6章の4
「うっ……」
「涼しい。なんだ、これ」
先に踏み入った琴美がうめき、それに続く志郎が怪訝な声で呟いた。
一歩足を踏み入れただけでも分かる。明らかに外とは雰囲気が違った。
敵の本拠地であるホテルは、死闘の続く外部とは隔絶され、異常なほどに静まり返っている。
長年放置され続けた内部は風雨と泥に侵食され、荒れ果てた様子だった。胆試しにでも来た若者たちが残したのだろう、赤や黄色やショッキングピンクといった、色とりどりのスプレー塗料で施された、品のない落書きも所々に目立つ。
にも関わらず、内部は淀んだ陰気さや埃っぽさを感じさせない。夏が間近に迫る時期というのに、湿気も暑さも無く、冷たく澄んでいる。
それがかえってこの場では不気味である。
冷え冷えとした空虚な静寂に、全身が総毛立つ。
「……これは、建物そのものが聖別されようとしている。急がないと不味い!!」
相棒の焦りを帯びた言葉に、志郎が聞き返す。
「聖別って?」
「元は神学の用語。簡単に言えば道具を清めたり、パワーを注入したりして、魔術や宗教的な儀式に使用する聖なる物として日常から切り離すって事ね。このホテル自体が魔術のために造られた神殿そのものになると言っても良いくらいよ。
儀式とは関係ない悪霊や不浄霊がいると術に影響が出るから、そういうものを追い払う為に場を清めるのは基本だけど……。こんな手入れもされてない廃屋を丸ごと聖別するなんて、やっぱりとんでもない相手だわ」
つまり、敵は今まさに、犠牲者たちの首を用いて、殺人鬼に悪魔を宿そうとしているのだ。
そして、大がかりな儀式であればあるほど、それが行使された際の威力は桁外れなものになる。
「なるほど。これで本当に最後ってわけだ」
事件の全てに決着をつける時が来た。
鬼切丸の鯉口を切ると、志郎が鼻を鳴らし、周囲の臭いを嗅ぐ。
鋭敏な嗅覚は、正確に目的の位置を捉えている。腐敗した血液に香料や毒薬を混ぜた、あの染料の臭いの筋が出来ているのだ。
それを辿れば、その先にジルとスカイスタンがいる。
「ついてこい」
「うん」
言葉は少なく、しかしお互い緊張が伝わった。ほぼ同時に廊下を走り、階段を駆け登る。
差し込む月光が、広い部屋を静かに照らしていた。
祭壇も椅子も取り払われているが、ヒビ割れたステンドガラスと、薄汚れたワインレッドの絨毯は、そこがかつて結婚式に使用されたチャペルである事を辛うじて証明している。
ふと、何処かから生温い風が吹き込んだ。
天井から垂れ下がる、細長い糸に吊られた振り子のようなものが静かに揺れる。それはイエス・キリストの磔刑像であった。
チャペルの壁から何組もの新郎新婦と、祝福する親族や友人達を見下ろしてきたであろうその像は、人類の罪を背負った姿を冒涜すべく、頭頂を地に向けた醜態を晒している。
神への冒涜を意味する、犬の十字架だ。
そして、部屋の床の至るところでは、さながら湿地に群生するキノコのように手が突きだしていた。
何かを掴もうとするように、五指を広げて硬直した、青ざめた屍蝋の手。
切り取られた人間の手首だ。
ハンズ・オブ・グローリー(栄光の手)と呼ばれる、罪人の手首を切断して作製された魔術道具である。
その掌の上ではことごとく、奇妙に黄色い蝋燭が橙色の炎を灯している。
これも魔術に用いられる、人の屍から採取された脂肪を固めて造った“死者の蝋燭”に間違いはなかった。
おぞましい光に照らされ、人の脂が熔ける臭いが満ちたその室内で、三つの影が揺れている。
ドクロの杖を携えたマントの怪人。
甲冑の巨漢。
ローブを纏った青ざめた男。
妖術師スカイスタンと殺人鬼ジル・ド・レエ。そして彼らに協力する組織『アリオク 』の首領だ。
「我等が謙遜の念を持って、この円に入らん。万能の神も、同じく、円に来たりたまえ。
永遠の幸福、神の富、完全なる喜び、あふれんばかりの慈愛、永遠なる礼を持って。あらゆる邪悪なるもの、ことに我が作業に敵対する悪霊をこの場より祓いたまえ。
混沌と争いを追放するこの円を、平和の天使たちに守り、助けさせたまえ。我等が上でより偉大に広がりたまえ。
おお、主よ、いと聖なる名よ。我等が対話と集いを祝福したまえ。主なる神よ、我等が謙遜なる集会を聖なるものとしたまえ、永遠なる祝福され、聖なるものよ。アーメン……」
外法を信奉し、世に混乱をもたらそうとする妖術師が口にするには、あまりに皮肉で悪趣味な文句である。
