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6章の8

 志郎が死の淵をさ迷っている頃、琴美もまた、苦戦を強いられていた。


「ハイル、西の風ゼフィルスよ!! 無意識の海を司る女神達よ、我に力を与えよ!!」


 呪文を唱え、得意の風の魔術を行使する。

 渦巻くカマイタチが殺人鬼ジルへ走った。

 だが、風刃はエメラルドの竜鱗へ微細な傷をつけるばかりだ。


 ギシュゥッ!!


 つまらない攻撃に怒るように、ジルの両肩で竜の首が吠えた。

 口から吐いた息が風をかき消し、左右から蛇のようにのびた猛犬の顎とグリフォンの嘴が襲い来る。


「うわっ!!」


 思わず悲鳴が迸った。

 地を転がりながら回避する。

 コンクリートが柔らかい豆腐かチーズのように易々と噛み砕かれる光景は、何度も目の当たりにした。

 既に周囲の壁や床は、既に穴だらけになるほど喰い荒らされている。


「ウゥオーーッ!!」


 そして、猛威を振るう首以上の咆哮を轟かせ、ジルが地を蹴って疾駆した。

 大剣による袈裟懸けの一刀が迫る。

 真っ二つになる寸前、壁を蹴って上へ逃れた。更に天井を足場に飛び、首の届かない位置まで距離を取る。

 もはや幾度めになるか分からないほど繰り返した行動だ。


「逃げてばかりか。そんな事では、私は永遠に倒せんぞ」


 異形の身体となっても端正な構えを崩さず、剣を中段に留めたジルが言う。

 竜の肉体に馴染んできたか、その声は力強くハッキリとした音だ。


(分かってるわよ、そんな事)


 改めて、技術も実戦経験も足りない自分の未熟さを実感する。


 しかし、逃げ惑いながらも、心は折れていない。

 勝機はゼロではないのだ。

 今の自分にはハインリッヒから伝授された、白魔術がある。それを渾身の力で叩き込めば、悪魔を祓える筈である。

 それにはまず、喚起を妨害するための術が必要だ。


(よく考えて、どうすればいい……?)


 竜への変化を始めたジルを観察する。

 鎧の装甲は所々が崩れているが、右手に握られた剣は刃こぼれもなく、鋭い爪の伸びた四肢にも力がみなぎっていた。

 毒々しい輝きを放つエメラルドの鱗も堅牢で、明確なダメージは与えられていない。


(あれ?)


 一瞬落胆したが、下半身に流血が見える事に気付いた。

 細々とした数ヵ所の裂傷に加えて、左脇腹と下腹の二ヶ所が特に大きい。

 どれも、志郎の鬼切丸に斬られた刀傷だ。

 それだけが未だ治癒する事なく、足元へ点々と赤い滴を垂らしているのだ。


「ナイス、愛してるわよ志郎」


 鉄壁の防御の僅かな綻びを見つけて、精一杯不敵に微笑む。

 パートナーは、勝利のための置き土産を残してくれていたのだ。

 ふっ切れたように杖を構え、再度ジルへ攻撃を仕掛ける。

 死闘は佳境へと迫っていた。





「ギャアアッ!!」


 生者への妬みと怨みを発する死者の顔面へ、鋭い蹴りが入った。

 絶叫ごと頭部が粉々に砕け散る。


「む……これは」


 ホテル正面の敷地で、もう何十人目か分からぬ死者を砕いだシュレック子爵が首をかしげた。

 地面が微かに振動している。


「どうしたシュレック、足首でも挫いたか?」


 村正で敵を斬り倒しつつ、鳥羽が聞いた。

 既に、周囲は彼らに倒された動く屍が至るところに転がり、文字通り死屍累々とした様相を作り上げている。


「足は挫いていない。レイ・ラインが活発化し始めている」


「な、な、何ですか、レイ・ラインって?」


 頭を抱えて震える樹里が、初めて耳にする言葉の意味を問う。


「イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱した概念。

 簡単に言うと地下を走るエネルギー通路だ。幽霊はこのレイ・ラインから実体化のエネルギーを得て出現するという説がある。

 これはエネルギー通路でなく単なる地下水脈という説もあるが、幽霊と水の関係は密接だから強ち間違いでもない。家屋でも幽霊が現れる事が多いとされるのは、風呂場や便所といった水場だからな」


