6章の1
初夏の近付きを感じさせる草木の繁りと、入り組んだ岩の陰の合間を縫って、一組の男女が風のように山道を駆け抜けて行く。
剣を携えた少年は、狗賀志郎。魔女装束の少女は、長谷川琴美。
夜目の利く獣のような動きの志郎に琴美が追従する形だが、距離は常に一定に保たれている。
「そろそろだな……。長谷川、ツラいなら少し休むか?」
「うん……」
腰の刀に手をかけながら周囲を油断なく見回し、気配を探る。まだ敵の勢力圏ではないようだ。
黒いマントで全身を覆った琴美が、荒い息を吐きながら手頃な場所へ座り込んだ。それに倣い、志郎も近くの樹の根へ腰を下ろす。
超人的な身体能力とスタミナを誇る志郎に比べると、琴美は肉体的には未だ脆弱な存在だ。それに気付かず、志郎一人で突っ走り続けては潰れてしまう。
今までスタンドプレーに走りがちだった志郎にも、パートナーへの気遣いが出来始めている。
「暑い……」
丈の短いスカート状のローブをバタバタさせて、空気を送り込む。太股が丸見えだがお構い無しだ。相変わらずこの辺りは無頓着である。
網膜に飛び込んできた真っ白い柔肌に思わず顔を背ける志郎へ、琴美は意地の悪い笑みを向けた。
「もー、可愛いなぁ。見たければ見てもいいのよ。何ならパンツの中まで」
「だから、男に可愛い言うな。て言うかパンツて!?」
「本気だけど? 何度も言ってるじゃないの、好きだって。あんたは自分がどれだけ可愛い生き物なのか分かってないわ」
発言のひとつひとつを聞くだけで、一気に頭へ血が昇る。物心つく前に両親と死別した志郎には、異性に抱き締められた記憶など殆どない。故に、あの日の記憶は彼の脳裏へ強烈に焼き付いた。
そして、思い出すだけで赤面ものの告白以来、琴美は志郎への想いを全く隠さなくなっている。
異性から明確な愛情を向けられる事には未だ慣れない。恥ずかしさをまぎらわすように、携帯食料をかじり、ペットボトルの水で胃に流し込む。
深呼吸で息を整えると、ほどなく、水分とカロリーを補った身体が落ち着きを取り戻してきた。
「ところで、この先の廃屋が敵の本拠地ってのは本当なの?」
「ああ、俺も幾度か偵察に付き合ったからな。周囲を例の戦闘員たちが見回ってたし、スカイスタンが術に使う染料の臭いもかなり濃く漂ってた。間違いないだろう」
これから向かうのは、町外れの山道の中にある、ホテル跡地だ。
ホテル自体がもうずいぶん前に廃業になっており、そこに繋がるトンネルも数年前の大雨の際に起きた土砂崩れで塞がっている。
交通の弁は非常に悪いが、身の上の怪しい者達の棲み家としてはなかなかの好物件だろう。
「俺達がホームズと戦ったのが、そのホテルの近くだったんだよな。もう少し付近を調べておけば良かったのかもしれない」
恐らく、あの日は拠点から出た直後、単独で行動を起こしたホームズと鉢合わせたのだ。
それで今まで敵の本拠地を発見できず、以降の捜査で後手に廻り続けたのは、やはり後悔が残る。志郎が悔しそうな表情を浮かべた。
「ほら、あんまりネガティブにならないの。いつもの悪態はどうした?」
「イテッ」
気合いを入れるように、琴美が背中をバシバシと叩いてくる。彼女なりの慰めだ。
「私ら神様じゃないんだよ。出来ないことの方が多いんだから、失敗もするよ。それでも、御堂さんみたいに助けられた人だっているんだからさ。それでいいじゃない」
過ぎたことを悔やんでも、もはや仕方のない事である。
市内で続発する殺人を止めるために必死で戦った結果、救えなかった命もあれば、ホームズに襲われたあの女性や、樹里のように救えた命もある。
「うるせえ」
口はいつものように悪いが、表情は微かに笑っている。
「無駄口叩けるなら先に行くぞ。遅れんな!!」