喚起した悪魔から身を守る魔法陣の内側に入り、東を向いて場を清める聖別の祈祷文を延々と読み続けていたスカイスタンが、ふと何かに気付いたように顔を見上げた。
「どうやら、エリザベートと以蔵が死んだか。これで残るは一人となったわけだ。喜ぶがいい、ジルよ。悪魔を宿すのはお前に決まったぞ」
その場には居なくとも、彼と殺人鬼達には何らかの繋がりが存在するらしい。エリザベート・バートリーと岡田以蔵が激闘の末に敗れたことを、スカイスタンは正確に察知した。
「ははっ、ありがたき幸せ」
頭頂から爪先までを鋼鉄に包まれた巨体が、スカイスタンの足元で平伏する。
これまでの四肢を覆う鎧に加えて、現在のジルはフルフェイスヘルメットのように、頭部を完全に覆い防護する、骸骨を模した兜を装備していた。
左右の側頭部からは水牛のそれを思わせる、鋭く太い角が伸びた禍々しい兜の奥で、猫科動物の瞳孔が黄金色の怪しい輝きを放った。
鋼鉄の下の肉体は既に、強靭な筋肉と獣毛を備えた虎人の形態を取っている事だろう。
その二人の傍らでは、首領がスカイスタンと同じく床に描かれた魔方陣の内側に立っている。
「な、なんということだ、もう後がない。このままでは私は……!!」
団員のことごとくを『ファウスト』メンバーに倒され、スカイスタンの甦らせた五人の殺人鬼も、四人が討ち取られている。正しく崖っぷちに追いやられた状況だ。
血の気を失った首領の顔は、もはや紙のように蒼白である。その身は死への恐怖で、哀れなほどに震えていた。
今まで多くの命を快楽のために奪ってきた者としては自業自得であろうが、今それを指摘する者はここに居ない。
「焦ることはありません。これから儀式を始めるのですから。今しばらくお待ちください、首領どの」
スカイスタンが慇懃な言葉で首領を一蹴すると、片手持ちに高くステッキを掲げた。
長柄の全長が折り畳まれるように縮み、先端のドクロもまた熱した飴のようにグニャリと変形しながら、杖にまとわり付いていく。
護拳と呼ばれる、鍔と一体化し、手指を覆い保護する構造を備えた刀剣の柄が現れた。
そして、上を向いたしゃれこうべの口腔から金属の擦れる音が放たれ、鋭い刃が伸びる。
真紅のドクロの鍔と、漆黒の刀身のサーベル。
以前志郎と戦った時のような不完全なものではない。恐らくこれがスカイスタンの杖の真の姿なのだ。
「サタンより賜りし魔剣よ、今こそその役目を果たすが良い」
足元には血液を腐敗させて作った染料を、なみなみと満たした壷がある。その中に剣の切っ先をどぶりと漬け、刀身に液体を付着させてから、勢いよく振るい、撒き散らす。
香料の甘ったるさと、毒物の刺激臭と、血液の腐敗臭。そして、死者の蝋燭が漂わせる、人脂の融解するすえたような異臭が入り混じる。
濃密でおぞましい臭気は死を連想させるものだ。
殊勝にも、嘔吐をこらえるような仕草をした首領を尻目に、死者の世界に迷い込んだかと錯覚しそうな程のおぞましい臭いの中を、スカイスタンは威風堂々と、肩で風を切るように力強く歩んでいく。
毎年地獄に下りては人々を苦しめるための悪事を働いていたという彼にとっては、この死臭こそ麗しい故郷の香りなのだろう。
「オ・イーアオ、イーア・イーア・アラディーア、イーオ・イーヴォアイ……」
唸るように呪文が唱えられると、黒い染みとなって床や壁や天井に点々と貼り付いていた染料がアメーバーのように蠢き、フロアの床一帯を埋め尽くす巨大な星型の図形を描き出した。
六芒星。
巨人戦士ゴリアテを投石器で打ち倒した功績により、羊飼いの身分から王座を獲得した伝説で知られる、古代イスラエルの王ダビデのシンボルだ。
ダビデ王は、72柱の魔神を自在に従えた偉大なる魔術師ソロモンの父であり、彼もまた魔術師として、この六芒星による強力な魔力を備えていたとされる。
「ジル、首を置け」
「はっ……」
命じられた通り、ジルが六芒星の上に、生首を置き始めた。
木箱に納められたそれらを、ひとつひとつ取り出し、六芒星の頂点と、それを構成する六本の直線の交差点に置いていく。
合計で12人の犠牲者の首は老若男女を問わず、老人もいれば子供もいる。妙齢の女性と思われる首もあれば、壮年の男性の首もある。
黙々と作業をこなすジルの瞳には、微かだが罪悪感のようなものが浮かんでいた。
「これで、よろしいですか?」
「うむ。では、星の中央に入るがいい」
促されるまま、巨体が甲冑を鳴らしながら、六芒星の中央に立つ。
準備は整い、ついに儀式が始まった。
「ここは混沌の砂漠の中央にそびえる神殿なり!!
