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6章の6

 両肩を突き上げる肉瘤を揺らしながら、ジルが地を踏みしめた。

 一歩、一歩、確実に進む。

 その都度、射し込む月明かりの角度が変化し、毛皮の下でぬめる鱗から灰緑色の光が乱反射した。

 耳まで裂けた口からは、ふしゅぅと爬虫類めいた息と共に、二又に分かれた舌が顔を出す。蛇やトカゲが空気中の臭い成分を探る動作に酷似していた。

 二本足で立ち、剣をたずさえた人間の姿勢。

 虎の毛皮と牙。

 爬虫類の鱗と爪。

 三つの形態が入り雑じった、変異の段階だ。


「ギシュアアアア!!」


 ケダモノめいた咆哮を放って、ジルが跳んだ。

 巨体から想像もつかないほどの身軽さで反転したかと思えば、落下する事無く四肢を天井へ突き立て、逆さにぶら下がる。

 コンクリート材の微かな凹凸に鉤爪を引っかけて、ヤモリのようにへばり付いているのだ。

 そのまま顔や身体は志郎と琴美の正面を向き、二人へ向かう。


「シャッ!!」


 猛烈な素早さで接近し、銀の爪が死神の鎌のように薙ぎ払われた。

 ジルの腕力はすでに確認済みだ。まともに食らえば頭が吹っ飛ぶ。

 二人してもつれるように床へ伏せ、爪撃から逃れる。

 琴美の身体に覆い被さり、志郎が彼女を庇う形になった。

 床に堆積した土埃が全身を派手に汚すが、死ぬよりは遥かにマシだ。

 頭のすぐ真上を鋭利な凶器が掠めていく恐ろしい気配に、死を覚悟せずにはいられない。


 床を二人して転がりながら、志郎が手裏剣を投げ、琴美も妖精の矢を放つ。

 しかし、どちらも鱗に弾き返され、床に落ちて虚しい音を反響させる。

 悪魔ブネの鱗はそれ自体が強固な鎧だった。


 蛇の威嚇音に似た唸りを発し、天井から壁伝いを這いずり、ジルが降りてきた。

 四つん這いから姿勢を直し、二足で地を踏みしめ、長い爪の伸びた手が器用に剣を構えた。

 構えはやはり基本の中段。

 地獄の大公爵の魂をその身に宿らせながら、ジル本人の意識も未だ残っている。


「立て長谷川、早く!!」


「は、はい」


 切羽詰まった声をあげて、志郎が相棒を無理矢理立たせる。

 彼女を庇うように、そのまま前へ出た。


「クッ……フフッ」


 それを見て、ジルが小さく息を漏らした。

 笑うたび、乾いた肉片が顔から剥がれ、皮膚をじわじわと侵食する緑色の鱗が顔を出す。

 異常な光景だが、その声は不思議と耳に不快でなく、滑らかな発音に聞こえた。笑っているのだ。

食人虎の微笑。


「グオオオオーーーー!!」


 そして、動いた。

 咆哮と同時の跳躍。

 距離が縮まり、瞬時に志郎とジルが一足一刀の間合いへ到達する。

 唐竹割り。

 摺り上げ。

 胴薙ぎ。

 逆胴。

 小手。

 突き。

 袈裟斬り。

 逆袈裟。

 両肩の巨大な肉塊をものともせず、ジルの刃がありとあらゆる角度から間断なく、怒濤のように襲いかかった。


 志郎も刀を正眼に構え、迎え撃つ。

 連綿と続く打ち合いになった。

 両者の間で刀と剣が激突を繰り返し、激しい剣戟音と火花が散った。


