5章の6
志郎が訓練を乗り越え、新たな刀・鬼切丸を入手する数時間前のことである。
琴美は一人、市街地の片隅にある教会を訪れていた。
カーペットの上に平行に並ぶ座席と、その奥に据え付けられた祭壇が、ステンドグラスを介した夕日に照らされ、滲むような朱色の世界を生み出している。
その祭壇の前に立つ背の高い男と、魔女装束に身を包んだ琴美が、静かに向かい合っていた。
「久しぶり、ハインリッヒ先生」
「こちらこそ。お久しぶりです、琴美さん」
微笑を浮かべて、銀細工を溶かしたような、見事なシルバーブロンドの神父が彼女を迎え入れた。
年齢は30歳前後だろうか。細面で顔だけを見ると華奢な印象を与えるが、対照的に背は高く、神父服の下には鍛え抜かれた肉体が隠されている。
そして、肩に掛けられたマフラーのように細長い、艶のある光沢を放つ紫の布が眼を引く。これは“ストーラ”と呼ばれる、カトリック系の聖職者が悪魔祓いに用いる装飾品だ。
古くは1626年にヨーロッパで出版された『祓魔法典』と、それを元に書かれ、現在もカトリック教徒が悪魔祓いに用いる儀式書『ローマ教会典礼定式書』に記される、悪魔から持ち主の身を守ると同時に、とり憑かれた人間から悪魔を追い祓うための重要な道具である。
ハインリッヒという名の彼は、数年前に知り合い、魔女である彼女に悪魔祓いの術を指導してくれた、変わり者のエクソシストだ。
元はある退魔団に属していたが、上官への反発から組織を脱退し、流れ流れて日本の片田舎へとたどり着いたのだという。
「……しかし、連絡をいただいた時は驚きましたよ。私に悪魔祓いの術を教わりたいとは」
柔らかい表情を崩さないハインリッヒとは対照的に、琴美の顔は酸っぱいものを飲み込んだように複雑な表情を作っていた。
「私は気にしませんが、貴女の属する組織の性質上、私と接触するのは立場が不味くなるかも知れませんよ」
『ファウスト』は首領であるフォルキュアスをはじめ、メンバーには西洋系の黒魔術師が多い。
鳥羽明久や桐山依子のような東洋系の秘術の使い手もいるが、キリスト教的な所謂『白魔術』の使い手は殆どいない。
暗黙の了解だが、やはり組織には反キリスト教的な気風があるのだ。
「…………気にしないで下さい。先生に迷惑はかけませんよ。後で私が首領に叱られるくらいで済むなら、御の字です。
だから、私に白魔術をもう一度教えてください。この街に喚起されようとしている悪魔を倒すためには、先生の力が必要なんです!!」
「……なるほど、分かりました。そういうことなら喜んで」
赤く染まった空間で、神父が改めて笑みを浮かべる。
しかし、数秒の間を置いて、突然その顔が緊張に強ばった。
「…………そこにいるのは、どなたですか?」
琴美の肩越しに、静かだが気迫の籠った誰何の声が、静寂に包まれた教会にこだまする。
怪訝なものを感じて、琴美も振り向く。背後にあるのは、教会の出入り口だ。
すぐに琴美も異変に気付いた。
きちんと閉めた覚えがあるのに、扉が半開きになっている。
「?」
扉の隙間から、ながく陰が伸びていた。陰の主は扉の裏に隠れており、姿を黙視することが出来ない。
琴美とハインリッヒの間に、緊張が走る。直感的に両者ともに危険を察知した。
何かがいる!!
無言で扉を見据えるなか、ゆっくりと相手の気配が増していく。
琴美の肌がさっと粟立つ。霊感が強い彼女には、子供の頃から何度も味わったことのある感覚だった。
見てはいけないものを見てしまった時の。
血の気を失った青白い手が、扉にかかる。ついに姿が見えた。
ボロボロの服を着た、若い女だった。
全身がぐっしょりと水に濡れ、赤黒い血と泥にまみれている。
脚の間接があらぬ方向に曲がり、首には生々しい縄の痕が刻まれたその様子は、あきらかに生者ではない。霊だ。
意味不明の言葉をわめきながら、女の霊が教会の内部へ侵入してきた。
「おっと!!」
「うわわっ!!」
手足をでたらめに振り回しながら、祭壇に霊が突っ込んでくる。
祭壇の上に飾られた花瓶が弾き飛ばされ、陶器の破片と花が床に散乱する。
霊の足に踏みにじられた花は録画された映像を早送りするように、瑞々しさを失い枯れて砕けた。
どうやら、触れた相手の生気を吸い取る霊のようである。
「これは、接近戦には分が悪いですね」
「そんな呑気な……ところでこれ、誰かが送ってきた霊みたいですよ。心当たりは?」
基本的に幽霊を現世に留めておくものは、未練や執着である。
その方向性を少しいじってやり、無関係の人間に祟り・呪いを成す攻撃に転ずるのは魔術師にとって容易な事だ。
頬をかきながら、ハインリッヒが首を傾げた。
「いやぁ、呪い殺したいと思われるほど人に怨まれた覚えはさすがに。この手の術者の知り合いもいませんしね」
「じゃあ、私かも知れません。すみません、巻き込んじゃったかも」
琴美は殺人鬼達を追って、彼らに協力する組織とも戦ってきた。それに対する報復の可能性は充分高い。
申し訳なさそうな顔をする魔女に、神父は笑みを返した。
「大丈夫。気にしていませんし、悪霊祓いなら私の専門です。この程度は任せなさい」
おお、おおおおおん……!!
