5章の2
病室のベッドに腰かけ、感触を確かめるように、志郎は左右の指を動かした。
握る。開く。繰り返す。
関節に未だ若干の硬さはあるが、包帯とギプスは外れている。
全身に負った怪我も、もはや日常生活には問題ないレベルにまで治癒した。
「どうだ、調子は?」
「……悪くない」
時田の問いに、軽く笑って答える。
数日間、依子とシュレック子爵による霊的治療と、時田の投薬を受けて、志郎は劇的な回復を遂げていた。
右目の眼帯はまだ外されず(三幹部が何故か外すなと指示している)、所々にまだ包帯や絆創膏が残って痛々しいが、無視できる軽傷にすぎない。
「今回ばかりは素直に礼を言っておくよ。時田のじいさんと、あんたらにもな」
「それだけじゃないだろ。御堂くんにもだ」
治療に立ち会った三幹部のひとり、依子がからかうような口調で言った。志郎のそばにいる樹里が顔を赤くしてうつむいた。
ここ数日、彼女は下校後の時間を見つけては、実に甲斐甲斐しく志郎へ世話を焼いていた。
ノートのコピーを届けるついでと本人は言っていたが、身体のまだ不自由な彼の生活を、恥ずかしがりながらも手伝っていた。
思い出すだけで顔が熱くなり、志郎もそれを悟られまいとうつむいている。
「ぐ、分かったよ……ありがとうな、御堂」
「いいの、私が勝手にやってる事だから遠慮しないで」
蚊の鳴くような声で、ようやく一言絞り出す。
「ははは、剣を握れば鬼のように強いのに、可愛らしいことだ。せいぜいこれからも青春したまえ」
「したまえ、じゃねーよ馬鹿!!」
無責任なシュレック子爵の物言いには、軽くキレ気味になる。
「こら、いつもそうやって騒いでグダグダになるんだから依子もシュレックも黙っておけ」
放置すれば収拾がつかなくなると判断したか、鳥羽が会話を遮り、話を本題に移した。
「じゃあ、動けるようになったということで、そろそろ退院しても良いですか、時田先生?」
「構わんよ」
よっしゃ、と小さく叫んで、嬉しそうに志郎がガッツポーズを取った。退屈な療養生活は今日で終わりだ。
「ああ、でも殺人鬼の調査はしばらく休みだぞ。他のやつにやらせるからな」
「あん? 俺と長谷川はもう担当から外すってことかよ。俺はともかく長谷川はショックじゃないのか」
先日の戦いから顔を見ていない相棒が、彼には気掛かりだった。樹理に様子を尋ねても、言葉を濁して満足のいく答えは返って来なかったのだ。
「そうは言ってない。今のままでは勝てないから、二人揃って鍛え直してやろうと思っているんだよ」
依子が珍しく真剣な口調で言った。いつもの人を小馬鹿にしたような微笑が消えている。
「お前が祖父が亡くなった時と同じように暴走しても、以蔵には勝てたがジルには勝てなかった。スカイスタンにも全く歯が立たず翻弄された」
「ちょっと待て、いま何て言った!!」
依子に掴みかかった志郎の顔が、見る間に青ざめていく。
「俺、またああなったのかよ!!」
「なんだ、まだ知らなかったのか。つくづくおめでたい奴だな。安心しろ、お前はあの娘に攻撃したりはしてない。とりあえず、その手を離せ」
「狗賀君、落ち着いて」
樹里の手が、そっと腕に添えられる。
それに少し落ち着きを取り戻したか、全身を震わせながらも、胸ぐらを掴んだ手が離された。
それを見て、ふっと嘲笑うような息が依子の鼻から漏れた。
「そうやってすぐ取り乱すから、以蔵にも負けるんだ。心・技・体のうち、今のお前が最も鍛えるべきは心だな」
「何だと!!」
「俺も戦いを見ていて分かった。最も長く学んでいるはずの鹿島神道流が一番疎かになっている。身体能力と技術への依存が、慢心に繋がっているんだよ」
鳥羽も依子の意見へ同調する。
志郎はぐぅっと唸るだけで言い返せなかった。
強さへの自負があったのは確かだが、それを慢心と切り捨てられてしまうとは、本人は予想だにしない事態である。
依子がさらに続けた。
「確かに才能はあるし、身体能力も並外れている。だからこそ示現流と田宮流が性にあったのだろうが、技と体だけでは限界が来ている。塚原卜伝のようにとはいかないまでも、心をもっと鍛えるんだ」
一撃必殺を信条とし、幕末には数多くの倒幕派浪士を輩出したことで知られる『二太刀要らず』の剛剣、薩摩示現流。
居合い術の始祖・林崎甚助の高弟の一人であり、太刀捌きの多彩さ、華麗さから『美の田宮』と呼ばれた田宮重正が興した、田宮流居合い術。
示現流の“体”。
田宮流の“技”。
これに日本史上最大の武芸者・兵法家である『剣聖』塚原卜伝の精神を伝える、鹿島神道流の“心”が加われば、志郎は更に上の領域に到達できると鳥羽と依子は語った。
「そもそも、鹿島剣法ほど化け物退治に向いた流派はない。ましてやお前は、大口真神の神官の家系の生まれだろう。神道流の真髄を引き出すには向いているはずなんだ」
鹿島神道流は、茨城の鹿島神宮に伝わる古流武術である。
日本神話における天地創造の神の一柱、母神イザナミが火の神ヒノカグツチを出産した際、下腹部にひどい火傷を負い死んでしまった。
