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5章の1

 怒りに満ちた咆哮が、山地に轟く。

 獣の雄叫びを上げる少年が、十歳前後の体躯には不釣り合いな真剣を手に、殺意の燃えた眼を向ける。


 殺意の矛先は法衣を纏った山伏姿の中年男だ。腰には中身のない空の鞘が差されており、少年が手にした刀は、本来この男のものだという事が伺える。


 その山伏姿の傍らには大木のような巨体が控えている。青黒い筋骨隆々とした肉体と、牛のような二つの角を額から生やした異形。鬼である。


 山伏が怯えた表情で錫杖をかざし、少年を差す。従者のように鬼が従い、その小さな身体に巨体が肉迫した。拳が振り下ろされる。


 少年が立っていた位置に拳がめりこみ、石片と土煙が四散するが、少年は軽々とそれをかわしていた。

 更に左右の拳が唸るが、悉く空振りに終わる。


 破壊力は十分だが、少年の動作がそれに比べて桁違いに速い。いくら拳をふるっても、鬼は彼を捉えられない。


 そして、少年も逃げてばかりではなかった。隙を見付けては刀を振るい、斬りつける。

 岩石を削り出したような鬼の全身が、斬撃で瞬く間に刻まれていった。


 ぐるぅ、と全身血染めの鬼が唸る。

 ドスドスと地面を踏み鳴らし、いびつな血の筋が引かれた青黒い巨体が少年へ追い縋ってくる。

 叩き潰してやるとばかり、両手を組んで鉄槌のように振り下ろした。


 少年が頭上から迫り来る攻撃に対して跳んだ。



 拳を飛び越え腕を足場に、階段を踏むように駆け昇る。最後に肩を蹴って頭上をとった。

 上段から刃を疾走させる。


 必殺の一刀は額から顎先まで、鬼の顔面を遺憾なく斬り下ろしていた。


 ごがっ!! という頭蓋骨の割れる鈍い音と共に、血煙が飛散する。

 鬼が上体をのめらせ、地鳴りを伴って崩れ落ちた。


 死を予感させる痙攣を伴い、石榴のように割れた顔面からは、おびただしい鮮血が噴き出している。

 いかに人知を越えた怪物であっても、頭部を破壊されては生きられない。


 すでに勝敗は決しているが、少年は倒れた鬼の胸板を踏みつけると、狂ったように幾度となく刃で肉を引き裂き、突き刺しまくった。

 胸や腹や首といった致命傷になり得る箇所だけでなく、指や耳などの末端まで、一切の区別なく斬り刻む。

 紺色の胴着と袴が返り血を吸って、どす黒く染まっていく。


 鬼の身体はもはや、肉を裂く柔らかい音と、骨を砕く硬い音が入り交じる、おぞ気立つ音色を奏でるだけの楽器と化した。


 断末魔の絶叫が上がる。

 それで更に気分を害したように、大きく開いた鬼の口へ、黙れと言わんばかりに少年が刃をねじ込んだ。

 喉を突き破り後頭部まで串刺しにされると、やがて微かな痙攣すらも起こらなくなった。


 鬼を完膚なきまでに殺し尽くした少年の背後から、耳障りな金属音が近づいてくる。山伏の振るう錫杖だ。


 環の取り付けられた杖が後頭部を打ちすえ、少年を流血させる。ぐらりと身体が前のめりに傾いだ。


 恐怖で青ざめひきつった顔の山伏から、ひっ、ひっ、と発作か窒息したかのような声が漏れた。頭から血を流しながら、少年が体勢を立て直す。


 刀が不格好な中段に構えられた。

 無茶な使い方をしたせいで刃こぼれが激しく、刀身には血と脂がべっとり付着しているが、まだ使える。


