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6章の3

 魔女装束のマントが風圧を受けてはためき、命を得たようにうねる。

 その風をものともせず、琴美は杖にまたがり、鳥のような自在さで空中を飛んでいた。


 当然であるが、魔女が飛行術(レビテーション)に使用する杖や箒は、人がまたがる用途に使うものではない。ましてやそれで空を飛ぶなど、本来無茶な芸当なのだ。

 故に、それに身体を預けて飛行するには優れた平行感覚・動体視力・反射神経等が要求される筈だが、魔女としての本能なのか、彼女はバランスを崩すことなく安定した動作で杖を操作している。


 そして、巨大な翼を備えた影が魔女を追う。

 両手から脇にかけてコウモリの皮膜が張られた、真紅のドレスの女。言うまでもなく、殺人鬼エリザベート・バートリーである。


 変異は翼に変化した両腕から徐々に全身へ広がりを見せ、肌の露出したうなじや太股、胸元から覗く乳房の谷間までもが、褐色の剛毛に侵食され始めている。


「ギギィ!!」


 金属的にひずんだ、恐ろしく耳障りな奇声がエリザベートの喉から迸った。

 その声が、じわじわと背後から距離を狭めてくる。


 前回すでに経験済みだが、暗闇での機敏さでは、やはりコウモリの能力を持つエリザベートの方が上だ。

 距離を取って攪乱しようにも、すぐに猛スピードで追随し、とてもではないが琴美は振りきれない。


 杖にまたがった足元をすり抜け、エリザベートが前方へ回り込んだ。左右へ広がった飛膜と、真っ赤なドレスが視界を覆う。


 豚を思わせる扁平に潰れた鼻と、耳まで裂けたスイカをかち割ったように真っ赤な口腔。

 変化はとうとう顔にまで至り、かつてのハンガリーで讃えられた美貌は跡形もなく消え失せた。そこにあるのはひたすら醜怪な野獣(チスイコウモリ)の顔だ。

 カミソリ状の長く鋭い牙の間から、ベロリとこぼれた異様に長い舌が、鼻先を舐めあげるように伸びてくる


「きゃあっ!!」


 眼前にさらけ出された、身の毛のよだつ光景に、甲高い驚愕が迸った。身を捻って顔を背ける。

 間一髪、つい数瞬前まで頭部があった空間で、エリザベートの牙が音を立てて噛み合っていた。


「ひゅう……思わず可愛い悲鳴出ちゃったじゃないの」


 今度は小さな安堵と軽口が洩れる。

 逃げ損なえば、顔面の肉を噛み千切られていたに違いない。

 おまけにチスイコウモリの唾液には血液の凝固を妨害し、皮膚の感覚を麻痺させる成分が含まれている。例え小さな噛み傷でも、あの牙を受ければじわじわと血を流し、体力を消耗する羽目になるのだ。


 しかし、以前戦った時に比べると彼女は落ち着いている。故に、敵の動きがよく見えた。


 改めてエリザベートの全身を確認する。

 ドレスの裾が数ヵ所破れ、点々と赤黒い血痕が飛び散っているのが、闇の中でも明らかだ。

 琴美の血ではなく、エリザベート自身のものである。


 突進を避けられては木々に激突しそうになり。爪を振るえばホテルの壁や岩を引っ掻き、怪力に耐えきれず爪が根本から剥がれて血飛沫が舞う。

 今までに数回、それを繰り返している。


 岡田以蔵と、そしてジル・ド・レエとも戦ったからこそ分かる。


 生前の戦闘に関する経験差か、エリザベートは残る二人と比べて、魔人としての異能をもて余している。

 コウモリの身体能力や感覚器官、そして血を武器とする魔力を完全に我が物とはしていないのだ。


 魔人の生命力を以てすれば問題にならない傷だが、憤怒と憎悪に支配され、冷静さを失って自傷を重ねるその姿に、隙を見出だすのは可能である。


「訓練を思い出すのよ。今まで学んできた事を発揮できるように、落ち着いて。

 エコエコ・アザラク、エコエコ・ザメラク、エコエコ・ケルノロス 、エコエコ・アラディーア、エコエコ・ヒュプノス、エコエコ・ノーデンス 、エコエコ・アウトロス 、エコエコ・ノストサスラ ……」