妻の死を嘆き悲しんだ父神イザナギは、ヒノカグツチを神剣・十拳剣で斬り殺してしまう。
この剣に付着した血液から生まれたとされるのが、優れた武勇によってタケミナカタを初めとする神々を倒し、葦原中国の平定に尽力した剣と雷の神タケミカヅチであり、鹿島神宮はこのタケミカヅチを祭神とする。
そして鹿島神宮に仕え、大行事職(警察業務)や、神宮での卜占を取り扱う、祝部と呼ばれる神官の血筋である吉川家が伝えてきたのが鹿島神道流武術だ。
その刀術は神道の祓い清めの作法から編み出されたといわれ、流派の成り立ち自体が神への信仰の流れを組む。
奈良時代には西国への防衛に向かう防人たちが、こぞって神官へこの鹿島剣法を学んで任務へ赴いたという謂われもあるほどで、鹿島は古くから武術の聖地として崇められてきた。
塚原卜伝も元は吉川一族の出身であり、彼は鹿島の有力豪族であった塚原家の養子となり、養父からタケミカヅチと同じく、火の神の血から生まれた剣の神フツヌシを祭る香取神道流を学ぶと、自らの流儀『新当流』を興した。
後年、卜伝の後継者となった塚原彦四郎が吉川家へ新当流を伝え、これが代々伝わる鹿島中古流・上古流と併せて、現在まで鹿島神道流として継承されている。
そして、大口真神は狼を神格化した神道の神の名だ。
ニホンオオカミは時代が下がると共に害獣として忌み嫌われ、個体数の減少と最終的な絶滅によって神として零落したが、かつては作物を荒らす鹿や猪を喰うことから、人里を守る聖獣とされていた。
時に人を食い殺し、時に人を守る『送り狼』の怪異などが広い地域に伝わっていることからも分かるが、恐るべき自然の脅威にも、頼もしい友にもなる犬や狼は、人間にとって良くも悪くも縁の深い隣人だ。
中でも大口真神は『お犬様』とも呼ばれ、その荒ぶる獣性によって人に取り憑く犬神・蛇神などの憑き物を食い殺すことで落とし、また人語を解して人の善悪を鋭く見抜き、善を助け悪を裁くと信じられた神である。
余談だが、奈良県明日香村付近には真神ヶ原という知名が現在も残っており、『大和風土記』によると、かつて明日香の地には年経た老狼が住み着き人々に恐れられていたが、やがてその猛々しさから奉られ神になったとされている。
これが狼を神格化した日本最古の記述であり、大口真神信仰の原型と思われる。
「鹿島神宮への信仰と密接な関わりがある事から、悪魔・邪霊を祓う呪術的な要素を含む技も、鹿島神道流にはいくつか現存しているというのが重要だが……。
戦闘理論や上っ面の技術ばかり磨いて、そっちはどうせ修行しとらんのだろう。お犬様の神官が、トウビョウに憑かれる時点でおかしいんだ。自分自身のポテンシャルをもっと引き出せ」
依子の言葉は辛辣だったが、事実だ。
宮司の家系に生まれたからには、神道の祓い清めに関してもある程度の素質はあると何度か言われたこともあるが、今までそれらを無視して戦っていた。
これは自分自身の怠慢だ。
人外を相手にするなら、もっと以前から鍛えるべき技だったのである。
「……分かったよ、“祓太刀”もきちんと鍛練する」
「いやいや、真の解決には、個人の武力だけではまだ足りない。お前はもっと他人に踏み込む強さをもて」
彼女の真顔が、ここでいつもの微笑に変じた。
シュレック子爵も笑いを噛み殺しているし、鳥羽は何故か申し訳なさそうな表情である。
「ん? なんのことだ?」
「殺人鬼たちは最後に勝ち残った一人だけが悪魔になれる。その座を巡って争う彼らは、本質的には敵同士でしかない。だが、お前と長谷川は違う。これからの戦いに勝つには、コンビネーションが必要不可欠なんだ」
言っている事はいちいちもっともなのだが、どういうわけか鳥羽の目が泳いでいる。
「というわけで、これから二人きりで話し合ってみたまえ。長谷川くん、入っていいぞ」
「え、これからかよ!? ちょっと待て、俺にも心の準備ってものがだな!!」
狼狽する志郎を全く無視して、シュレック子爵の言葉を合図に、制服姿の琴美が病室へ入ってきた。
「さあ、あとは若い二人に任せて!!」
「見合いじゃないんだぞ依子……」
「いやいや、似たようなものじゃないかな?」
ゴソゴソと騒ぎながら、三幹部と時田が部屋から出ていく。それを追って、樹里も退室しようとした。
琴美と目が合う。
ここ数日彼女は明らかに落ち込んでいて、近寄りがたい雰囲気があった。
しかし、志郎の世話を焼いていることは伝えているし、傷が回復していく様子を聞いて喜んでもいた。
「長谷川さん、頑張って」
「うん」
弱々しいが、確かに笑った。
樹里はここ数日、志郎と過ごしていた。
ならば次は、琴美の番だ。
樹里の潔癖さと公正さは、ライバルであるはずの琴美の心を、本人の自覚のないまま随分と救っている。
(まったく、私はいい友達を持ったものだわ)
そう思う魔女の口許に、彼女本来の持ち味である明るい色をした笑みが、少しだけ増していた。