形なく、姿なく、生まれなき闇の勢力達よ、我に耳傾けよ!!
我こそ汝らが主、汝らが支配者、我こそ神なり!!」
サーベルを高く掲げたスカイスタンの声が、魔を従える為の威圧的な呪文を紡いでいく。
「ヤハウェ」「アドナイ」「エヘイエ」「アドラー」
最初は円の描かれた地面に。それから更に南、西、北の順に向き、方角を変えるその都度、神の秘名を唱えながら剣を振るい、五芒星の形に虚空を斬り裂く。
ダビデの六芒星と、ソロモンの五芒星。
ふたりの王のシンボルが儀式に組み込まれているのだ。
室内で、不自然なほどの強風が吹き始めた。
蝋燭の火なら簡単に消えてしまいそうなほどの勢いだが、栄光の手に灯された炎は荒れ狂う風のなかで、ひとつも欠けることなく不気味に揺れている。
「我が頭上に八芒星」
暴風の最中、スカイスタンがサーベルをこれまで以上に高々と頭上へ突き上げた。
切っ先が精密に動き、今度は真円と、それを中心に伸びる八本の矢印を組み合わせた奇怪な文様を描き出す。
混沌印形。
闇の世界と現世の境界線を示すマークである。
それが描かれると同時、ピラミッドを思わせる角錐型の光の壁が現れ、六芒星を包み込む。
錐体は、魔術において発生すると信じられるエネルギーの上昇の形だ。魔女が頭にかぶる帽子の由来のひとつという説もある。
そのエネルギー・ピラミッドの中では、物言わぬ死人であるはずの生首たちがかっと目を見開き、黒い血の涙を流しながら、喉から怨嗟に満ちた、おぞましくも悲痛な絶叫を迸らせている。
憎悪・憤怒・殺意・未練・悲哀。
あらゆるネガティブな感情が込められた亡者の叫びが、生首たちの口腔から溢れ出す。
ビシ、メキ、と周囲のコンクリート材やガラスが軋み鳴き、生物の脈動を思わせるリズムで、壁と床が揺れ始めた。
廃屋が揺れている。
超局地的な地震が起きたように、周囲の森林の木々や大地には殆ど影響を見せず、古ぼけたホテルだけが異常な程にぐらぐらと震動していた。
「ほほぅ、コレはすごい。まさに怪奇現象だな」
山登りでたどり着いた頂上から麓を眺めるように呑気な口ぶりで、少しも緊張感のない台詞を依子が吐く。
それぞれの敵を撃破して集合した三幹部は、遠目からでも分かる異常事態を感心したような様子で眺めていた。
「二人とも、無事でいてね……」
敵の戦力の無力化を確認して連れ出された樹里だけは、二人の安否を気にしてか落ち着かない様子だ。
「ついに、悪魔が現世に降臨するか。スカイスタンとやら、お手並み拝見といこう」
「しかし、悪魔と言っても様々だぞ。あのジル・ド・レエの身に宿るのは如何なる存在だ?」
面白くなってきた、と言わんばかりのシュレック子爵に、鳥羽が疑問をぶつける。
「さて、そこまではさすがに私も予想できんが……ん?」
飄々とそれを聞き流していた自称貴族の末裔が、逆に首を傾げた。
なんの気無しに泳がせた視線の先で、モゾモゾと動くものがある。
「ひっ……!!」
真っ先にそれを視認したのは樹里だった。短い悲鳴が走る。
ボディスーツを着た三人の青ざめた男が、血まみれの手で直刀を掲げていた。
一人目は首がありえない角度に傾ぎ、二人目は胸に風穴のような空洞が穿たれている。
三人目は特に肉体の損傷が激しく、スーツの下腹部が大きく裂け、そこから嫌にてらてらとした光沢を放つ内容物が地面に垂れ下がっている。