 四方から伸びてくる死者の腕や指を、順手に持ち替えた釵で絡めてへし折りながら、相変わらず呑気な口調で依子が説明する。

 どこまでもこの三人はブレない。


 と、その時である。

 頭上で破壊音が鳴った。

 ホテルの壁が粉々に砕け、大小の破片が雨あられと敷地内に降り注ぐ。

 ファウストの構成員は慌てて逃げ惑い、動きの遅い死者達が次々と頭や胴体を潰され餌食となる。


「あああああああっ!!」


 そして、その瓦礫と共に、空中に投げ出された琴美が吹っ飛んできた。

 どうにか猫のように身を捻り、浮遊術を駆使して地に降り立つ。


「長谷川さん!!」


 友人である樹里の声に、視線だけを返し、汗と埃にまみれた顔をマントで拭う。

 その視線は、強く空中をにらんでいた。

 後光さながら、輝く月に照らされ、闇の中で飛翔する者がある。

 背中に生えた巨大な翼を広げて、剣を携えた魔物の影だ。

 三つ首の竜人と化したジル・ドレエが、空を飛んでいる。


「な、なにあれ……」


 異形の姿に、樹里が絶句する。


「ほほぅ、グリフォンと犬の首に、エメラルドの鱗か……恐らく悪魔ブネだな。また物凄いのが出てきたものだ。一人で辛いのなら、手伝おうか?」


 依子が助力を申し出るが、魔女は首を横に振るった。


「お断り、一人でやれるわ」


「なら勝手にするといい。全く、お人好しのくせに、変なところは頑固だな」


 ふふふ、と相変わらず意地悪く笑う。


「だ、大丈夫なの……相手は本物の悪魔なんですよね?」


「そうだが、一人でやると言ったのはあいつだからな。まぁ見ていなさい。て、前も同じ台詞を言った気がするぞ」


 不安げな樹里の言葉を笑って受け流し、鳥羽も琴美の意見を尊重する。


 ジルが翼を小さく折り畳み、空中から地面へと降り立った。決着をつけるのは空ではなく、大地の上だ。


 ホテルの外へ戦場を移し、琴美とジルの戦いが再度始まった。


「コオオォ……」


 虎の牙が残った口から唸りを漏らし、ジルが青光りする剣を掲げる。

 たったそれだけの所作で、空気が変わった。

 何かが起こる。

 肌がひりつくような緊迫感。


「地獄にまします我らの悪魔、御名が崇められんことを。

 御国のきたらんことを。

 御心が地獄に行われるごとく、地にも行われんことを。

 我らの夜毎の楽しみを、今日も我らに与えたまえ。

 我らが負債のある者を許さぬごとく、あなたも負債のある者を許されませんように。

 我らを試みにあわさず、悪しき者を遣わされんことを……」


 悪魔と一体化したジルの口から、不気味な呪文が流れ出す。

 怨敵の命を奪う、西洋の呪殺法に使われる祈祷だ。

 生前、魔道に耽溺していたためか、彼にも術の心得があるらしい。


 魔を崇め讃える言葉を受け、両肩の猛犬とグリフォンが喉を反らして歓喜の咆哮をあげた。


 呼応するように、ブネの力に操られた死者の怨念と、地面から放出される陰の気が、ジルの剣へと集まっていく。

 安らかな眠りを妨げられた事への抗議か、刀身に老若男女を問わず、夥しい数の死霊の顔が浮かんだ。

 その表情は例外なく苦悶である。


「レイ・ラインのエネルギーと死者の怨念を剣に集中させているのか。私の呪剣みたいなものだな。あれはかすり傷でも危険だぞ」


 いかにも面白そうな口調で、シュレック子爵が言う。


「……来る」


 依子が一言、誰に聞かせるともなく呟いた。

 それが琴美の耳へ微かに届いたその瞬間、ジルが突進してくる。



「バーラ・フリー、バーラ・フリー、ローキー、ローキー、バーラ・フリー、バーラ・フリー!!」


 真正面から肉薄する剣士に対し、すかさず術を行使した。