 精神統一の呪文を唱え、反撃の機会を伺う。

 己の力を信じるのだ。

 体力差だけで簡単に圧倒され、殺されるほど自分は弱くないと、暗示をかけるように強く念じる。

 小さな炎が心に灯り、活力が湧いてくる。

 徐々に、勝利への糸口も見えてきた。





 空中での死闘と同時に、地上では狗賀志郎と岡田以蔵も、お互い剣士としての粋を尽くした戦いを繰り広げている。


「オオォーーーーッ!!」


 大地を揺るがす咆哮が轟き、以蔵の豪腕が振るう灼熱の刃が執拗に襲い来る。


 中段からの小手、突き、片手面打ち。

 下段からの摺り上げ、袈裟斬り、逆胴。

 矢継ぎ早に繰り出される、脈絡のない斬撃を志郎もかわし、払い、受け流す。

 太刀風と剣閃が交差し、鍛鉄同士が激突する。

 常人には視認すら困難な、信じられないほど目まぐるしい攻防が展開された。


 手数ではやはり以蔵が勝るが、志郎も防戦一方ではない。


 構えは上段。再度、以蔵の斬り下ろしが唸りをあげた。

 身体を低く沈め、鉄槌のように重い斬撃を受け流す。


「はっ!!」


 その体勢のまま、気迫を込めた声が響くと同時、閃光が疾った。

 以蔵の肥前忠広を押し返し、低姿勢から渾身の力で鬼切丸を逆袈裟に振るう。


 ずびゅっ。

 筋肉の裂ける生々しい音が響く。

 流れる切っ先が青光りする軌道を描き、以蔵の右下腹から左腋窪にかけて、鋭い裂傷を刻んだ。


「グワァ!!」


 刀を持った鬼が、傷の痛みによろめきながら後退する。

 僅かな隙を逃さず、今度は志郎が攻勢に廻った。

 蜻蛉の構えから刀身を肩へ担ぐように振りかぶり、体重を乗せて垂直に斬り下ろす。示現流“重切”だ。

 以蔵も咄嗟に刀を掲げ、防御する。


「チェストッ!!」


 鬼切丸が肥前忠広と噛み合い、鼓膜を震わせる剣戟音が鳴り響いた。

 凄まじい剣圧に、思わず以蔵がたたらを踏んで引き下がる。


「チェエ、チェエエエエッ!!」


 更に右。返して左。

 猿叫を迸らせて鋭角に、Vの字を刻むように連続で斬り込む。


 網膜を灼く火花と銀閃のなかで、斬撃を捌く鬼が「ヌウ」と低く、口惜しそうな呻きを絞った。

 と同時、上体に捻りを加えて、水平に巨大な半円を描くように刀を振り払う。

 たったの一撃だが、その威力で刀が弾かれ、志郎の猛攻が勢いを削がれる。

 腕がじんと痺れていた。改めて、以蔵の太刀の重さに驚く。


 更に、以蔵が身の捻りを回転運動に変化させて跳躍した。

 鋼の塊のような肉体が、赤光の帯と熱波の渦を引いて、空中へ躍り出る。


 そして嘶きに似た奇妙な声を放つと、ぐわりと開いた喉の奥から、怒気と殺意の塊を吐き出した。野球ボール大の火球だ。


 頭上から次々と、爆撃さながらの火球が群れを成して降り注ぐ。

 それらひとつひとつが地面に落ちるたび爆発音が轟き、高い火柱が噴き上がった。


「うおお!!」


 ネックレスのように連なりながら、容赦なく飛来する火球を目の当たりにし、志郎が思わず驚愕の声を発する。

 だが、砲煙弾雨と呼ぶに相応しい光景の最中を駆け抜け、地面を転がりながら、彼も棒手裏剣を立て続けに投げた。


 未だ地面から離れた位置にある敵へ、志郎の手から放たれた銀色の彗星のように殺到する。

 いかに人知を越えた魔人とて、空中にあっては攻撃を避け難い。

 棒手裏剣の尽くが、以蔵の肉体へ叩き込まれた。


 短時間だが凄まじい密度の攻防だった。

 それに一区切りつけるように、ずしゃっと重苦しい音をたて、ようやく以蔵が重力に引かれて着地する。


「オ、オ、面白イ……ッ!!」



 そして、喜色満面の笑みを作った。


 以蔵の体に突き立った手裏剣は合計六本。

 右脚の脛に一本、左脇腹に一本、そして右前腕に四本だ。


 胸部や眼球など、戦闘力の低下を狙える急所を狙った攻撃の殆どを、腕を盾にして防御したのだ。

 再生能力があるとはいえ、顔色ひとつ変えずに自身の肉体で受け止めて見せるのは流石である。


 針ネズミのようになった腕に眼をやり、肉へ食い込んだ手裏剣を無造作に引き抜いて行く。

 脛と脇腹に刺さったものも、以蔵が力を入れると筋肉に押しやられて、身体から抜け落ちた。

 黒く煮えた血が墨汁のように跳ね飛び、鬼の身体を赤と黒の奇怪な縞模様に彩る。


 手裏剣が穿った孔はすぐにふさがった。

 だが、戦闘への高揚と充足感に浸り、満腔の気迫を漲らせる以蔵は気付いていない。

 鬼切丸によって刻まれた胴体の傷だけは、未だ治癒することなく、血を流し続けている事に。


(なるほど、鬼切丸か……。こりゃいいや)