 琴美にはその様子が互角の打ち合いに見えたが、志郎が行っているのは主に回避と受け流しである。

 力に対して力で返すのではない。

 逆らわずに衝撃を逃がすのだ。

 そうしなければ、圧倒的な剣圧の前に叩き潰されてしまう。


 琴美を守るように背後へやり、しばし防御に廻る。肝を潰しながらも反撃の機会を探った。

 息を大きく吸い、細く、長く。ゆっくりと口から吐き出す。

 呼吸と心拍を整えて、相手を見据えた。

 やはり、斬撃のひとつひとつは基礎を守ったオーソドックスなものだが、それ故にジルの強さを嫌というほど感じる。

 更に、踏み込み、足さばきも信じられないほど速い。


 ホームズやエリザベートのように魔人としての能力に依存するわけでもなく、ハールマンや以蔵のように相手を不必要にいたぶり、なぶり殺そうとするわけでもない。


 武人として。剣士として。

 全てを以てジルが志郎へ挑んで来ているのが、感覚で分かるのだ。

 そこから隙を見出だすのは困難であるが、それでも隙が全く無いわけではない。


 下半身。微かに攻撃の層が薄い。

 正眼の構えから右半身を退き、刀の切っ先を後方へ向ける。脇構えだ。

 前方に晒した右半身は無防備となる代わりに、相手からは刀身の視認が難しくなり、間合いを狂わせる効果のある実戦向けの構えである。


「きええーっ!!」


 乱れ狂う金属光の合間。糸のように細い空間を縫って、志郎が仕掛けた。

 脇構えから上方へ、すくい上げるように切っ先が鋭く閃く。

 甲冑の継ぎ目がある股間を狙った。脳天まで真っ二つにする気迫を込める。


 だが、切っ先は届かず、ジルの左足の裏で火花が散り、ギシリと金属の擦り潰れる鈍い音がした。

 地を舐める剣風だけが、足元で一瞬吹いて消えていく。

 鬼斬丸の一刀を、ジルは装甲の残っている足の裏で受けたのだ。


「ちっ!」


 舌打ちして志郎が武器を引く。引こうとした。引け….…ない。


「!?」


 戦慄が走る。

 足指から伸びた爪が、蜘蛛の脚のように刀身に絡みつき、凄まじい力でその動きを封じているのだ。

 しまった、と声に出す間もなく、前方に影が差す。

 巨木のようにそびえたジルの右手が剣を掲げ、頭上から差し込む月光を遮っていた。


「どおおああっ!!」


 咄嗟に刀から手を離し、転がるように飛び退く。

 僅か数ミリの間隔を空けて、鋭利な切っ先が薙ぎ払われる。ちょうど喉仏の位置だ。

 鬼切丸が手元から離れてしまったが、辛うじて命を拾うことは出来たとも言える。


 すぐさまジャケットの裏地に隠した七首を抜き、体勢を整えて片手で構えた。

 刃渡りは短く、刀身に厚みもない。

 ジルの重装備と渡り合うにはいかにも頼りないが、こんな貧弱な刃でも無いよりはマシだ。

 柔術の技で組み付き、転がせば、急所は十分狙える。

 志郎の眼には、消えることのない闘志が燃えていた。


 その様子に、硬い鱗で埋まったジルの口角がゆっくりと吊り上がり、刀を捕らえた足を振る。

 サッカーボールでも蹴る様な無造作さだが、鬼切丸が狙いすましたように志郎の元へ飛び、目前の位置へ突き立つ。


(やっぱり、彼は今までの相手とは違う)