 火炎を操るロキの呪文だ。

 五行において火は陽に属する。陰に属するレイ・ラインの水気に少しでも有効かと考えたチョイスである。

 早口で詠唱し、虚空に出現させた火球を叩きつけた。

 爆炎がスタンディングオベーションし、もうもうと煙が舞う。


 だが、その煙の壁が奇妙な渦を描く。


「!?」


 驚愕する琴美の眼前、火柱と黒煙を裂いてジルが現れた。

 手首のスナップを利かせ、猛烈な勢いでスクリューする刃が漂うスモークを攪拌して急接近する。


「ぐうっ!!」


 とっさに杖を横薙ぎし、軌道をそらす。

 リズミカルに円の閃光を残し、すすっとジルが逃れた。

 即座に、今度は真横から回転剣が襲いかかる。

 肉体と剣が一体となり、ともに円の動きをする。

 琴美も杖を振るって迎え撃った。


 互いの武器が噛み合い、ギャリリと耳障りに鳴く。

 力も技量も劣る琴美は、受け流すのに精一杯だ。

 今までの実直な太刀筋とは一変し、踊るように幻惑の閃きを見せるそれは、さながらサソリの毒尾である。


 更に、間合いを取る為に後方へ退いても、間髪をいれず両肩の竜の首が伸びて追いすがる。

 噛み殺されないように、琴美は一心不乱に逃げ廻った。


 それを更に追撃するべく、ジルが高く跳んだ。

 妖気をまとわせた刃を高く掲げ、頭上から斬り落とす。

 真っ向唐竹割り。

 死霊を凝縮させた刃が、空気を裂いて不気味に鳴いた。

 風切り音に鬼哭が混じる。


 身を捻り、その一刀を何とか回避する。

 フィギュアスケーターのようにスピンしながら、横っ飛びに逃れた。


 鈍色の刃風が走り、轟音が鳴り響く。

 斬撃の凄まじさを物語るように、琴美が数瞬前まで立っていた石畳が地割れさながらにひび割れ、深く抉られていた。

 夏も近いというのに、剣の切り口には霜が降り、異常な冷気が周囲へ散る。


「よく、かわした。だが、いつまで続くかな」


 ジルが地面から剣を引き抜き、ゆるりと両手持ちに構える。

 その全身からは、あふれんばかりの気迫と殺意がみなぎっていた。


 巨山のように重く伸しかかる、剛壮の迫力。


 一切の手加減がない、ジル・ド・レエの本気の力だ。


「うぅ……」


 琴美が苦しげにうめいた。

 強い疲労を覚え、視界が茫洋と霞む。

 間合いを測ろうにも、全く距離感が掴めない。

 全身から緊張が失われて、瞼が重くなった。眠い。とにかく眠い。

 重い風邪をひいたような寒気を伴い、意識が遠のく。

 直接斬られたわけでもないのに、じわじわと体力が削られている事だけが辛うじて理解できる。

 剣風にさえ呪詛が込められ、それを浴びた彼女を蝕んでいるのだ。


(強い……強すぎる……)


 技量差か体力差か。

 いずれにせよ、このままでは押し切られて死ぬ。


「ハァッ!!」


 素早く間合いを詰めたジルが、切っ先をうねらせた。敵の武器を絡めとる動きだ。

 じぃんとした痺れを残し、琴美の掌から杖が弾き飛ばされる。

 もはや立つことすら難しいのか、武器を弾かれた勢いのまま、琴美は背中から倒れていた。


「…………」


「呆気ないな、もう力尽きたか」


 頭の真横、ぼっ!! と大気が穿たれて、鼓膜を揺らす。

 肩口に刺さるギリギリのラインで、ジルがコンパスのように剣の切っ先を立てている。

 そのまま刃面をスライドさせれば、彼女の細首を切断できる位置だ。


「は、長谷川さん!!」


 離れた位置から、樹里の悲痛な声が聞こえた。

 三幹部たちは無言だ。

 ふがいない後輩の最期に呆れているのか、それとも哀れんでいるのか。


「これで終わりだ」


 ぐしゅっ!!