 志郎が口の中で、小さく呟いた。

 その手にある刀は幾度となく以蔵の燃え盛る刃と打ち合ったが、かつて破壊された真改のような刃こぼれも焦げ付きも見当たらず、乱れ刃紋を鈍く輝かせている。


 鬼切丸。

 すなわち“鬼”を“切る”太刀。

 鬼の字には災厄や病魔等、目に見えないあらゆる災いを成すモノ、或いは死者・亡霊といった常世の住人を示す意味が込められている。


 言霊による恩恵か、それを切るという銘を与えられた刀は、スカイスタンの妖力によって現世へ蘇った殺人鬼の再生能力をも打ち消す力を備えているようだ。


(普通の刀よりは効くんだ。なら、あとは一撃でも有効打を与えればいい)


 柄を反転させて手元に垂直に立て、自分の眼前に刃の方をかざす。

 敵を斬る前に自らの邪念を斬る“陰剣”の儀式だ。

 視線に刀身へ彫られた摩利支天を透かし、その向こうの敵を見据えるうち、精神が適度な興奮だけを残して凪いでいく。


 技術と身体能力だけで真正面からぶつかっても、以蔵には敵わない。更に心を研ぎ澄ませて挑まなくてはならないのだ。


 そして、心・技・体の全てを集結させた先には勝利がある事を信じる。


「そろそろ、決着をつけるぞ」


 八相に構え直し、志郎が地を蹴った。

 以蔵も土を蹴立てて突進を仕掛ける。

 再度、両者の剣が交差した。






 空中で展開される、琴美とエリザベートの戦いは佳境を迎えていた。


 逆手に構えたアサメイを握りしめ、琴美が幾度目かの攻撃を試みる。

 左手は杖に添えられているため、攻撃に使えない。空いた右手だけでは、重い長剣を使うのに腕力が不足する。

 最も扱いやすい武器として、この短剣を選んだ。


「キエェーッ!!」


 怪鳥じみた声を発し、エリザベートも琴美へ仕掛けた。かざされた掌から血が弾けると、赤い飛沫の一つ一つが凝固し、錐状の鋭い凶器へ変ずる。


 無数に乱射されるそれらを回避し、短剣で切り払いつつ、魔女が接近を試みた。


「クキェッ!!」


 ひときわ甲高い叫びとともに、エリザベートの手から銀光が走った。琴美の肩口へと狙いを定め、切っ先が叩き落とされる

 前回の相討ちとほぼ同じ状況だ。


 だが、肉を裂く音はせず、残像のようにブレた魔女の身体が刃を避けるように、一瞬で二つに別れた。


「「うわああ、怖っ!!」」


 すっとんきょうだが切実な悲鳴が、二人ぶん綺麗に重なった。



 サーベルを回避すると同時、咄嗟にドッペルゲンガーの術を使用し、分身を作り出したのである。

 応用が利くぶん、破られた際の代償も大きく、ハールマン戦では敗因ともなった苦い思い出のある魔術だが、この際贅沢は言っていられない。


 ドッペルゲンガーには普段のルーンが刻まれた杖とは違う、もう一本の杖を握らせている。

 マックス・フォン・シュレック子爵から、特別に譲り受けた品だ。


 小さく呪文を呟くと、ドッペルゲンガーのローブやマントの端々から、紫電がバチバチと弾けて乱れ飛ぶ。


 特定の樹木は妖精が好むと信じられており、自然崇拝と結び付いた魔女信仰においてもしばしば重要視される事がある。


『オークに気を付けよ、それは落雷を呼び寄せるだろう。

 トネリコを避けよ、それは雷の光を呼び寄せるだろう。

 サンザシの下に逃げ込め、そうすればあなたを害から守るだろう。』


 イギリスにはこのような効果を歌った詞も伝わっており、それぞれオーク、トネリコ、サンザシは特に魔術的な意味合いがあることが深く信じられてきた。

 そして、彼女が譲り受けたのは、落雷を呼び寄せるオークの杖だ。


 人差し指を立て、空中で紋様を描くように細かく動かすと、その先端から鋭い稲妻が、エリザベート目掛けて走った。


 大量の爆竹が一度に弾けるような音を伴い、雷撃が人間コウモリに直撃する。

 更に二回、三回と、立て続けに稲妻を放射した。そのたびコウモリの毛皮が焦げ付き、驟雨のような血が飛散した。

 これでも魔人の肉体には致命傷にならないが、痛みと流血で徐々に体力は削られ、光を嫌うコウモリの眼を強烈な閃光が灼き、動きを鈍らせていく。


「ギイイイイッ!!」


 耳障りな声を漏らし、エリザベートが無茶苦茶に飛び回り、サーベルを振り回し始めた。既に錯乱状態だ。

 戦闘経験の乏しさ故に、やはり他の殺人鬼と比べると、守勢に廻った彼女は脆い。


(いけるか?)