 その様子を見て、琴美が小さく頷く。彼女はジルの本質を既に見抜いたようだ。


「使えってのか……?」


 怪訝な顔をしつつも、敵から返された愛刀を地面から抜き、構える。

 志郎もジルという男の内面を掴み始めていた。

 多くの幼い少年達を強姦の末に殺害するという、おぞましい所業で知られる大殺人鬼であるが、彼は同時に正々堂々とした戦いを尊ぶ騎士でもある。

 今まで戦った四人と違うのはそこだ。故に殺しに遊びを見出さず全力でこちらを潰しに来るが、逆にそこが付け入る隙になるかもしれない。


 しかし、状況は彼らにそこまでの作戦を練る猶予を与えてはくれなかった。


 風化したガラス窓や扉を破る音を伴い、夢遊病のような足取りの一団が、死闘の舞台である教会跡へ雪崩れ込んできたのだ。


 みな一様に黒のボディスーツが裂け、露出した肌は血の気が引いて、何かしらの深傷が見える。

 戦いに敗れた戦闘員の成れの果て。

 ブネの力に操られた死人達である。

 スカイスタンが、剣を掲げて歓喜の声を上げた。


「偉大なる地獄の大公爵ブネ、生贄を受け取るがいい!!」


 漆黒の刀身が、鋭く風を裂く。

 妖風を孕むマントをはためかせ、なんとスカイスタンは自らの下僕であるジルにその刃を振るったのだ。

 ぞぶぞぶ、と肉を断つ嫌な音が連続した。

 左右一文字斬り。

 交互に繰り出された斬撃が、両肩に生えた肉瘤に深々とした裂け目を刻む。


「ウオオ……!?」


 ジルにもこれは予想外だったのだろう。苦痛と驚愕が入り混じった唸りを放つが、不思議なことに出血は殆ど見られない。

 代わりに、ぬめる緑色の鱗の中にひかれたクレバスの中では、ゲルかゼリーのような得体の知れない物質が、生体から抜き取った臓器のようにドクンドクンと動悸を打っている。

 半透明の不気味なピンク色の肉の中には、網目状に巣くった青黒い血管が透けて見えた。


 あまりのおぞましさに思わず志郎は目を逸らし、琴美も嘔吐を堪える様に口元を抑える。

 怪物相手には耐性があるはずの二人ですら、そのゲル状物質を見ているだけで、根源的な嫌悪や恐怖が怒涛のように押し寄せてくるのだ。


 そして、不定形生物のように所在無く動いているかと思いきや、ゲル状物質は徐々に固形への変化を見せ始めた。

 右側の瘤は、クレバスがさらに左右へ大きく裂け、無数の鋭い牙と長い舌が形作られ。

 左側の瘤は、前方へ細く鋭く、歪曲した形に伸びていく。猛犬の顎と、グリフォンの嘴だ。

 肩に出来上がったその魔獣と怪鳥の口へ、死人達が次々と引き寄せられる。

 ばりばりと肉と骨を砕く、凄まじい異音が響き、血飛沫が四散した。


 六人ほどを瞬く間に平らげると、今度はその質量を利用してか、ジルの全身が一回り大きく膨張し、瘤が天井に届きそうなほど、蛇のように長く伸び始めた。

 いや、蛇ではない。

 竜の首である。


「まずい、このままじゃブネが完全な肉体を得てしまう……」


 冷や汗を滲ませ、琴美が思案する。

 何か無いか。状況を少しでも変えるきっかけが欲しい。


「……仕方ない。あんまりやりたくないけど」


「長谷川、おい?」


 苦渋の決断をする。死ぬかもしれないが、このまま二人でジルを相手にしていても、埒があかないと判断した。


「二手に分かれましょう。私はここでジルを食い止めるから、あなたがその間にスカイスタンを倒すのよ」


「ちょっと待て!? そんな無茶な」


「大丈夫、ちょっと白魔術の訓練を受けてきたから、私だけでも悪魔祓いはできる。だから、あんたは術者であるあいつに集中して」


 真摯な表情で、真っ直ぐ目を見つめて言う。

 この顔に志郎は弱い。


「分かったよ。さっさと片付けて帰ってくるから、勝手に死ぬな!!」


 刀を鞘に納め、呼吸を整える。

 心の迷いは捨てる。もはや猶予は残されていないのだ。

 そして腰を低く落とし、地を蹴って疾走した。


 ゴロゴロと雷を孕んだ黒雲のような唸りを放って、二つの竜の首がそれを追う。頭から自分を飲み込み、食い殺そうとしてくる大顎と嘴をかいくぐり、間合いを詰めた。

 見据える相手は、魔剣を手にしたマントの怪人である。


「いええええーー!!」


 怪鳥の如き気合と共に、抜刀した。

 甲高く、激しい金属音が廃墟の夜気を揺らす。


「面白い」


 抜き打ちの一閃をサーベルで易々と受け、スカイスタンが嗤った。

 細身の身体のどこにそんな膂力があるのか、渾身の斬撃を涼しい顔で受け止め、片手で鍔迫り合っている。