普通ならとっくに死んでいるほどの傷だが、彼らはそれでも動きを止めない。
死んだはずの、敵の戦闘員だ。
「依子、御堂君を守れ」
いち早く事態を察知した鳥羽が、背中の村正を抜き放った。大上段に構えて跳躍し、生ける屍へ斬りかかる。
「きえええーーっ!!」
ぐばん、という鈍く生々しい音がして、まず一人が妖刀の錆になった。
胸に穴の開いた男が、脳天から両断される。
「はっ!!」
返す刀で、更に刃を一閃する。
空気を擦過する鋭い音が鳴り、銀の剣風と朱の血風が鳥羽の前面で巻き上がった。
残る二人の胴体と下半身が真っ二つに別れ、斬りつけられた衝撃に流されるまま、四つの肉塊となって地面に転がる。
切れ味の凄まじさを語るように、数秒の間をおいて外気に晒された断面が、猛烈な勢いで血を迸らせた。
しかし、それでもまだ彼らは動きを止めようとはしない。
芋虫のように身をよじらせ、生者へ襲い掛かろうとする。
四人が周囲を見渡すと、同じように動き出した死者が、続々と姿を現している。まるでパニックホラー映画だ。
「これは、呼び出そうとしている悪魔の影響か? ブードゥーのZOMBIEのような……。いや、あれは確か実際には農作業等を手伝わせたりするものだったかな」
シュレック子爵が興味深そうに顎に手をあてて思案した。その左肩口に、死者が大口を開けて噛み付こうとしている。
「うるさいぞ君。私は考え事をしているのだ」
それを蝿でも追い払うように裏拳を放ち、弾き飛ばす。顔面を殴り砕かれた死者が、鼻から血の糸を引きながら地面に叩き付けられた。
「そ、そんなのんきな……ひえっ!!」
樹里は頭をかかえて小さく縮こまり、四方八方から迫り来る死者への恐怖におびえながらも、精一杯の気丈さで正気を保っている。
「安心してくれ。この程度なら問題はない。君にはかすり傷ひとつ負わせないよ」
唯一の一般人を気遣うのは依子である。
破損したものに代わる真新しい杖を振るい、言葉通り群がる死者達を寄せ付けない。
「いよいよこの事件も大詰めだ。二人とも、上手くやれよ」
村正に付着した血糊を払いながら、鳥羽も愛刀を構えなおす。
樹里を守りながらの、三人の最後の戦いが始まった。
廃屋での悪魔を喚起する儀式は、最終段階に入っていた。
生首たちは延々と叫びを上げ、その声に呼応するように、床や壁が時折有機的にたわむ。ダリの抽象画の世界にでも迷い込んだかと錯覚しそうな光景である。
その怪奇現象の中心部に立つジルにも何らかの負荷が加わっているらしく、巨体が片膝を折り、重圧に耐えるような姿勢を取った。
その様子に儀式の成功を確信したか、スカイスタンが笑みを浮かべた。
今までの薄い微笑や嘲笑とは違う。文字通り満面の笑顔。
掲げた剣を胸の前に置き、狂喜の声で最後の呪文を叩きつけるように唱える。
「高貴なる暗黒の神殿はここにそびえたり!!
我こそ神殿の主、王子にして祭司、第二の太陽なり!!
我は神なり!!
形なく、姿なく、生まれなき者どもよ、我に耳傾け、聞き従うべし!!
アグロン・テタグラム・ヴァイケロン・スティムラマトン・エロハレス・レトラグサムマトン・クリオラン・イキラン・エシティオン・エクシスティエン・エリオナ・オネラ・エシラン・モイン・メッフィアス・ソテル・エヌマヌエル・サバオト・アドナイ!!