不気味な怨嗟の声を洩らしながら、爪が剥がれて肉がむき出しになった手を前へ伸ばし、再び霊が二人に向かい進んでくる。
神父が正面に立った。
両腕をだらりと下げた無構えだ。迎撃の体勢には見えない。
距離が縮まっていく。
「ギリギリまで引き付けて……行きますよ!!」
悪霊の手が首にかかろうとするタイミングで、神父の右腕が跳ね上がる。
十文字の光輝が袖口から迸り、女の胸を貫いた!!
光の正体は、白銀の輝きを放つ長槍であった。
中心がイエス・キリストの磔刑像となった十文字の穂先が、女の胸から背中まで貫き通っている。
呻きながら女が槍に手をかけ、刃を抜こうとするが、
「ハッ!!」
気合いを発して、神父が槍を薙ぎ払う。
上半身を引き裂かれながら、糸で吊られた人形のように女がキリキリと回転し、床へ転倒する。
「朽ちし者。汝、滅びし国へ帰るべし!!」
反撃の機会を与えず、ハインリッヒは小さなガラスの瓶を取り出すと、その中身を倒れた女に振りかけた。
「疾く立ち去れ。聖なる力の前にひれ伏せ。哀れなる死者よ!!」
ギャアアアアアーー!!
ハインリッヒが胸元で手を組み、祈祷文を唱えると、けたたましい悲鳴が上がった。
小瓶の液体をかけられた女の身体が、青白い炎を噴いて溶けていく。
最初は苦悶の表情。それがやがて穏やかな顔へ変わっていき、微かな笑顔が見えた時には、すでにその身は跡形もなく消え失せていった。
成仏したのだ。
「アーメン……」
最後に胸元で十字を切り、呪いに利用された死者の冥福を祈る。
「……今のって、聖水ですよね?日本の幽霊にも効くんですか」
戦いを終えて安堵の息をつきながら、ハインリッヒが黒い袖で汗を拭う。
「ええ、ようは聖水というのは塩水ですから。
塩は霊的な磁性を持ち、水は神聖な領域を象徴するもの。この二つを掛け合わせて力を増幅させたものが聖水です。日本でも塩は葬儀の際の穢れを祓うお清めや、家に悪いものが侵入するのを防ぐ魔除けに用いられるでしょう?
『レビ記』では神に捧げる供物は全て塩で味をつけることが定められていますし、逆に悪魔が嫌うのでサバトに出される食事には塩が入っていないとも言われています。塩に対する信仰は西洋にも存在するのです」
キリスト教圏でも、塩を神聖なものとして扱うエピソードは散見される。
ハインリッヒの語るレビ記での描写の他にも、人間と神との契約を“塩の契約”と表現したり、枚挙に暇がない。
また、イタリアの法学者ポール・グロリーの著書『呪詛』には塩を嫌う悪魔について、こんな話が紹介されている。
昔々、ローマの近くに住むとある百姓が、妻が毎夜毎夜どこかで出掛けていくのに気が付いた。
不貞を疑う夫に棒でひっぱたかれ詰め寄られた妻は、自分は魔女であり、サバトへ参加している事を白状したのである。
「ならば許してやる代わりに、俺もその宴へ連れていけ」と言われ、妻は仕方なく「サバトでは決して神の名を唱えてはならない」という約束を交わし、夫の身体へ自分と同じように軟膏を塗り、サバトへ行くための乗り物である黒山羊の背中に乗せてやった。
主催者である悪魔に挨拶し、百姓は食卓に並べられた料理を食べようとしたが、サバトで出される料理には悪魔の嫌う塩が全く入っていなかった。
味気ない食事に対して彼は不満を述べ、いくら言っても塩を寄越せと聞かないもので、しぶしぶ悪魔は百姓に塩を与えてやる。
すると男は妻との約束を忘れ、うっかり「塩を下さった神を讃えよ」と神への賛美を口にしてしまう。
たちまち悪魔も料理も魔女達も一瞬のうちに消え失せ、哀れにも百姓は住み処から遠く離れた見知らぬ土地にひとり取り残されてしまったのだという。
「なるほど。今更だけど穢れや邪気に対する根本的な部分は同じなんですね」
感心した様に頷きながら、荒らされた教会を見渡す。掃除くらいは手伝おうかと、破片と花の残骸を拾おうとした。
