴りのように重苦しい響きを伴って、二つの肉塊となったジルが倒れ伏した。
血と泥土にまみれた凄惨な死に様だが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
「どこ見てやがる!!」
そして、それによって生まれた一瞬の隙を志郎は逃さなかった。
前傾し、まっすぐ矢のように切っ先を向けて、一直線に突撃する。
「おのれっ」
スカイスタンが剣を振り上げ、片手斬りを見舞おうとした。
だが、ジルを切り刻む事に我を忘れていたためか、反応が一瞬遅れる。
その刃に頭を割られるよりも速く、志郎が懐へ踏み込んだ。
「ぐ、が」
肉に刃が突き刺さる生々しい音と共に、スカイスタンが呻いた。
鬼切丸の刀身が、鳩尾へずぶずぶと潜り、背中までを貫き通している。
その勢いのまま体当たりをかまし、屋上の端の鉄柵まで二人して縺れるようにぶち当たる。
老朽化した柵がひしゃげ、錆びた鉄片を撒いて不吉に軋む。
それに背を預けたまま、妖術師が驚愕を口にした。
「馬鹿な、私が人間ごときに……!!」
「おおおっ!!」
志郎が雄叫びをあげた。
まだ終わりではない。
血濡れた刃を力任せに引き抜き、一閃させる。
円弧を描き、右の脇腹から左の肩までを存分に斬り裂いた。
更に二閃。三閃。四閃。
無我夢中に斬りまくる。
滅多斬りだ。
「く、くく、今回は私の負けか。だが、肉体は滅びても、魂は不滅だ。
いずれまた逢おう、狼よ……」
頭蓋を割られ、喉笛を深々と裂かれながらも不敵に笑い、スカイスタンの身体がぐらりと後方へ傾ぐ。
負荷に耐えきれなくなった鉄柵が、とうとう崩壊したのだ。
その残骸と共に、全身を血に染めたスカイスタンが落ちていく。
その先には全てを飲み込む、冥府の入り口のような闇が広がっていた。
「そうかい、なら何度でも斬ってやるよ……。狼の末裔の俺が何度でもな」
死闘を制した剣士が、その最期を見届け、誰に言うでもなく呟く。
それを最後に、疲労と苦痛で限界を迎えた彼の意識も、闇の中へと落ちていった。




