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4章の6

 咆哮に大気がびりびりと震動する。声の主は、傷だらけの少年だった。


 砕けた右腕の拳を固く握りしめ、胸板に刻印された黒い裂傷も関係ないとばかり、喉を反らして天を仰ぎ、雄叫びを上げ続けている。


 その少年、狗賀志郎が吠え続ける背後に、意識を失って倒れた長谷川琴美の姿があった。



 自分を庇って倒れた誰かの姿。


 抱き締められながら見た、血みどろの笑顔。


 そして、その誰かを傷付けた敵。



 以前にも、彼はこれと良く似た光景を見ていた。


 理性の吹き飛んだ状態でも分かる。二度と見たくない光景だった。この光景に志郎の精神は耐えられない。



 憤怒の表情の岡田以蔵が、刀身に口から噴き出す炎を吐きかけながら、歩んで来るのが見える。


 岩を削り出したような筋骨隆々とした肉体と、額から生えた一対の鋭い角も、耐え難い光景を思い起こさせた。

 右目は火傷で塞がれているため、左目だけが異様な殺意を宿し、志郎の顔の半分をギラギラと輝かせる。



 ――そうだ。あの日初めて自分が殺したのも、家族を殺したのも鬼だった。



 志郎が腰を落とし、膝を屈めて今にも飛び掛かりそうな姿勢を崩さず、ゆっくりとした歩みで油断なく以蔵との距離を詰めて行く。

 鮮血で赤く染まった口から、ぐるるる、と唸りが漏れる。


 彼の全身から放たれているのは紛れもなく、牙を剥いて今にも獲物へ飛びかからんと筋肉を強ばらせた、猛獣の殺気であった。



「長谷川め、あれを天然でやっているんだから恐ろしい。見事に志郎のトラウマを直撃したな」


 鳥羽が呆れ返るような口調で呟く。



「まさしく6年前と同じ状況だ、つまり志郎が暴走するのも6年ぶりか」


 桐山依子は面白くなってきた、とばかりに笑みを浮かべた。



「正直我々でも今の彼には手を焼くぞ。魔人どもにどこまで通じるかな?」


 マックス・フォン・シュレック子爵は興味深そうに成り行きを見守っている。


「おっと、忘れていた。長谷川くんを手当てするとしよう」


 端整な顔に薄笑いを浮かべたマントの青年が、倒れ伏した魔女に歩み寄る。

 失礼と一言断りを入れて血を吸ったマントを脱がし、傷を確認した。

 右肩口から鎖骨の下辺りまで深々と抉られ、黒いローブの裂け目で断面がむくむくと蠢いている。奥に見える白いものは骨だ。


 かなりの深傷だが、まだ間に合う。

 早急な応急処置をすれば一命をとりとめる事は可能であると、医師のように冷静な診断を下す。


「長谷川琴美の血よ、赤い血よ、止まってしまえ。赤い赤いキリストの血よ……」


 素早く傷口に右掌をかざし、呪文を唱える。

 掌からぼぅっと暖色系の柔らかい光が放たれると、それに触れた傷が徐々に狭まり、流血が目に見えて減少していく。


 フィンランドの『止血士』と呼ばれる特殊な呪術師たちが扱う術だ。

 呪文にキリストの名が入っているが、これは単に迫害を避ける為に名前を取り入れただけで、実際にはキリスト教との関連性はない土着の呪術である。

 既に死に至る程出血した者には効果がない術だが、どうやら間に合ったようだ。シュレック子爵の顔に微かだが安堵の色が見える。

 この止血士の珍しいところは、呪文を唱える術者よりも怪我を負った相手が年上ならば、他人に呪文を聞かれてはならないという制約である。もし聞かれれば、止血士の術は一切効果を失ってしまう。

 しかし、幸い琴美は彼よりも年下だからその心配もない。


 十数秒で、出血は完全に収まってしまった。


「さて、もうひとつ特別サービスといくか」


 次に、マントから小瓶と注射器を取り出した。小瓶に『変若水』というラベルが貼られている。

 変若水(おちみず)とは、日本神話の月の神ツクヨミがもたらすとされる、不老不死の霊薬の名だ。


 トロリと粘りのある液体を注射器に吸い上げ、手慣れた動作で琴美の腕に針を刺して流し込む。すると死相じみた青白い顔色へ、劇的に赤みがさしていった。


「さすが時田先生の薬だ、効き目は抜群だな」


 どうやら今の薬は、不老不死を専門分野とする時田医師の研究成果らしい。真の不老不死をもたらす効果があるかは定かではないが、少なくとも重体の琴美を死の淵から引き上げる程度には有効だったようだ。