「ああんもう、待ってよイケズ」
志郎が身支度を整えてさっさと歩き出し、それを追って琴美も立ち上がる。
十数分程度の休憩を終え、二人は再び目的地へ向けて出発した。
30分前後は歩いただろうか。森を抜けると、そこからは荒れた様子の一帯だった。
採石によるものと推測される、中腹からふもとにかけて切り立った崖が視界に飛び込み、それに沿って足場の悪い狭い道が蛇のようにうねりながら下方へ広がっている。
草木もまばらで、山肌がむき出しになった荒涼とした景観は、岩山というに相応しい。
崖から見下ろすと、月光に照らされて薄汚れた四階建ての建築物が見えた。目的地の廃ホテルである。
長年の風雨に晒され、本来なら白い筈である壁はくすんで灰色がかっており、植物の蔦に侵食されてヒビ割れのような模様が形成されている。まるでお化け屋敷だ。
「まぁ、ここから眺めるだけでも迫力があるわね……」
感心しているのか怯んでいるのか、琴美がそんな独り言を口にする。
「ビビってるんじゃねえ。行くぞ」
「はいはい」
目的地へ繋がる下り坂を目指して歩いていると、突然、志郎が足を止めた。
「どうしたの?」
「……シッ」
唇に指を当て、相棒へ沈黙を促す。視線が据えているのは前方の闇の中だ。
状況を察した琴美も目を凝らすと、微かに相手の動きと気配を感じる事が出来た。
坂道の下に見張りがいる。
漆黒のボディスーツとゴーグルで全身を包み、直刀とボウガンで武装した三人組。
今夜初めて遭遇する、敵の戦闘員だ。
重機によって削られた人工的な傾斜のそばで、奥の一人はこちらに背を向けてぼんやりと立ち尽くし、手前の一人は切り株に腰かけて、あくびを噛み殺しながら煙草を吸っている。
中間の一人だけは気を抜かず、太い樹に背中を預け、ボウガンを手に周囲を警戒している。背後を取られない為の工夫だろうか。
(長谷川、お前が先に座ってる方を撃て)
柄頭に手をかけながら、志郎が小声で指示する。一人が片付けば、残りは自分で始末するつもりだ。
軽く頷いて、琴美が足元に転がった手頃な石を拾う。
親指の腹と人差し指の先で石を挟み込み、狙いを付けた。
煙草の火種のお陰で、暗い闇夜の中でも、急所である頭部への狙いが定まりやすい。
行け、と声に出さず口だけを動かし、指で弾いて石を発射する。
「ごあっ!!」
鈍い打撃音と共に、“妖精の矢”が過たず命中した。低い呻きをあげて、眉間を撃たれた敵が昏倒する。
それを合図に、抜刀した志郎が襲いかかっていた。
崖に対してほぼ垂直になる格好で、足をかけて走る。重力に逆らう荒業だが、相手の意表をつく奇襲としての効果はあったようだ。
異変に気付いた一人が、驚きつつもボウガンのトリガーを引いて迎え撃とうとする。しかし、猛烈な勢いで迫る志郎にはかすりもしない。
「て、敵……」
殺意に圧されて後ずさろうとするものの、後方に生えた樹に背中がぶつかり動きが止まった。背後を取られない為の工夫がこの場では仇となった。
「うらぁっ!!」
壁走りからの勢いを殺さずに跳躍し、ダイナミックに身を翻して空中から真っ向に斬り下ろす。
狼狽から抜け出す暇を与えず、無慈悲な一刀が戦闘員の頭部へ叩き込まれた。
「畜生!!」
頭蓋を西瓜のように割られた仲間が、血と脳奬を撒いて地面と死の抱擁を交わすより早く、先程まで背を向けていた最後の一人が直刀を抜いて反撃に出た。
咄嗟にしてはなかなかの行動力だと、志郎が内心で舌を巻く。
よく見れば体格も大きく、恐らく戦闘員の中でもそれなりに強い部類なのだろうと推測された。
うおおおおおと吠えて、無茶苦茶に斬りかかって来る。
盲滅法の、ただ腕力にものを言わせた素人剣術だが、手数は多い。それらをひとつひとつ紙一重で見切り、かわす。