 手応えを感じて、琴美がアサメイを構え直した。杖に爆発的な推力を与え、一直線に突進する。


 見事に懐へ潜り込んだ。渾身の力を込めて、左胸へ刃を突き立てる。

 ごっ。

 鉄が骨と肉に当たる、硬い音が響いた。

 短剣は確かにエリザベートの身体へ食い込んでいる。だが、浅い。


「あ、やば」


 本来は儀礼用のアサメイでは心臓に到達するほど刃渡りが足りず、更にコウモリの毛皮と筋肉による装甲は、予想以上に堅牢だった。


 刃を強引にでも引き抜こうとしたが、筋肉が締まり抜けない。焦りが隙を産む。


 エリザベートの口が限界まで開く。赤い舌と白い牙が見えたと同時、手足へ強い衝撃が走った。


 杖を取り落とし、その衝撃に流されるまま真横へ吹っ飛び、背中からホテルの壁へ叩き付けられる。


「これは……!?」


 見ると、両手首と両足首に、赤黒いゲル状の物体がへばり付いている。

 エリザベートが吐き出した、握り拳大の血塊だ。

 トリモチのように手足を戒めるそれを振り払おうとするものの、恐ろしいほどの粘性でまとわり付いてくる。

 瞬く間に血塊は凝固し、琴美を壁へ完全に磔にしてしまった。


 ドッペルゲンガーに助けを求めようとしたが、本体の狼狽が反映された為に動きが一瞬硬直している。

 その隙を突かれてエリザベートに頭上を取られ、爪の一撃をもろに食らった。

 咄嗟に杖で受けたものの、バランスを崩して真っ逆さまに地面へ墜落していく。


「くそ、戻れ」


 切羽詰まった声で命令を飛ばすと、地面に激突する直前、分身の身体が黒く霞み、実体の厚みを失い影となって消え失せた。

 間一髪だ。

 分身が死ぬとダメージは全て自分に跳ね返る。寿命は数年縮むし、何より気絶するほどの激痛が伴う。

 この状況でそうなれば、なぶり殺しにされるのは確実である。最悪の事態だけは何とか避けた。


(でもこれ、最悪よりはちょっとマシってくらいの状況ね……)


「キャハハハハハハハ!!」


 前方ではアサメイを力任せに引き抜いたエリザベートが翼を広げ、勝ち誇ったように不気味な笑い声を上げている。

 その手のサーベルの切っ先が、真っ直ぐ琴美の胸元を指した。


 ねっとりとした嘲笑と共に、ひときわ強くコウモリの翼が一打ちされた。高く浮上し、急降下を仕掛ける。


 このまま人間コウモリのサーベルによって、魔女は串刺しにされると思われた。

 だが、矢のように真っ直ぐ飛んでくる刃を前に、琴美の口から詠唱が流れ出す。黒魔術による逆襲だ。


「我、悲しみや大いなる心配とともに、黒猫にならん!!

 そして、魔王の名のもとに進まん。ああ、再び家に帰るまで!!」


 野ウサギを黒猫に置き換えているが、これは魔女イゾベルがウサギに変身する際に使用したという呪文である。

 左脚の太股から黒々とした獣毛が広がりを見せ、戒められた手足が細く小さく変形しながら、身体の内側へ衣服ごと捻れ、全身が縮んでいく。

 その過程で、血塊から手足が抜けた。


 呪文の通り、そこに現れたのは艶やかな毛並みをもつ一匹の黒猫。


 シャア、と鋭い威嚇音を放ち、黒猫が壁を爪で捉えて飛んだ。

 常軌を逸した光景を目の当たりにして、攻撃を仕掛けたはずのエリザベートも呆然としている。


 豚のように潰れたチスイコウモリの鼻先を、猫の爪が一閃する。

 ギャッという短い悲鳴を尻目に、黒猫が更に背中へ廻った。


「フーーーーッ!!」


 もう一度、威嚇音を発すると、黒猫の身体が数倍に膨張し、ヒョウのような巨体へ変じた。

 そして鋭い牙でコウモリの翼へ食らい付き、ばりばりと皮膜に爪を立てる。


 翼を形成する為に細く伸びた小指の骨が、強靭な顎の力で噛み砕かれ、飛膜も同じくボロ布のように引き裂かれた。


「ギャアアアアアアッ!!」


 鼓膜が破れそうな大音声を迸らせ、翼を破壊されたエリザベートが地面へ落ちていく。

 その身体を足場に、黒猫が空中へ躍り出た。数秒で身体は縮み、既に元の大きさに戻っている。

 そして、猫の口から琴美の声で、呪文が唱えられた。


「黒猫、黒猫、神がご加護をくだされり!!