「う、うぅ……」


 琴美の口から苦しそうなうめき声が漏れ、ほどなく緩慢な仕草で閉じられた眼が開いた。意識を取り戻したのだ。


「志郎!!」


 絶叫に近い悲痛な声で、相棒の名を口にする。そして、バネ仕掛けのように上体を起こした瞬間、激痛に襲われ悶絶する。


「これじゃ、ハールマンの時と同じじゃないの……!!」


 口腔に血生臭い鉄錆の味がぶわっと広がり、吐きそうになったがなんとか堪え、悔しさの滲む声を絞り出す。


「大丈夫、君の大切な相棒はこれからきっと大暴れするよ」


 目覚めた早々、茶化すようなシュレック子爵の声にぎょっとする。

 あれだけの重傷を負って大暴れするとは、どういうことか。


 状況の飲み込めぬまま、慌てて視線を巡らせ、相棒の姿を探す。すぐに見つかった。



 ひどい傷を負ったはずの志郎が、立ち上がっている。


 胸に刻まれた刀傷も、踏み砕かれて朝顔のような青紫に鬱血した腕も、四肢の数え切れないほどの裂傷と火傷もそのままに、岡田以蔵と対峙していた。


「そんな、いくら何でもあの怪我じゃ無理よ!! 武器だって折れたのに」


 痛む身体に鞭打って、彼を止めようとするが、立ち上がる事さえ出来ず、転倒して地面に這いつくばる。


 悔しさと情けなさのあまり涙が出そうだが、ぐっと涙腺を閉めて耐えた。


「大人しくしとけ、さっきまで死にかけてたんだからな」


 冷酷に切り捨てたのは、いつの間にか傍らへ移動していた鳥羽だ。そのすぐ横には微笑を浮かべた依子がいる。


「長谷川、志郎をあの状態にしたのは君だ。それを理解したうえで、彼の戦いぶりを最後まで見ておくように」


 依子の皮肉めいた声に反論すら出来ず、訳もわからぬまま、琴美の目の前で志郎と以蔵の戦いが始まった。




 水蛇に冷やされた以蔵の身体と刀には再び熱が宿り、溶岩のような赤光を放っているが、それに臆することなく、志郎も以蔵を鋭く睨み付けている。


 以蔵の構えはやはり、地に足裏をつけたベタ足に、切っ先を膝下へ垂らした下段だ。

 切っ先が幻惑するように、円や波を描いて揺れている。


 志郎はそれよりも更に深く低く、膝を落とし背中を猫背に丸めた低姿勢を取った。まるで、生い茂る草に身を隠して獲物を狙う野獣の姿である。



「死ネッ!!」


 数秒の睨みあいを挟んで、怒号を伴う赤い光が走った。以蔵が先手を打ったのである。


 幻惑の動きから突然切っ先が跳ね、獲物へ毒牙を突き立てんとする蛇のようにぐんっと伸び上がる。片手突きだ。


 低く屈めた頭部へ、高熱の切っ先が襲いかかる。

 眉間を狙う一撃に、短く驚愕の声を放って志郎が後ずさった。

 飛び退いて間合いから逃れようとするが、恐ろしい程の速さで以蔵の突き手が手繰り寄せられ、休む間もなく二撃目が来る。


 突きで肝心なのは引きだ。

 かわされれば先の“鴫羽返し”を外し重傷を負わされた志郎のように、腕が伸び切り致命的な隙を生む。

 逆に以蔵ほどの腕前があれば、並の相手を容易くは寄せ付けない。


 爪の生えた足で地面を蹴たてて、斬り上げが唸る。

 地鳴りのような足音と、泥の跳ねる甲高い音が響いた。

 ぬかるんだ泥にまるで恐竜のような足跡がスタンプされ、鬼の踏み込みの力強さを物語る。


 強烈な踏み込み相応に腰の入った、下弦の月を思わせる鋭利な斬撃が闇を抉った。


 しかし、これも志郎の肉体を捉えるには至らない。泥だらけで転がるように攻撃から逃れている。

 人間離れした動きというか、四つん這いになって地面を駆けずる姿は明らかに人の動作ではない。


 斬り上げを避けられ、刀を頭上に掲げる形になった以蔵に対し、ここで志郎が仕掛けた。


「ウガァーーッ!!」


 低い姿勢から砲弾と化し、咆哮の帯を引いて喉元めがけ飛び掛かる。


 以蔵が迎撃のために、斬り上げからの返す刀で忠広を真っ向から斬り下ろすが、志郎のほうが遥かに俊敏だ。


 獲物を噛み砕くあぎとのような上下からの刃を掻い潜る。燃え盛る喉笛に右手がかかり、指が食い込んだ。

 掌が焼けただれるのも構わず、勢いに乗って全体重をかけ、以蔵を後頭部から石畳へ叩き落とした。

 石畳に亀裂が走り、絞め殺される鶏のように奇妙な呻きを以蔵が放つ。喉仏の辺りが潰れる嫌な音が周囲に伝わった。