 口角から泡を飛ばし、意味不明の言葉をわめきながら、山伏が更に錫杖で殴りかかった。

 金属製のそれは鈍器として申し分ない殺傷力を備えている。


 重苦しい風切り音と共に、杖の先端の環が激しく鳴り、執拗な打撃が襲い来る。棒術の技だ。

 山伏もそれなりの技量ではあるが、少年の身のこなしに比べればハエが止まるかと思うほど遅い。


 鈍重な攻撃から飛び退き距離を取ると、少年がぐっと膝を屈めた。

 獲物を狙う獣の姿勢をとり、足の裏が地面を捉えた。砂煙を巻いて一直線に跳ぶ。


 身体の捻りに刀が同調し、三日月のような鋭い軌道を描く。胴払いだ。


 咄嗟に山伏も錫杖を突き出した。先端に仕込まれた錐のように尖った部位で、少年を刺殺しようと突っかける。


 互いの得物が噛み合い、カッと青白い火花が散った。


 錫杖に刃が食い込む。飴細工のように杖がひしゃげ、切断される。その先にある山伏の身体もろとも、凶刃が食らい付いた。


 下腹部を深々と抉られ、赤黒い鮮血の帯を引いた山伏が、斬撃の威力に吹っ飛ばされる。一面が血の海と化した。


 最期の足掻きか、全身を血みどろに染め、芋虫のような鈍い動きで腹這いに逃げようとする。少年が刀を掲げて歩み寄った。


 声にならず、たすけてくれ、と口だけが命乞いの形に動く。


 それを嘲笑うように、無慈悲に背中が踏みつけられた。


 背骨の折れる感触と共に山伏が仰け反り、顔面から血を噴き出す。悲鳴をあげる暇すら与えず刀が払われ、首が切断された。


 苦悶の表情で固まった生首が、ごろりと地面に転がる。

 切断面から深紅の煙が波打ち、風に揺れる梢に刷毛で塗りたくったような血の帯となって付着した。



 鬼と山伏を肉塊に変えても、まだ怒りと憎しみは収まらなかった。

 誰でもいい。なんでもいい。感情をぶつける相手がほしい。


 斬り倒す。踏みにじる。殺す。殺す。とにかく殺す。


 理性の吹き飛んだ頭で考えられるのは、これだけだった。

 殺意が思考を支配している。



 視界の端で、誰かがふらりと立ち上がった。


 木刀を手にした老人だった。少年と同じく袴姿で、手に木刀を携えている。

 短く刈り込んだ頭髪は白色が目立ち、目尻には深い溝のような皺が刻まれている。

 しかし、胴着の袖からは筋骨隆々とした浅黒い腕が覗き、胸板も年齢とは不相応なほどぶ厚い。鍛え抜かれた肉体の持ち主だ。

 そして何より、老いを補って余りあるほどの凄まじい気迫が全身から放たれている。



 新たに殺意の矛先を見つけた少年が、刀を振りかざして老人に斬りかかった。


 無茶苦茶に振り回される真剣に臆することなく、老人も木刀でそれを迎え撃つ。


 武術の理から完全に外れた、脈絡なく変化する外道の剣。そのひとつひとつを老人は丁寧に弾き、見切り、いなし、受け流す。


 並の人間には視認する事すら困難な、神速の攻防が続く。


 傍目にはひたすら少年が攻撃を繰り返し、老人は受けに徹して防戦一方にも見える。

 だが、少年の動きは徐々に勢いを削がれて衰え、老人の太刀捌きがそれを上回りつつあった。



 剣戟の音を高鳴らせ、気合いの声と共に、老人がはじめて右手一本で仕掛けた。

 遠間から片手斬りが伸びあがる。こめかみを狙う霞打ちだ。


 左こめかみを木刀の切っ先が掠め、赤黒い内出血を浮かべさせる。


 ぎゃあ、と短い悲鳴をあげて少年が後方へ跳んだ。



