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5章の3

「…………」


「…………」


 気まずい沈黙が部屋に満ちていた。

 志郎はベッドに、琴美はそのベッドの横に置かれた椅子にそれぞれ腰掛けて、向かい合っている 。


 話したいことは山ほどあるが、互いに最初の一言がなかなか出てこない。


(ああもう、どうすりゃいいんだよ)


 イラついたように、志郎が硬い髪の毛をガリガリかきむしる。すると、かきあげられた髪の下に隠された、額の痕が露になる。

 ジルに剣を折られた時に付けられた切り傷だ。

 荒れ狂う戦いぶりを思い出してか、琴美の顔が暗くなる。

 怪我はそれだけではない。

 右目には眼帯が被さっているし、頬や鼻の頭にも多数の絆創膏が貼られている。おびただしい火傷と裂傷を負った腕も包帯でがんじがらめだ。

 目に見えない部分には、それ以上の傷がひしめいてる。


「ごめん……たくさん怪我させた」


 絞り出すような、小さな声だった。

 唇がかすかに震えている。

 いつもの明るさのない声に危機感を覚え、慌てて志郎が取り繕う。


「気にするなって、お前のせいじゃねえだろ。だいたい俺が痛い目に会うのはいつものことだ。もう慣れちまったよ」




 痛みには慣れている。

 志郎が簡単にそう言い切るのが、余計に琴美は悲しかった。

 目の前の少年は、理不尽な事件でたった一人残された家族まで失い、やり場のない怒りと悲しみのままに初めて人を殺し、それからずっと耐えてきた。


 痛いことばかり。辛いことばかり。悲しいことばかり。全て自分だけで背負って。


「それで本当にいいの?

 慣れてるから気にするな、なんて。誰にも何も言わずに、これからもずっと一人で辛いことに耐えていくの?」


 真正面から彼の目を見据えて、言い放つ。


「な、なんだよそれ?」


 琴美の強い口調に、志郎が狼狽えた。

 古傷を抉るような罪悪感が生まれたが、しかし、琴美もここで追及を休める気はない。

 本心を引き出すための切り札を、ここで使う。


「聞いたよ、お祖父さんが亡くなった時のこと」


 その台詞を耳にした瞬間、志郎の表情が見る間に強ばっていく。勢いよくベッドから立ち上がった。


「……もらしたのは誰だ。あの三人か」


「そうよ」


 視線だけで人が殺せそうな、猛烈な殺意を込めた眼光が放たれた。


「余計なことを言いやがる」


 どかっと再びベッドに腰をおろして、イラついたように身体を揺する。

 反射的に枕元へ手を伸ばし、そこに何もないことに舌打ちし、更に怒りで表情を歪めた。

 もしも刀が手近にあれば、部屋を飛び出て三幹部たちへそのまま斬りかかりかねない。激怒している。


 その様子を見ているだけで辛い。

 大声をあげて泣き出したいのに、精一杯やせ我慢している子供のようにしか見えない。


 いや、実際に志郎の時間は、10歳の頃から止まっているのだ。

 祖父が目の前で殺され、その仇を自らの手で斬った経験は、彼の心に深い傷を刻んでいる。

 そこで立ち止まったまま、他者を拒絶して生きてきた。


 本来なら、そこは他人が触れてはいけない領域である。


 それでも、今の志郎はそれを乗り越えない限り、前に進めない。

 そう考えた琴美は、決意を固めて踏み込んだ。


「ねえ、剣が嫌いって言ってたのも、お祖父さんが亡くなったから?」


「 ああっ、テメエまでなにいってんだ!? 返答次第によっちゃ」


「いちいち怒ってたら進まないでしょ、答えて!!」


 部屋がビリビリと振動するほどの鋭い一喝に、志郎が気圧される。


「……畜生。どいつもこいつも、わけのわからねぇ事ばかりほざきやがる」


 やがて渋々といった体だが、観念したように語り始めた。


「ああ、そうだよ。あの日は俺が山に行きたいってせがんで、剣の修行がてらキャンプに行って、そこで鬼に逢った……ようするに、じーちゃんが死んだのは俺のせいなんだ」


 顔を歪めながら、言葉を絞り出す。


「じーちゃんが死んでからは、剣を振るうのも楽しくねえ。それだけじゃなく、じいちゃんは俺のことが重荷だったんじゃないかとずっと考えるようになった。よその家のガキは俺みたいに馬鹿力でもなけりゃ、鼻も利かねえ。なんせ頭が悪かったから、それが他人と違うことも分からなかった」