我は求め訴えたり、アーメン!!」
呪文を一息に唱え、最後の仕上げとばかりに切っ先を前へ突き出し、渾身の力をこめた一振りで宙を裂く。
それを合図に、生首の口から怨みの絶叫に代わる真っ黒な粒子が奔流となって溢れ出た。
12匹の黒い大蛇のようなそれらは暫く空中をのたうち廻ると、一斉に六芒星の中央、すなわちジルへ殺到した。
「ウオオオオオオオオオーーーーーッ!!」
鎧や兜の隙間から潜り込んだ粒子が、容赦なく肉体へ侵入する。凄まじい猛獣の咆哮と地響きが轟き、鋼鉄の鎧に覆われた巨体が床へ崩れた。
死を連想させる痙攣を起こしながら、剥き出しのコンクリートの上を転げ回る。その痙攣が収まると、殺人鬼の巨体はしばし彫像のように硬直した。そして、
「ぬ、う、うぅ」
低く呻きながら、ジルがむくりと立ち上がる。
いつの間にか蝋燭の炎は全てが消え、儀式の贄に捧げられた生首も乾いた砂のように崩れ落ち、跡形もなく消滅していた。
ふらつきつつも、腰の長剣を抜刀する。
油の切れた機械のようにぎこちない動きで、近くの壁へ向かい、片手で剣を振り払う。
耳をつんざく破壊音が響いた。
感触を確かめる程度の軽い動作だったが、その一撃で壁が粉々に砕け、バターのように斬り裂かれた。月明かりの差し込む横長の亀裂から空気が流れ、ひゅうひゅうと笛のように風が鳴く。
それを行った本人でさえ驚愕する程の威力だ。
「これは……!!」
「成功だ。悪魔はお前に宿ったぞ。しばらくすれば、更に強大な力が引きだせる身体へ変異するだろう」
ジルに悪魔が宿った。それを聞いて、首領が安堵の表情となる。
「や、やったぞ。これで私はもう……!!」
「ええ、もう貴方は用済みです。首領どの」
もう、の後はどう言葉を続けるつもりだったのか。
無情に突きつけられたスカイスタンの言葉で、首領の顔が絶望にねじくれる。
「う、裏切るつもりか……!? この土壇場で私を」
死を宣告され、青ざめた男がガタガタと震え始めた。それをスカイスタンは冷酷に鼻で笑い飛ばす。
「勘違いするな。最初から私はお前に忠誠を誓った覚えもなければ、仲間になった覚えもないのだ。
あの忌々しい封印を解いてくれた事だけは感謝しているが、ろくな術も扱えぬ、下等な人殺しどもの頭が調子に乗るでない」
「おのれッ!!」
怨みを込めた声で吠えて、首領が腰の鞘から刃を抜き放つ。
細身のレイピアだ。
「殺された犠牲者達の怨みを蓄積したレイピアか……。私と殺人鬼達のおこぼれに預かって、この短期間に随分と強化したようだ」
「そ、その通りだ。例え貴様とて、これを受ければただでは済まん。例えかすり傷でも、この剣の呪いはウイルスのように身体を蝕む……!!」
「ほう、それはそれは。しかし、このサタンの剣も数百年の間、私の封印されていた土地に突き立ち、妖気を吸収し続けていた事を忘れるな」
眼を血走らせ、歪んだ顔で叫ぶ哀れな男を、スカイスタンはやはり意に介さぬようにせせら笑う。
物体や土地へ釘や杭を打ち込む行為は、西洋においても“魔呪の釘”と呼ばれる呪術として扱われる。
古代ローマ帝国には支配者が市街に打ち込んだ釘が疫病を鎮めると信じられていたという記録があるし、日本の丑の刻参りのように蝋人形や動物の死骸を釘で突き刺し、樹や岩に打ち付けることで他者に危害を加える術も多数存在する。
共通しているのは、それらの儀式に使用された釘や杭は多くの場合、触れるだけでも非常に危険な呪物とされる事である。
スカイスタンの剣も、恐らくは長年の呪いや災厄を吸収し続けた『魔呪の釘』の一種なのだろう。
と、その時、緊迫した空気を破るように、部屋の出入り口の扉が荒々しく開けられた。
狗賀志郎と長谷川琴美の二名だ。