 今、黒猫に似ているが、我まさに今、女とならん。

 黒猫、黒猫、神がご加護をくだされり!!」


 黒い獣毛が消えて白い肌が現れ、手足が外側へ捻れをほどきながら伸びて行く。録画映像を巻き戻すように、人間から黒猫への変化とは逆の行程を経て、魔女・長谷川琴美の姿が再び現れた。


 杖を呼び寄せて跨がり、ゆっくりと地表へ降りる。


「おぇ、気持ち悪っ」


 地に足をつけるなり、真っ赤に染まった口元を拭い、ぺっと唾を吐く。肉体変化していたとはいえ、メンタルまで動物になるわけではない。

 人食いの魔人の肉など、口にするのは狂気の沙汰だ。


「しかし、役には立ったわね、これ。譲ってくれたシュレック子爵に感謝だわ」


 そう言って、恥ずかしげもなくローブの裾を大胆にまくる。白い肌を晒す左太股に、黒い毛皮製のガーターリングが巻かれていた。

 軟膏とこのリングの力によって、彼女は黒猫へ変化したのである。


「さってと……。今のうちに決着つけましょうか」


 前方で、幽鬼のように立ち上がる姿があった。


 ひしゃげた足で土を踏みしめ、大量の血を吐きながら、それでもまだ、エリザベート・バートリーは生きている。

 コウモリの翼もグシャグシャに折れ、飛行能力も失われているだろうが、時間が経てばまた再生する。倒すならば今だ。


 ふと、足元に視線を落とす。

 一匹のアマガエルが、草陰に佇んでいた。

 中腰になって、ぼそぼそとそのカエルに琴美が何やら言葉を吹き込む。


「……ルトンパネス・ウゥン」


 そして、最後に一言唱えた。

 げこ、と了承したように一声鳴いて、足早にカエルが生い茂る草の中へ跳び跳ねていく。


 すぐに周囲の草むらが揺れて、幾つもの気配が寄ってくるのが感じられた。

 微かな鳴き声や、静かに土を這う音や、空気を震わせる虫の羽音を聴覚が察知する。

 まずは成功だ。だが、これだけでは足りない。


「ギギギ……!!」


 鮮血の溢れる喉で喘ぎながら、エリザベートが仕掛けた。

 操り糸が絡まったマリオネットを思わせる、形容しがたい姿勢でサーベルがデタラメに振り回される。それを杖で受けながら、琴美が更に呪文を唱える。


「大地と地底とに絶対の支配を及ぼす地霊(ゲニウス・ロキ)よ。我が呼び掛けに応えよ!!」


 先の呪文は、術者の仲間を呼び寄せるという『魔星の術』だ。

 それにもうひとつ、地霊へ助けを請う術を上乗せする。二つの術の相乗効果で、周囲に満ちる気配の数がどんどん増えていく。いよいよ大詰めだ。


「万物の魂を自在に操る魔力もて、我は命じる。我が敵を打ち倒すため、汝の子らを差し向けるべし!!」


 最後に力強く、叩き付けるように声を出した。手にした杖を掲げ、振り降ろす。

 号令一下、小さな影の大群が黒い洪水のように草むらから溢れ始めた。

 ネズミ、蛇、トカゲ、カエル、ムカデ、ゲジ、ヤスデ、ハンミョウ、蟻、蜘蛛、カマキリ、バッタ、蜂、蛾。

 蠱毒の壷をひっくり返したように、とにかく雑多な虫や小動物の群れが、一斉にエリザベートへ襲い掛かる。


 何千何万という地霊の子供達は、瞬く間にエリザベートの全身を埋め尽くさんばかりに張り付き、這いずり、巻き付き、身体の柔らかい部分に噛みついて毒針を刺す。


「ヒッ、ヒィ、ヒギィィィアアアア~~~~ッ!!」


 悲鳴を上げるエリザベートも、必死に虫から逃れようともがくが、どれだけ剣や爪で斬り払っても、踏み潰しても、即座にそれに倍する数が飛びかかって来る。

 小さな者達の侵略はやがて体内に及び、悲鳴すら許さないとばかり、口腔や鼻腔や眼孔までもが大量の虫で溢れ返っていく。地獄のような光景だ。

 貴族夫人であった彼女には、正気を失うほどに耐えがたい恐怖であろう。


 生前、エリザベートが女中達へ行っていたとされる拷問のひとつに、裸にして縛り上げ、屋外で全身に蜂蜜を塗って虫に集らせるというものがある。

 彼女は虫から逃れようともがく犠牲者を、大笑いしながら眺めていたと言われているが、今生ではまさにそれを自分自身が味わう羽目になったわけだ。