「ジル、その娘は貴様に任せた。私は彼に付き合うとしよう」


 御意、と唸りのような声で返し、竜へ変化しつつある巨体が魔女に向き合った。


「では、付いて来るがいい。狼の末裔」


 鍔迫り合いを解くと、スカイスタンが音も無く床を滑るように走り出した。




 瞬く間に遠ざかっていく相棒の背を見送り、魔女の衣装に付いた埃をはらいながら、琴美が敵へと改めて向き直った。


 悪魔ブネへの完全な変異を始めた、殺人鬼ジル・ド・レエと対峙する。


「戦う前に話をしましょうか。あなたは今まで戦ってきた、他の連中とは少し違う気がする」


「イ、いや、同じだ。わ、ワタしも、殺しを楽しんでいたのは、タ、たしかダからな」


 変異が身体に馴染んでいないのか、牙の生えた口から、たどたどしい発音の声が漏れる。


「しかし、お、思い出シタのだ。ワタシは、カ、彼女二、再び会いたかった」


 ジャンヌ。

 割れ鐘のような不協和音のなかで、その名だけが美しいほどの響きとなって、琴美の耳に届く。


「なるほど、あなたがブネを呼び出した理由が分かったわ」


 いつしか手段と目的はすり替わり、子供たちを犯し殺すことに愉悦を覚える事になってしまったが、彼が黒魔術に傾倒し多くの児童を殺したのも、全てはジャンヌに再び会う為。

 そして、死者との再会を強く望む心に、亡霊の魂を操ることに長けた『竜公』ブネが応えたのだ。


「でもね、その夢を叶えさせるわけにはいかない。悪魔は祓わせて貰う!!」


 杖を構え、口の中で小さく呪文を唱えると、周囲に風が巻いた。

 それを威嚇するように、ジルの両肩から伸びた二つの首が吼え、彼も剣を上段に構える。

 5番目の殺人鬼ジル・ド・レエとの、最後の戦いが始まろうとしている。




 一方、スカイスタンを追う志郎は式場跡から廊下を抜け、階段を駆け上がり、上へ上へと昇っていく。

 やがて二人は屋上へと出た。

 錆付いた鉄柵に四方を囲まれた長方形の空間を、月の光が照らしている。


 決闘の場に、二人の剣士が立った。


「恋人を見捨てるとは、意外と薄情な男だな。ジルは地力だけでも、恐らく私が蘇らせた者の中で最強だ。あの未熟な魔女に倒せると思うかね?」


「これでも信頼してるんだよ。お前と一緒にするな」


 口は悪いが、以前に比べて彼も少しは落ち着いている。

 この程度の揺さぶりでは動じない。


「そうか。では、始めよう」


「その前にひとつ、聞かせてくれるか。

 お前は何でこんな事をする。人を殺して、悪魔を呼び出す事に何の意味がある?」


「ふむ……」


 薄笑いを浮かべ、スカイスタンが顎に手をあてた。


「もう気が遠くなるほど昔の記憶さ。私はある貧しい村の外れに住んでいた。病に冒された者に薬を調合し、凶事等があれば祈祷をして生計を立てていた。そんな気がする。

 だが、ある日あの忌々しい十字架を掲げる連中がやってきて、家も家族も焼き払ってしまったよ。そのとき、何者かが私の声に答えた」


 淡々と語るが、実際のそれは想像を絶する悲劇だったに違いない。

 そして、魔女狩りで全てを失った術師の怨念に、悪魔がつけ込んだ。

 自分たちが物質界で活動する肉体を得るために。


「気が付いたら、いつの間にか私の手には、この剣があった。そして、頭に響く声に従い、全ての者を斬り殺していた。それが、私が妖術師となった顛末さ」


「なるほど、お前が悪魔を呼び出すのは復讐のためか」


 ふ、とその言葉を妖術師は一笑に付す。


「いや、そんな事はもうどうでも良い。今はただ人の苦鳴が心地よい。怒りや憎しみは私の力を更に強める。この世が地獄に沈む光景を見てみたい。ただそれだけだ」


 じわり、と紙の上へ鮮血をおとしたように、スカイスタンの両眼が真紅の色を帯びる。

 魔に取り憑かれた狂気の光だ。

 家族への想いすら、既に彼にはない。純粋な悪意だけに支配されている。


「そうか……良かった。これで俺も心置きなく、お前を殺せる」


 刀をゆっくりと構え、切っ先を中段に留める。


「ガキの頃から何で俺みたいな奴がいるのか分からなかった。

 鼻が利くのも馬鹿力も、他の子供には無いものだったからな。

 でも、それでお前みたいな奴と戦えるなら、少しは有意義だ!!」


 いくぞ、一声吼えて、力強く地を蹴った。


 スカイスタンも、宙空を滑るような動きで迎え撃つ。


 白銀の刀と暗黒の剣が、闇夜の中で激突し、幾度となく交差した。



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