「ようこそ、狼の末裔。それに魔女の娘よ。イゾーとエリザベートを破ったこと、まずは見事と言っておこうか。だが少し遅かったな。すでに悪魔を宿す儀式は完了した」
「えっ!?」
琴美が驚愕の声を洩らす。
すかさず眼前に、鋼鉄の鎧を纏った大男が壁のように立ちはだかった。
「そうだ。つい今しがた、この私、ジル・ド・レエに悪魔が宿ったのだよ」
兜の向こうから、不気味にくぐもった声でジルが応える。
「そんな……」
今までのすべての努力が無駄になってしまったのか。絶望と疲労に琴美が肩を落としかけた。
「馬鹿、まだ終わってねえよ!!」
だが、間髪いれず、志郎の叱責が飛んだ。
「悪魔が宿ったからどうした。ここでお前ら全員ブッた斬れば帳消しだ!!」
怒号と共に、腰の刀の鯉口を切る。既に臨戦態勢だ。
鬼切丸が、再び鞘から抜かれる時を待ち望んでいる。
目の前の邪鬼を斬れ、その向こうの悪魔に我が刃を叩き込めと訴えるように、刀身が震えた。
「なるほど、同感だ。では、まず私がこの邪魔者を片付けるので待っているがいい」
「貴様あぁ……!!」
首領が、片手でサーベルを水平に掲げた。
スカイスタンは両手をだらりと下げた無構えだ。柳生新陰流の敵を動かせてから斬る事に重点を置く、“無形の位”に似ている。
スカイスタンのサーベルに青い炎が蛇のように絡み付き、首領のレイピアの刀身にも、薄暗い靄のようなものが漂った。
双方の武器に込められた、呪いの力の具現化だ。
両者ともに対峙したまま、数瞬硬直する。そして、
「うあああーーッ!!」
口角から泡を飛ばし、絶叫しながら、先に首領が動いた。
真正面。心臓を狙う、正真正銘のど真ん中だ。
優美さすら漂う体捌きで、スカイスタンはそれを回避する。マントが翻り、切っ先は虚しく宙を突く。
だが、この初太刀は牽制だ。首領が更に動きを増す。
左へ跳んだかと思えば、右に回り込み、後方へ退いたかと思えば、前方へ大きく踏み込む。
幻惑の太刀で、間断なくスカイスタンを後退させ、壁際に追いやっていく。
おお、とそれを見た志郎も思わず感嘆の声を上げた。
半ばヤケクソに近いものがあるが、そこまで思い切った戦法を取るとは予想していなかったのだ。
スカイスタンとの力量差に怯え続ける情けない男ではあったが、一組織を束ねる長だけあり、窮地に立たされた事で思わぬ力を発揮したようである。
しかし、それでも相手が悪かった。
幾度目かの、喉元を狙う突きが鋭く大気を穿つ。
持ち主の体当たりの勢いを乗せたレイピアの剣尖を前にしても、マントの怪人には恐れを感じる様子はない。
ふと、妖術師の唇が、つまらん、と呟くかたちに動いた。
垂れ下がった右手が、凄まじい速度で跳ね上がる。
甲高い鋼の破砕音と、肉と骨を断つ、生々しい音が幾重にもだぶって、室内に反響した。
スカイスタンめがけて突っかけた首領は、速度を緩めず彼の脇をすりぬけ、5~6メートルほど進んで倒れる。転倒と同時に上半身が腰から滑り落ち、胴が二つになった。
手にしたレイピアは刀身が半ばほどで折れ、無様な姿を晒している。
「に、二回、斬り付けたのか……?」
武術の才能もあり、動体視力も常人以上のものを有する志郎さえ、その攻防を見抜けなかった。
二回というのも、レイピアを折り、その後胴体を輪切りにしたのだと、その結果を見て推測したに過ぎない。
「残念、三回だ」
スカイスタンがそれを更に嘲笑い、仰向けに天井を睨んだ死体の頭部をつま先で蹴る。あっ、と琴美が思わず驚愕の声をあげた。
上半身から青ざめた顔が離れ、西瓜か南瓜でも落とすように、ゴロンゴロンとむき出しのコンクリートの上を転がったのだ。
眼にも止まらぬ高速の剣技。
スカイスタンは魔術師としても剣士としても、遥か高みにたつ存在なのだ。