 因果を感じながら、琴美が杖を構えた。鋭く尖った石突き部分を前へ出す。


 蠢く虫の塊の中から助けを求めるように、痙攣を繰り返すエリザベートの両腕が掲げられている。

 だが、多くの命を楽しみのために奪った彼女に、もはや慈悲を受ける資格はない。


 虫に覆われて殆ど身体は見えないが、心臓の位置に狙いをつけ、走った。

 助走の勢いを乗せ、槍投げの要領で杖を投擲する。そして、


 ドスッ!!


 鈍く、生々しい音が鳴り響いた。

 数体の虫を巻き添えにしながら、真っ直ぐ飛んだ杖が、その向こう側にあるエリザベートの身体を捉えたのだ。

 痙攣が止まった。


「御苦労、地霊の子らよ。下がって良し……」


 手応えを感じ、攻撃の終了を命ずる。

 それに従い、エリザベートに群がっていた者達は、波が引くように一目散に草むらへ消えていった。

 あとに残ったのは尊い犠牲となった昆虫や小動物のおびただしい死骸と、その最中で彫像のように動かなくなったエリザベートの姿だ。


 琴美の杖は、見事に彼女の左胸へ突き刺さっている。琴美が杖に手をかけると、硬直した身体がぐらりと体勢を崩した。

 生理的嫌悪を与える粘い音がして、杖が抜けた。

 支えを失った人間コウモリが手足をだらしなく弛緩させて、背中から倒れていく。


 胸に空いた穴から闇色の液体を溢れさせるエリザベートは、もはやピクリとも動かなかった。

 濁った両眼はかっと見開かれ、虫の死骸で埋め尽くされた口の端から、血の混じった涎が泡となってだらだらと垂れている。

 コウモリの獣面からでも判別できる。そこに貼り付いているのは、紛れもない狂死の貌だ。


「心臓に杭を刺せば、もう吸血鬼は復活しないよね……」


 強敵を倒した安堵に、琴美が全身の力を抜いてぺたりと座り込む。


 因縁の相手である『流血の伯爵夫人』エリザベート・バートリーを、とうとう彼女は討ち破ったのである。






「ガアアッ!!」


 以蔵が遠間から、右手一本での連突きを仕掛けた。

 赤い光を放つ剣閃は幾重にも連なり、相手を簡単には寄せ付けない。

 かわしたと思えば、すぐさま次が来る。無尽蔵の体力から繰り出す技は、未だ異常なほどの手数を誇っている。

 だが、志郎はそれをひとつひとつ捌きながら、徐々に相手との距離を縮めていた。


 もう一撃、来る。

 浅く斬りつけるフェイントを織り交ぜた、虚実一体の剣だ。笹の葉のように重なった残像の中から、喉元めがけて実体の切っ先が伸び上がる。


 見切った。

 首筋すれすれ、うなじ辺りの髪が熱波に炙られて焦げ、嫌な臭いが鼻を刺す。まさしく紙一重。


 背筋に冷たさを感じながらも、果敢に踏み込んだ。

 右腕が刺突を外されて伸び、以蔵の左半身には隙が生まれている。必殺の間合いに到達した。


 しかし、剣を振り出そうとした瞬間、以蔵の殺意が膨れ上がる。戦慄が走った。


 鋭く鞘走りの音が鳴り、小さな三日月が眼前を通過する。

 危険を察知し、咄嗟に退くと、数瞬前まで頭部のあった位置を剣風が薙ぎ払っていた。

 反応が少しでも遅れていれば、額を横一文字に割られていたに違いない。


 ぢぃっと派手に舌打ちして、距離を取った以蔵が武器を構え直す。

 右手に長刀。左手に脇差し。二刀流だ。


 先程の攻撃は、右の片手突きで誘い込み、左の抜き打ちで仕留める罠だったのである。

 二刀の技術も鏡心明智流には含まれていたとされるが、よくよく器用な男だ。志郎はその剣の多彩さに内心で舌を巻く。


「でも、どっち付かずだな……」


 暗殺任務の中で練られた彼の殺人剣は、確かに恐るべきものである。

 だが、幾度となく剣を交えるうち、一見圧倒的な技に乱雑さが見え始めていた。

 相手を必要以上にいたぶり、なぶり殺す彼の剣には、粗さや無駄な部分が多い。

 それは恐らく正当な鍛練を怠り、各流儀の教えをろくに理解もせず、上っ面の技だけ取り入れ続けた結果だろう。


(そういえば、俺もガキの頃よく爺ちゃんに叱られたっけな。太刀筋が力任せで乱暴だの、無駄な動きが多いだのって……あっ)