「……?」
陶器の破片に紛れて、白い紙が床に落ちている。
黒いインクで円が描かれ、その内側にさらに円と正三角形を組み合わせた図形があり、周囲には意味不明の擦れたような古代文字が記してある。
内側の正三角形の正面、ちょうど琴美から見て上を向いた角には、六芒星が頂かれている。
その意味を理解した瞬間、背筋が凍りつく。これは、強力な魔術に用いるための護符だ。
「オミエル! アナヒエル! アラヒアー! アナザヒア!」
どこからともなく、精霊に呼びかけるための呪文が鳴り響き、
「かかる人は衣の如くに呪いを着る。この故に呪い、水の如くに己の裏に入り、油の如くに己の骨に入れり!!」
そして、『旧約聖書』詩篇百九章十八節の暗唱が続く。
護符から爆発的な妖風が吹きすさび、窓ガラスが突き破られて荒れ狂う。
「土星の精霊の呪いか……嵌められたな。さっきの女は囮で、こちらが呪いの本命ですよ」
目を開けるのもやっとの状況だが、どうにか正気を保って分析する。
「なるほど。それで、鎮める方法はご存知ですか!?」
ハインリッヒも風を避けるため、這い蹲るような姿勢で床に伏せている。
「大丈夫、この程度の相手には負けませんよ」
自身を持って言い放ち。視線の先で風の中心を見据える。先ほど発見した、あの護符がある位置だ。
「エコエコ・アザラク、エコエコ・ザメラク、エコエコ・ケルノロス、エコエコ・アラディーア……」
精神統一の呪文を唱え、“額にあるもうひとつの眼”を意識して視線をこらす。
実体のない相手の姿を捉える幻視のコツだ。
最初はぼんやりとした靄にしか見えないが、アメーバーのような不定形の粘塊から、岩のような固形。それを経て生物的なフォルムへと、段階的に姿を変えて姿を固定していく。
「見えたッ!!」
筋骨隆々とした肉体を持ち、巨大な鎌を携えた大男の姿がはっきりと映し出される。呪いの術者がイメージしたのは恐らく、ギリシャ神話の土星の神であり、ゼウスをはじめとする主神たちの父である時の神クロノスだろうか。
ローブから取り出した長剣を抜き、精霊へ向かい琴美が疾走した。あとはこれを倒せば呪いは鎮められる。
精霊も鎌を振り上げ、琴美を迎え撃つ体勢を取った。
「やあああああああああああっ!!」
怪鳥の如き声を張り上げ、魔女の剣と死神の鎌が激突する!!
互いの身体が交差し、背中合わせになる。
呪いの精霊が膝をつき、顔面から倒れ伏した。一滴の流血もないが、脳天がザクロのように割れている。
あとは先ほどの女と同じく、大気へ溶けるように消えうせていった。
「間一髪か……これがなきゃ不味かったかも」
冷や汗をたらしながら、胸元をなでる。魔女装束のちょうど心臓の位置が、すっぱりと裂けている。鎌を受けた跡だ。
裂けた布地を探ると、そこからヒビの入った小さな人形が出てくる。
紙粘土をこねたような決して上手な出来ではないが、竪琴や金色の冠やベルトで装飾されている事から、高い地位にいる人物を模したものらしい。
「アリオーンの人形、さっそく役に立ったな」
ギリシャ神話の天才的な音楽家であるアリオーンが、コリント王ペリアンドロスに大変気に入られ、王の支援を受け諸国放浪の旅をしていた時の事である。
船旅の途中、欲深い水夫に殺されそうになった彼は海に飛び込んだが、その歌声に魅了されたニンフ達に助けられて、彼は無事に旅を終えて王の元へ帰り、水夫は罰せられたといわれている。
この人形はそれにちなんだ呪いから身を守り、呪いを放った相手には逆にそれを跳ね返すというアイテムなのだ。
「しかし、こんなものに頼ってもまだこの程度か……情けない」
やはり、自分はまだ力不足なのだ。それを補うためには白魔術を習得しなければならない。
改めて、琴美は決意を固めた。