 着地と同時、少年が咆哮を迸らせて、飢えた狼のように跳ねた。獰猛な色が、更に眼光を激しく燃え盛らせる。


 距離が瞬く間に縮まった。

 真正面。やはり老人は逃げず、両者、力強く打ち込んだ。


 玉鋼と樫が互いに噛みつき、近距離でギリギリと押し合う。鍔迫り合いだ。


 鍔迫り合いの姿勢のまま、老人が柄を握った手首を内側へ巻き込み、捻った。

 少年はその動作に気づかず、更に真剣に力を込める。


 刃が木刀を削り、半ばまでめり込んでいく。怪力にものをいわせて、先の山伏のように木刀もろとも両断するつもりだ。


 しかし、老人も手をこまねいて殺られる気はなかった。


 内側に捻られた手首をほどきながら衝撃を受け流し、木刀を横倒しにして少年の剣を制し、動きを封じる。

 そのまま膝を落とした低姿勢から、突き上げるように押し返した。


 少年は忘れていたが、彼の学んだ流派に継承されている、敵の力を利用して相手を崩す技だ。


 絶妙なタイミングで繰り出す三つの動作によって、真剣が一瞬で弾かれた。

 少年は攻撃の方向ベクトルを逸らされ、自分自身の怪力に翻弄される。


 隙を逃さず、攻勢を崩された少年の脳天を、老人の振るう木刀が打ちすえた!!


 真剣が手から離れて宙を飛び、少年は脱力して膝をつく。


 一刀の元に意識を刈り取られ、前のめりに倒れる身体を老人が抱き締めた。


 少年は頭から血を流しているが、微かに肩が呼吸とともに上下している。気絶しているだけだ。


 その様子を確認した老人は口元へ微かに笑みを浮かべ、そのまま二人して折り重なるように地面へ倒れた。


 少年を抱いてうつ伏せに倒れた老人の背中に、獣爪で抉られたような傷が深々と刻まれていた。


 じわりじわりと、傷から血が溢れていく。


 暴走する少年を止めた凄まじい気迫は、命の蝋燭が潰える前の最期の炎だった。






「……んっ」


 ぎこちなく身動ぎしながら、志郎は眼を開けた。

 どうやら自分はベッドへ寝かされていると気付く。仰向けになった身体には、白いシーツが掛けられている。

 身体のあちこちが酷く痛む。少し動くだけで激痛が走った。


「どこだここ」


 周囲を見渡そうにも、首が痛くてそれすら叶わない。

右目には眼帯が被せられ、視界が利くのは左半分だけで余計にもどかしい。


 しかし、寝かされたベッドと微かに見える部屋の様子には見覚えがある。

 町外れに位置する時田診療所だ。以前ホームズと戦った夜に泊まった、診療所の病室に違いなかった。



 ふと、左手に温かく柔らかい感触を覚えた。誰かが彼の手を握っている。

 どうにか目玉だけを動かして、感触の主を探す。ベッドの側に置かれたイスで、学生服姿の小柄な少女が手を握ったまま、こくりこくりと船を漕いでいる。


 事件をきっかけに交流が始まった同級生の、御堂樹里だった。


「御堂か」


 何気なくかけた一言に、少女の身体がビクリと震え硬直した。

 数秒呆けたように志郎を見つめ、やがて丸い瞳に、次から次へ大粒の涙が浮かんでくる。


「良かった、気が付いたんだ……!! し、心配したのよ、ずっと目が覚めないんだもん」


「ああもう泣くなって、大したことねえよこんなもん」


 樹里が顔を覆って泣きじゃくる。しどろもどろになりながら、慌ててそれをなだめようとした。


「大したこと無くない、だって丸二日も寝てたんだよ!?