 刀を正眼に留めながら、過去に思考を巡らせ、思い当たった。


「そうだ、あの技があった」


 口元へ微かな笑みが浮かぶ。

 幼少期から、大人相手にもひけをとらないほどの腕力の持ち主だったが、力では既に衰えていたはずの祖父の使う、ある技だけはどうしても破る事が出来なかった。それを使う。

 そこに無駄な動きをする必要はない。

 再生能力を備えた殺人鬼との戦いは、単純だが大切なことを彼に忘れさせていたのだ。


 剣の極意とは本来、一撃必殺。

 ただ一刀を斬り込む為、最低限の動きさえあればいい。



 深く息を吸って、口から長く吐いた。

 呼吸と心拍を整え、切っ先の向こうの敵を注視する。

 打ち合いの最中には山のような威容に見えたが、今では以蔵の全身像が視界に捉えられていた。

 心拍数の上昇は視野狭窄を起こす。

 逆に心を落ち着けて対処すれば、強烈な剣気や殺意にも惑わされることなく、本来の姿が見えてくる。



 再度、以蔵が仕掛けた。

 ふっと左腕が揺れたかと思えば、切っ先が鼻先に迫る勢いで、脇差しによる乱れ打ちが来る。既にその刀身も、肥前忠広と同じく高熱を帯びていた。


 刃渡りの短い脇差しは小回りが利くぶん、斬り込む角度に左右上下の区別はなく、剣速も尋常ではない。複雑な太刀行きはまさしく変幻自在だ。

 邪剣の冴えはもはや最高潮である。


 一方、長刀を握った右腕は切っ先を志郎へ向けたまま、弓につがえられた矢のように後方へ引き絞られている。

 攻撃の本命はこちらだ。

 左の脇差しで幻惑し、間合いを狂わせてから、右の長刀でトドメを刺すつもりだと推測できる。


「うっ!!」


 乱舞する凶刃を受け続ける志郎が、苦鳴を放ってよろめいた。

 衣服の左肩口の部分がすぱりと裂け、赤黒い火傷が滲んでいる。捌き損ねた脇差しに付けられた傷だ。

 高熱で焼き斬られた為に出血は少ないが、文字通り灼熱の痛みが走り、鉄錆じみた臭いが漂う。


「貰ッタァ!!」


 鬼面に笑みが弾け、右手の太刀が解放された。

 ギリギリと筋肉を軋ませる太い腕が、ひとすじの矢となって志郎を襲う。


 一直線に突きこまれる剣尖から熱風が駆け抜け、その対角線上に木の葉や砂利が散った。

 しかし、その刃は獲物を捕らえることなく宙を穿っている。

 諸手突きを外され、以蔵は一瞬唖然としていた。それほど自信のある技だったのだろう。


 そして、志郎は串刺しにされるギリギリで身を低く沈め、敵の剣をやり過ごしていた。

 脈動する攻撃の狭間に見出だした死角だ。そのまま懐へ詰め寄る。


「いえぇーーっ!!」


 刃を上へ返し、神道流特有の気合いを放って、下顎から額までを斬り上げる。駆け昇る銀閃が、顔面の正中線を撃ち抜いた。


 顔を割られた以蔵が仰け反り、強烈なアッパーカットを食らったボクサーを思わせる仕草で後退する。

 しかし、まだ倒れない。切っ先が弱点である脳には到達していないようだ。


「マ、負ケヌ。負ケヌゾ。コノ世ヲスベテ、地獄ノ炎デ焼キ尽クスマデ……!!」


 信じたはずの仲間から利用され続け、疎まれ続けて死んだ男の口から、焔と共に粘つくような呪詛詞(すそことば)が流れる。


 ザクロ状に砕けた顔面から血を滴らせながらも、仁王立ちの鬼が二刀を持ち直す。陽炎を絡ませた刀身が、左右へ翼のように広がった。


「来い……」


 志郎は切っ先を垂らした下段で、迎え撃つ体勢を取る。

 剣士として相手の怒りも憎しみも、全てを受け止め、飲み干す。



 油断なく敵を注視していると、以蔵が口をすぼめて尖らせ、炎を吹き出した。

 今までの広範囲を焼く放射状の炎や、砲撃を思わせる火玉とはまた違う。悪意を持った毒蛇のように、顔面めがけて細長く伸びてくる。


 熱と黒煙が視界一面を遮る。暗闇で強く燃え盛る輝きに、志郎の目が眩んだ。


 長く跳んで後ずさった瞬間、煙の向こうがチカリと光る。