 幼い頃から既に並外れて腕力が強く、鋭い嗅覚の持ち主だった。

 それが他の子供とは違うとは気付いていなかったので、周囲の親からは子供同士のちょっとしたじゃれあいにも手加減が出来ず、犬のように人や物の臭いを嗅ぐので、大人たちからは乱暴で気味の悪い子供だと敬遠されていた。


 そんな自分が祖父へ負担になったという考えが、彼の負い目となっている。


「こんな厄介な孫を年取ってから育てるはめになったんだ。挙げ句の果てに、俺のワガママのせいで最期はあんな化け物に殺された」


 陰鬱な表情で独白を続ける。それに対して、琴美は無言で何も応えない。


「いっそあそこで、俺が死ねば良かった」


「志郎!!」


 絶叫に近い声で、彼の名を呼ぶ。



 初めて呼び捨てにされ、怪訝なものを感じるのとほぼ同時、鼻先に衝撃が走り、視界に原色の星が飛んだ。

 渾身の力を込められた琴美の拳が、顔面を殴打したのだ。


「ハアッ!?」


 痛みよりも驚きのため、まともな言葉にならない。

 意味不明な音の羅列ばかりが口から漏れていく。


「な、なに、な、なにすんだ……!」


 ようやく一言絞り出すと、今度は胸ぐらを掴まれる。


「あんた本当に馬鹿じゃないの!! 馬鹿よ馬鹿、馬鹿すぎるわ!!」


 ひたすらマシンガンのように、馬鹿馬鹿と捲し立てた。

 あまりの剣幕にしばらく何も言い返すことができなかったが、少し時間がたつと腹が立ってきた。


「馬鹿馬鹿言うなクソ女!!  お前に俺の何が分かるってんだ!!」


「分かるわよ、自分で自分の思い出汚してりゃそれは馬鹿としか言えないわ!!」


 再び、握り拳が振りかざされた。また殴りにくると思い、志郎が身構える。


「ほんと馬鹿よ……」


 しかし、鉄拳は飛ばず、拳を解くと、琴美はそっと志郎を抱きしめた。


「え? え?」


 状況を理解できず、志郎から間の抜けた声が漏れる。


「あんたが大切じゃないなら、お祖父さんはあんたに剣なんて教えないわ」


 鼻先に胸を押し付けるように頭を強く抱き、子供にするように髪を撫でる。


「は、離してくれよ……!?」


 彼の腕力なら逃れることは容易なはずだが、抱擁を外すことが出来ない。

 顔を高潮させ、ひたすらうろたえている。


「ねえ、剣を習うことになったきっかけは思い出せる?」


「き、きっかけは、たぶん、庭で犬に襲われたことだ。幼稚園に入る前くらいだよ」


 彼によると、幼い頃庭で遊んでいたとき、家の門が開いていたのか野良犬が侵入し、襲われた。

 飢えた野良犬に獲物として狙われた彼は、命の危機を感じたという。


「噛み付かれて死ぬと思って、無我夢中で抵抗して、気がついたら血まみれになりながら犬を叩き殺してた。その翌日から、じいちゃんは俺に剣を教えると言い出したよ。若い頃はちょっと名の知れた剣術家だったと、その時に初めて聞いたと思う」


「そっか。やっぱりおじいさんはあなたが大切だから、剣を教えたのよ。自分の力を理解しないまま成長すれば、不幸になると思ったから。きっと幸せになってほしいと願っていたのよ」 

  