 殺人鬼たちに負けて診療所に運ばれたって聞いて、どれだけ心配したと思ってるの!!」


 気の強い樹里の言葉は、容赦なく志郎に現実を叩き付けてくる。


 脳裏によぎるのは、あの無数に閃く灼熱の光芒。


 今まで学び、培ってきた剣の技は、岡田以蔵にはどれも通じなかった。


 おびただしい手数で繰り出される異形の惨殺剣を受けることも捌くことも叶わず、なす術なく最後は必殺の逆袈裟斬りを喰らい、血ヘドを吐かされたのである。


 挙げ句、二日間も昏倒させられたとあっては、言い逃れが出来ない。

 完敗である。


 負けたという事実が深く鋭く、心を抉った。



「そう言えば、長谷川はどうした!?」


 彼女も無傷では無かった事を思い出し、志郎が焦った声を出す。


 二人して折り重なるように倒れ、頬を撫でられた感触が甦った。

 今まで見たことがないほど優しい顔で微笑み、自分を好きだと言った。


 それが罪悪感となって志郎の心に降りかかる。


 直後の記憶が何故か欠落している事で、余計に焦燥が募った。


「心配するな、彼女は大丈夫だ。怪我はしていたが命に別状はない。今は家に帰っとるよ」


 騒ぎを聞き付けてか、小柄な白衣姿の老人が、部屋の入り口に姿を現していた。時田だ。



「ジジイ、本当か!?」


「こんな嘘つくか馬鹿者、怪我人なら黙って大人しくしとけ!!」


「……チッ、分かったよ」


 一喝されて気勢を削がれたか、舌打ちをついて全身から力を抜く。しかし、彼女を守りきれなかった事実は変わらない。



「なに真っ先にぶちのめされてんだよ俺は、くそったれが」



 苛立ち紛れに何気なく顔へ手をやると、冷たい感触があった。濡れている。


「あぁっ? なんで涙なんか……」


「狗賀くん、寝てる間時々泣いてたよ。大丈夫? どこか痛いの?」


 樹里が心配そうに言う。



「ふん、おおかた嫌な夢でも見たんだろうよ。子供の頃のトラウマとかな」



 時田の揶揄の通り、子供の頃の夢を見ていた気がした。

 乾いた涙の跡がいくつも白い結晶となって、頬に付着しているようだ。

 我ながらよくもここまで泣けるものだと、自分で呆れてしまう。


「……うるせえよジジイ、後で覚えとけ」


 慌ててギプスで固められた右手よりも動きの利く左手で涙を拭い、精一杯の虚勢を張って吐き捨てた。

 頭から布団を被って再び横になる。今の顔を他人に見られたく無かった。



(なんで今更泣いてんだ、あんな夢で……つくづく馬鹿だな俺)


 聞こえないように、口の中で小さく呟く。

 しばらく、志郎は布団の中から動けなかった。






 限りなく憂鬱ではあるが、横になったら気分が少し落ち着いた。

 時田は仕事場に戻り、部屋に残っているのは彼と樹里の二人だ。


 壁の時計を見ると、針は6時過ぎを指している。

 茜色の陽光が西側の窓に見えると言うことは、今は夕方だ。


 記憶が確かなら神社で戦ったのは水曜日の夜なので、今日は金曜日である。

 明日明後日は土日で、学校が休みなのは不幸中の幸いだ。二日間は登校日数を気にせず治療に専念できる。


(寝てるだけじゃ仕方ねえ。便所に行きがてら、試しにちょっと歩いてみるか)


 志郎がシーツをはいで全身を見渡すと、ミイラのように包帯だらけにされている。

 その白い包帯の下で数え切れないほどの打撲、火傷、裂傷が疼いていた。

 踏み砕かれた右腕はギブスで固められ、肩から吊り下げられている。

 特に燃え盛る刃を受けた胸元には、赤黒い血の色が濃く滲んでひどい有り様だ。

 ここまで傷を負ったのも久しぶりだった。



「い、いてて」


 痛む身体に鞭打って、何とか上体を起こした。それだけでも思ったより体力を消耗する。


「……御堂、非常に申し訳ないんだが便所に行くんで肩を貸してくれ。立ち上がる時だけでいいから」


「うん!」


 小柄な身体が嬉しそうに密着してくる。

 志郎もさほど長身というわけではないが、近くで見ると思った以上に彼女は小さい。


(こうして見ると、けっこう可愛いなコイツ……)


 肩越しに伝わる柔らかい感触と、生まれながらの鋭い嗅覚が察知する甘い香りに照れてしまう。


 琴美のように出るところが出たタイプではないが、艶のある黒髪も、小柄でほっそりとした身体も十分魅力的に映った。


 かがんだ胸元からピンク色のブラが覗き、それに覆われたささやかなふくらみが見える。


 雪のような白い肌に、目を奪われて仕方ない。


(って、いかんいかんジロジロ見るな。スケベと思われる)