かつて辛酸を舐めさせられた岡田以蔵の魔剣に比べれば、こんな幼稚な殺人剣に志郎が遅れを取ることはなかった。
数十秒間、虚しく宙を裂く風切り音だけが、鼓膜を震わせ続ける。
「死ねぇーっ!」
怒号を発して男が身を捩り、剣を振るう。
攻撃の悉くを外される事へのイラつきと、志郎との圧倒的な力量差による恐怖で、既にその声はひきつっていた。
中段からの横凪ぎ。胴体を狙って直刀を振り抜く。だが、動作が大きく力も入りすぎて単調だ。
軌道を読んでそれを回避すると、がつっと鋭い音色を上げて、刃が志郎の身代わりとなって樹の幹へ食い込む。先程まで仲間が背を預けていたあの樹だ。
「し、しまった」
うろたえながら武器を樹から抜こうとしたが、志郎は相手の隙だらけの体勢を逃さず、正眼の構えで突っ掛けた。
太刀風を纏った鬼切丸の切っ先で、容赦なく胸部を抉る。鋭利な刃が肉を突き破る、生々しい刺突音と乾いた苦鳴の声が重なった。
背中まで貫通した手応えを感じながら、刀を引き抜くと、切り口から闇のように濃く粘い飛沫が奔騰した。
「うぐ、ぐうぅ……!」
赤黒い流血に汚れた胸元を押さえ、ひゅうひゅうと空気がぬけるような喘鳴と共に男が数歩よろめく。背後で崖下の奈落が口を広げていた。その先にはまさしく地獄の入り口が待ち構えている。
「ぎゃああぁぁぁぁ~~!!」
「ふん……」
予想通り男は哀れにも足を踏み外し、断末魔の木霊と僅かな血痕を点々と残して、暗黒の中へ飲まれていった。その最期を見届けると、不快げに顔を歪めて納刀する。
念の為、最初に“妖精の矢”で撃った相手にトドメを刺していた琴美が、それに気付いて怪訝な顔をした。
以前の志郎なら、人を斬っても顔色ひとつ変えなかったのだ。
「どうかした?」
「別に。相変わらず嫌な感触だと思ってな」
「そう……」
呟きながら、琴美も自らの手で眉間を撃ち抜き、トドメに喉を剣で裂いて命を奪った戦闘員を、陰鬱な顔で見下ろす。
彼女も同じ気分だった。
戦いの際に高揚する気持ちは否定しないが、どんな相手であっても、人の命を奪って気分が良いわけはない。苦い果実を飲み込んだような、後味の悪さがじわりと胸を侵食する。
鬼のような速攻で敵を葬ったふたりは、再び目的地へ向けて歩き出す。
(志郎、やっぱりあなたは武道家だよ。人を殺して悦ぶ殺人鬼とは違うわ)
琴美の小さな呟きは、志郎に気付かれることなく静寂の中へと吸い込まれていった。
「配置、完了しました。猫の子一匹通しません」
「ご苦労。少し休んでおけ」
「ハッ!」
鳥羽が、伝令係の団員を短い言葉で労う。傍らには依子とシュレック子爵、そして樹里の姿も見える。
これから『アリオク』の本拠である廃ホテルに対する包囲・殲滅戦が開始されるのだ。
「二人とも、大丈夫かな……」
「落ち着かないのかい、御堂さん?」
生粋の変人のくせに上っ面だけは常識人を気取り、桐山依子が彼女を気遣う。
今夜は白の胴着に弓道用の胸当てを付け、腰に大小の二刀を差した女武者を思わせるスタイルだ。
普段は腰まで流した長髪も、後頭部の高い位置でポニーテールに結わえている。
本人いわく気を引き締めるための勝負服らしい。
「だって、あの二人が敵の本拠地に突っ込むんでしょう? 心配ですよ」
今回の作戦は、三幹部達が多勢と共に攻撃をしかけて敵を混乱させ、そのどさくさに紛れて志郎と琴美が本陣へ突っ込み殺人鬼を倒し、そして出来れば組織の首領とスカイスタンを討つというものだ。
力任せの策であるが、今までの遅れを取り戻すには強引な戦いをせざるを得ない。
しばらくこの周辺は危険地帯となるが、樹里は事情を知る身として事件の顛末を見届けたいと思い、同行を志願したのである。
「そう心配するな。もう少し友達を信じるといい」
「ふふん、しかしそう上手く行くかな?