 肉に刃物が食い込む、異様な音がした。

 だが、琴美の首はまだ繋がっている。

 凶刃は首筋に喰らいつくまで僅か数ミリ、皮一枚残して動きを止めていた。


「なにっ!?」


 ジルが驚愕の声を発した。

 琴美のマントから、長柄が伸びている。

 悪魔の尾を現す三叉槍(フォーク)だ。斜め下から突き出されたその穂先が、ジルの腹部へ刺さっているのである。

 鬼切丸につけられた傷に、特徴的な三つ叉の刃がぞぶりと潜っていく。


「新しい武器だけど、さっそく役にたったわね……」


 身体を起こし、魔女が微笑を浮かべた。


「手を縛る、歯を縛る、骨を縛る、舌を縛る、口を縛る、蛇の皮で縛る。

 いつも不幸があるように!!」


 そして、ジルの背後から呪文が唱えられる。

 声の主は、いつの間にか琴美が出現させたドッペルゲンガーだ。


 たちまちジルの全身へ、細長く黒い鱗状の模様がミミズのように浮かび、エメラルドの竜鱗を覆って絞め上げる。

 両肩の竜が荒れ狂うが、びくともしない。

 不可視の蛇霊が殺人鬼に巻きつき、その動きを封じているのだ。


 紀元前の古代メソポタミア文明を発祥とする呪法“蛇皮の呪い”である。


「まだまだ、次!!」


 落雷を呼び寄せるオークの杖にまたがり、もう一人の分身が空中に現れた。

 鍛練によって出せるようになった、三人目のドッペルゲンガーだ。

 ジルに気付かれない位置に出現させ、今まで身を隠しながら術を練っていたのである。


「“ミョルニル”!!」


 三人目がトールの戦鎚の名を唱え、虚空に雷光が迸る。

 三叉槍の石突きに雷が落ち、長柄を伝って内部からジルの肉体を破壊した。

 鎧の装甲が弾け飛び、エメラルドの鱗が焦げ付く。

 腹部の傷がわずかに広がり、赤黒い飛沫が四散した。


 ぬおおお。

 吐き出す息に声を混ぜて、ジルが腹部に刺さった三叉槍へ手をかけた。

 自由の利かない腕に力をいれ、引き抜く。

 打ち捨てられた槍が、がしゃっと甲高い音を立てて地面へ転がった。


「よくやった。しかし、こんなものではまだ倒れんぞ……!!」


「だから、分かってるわよ、そんなこと」


 マントから小さな水晶柱を取り出し、掌で弄びながら、一言返す。


LEVIATAN

ERMOGASA

VMIRTEAT

IORANTGA

AGTNAROI

TAETRIMV

ASAGOMRE

NATAIVEL


 如何なる意味があるのか、その表面には縦横8列に配列された、精緻なアルファベットがびっしりと刻まれていた。

 重要なのは、ダメージを与えることより、傷口を広げることだ。

 切り札を少しでも深く、敵の身体へ撃ち込むために。


 まだ“蛇皮の呪い”の効果は続いているが、ジルの力は依然として衰えず、今にも束縛を振りほどきそうだった。

 次はない。これを外せば確実に負ける。

 水晶を親指と人差し指で手挟み、狙いをつける。妖精の矢の構えだ。

 精神的にも体力的にも限界が近いが、気力をふり絞り、やれると強く念じた。

 神でも悪魔でもなく、信じるのは自分自身だ。


 数秒の逡巡。

 そして、撃つ。


 水晶が矢となって放たれ、ジルの腹の傷へドリルのように回転しながら潜った。

 成功だ。


「……勝ったな」


 ぼそりと、鳥羽が呟く。



「こ、これは……!?」


 直後、ジルの全身からピシピシと、陶器がひび割れるような音がした。

 身体を覆う鱗へ瞬時に亀裂が走り、裂け目からドロドロに溶けた肉と、湯気をたてて煮えたぎる血が、黒い泡になって溢れ出す。

 体内の体液が逆流し、沸騰しているのだ。

 両肩のグリフォンと猛犬も血を吐き、首を捩りながら、身の毛もよだつ悲鳴を轟かせている。

 それはまさしく『竜公』ブネの断末魔であった。


「アブラメリンね……私の護符(アミュレット)をああ使うとは、考えたな」


「なるほど。さっきの水晶、元はお前のか」


「ふふん、まぁね。あれも長谷川くんに与えたもののひとつさ」


 依子の問いに、どうだと言わんばかりにシュレック子爵が胸を張った。


 アブラメリン、正確には『アブラメリンの聖なる魔術の書』。

 ライダータロットの考案者アーサー・ウェイト、女流魔術師ダイアナ・フォーチュン、そして『666の獣』アレイスター・クロウリーといった、近代において重要視される有力な魔術師を多数輩出した結社『黄金の夜明け』の首領マグレガー・メイザースが、パリのラルスナル図書館より発掘・英訳した事で知られる魔術奥義書(グリモワール)である。