 赤面した顔色と、柔肌に向けた視線を悟られないよう、慌てて志郎はそっぽを向いた。



 どうにか意識を立ち上がることに移し、集中させる。名残惜しい気がしたが樹里から肩を離し、立ち上がる。


「よっ、ととと」


 感触を確かめつつ、床を踏みしめた。

 少々ふらつくが、一度でも立ってしまえば、後は歩行には問題ない。壁づたいにトイレを目指して歩き出す。


 右手は完全に使えず、左手も包帯だらけで細かいものは持てないだろうが、壁で身体を支えたり、トイレの手すりを掴む程度ならば可能だ。


 まだかなり不便だが、何とか一人で用を足す事が出来た。


 上半身に比べて、下半身にはあまり怪我を負っていないのも不幸中の幸いだった。脚は動く。


 恐らくは医療的なものだけでなく、魔術による治療も施されているせいだろうが、負った傷の深さを考えれば驚異的な回復である。


 ベッドに戻り、思ったよりも動いてくれる自身の肉体に、志郎は感謝した。


(あとは、剣が振るえるようになればいい。絶対このままじゃ終わらせねえ)


 炎を纏った鬼の剣。

 その一手一手が、脳裏に焼き付いて離れない。


 握り拳すらまともに作れぬ、不自由な身体にもどかしさを覚えながら、以蔵との再戦を想定したイメージトレーニングを繰り返した。



 剣を手に真っ向からぶつかっていく。

 鹿島神道流、示現流、田宮流。

 学んだ流派の技と、自身の人間離れした身体能力を駆使し、全身を燃え盛らせた鬼へ刃を疾走させた。



 幾度目かの立ち会いを、脳裏に描く。


 まず、鞘から“稲妻”で抜き打ち、牽制する。

 それをかわされ、後方へ退いた相手へ追い縋るように刀を振るうが、何度やっても剣が敵の急所に届かない。

 焦りを感じながら“蜻蛉”の構えを取って地を蹴る。

 ひと飛びに深く踏み込み、“一手打ち”で斬り込んだ。

 しかし、それを待ち構えていたように、次の瞬間には無数に枝分かれした刃が襲い掛かる。

 瞬く間に攻撃が潰され、防戦一方に陥った。灼熱の光芒が容赦なく視界を射貫き、眼が眩む。

 やがて捌ききれなくなり全身を刻まれ、無惨に血を奔騰させながら吹っ飛ばされてしまう。



 結果は尽く同じだった。

 どれだけ挑んでも凄まじい手数に圧され、崩され、最後は無様に斬り倒される。


 勝利のイメージが一度たりとも構築できない。


(クソ、なんでだ)


 ギリギリと奥歯をかみしめ、心の中で吐き捨てる。心の中にドロドロとした感情が渦巻いていた。

 祖父を亡くした時とも、琴美が瀕死の重傷を負わされた時とも異なる、もっと個人的な感情だ。



(ちょっと待てよ……俺、悔しがってるのか? 自分の剣が通用しなくて?)


 剣なんて嫌いなのに馬鹿馬鹿しいと一蹴したくとも、暗い気持ちは消えない。しかし、この胸が張り裂けそうな思いを、悔しさと認めたくもなかった。


(ちくしょう、わけがわからねえ)


 多少痛みがあっても構うかとばかり、ドサッと音をたてて乱暴な勢いでベッドに背中を沈めた。


 もはやイラつきは最高潮に達している。



 すると今度は胃袋が騒ぎ始めた。


 丸二日も寝込んでいたので当然だ。

 点滴で栄養は補給されていたものの、育ち盛りの肉体には不満でしかない栄養量であるし、考え事をするだけでもカロリーは消費されるのだ。


「腹へった……」


 イメージトレーニング中は忘れ去られていた胃袋が、食物を欲しがって脈動し、盛大に鳴き声をあげ始める。

 実に品のない大音声だった。


 すると、ベッドの傍らに座っていた樹里が席を立った。



「確か、お粥なら作り置きしたのが残ってるよ。持ってこようか?」


「あー、頼むわ」


 樹里にも腹の虫の鳴き声が聞こえているのだろう。必死で笑いをこらえている。


 ふふふ、と小さな笑い声を引きながら、台所へ向かって行く。


(なんだこれ、ちょっと悔しいな)