死んだら色々やって生き返らせてやってもいいぞ。生前と同じかどうかは保証しないがね」
そっけない一言を残して鳥羽が持ち場へ行き、シュレック子爵も不穏な言葉と共に立ち去る。
あとには依子と樹里だけが残された。
「バカどもめ。性格の悪いことだ」
と言う割には、彼女の顔にも底意地の悪い笑みが浮かんでいる。依子も依子で自分のことは棚上げする性分なのだ。
「うーん……」
大人たちのブラックジョークにダメージを受けたか、樹里は腕を組んで何やら考え込んでいた。
「どうかしたかね?」
「いえ、死んだ人を生き返らせる事なんて本当に可能なのかな、と思いまして」
「ふむ……」
依子も少し考え込む素振りを見せ、語り始める。
「可能と言えば可能だ。例えばエジプトのピラミッドは単なる墓所ではなく、いずれファラオを復活させるための装置でもあるし、日本でも西行法師が人骨から人を作り出そうとした『反魂の法』などは有名だな。
死後も生前の執着を捨てられずに墓場から帰ってきた死者の話や、屍に魂を吹き込む秘術の話は他にもごまんとある。何度でもいうが、重要なのはそれが長い間人々の間で信じられてきたかどうかだ」
「そう、ですか……なるほど」
うつむき加減で、樹里は再び思考している。何か自分の中で釈然としないものがあるようだ。
「少し気になった事があるんです。死んだ人をきちんと復活させるには、それ相応の代償が必要なんじゃないですか。さっきシュレックさんも言ってたでしょう。甦っても生前と同じかどうかは保証しないって」
「なるほど、興味深い。つまりスカイスタンはその代償を支払っているのかどうか、ということか?」
神に等しい存在とされたファラオを未来に甦らせる為のピラミッド建造は、古代エジプトの一大事業であったはずだ。そのために消費される労力・技術は恐らく、死者を甦らせるには相応しいものである。
対して、西行法師の反魂の法はどうか。
『撰集抄』によると西行は高野山での修行中、一人で山に篭ることへの寂しさから、鬼が人骨から人を作るという話を元に、反魂の法に手を出した。
かき集めた骨を頭から足まで順番に並べ、特定の葉を焼いたものや薬を塗り、糸や繊維で骨を繋げる等、概ねの手順は合っていた。
しかし、施術の前の断食を抜かしていたり、本来必要な乳と間違えてお香を炊いたりと幾つかの手順を間違えていた為、出来たのは死人のように青白く、まともに喋ることさえできない、まさに生ける屍の如き出来損ないであったという。
鬼や人虎への変化を身に付けてはいるものの、岡田以蔵やジル・ド・レエの強さは元から本人達が学び培った剣術・体術の腕前に裏打ちされたものである。
エリザベートやハールマンが人間の血肉を好む性質も、魔人として転生する以前から備わっていた性嗜好だ。
肉体的にも精神的にも明らかに化け物じみているが、彼らは生前の人格や記憶を以て復活している。
「魔術とは本来、厳正であるべきなのだ。そして、魔との契約というのは一種の呪いである。良くも悪くも相手は約束を守るし、それを忘れることも違えることもない。
ファウスト博士もゲーテの戯曲では悪魔メフィストフェレスに魂を奪われる直前、かつての恋人グレートヒェンの霊に救われ天国に逝くことが出来たが、元の伝承では契約期間後に抵抗したもののメフィストフェレスには敵わず、首をへし折られたり、血の海の中に眼球と歯だけを散乱させて跡形もなく消え失せたりと、結局は無惨な最期を遂げて魂を地獄に連れ去られたとされている。
だからこそ、術者が儀式に間違いを犯すことは赦されない。そしてスカイスタンの術は恐らく、厳正なはずのそれからは外れた外法だ」
正当な手順を踏まぬ外法によって得たものならば、それを支払わせた時の代償は非常に大きくなる。
恐らく、二人に勝機があるとすればそこだ。強大な妖力を誇るスカイスタンを倒すには、外法の隙を突くのが効果的である。
「正直、あの二人が殺人鬼やスカイスタンに勝てるかどうかは少し不安だった。しかし、君の言葉で可能性が見えてきたよ。ありがとう」
「いえ、そんな。私なんて皆さんみたいに戦えるわけじゃないし……」
「そう卑下しないで欲しい。我々は普通の人間とは違うんだ。だからこそ、君のように存在を認めてくれる人がいるのは嬉しいんだよ」
樹里が何も言えずに恐縮していると、再び伝令係が姿を現し、依子に駆け寄ってきた。
「狗賀と長谷川、所定の位置についたと連絡が入りました。突撃部隊も準備完了です。いつでも攻撃できます」
「分かった、行こうか。御堂さん、護衛を付けるので君は下がっていなさい。今からここは戦場だ」
それを聞いて、素直に頷く。非戦闘員である樹里に出来ることはない。
残念だが人にはそれぞれの役割があるのだ。
「みんな、生きて帰ってきて下さいね」
「ああ、分かっているよ」
事件の終わりを願う、少女の祈りは天に届くか否か。
依子もいつもの笑みを消し、真摯な表情で言葉を返す。
決戦が開始された。