 それを認識するや否や、脇差しが風を裂いて飛んできた。鳩尾を狙っている。


「!?」


 10メートルを軽く越す距離から、回転する凶刃が信じられないほどの高速で飛来する。

 その凶刃を咄嗟に跳ね上げた刀で防ぐ。ぎゃりんっと鋼が鳴いた。

 間一髪、軌道を反らされた小刀が右頬をかすめ、朱色の筋を残して後方へ弾かれていく。そして、


「ヌオオオオッ」


 黒煙と炎の向こうで地を蹴った以蔵が猛然と疾駆し、一息に間合いを詰めて斬りかかって来た。


(これは、“飛竜剣”か!!)


 二天一流“飛竜剣”。

 宮本武蔵が伊賀上野での決闘において、鎖鎌の宍戸梅軒を葬った、遠間からの投剣技法と片手斬りによって構成される必殺の刀術だ。

 小野派一刀流でも鏡心明智流でもなく、他流の技をこの土壇場で使って来るとは、やはり何が飛び出してくるか分からない。


 だが、脳天から股間までを両断しようとする片手斬りは、鬼切丸が宙で受けている。


 みしみしと互いの刃を軋らせ、鍔迫り合いに持ち込む。この瞬間を待っていた。

 相手を圧し返しながら、志郎が手首を内側へ捻った。

『満月を絞る』と表現される、独特の動作だ。


 膝を曲げて腰を低く落とし、懐へ潜るように前進する。

 手にした刀は横たえて、相手の刀の動きを封じる。

 そして、内側に絞った満月をほどいていく。

 この三つの動きを、同時に行った。


 力を分散され、武器をはね除けられた以蔵は、拍子抜けするほどあっけなく構えの平衡を崩していた。

 行き場を無くした怪力は、持ち主たる以蔵自身を水面の木の葉のように翻弄する。


「ヒュッ」


 と、志郎が高く鋭い呼吸を放ち、がら空きの胴体めがけて切っ先を繰り出した。

 硬いものを叩くような、乾いた感触が手元を伝う。


「バ、カ、ナ」


 胸板へめり込む銀の刃と、それを握る志郎へ交互に視線をやり、以蔵が慄く。

 信じられない、といった態だ。


 鬼切丸の刀身は肋骨を寸断し、以蔵の左胸から背中までを貫き通した。正確に心臓の位置を捉えている。


「鹿島神道流“不動剣”……」


 摩利支天像の彫られた鍔元辺りまで潜った刀を、身を翻して引き抜く。

 直後、堰を切ったように胸部から大量の血が奔騰した。



「グ、グハッ、ガアアアァァァァ~~!!」


 高熱を含む以蔵の血は、火口から噴き出すマグマか、煮えたぎる重油のようだった。

 撒き散らされた地面が真っ黒に染まり、火災現場を思わせるキナ臭さが充満する。

 愛刀・肥前忠広を取り落とし、血ヘドと断末魔を吐きながら、鬼は胸に穿たれた風穴を必死で押さえていた。だが、流血は止まらない。


 やがて、溢れる血潮の勢いが弱まるのに比例して、以蔵の放つ苦悶の声も、細く小さくなっていく。


「ゴブゥッ……」


 ひときわ大きな血塊を吐くと、上半身が前のめりに崩折れ、黒血の海へ激しい地響きをたてて倒れ伏した。

 その傍らには忠広の太刀が、まるで墓標のように逆しまに突き立っている。


 かつて幕末の京を震撼させた『人斬り以蔵』こと岡田以蔵も、遂に二度目の死を迎えたのだ。


「うちのじいちゃんの得意技だ。次生まれ変わったら、もっと真面目に修行しときな」


 鞘へ鬼切丸を納めながら、死した魔人に視線を落とす。

 怒りと憎しみのままに剣を振るい、鬼として死んだ。その姿に、自分自身が重なって仕方ない。


 しかし“不動剣”を使いこなせた事と、それによって以蔵を倒せた事に、手応えも感じている。


「おーーい!!」


 ふと、暗闇の向こうから大袈裟なほど手を振りながら、琴美が走り寄ってくるのに気付く。彼女も無事だ。


「さあ、次で最後だ」


 殺人鬼の最後のひとりジル・ド・レエ。

 そして彼らを蘇らせた妖術師スカイスタン。


 倒すべき敵は、あと二人。


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