 笑われて恥ずかしいのもあって、志郎は微妙にふて腐れてしまう。


 数分経って、ひとりぶんの土鍋に盛られた粥を持った樹里が部屋に帰ってきた。傍らに時田が付き添っている。


「なんか用か?」



 志郎が怪訝な顔で時田に用件を訪ねると、時田は小さな紙袋を彼に手渡した。



「一週間ぶんの薬を出しておく。食後と寝る前で1日合計四回、忘れず飲めよ。あと痛み止めと解熱剤も付けた。

 熱と痛みが強い時に飲むといいが、次にまた飲む時は5〜6時間ほど間隔を開けるように」


「ハイハイ、分かったよ」



 渡された薬袋を枕元に放り、後は聞き流す。そして、ベッドテーブルに置かれた土鍋を凝視した。


 中身はエビやらホタテやら魚の切り身やらの入った海鮮粥だ。

 元々魚料理は好きだし、二日ぶりの食事なのもあって、えらい御馳走に見える。


 今は薬より食事が優先だ。しかし、


「あっ、手……」


 いざ粥を口にしようとして、箸も匙も持てない事に気付いた。


 利き手の右手はギプスで固められているし、左手も数ヵ所に火傷と裂傷を負って包帯でがんじがらめである。


 何とか左手で匙を使おうとするが、上手くいかない。

 粥を掬いとることも出来ず、何度試しても手元から匙が滑り落ちてしまう。


 その光景を眺めていた時田の顔に、意地の悪い笑みが弾けた。


「御堂さん、やはり志郎はまだ手が利かないようだ。君が手伝ってあげてくれないか?」


「はい……」


 血を噴きそうなほど顔を赤らめて、ベッドの傍らに樹里が座る。

 匙に粥を掬い、口に近付けてきた。


「狗賀くん。はい、あーんして」


「え、な、ちょっ!? おいふざけんなジジイ、御堂に妙なこと吹き込むな!!」


「ふざけてなどおらんよ、どのみちまだ手は使えないんだから大人しくご奉仕されとけ。あとキッチンで、お前がまだ手が使えないなら手伝うと最初に言い出したのは彼女だ。

 良かったなぁ、可愛い女の子にメシ食わせて貰えるなんて滅多にないぞ?

 普段から人をハゲだのジジイだの死に損ないだのと呼んで敬わんのだから、たまには言うこと聞くがええ」


「ぐっ……」


 悔しげに唸る志郎を嘲笑いながら、というか喉を反らして大笑いしながら、時田が意気揚々と退室した。


(なんだこの羞恥プレイ!! マジでおぼえとけよ時田ぁ!?)


 どれだけ恥ずかしがっても、樹里は止める様子はない。

 無下に扱うわけにもいかず、志郎は羞恥心で軽く錯乱状態に陥りながらも、ひたすら仏頂面で食うことしか出来なかった。



「美味しい?」


「……(あまりに恥ずかしくて)味がよく分からん」


「そう、ごめんね。これ私が作ったんだけど、次はもっと美味しいの作るから」


「ウソウソ、美味いです!!」


 シュンとなる樹里を見て、慌てて訂正する。すると、からかわれているのか本気なのか、すぐに笑顔が戻った。


「そっか、良かった。じゃあ残さず食べてね。全部」


「わかった、わかりました!!」



 部屋の外に佇む時田は、大騒ぎする二人を見て安堵の息を吐いた。


「良かった。一人にしとくと思い詰めて墜ちるとこまで堕ちそうだったからな。あの娘さんがいることが今は救いだ」


 時田の言う通り、イメージトレーニングを終えた直後に比べると、志郎の表情は随分と和らいでいる。

 暗い感情で埋め尽くされそうな心が、樹里と過ごすことで緩和されていることに本人は気付いていない。



「本当に大変なのはこれからだ。今はせめて休息しておけ」


 物憂げな言葉を残し、時田は仕事場へと姿を消した。

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