「無理だ。俺みたいな人殺しが幸せになれるかよ」


 暗い声で、小さく呟く。


「……好きって言ったのウソじゃない。一人で背負い込んで辛くても、二人なら少しは軽くなるかもしれないよ」


 硬い髪質の頭を、柔らかい指が撫でた。せめてもの抵抗なのか、犬が毛皮から水を飛ばすように身震いする。


「よせって、好きなんてウソだろ。雰囲気で言ってるだけだ」


「本当よ、入学式で初めて見た時から、なんか可愛い子がいるなーと思ってたの。実際に近くで見てるともっと可愛かった。だからパートナーになれた時はうれしくて死ぬかと思ったくらいなんだから!!」


「ちょっ、やめ」


 抱擁がさらに強まり、胸元に顔面を押し付けられ、志郎は息が詰まりそうになった。


「あ、ごめん」


 手足をばたばたさせている彼に気づいて、名残惜しそうに力を緩める。


「し、死ぬかと思った。おっぱいで窒息死なんてなったら未来永劫笑いものだ」


 大真面目に言う志郎に、琴美は軽く吹き出した。ようやくいつもの調子が戻ってきたようだ。


「おい、笑うなよ。こっちはマジなんだからな」


「あはは、ごめん。でも、こんな胸でよかったら、たまには甘えてよ」


「だ、誰が甘えるか!! 子供じゃあるまいし」


「知ってるよ、誕生日10月でしょ。私もう16歳だから私のほうがお姉ちゃんだもん」


 顔を真紅に染めて怒鳴る志郎を、飄々とかわす。そして、両手が広げられた。

 再び、琴美は志郎を抱きしめていた。

 

「何度でも言ってあげる。好きよ志郎。強いの知ってるけど、私もあなたもまだ子供だよ。泣くのが恥ずかしいなら、私の胸くらい貸してあげる。だから、なんでも一人だけで解決しようとしないで、少しくらいは頼ってもいいんだよ」


「……」


 志郎は何も答えない。代わりに、肩が小さく震えている。

 小さな雫が、頬を伝って顎から落ちていくのが見えた気がした。


 鳥がついばむように、そっと唇を近づけ、ぬれた右頬をぬぐってやった。





「……」


 無言で顔を両手で覆い、琴美が志郎の病室から出てきた。表情は見えないが、耳まで真っ赤になっているのが丸わかりだ。


「どうだった?」


 ニヤニヤと笑いながら、依子がさっそく聞いてみる。


 たっぷり数十秒の間を置き、


「…………男の子って、可愛いですよね」


 ようやく、その一言を搾り出した。

 

 そして、疾風のようなスピードで玄関に走り、外へ駆け出していく。


「まあ、仲は深まったようだな」


 鳥羽は初々しい部下の様子に、苦笑いだ。


「何にせよ、これで先に進める。未来のエースコンビをこんな事で潰すわけにはいかなかったから、一安心だ」


 シュレック子爵も柔和な笑みに、普段より深みが増している。


「あとは……さ、御堂さん」


「え、何ですか?」


 依子がそっと樹里の肩を叩いた。


「やられっぱなしは悔しいだろう? あの朴念仁に君も一発食らわしてきなさい」


 一瞬きょとんとした顔を作り、


「はい!!」


 弾けるような笑顔を作り、病室へ入っていった。





「狗賀くん!!」


「うおっ、な、なんだ御堂か」


 ベッドに腰掛けぼんやりと外を眺めていた志郎が、突然部屋に現れた樹里に驚いた声を出す。


「ねえ、狗賀くん。長谷川さんのこと好きなの?」


「き、聞こえてたのか……」


「ごめん、でもドアが薄いから話し声はもれてたの。で、質問の答えは?」


「よくわからん、でも嫌いでは、ない、と思う」


 歯切れの悪い返答だ。しかし、今の樹里にはそれで十分である。


「そっか。わかった。じゃ、その気持ちを大事にしてね。長谷川さんを本当に好きなら、諦めないで。あ、耳貸して、左耳」


「あん?」


 怪訝なものを感じながら、左耳を近づける。次の瞬間、左頬に柔らかい感触が押し付けられた。

 さっき右頬に感じたものと、同じ。


「み、御堂!?」


「諦めないから。私も狗賀君のこと諦めないから!!」


 琴美と同じように耳まで真っ赤に染め、脱兎の勢いで樹里は部屋から去っていた。


 あとには両頬を手でさすりながら、あほの様に呆然とする志郎だけが残されていた。



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