 全三章から成り、第一章はユダヤ人アブラハムがこの術に出会い、それを息子ラメクへ伝えようとする経緯。

 第二章は、術の習得方法や思想・哲学。

 第三章では、術の行使の際に必要な護符が紹介されている。


 この書の特徴として、多くの魔導書で紹介される印章(シジル)や魔法陣は使用せず、代わりに四角形に配置されたラテン文字の護符を使用することだ。

『祈りの6ヶ月』と呼ばれるおよそ半年間の隠遁生活など、習得には厳しい修行が必要とされるが、これを乗り越えた者は聖なる霊の力により、名だたる悪霊・悪魔を自在に従えることが可能になるという。


 そして、その真髄のひとつは、他者の魔術の妨害にある。


「ペルーン・ヴォーロス・ストリーボグ・ダージボグ・ホルス・モコシ・セマルグル……」


 琴美が長剣を抜き、鍔を胸元の高さに留めて、呪文を唱えた。

 勇気を司るドラゴン退治の聖人、聖ゲオルギウスの法だ。詠唱しながら、自らの持つ剣が、ドラゴン退治の聖剣であることを強くイメージする。


「父と子と聖霊の名において。唯一の神へ祈りを。

 癇癪と凶眼に対して。アウロ・メラ・エル、メトウェ・メラ・エル、コルキング。

 これらの名で呼ばれる神よ、彼女を癇癪と凶眼から救いたまえ。

 眼の陰とザールの眼から、人々と悪魔らの眼から、仙痛と頭痛から、切痛と激痛と尿痛から。

 汝が僕、テクラ・ハイマヌトの娘を救いたまえ。


 父は火、子は火、聖霊は火、悪魔の枷。

 ベタラニヨウ、ベジュネ、カシュン。そしてヴェアイファ・サタヴィアス、マシュファタネルシェ、キーヤキー、バロンス、カトリヤヌス。

 これらの名で呼ばれる神よ、悪魔らを縛りたまえ。


 すなわちバリアとレゲウォン、ダバスとジン、サラウォギとファゲン、ザールとナゲルガル。疫病と急病、激痛と卒中、狩る者と触れる者、狡知に長けた者と狂える魔術師(ブダ)、窒息と激しい発作、熱と悪寒、周期的な病を縛りたまえ。


 彼らが彼女、汝が僕、テクラ・ハイマヌトの娘に近付くことのないように」


 魔を祓う詠唱が流れるように溢れ出す。

 剣の刀身が、闇夜を照らす白い輝きを帯びた。

 詠唱に力が入る。


「して、魔王、顔を闇に覆われし者は恐れ慄いた!!

 神、生身に生まれた全能なる者を地獄に見たときには。

 エル、ムエル、ジャンエル、イリルファルサンガナ・エル、ムエル、テルク・エル、ワリル・エル、ズエル、ブエル、ムエル!!

 天と地の創造者よ。邪者、悪人、魔法使いがもたらすあらゆる難儀、窒息、発作から私、汝が僕、テクラ・ハイマヌトの娘を救いたまえ!!


 神に不可能はない!!」


 祈祷文の全てを読み終えると、志郎に教わった示現流の構えで、地を蹴った。


「チェストォッ!!」


 白い刃が半月の軌道を描き、ブネの竜鱗を裂く。薄紙を切るように刃には抵抗がない。

 斬るのは実体ではなく、悪魔ブネと殺人鬼ジルの魂である。

 左肩口から右脇まで、ジルの身体に輝く切り口が刻まれた。そして、


「…………ナーデ・レトロー・サターナス(邪悪よ去れ)!!」


 悪魔の体内から、光が爆発した。


 太陽が暗闇を駆逐するように、全てが一瞬で飲み込まれる。

 眠りを妨げられた霊が安らかな顔で消え、ゾンビ達は砂のように細かい塵となって砕け散る。

 レイ・ラインも活動を停止し、あらゆる死霊の気配が消滅した。

 静かで爽やかな、しかし生者の活気に充ちた、初夏の夜が戻ってきたのだ。


「見事だ……」


 そう呟いたのは、地面に手足を投げ出して倒れたジルだ。

 辛うじて人体の原型を保っているが、両肩の竜の首が二つとも千切れ、胴体は大きく裂けて、四肢もグチャグチャに潰れている。


 しかし、その顔は琴美には不思議と穏やかなものに見えた。

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