 中国拳法の“虎襲倒”という技に似ているが、実際のそれより遥かに力任せで乱雑だった。剣術だけでなく、柔術の心得もある志郎らしくない。


 それでも普通ならば首の骨が折れてもおかしくないほどの破壊力であるが、強靭な筋肉に覆われた樽のように太い首は、魔人となった人斬りの命を守っている。


 敵が健在であることを察知したか、志郎は以蔵を引き倒したまま馬乗りになり、反撃を許さず顔面を殴った。



 以蔵の高熱を帯びた返り血を浴びて更に火傷が深くなるのも構わず、無茶苦茶に殴打する。


 殴る、殴る、殴る、殴る、殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る!!



 肉を打つ音が間断なく響き、鬼の顔面が瞬く間に風船のように腫れ上がり、牙の数本が折れて周囲に散乱した。



「グオオッ!!」



 滅多打ちにされる状況に危機を感じたか、これまで聞いたことのない、焦ったような声を以蔵が発した。咄嗟に柄頭が突き出され、志郎の額を打ち据える。

 鈍い音がして、馬乗りになった上半身が血糸を引いて仰け反った。


 その隙に身をよじって馬乗りから逃れ、すくっと以蔵が立ち上がる。



「ヨ、ヨクモ、ヨクモ儂二コンナ真似ヲ……!!」


 暗い激怒の炎が口と両眼から噴き出され、全身から凄まじい殺意が膨れ上がる。陽炎の絡み付く刃が旋風のようにうねり、再び志郎を襲う。



 小刻みに揺れる刃が数十の斬撃となって殺到するが、尽くが空振りに終わる。

 浅く斬り込むフェイントが入り交じっているとはいえ、全てを回避する志郎の動体視力と反射神経も尋常ではない。頭から血を流しながらも反撃の機会を伺うように、鋭い眼で相手を見据え攻撃をかわし続けている。


 飛び退いて距離をとると、追い縋るようにガトリングを思わせる連突きが来た。


「キエッ、キエェッ!!」


 怪鳥のような気合いと共に、遠間から灼熱の剣尖が容赦なく風を穿つ。


 素早い踏み込みで二段、三段と突きこみ、執拗に志郎を追撃した。


 四段目。頬を掠める刃を横っ飛びにかわし、志郎が間合いをつめようと駆けた刹那、以蔵の鬼面に邪悪な笑みが弾けた。突き出された切っ先が、水平に傾く。


 突きが一瞬のうちに凪ぎ払いへと変じ、首筋へ閃いた!!


 天然理心流などに見られる、突きを相手にかわされた場合にも、寝かせた刃で横薙ぎに斬りつけ、何らかの手傷を負わせるという技法である。


 志郎の首を斬り飛ばすには余りある威力と気迫が込められた強力無比な剣であった。

 しかし、首の骨を断つ鈍い音も響かず、生臭く赤い血花が咲くこともない。空振りだ。


 その場にいた全員が、以蔵の眼前に跳ねた泥に気付くとほぼ同時、上空から姿を現した志郎が敵の首へ背後から組み付いていた。

 跳躍で攻撃から逃れ、更に頭部を取ったのだ。


 熱波に炙られた首筋へ痛々しい火傷が新たに浮かんでいるが、その程度では今の志郎は止められない。


 志郎は脚を以蔵の首へ絡み付かせ、額の角を鷲掴みにすると、怪力を込めて頭をねじり始めた。


 以蔵の首から上が、みしっ、みしっ、と不吉に軋んでいた。鬼の口から絶叫が迸る。


 ざんばら髪を振り乱し、無茶苦茶に頭を揺すって以蔵が志郎を振りほどこうとすると、志郎も野獣のように吠え猛り、頭と首へ更に力を込める。

 志郎の腕も背筋が凍りそうな音を響かせ始めた。踏み砕かれた腕で無理をしているのだから当然だ。



 以蔵の首が先か、志郎の腕が先か。

 攻防の中で、軋みが不吉さを増していく。


 志郎の二の腕が逞しい力瘤を盛り上げ、以蔵の首の筋肉は太い血管を浮かべ血を噴きそうなほど張りつめた。お互い尋常ではない腕力の持ち主故に拮抗している。


「グガ、ガ、ウゥ、ガッ!!」


 以蔵が怒声を発し、渾身の力を絞って頭を右へ振るい、忠広で志郎を刺そうと切っ先を頭上へ突きだした。

 志郎はそれに逆らい、突きをかわしつつ左へ体重をかけて首を捻った。次の瞬間、



 ゴキンッ!!



 ――――洒落にならないほど、嫌な音がした。



 しんと静まり返った境内の最中で、棒立ちになった以蔵の口から、ブクブクと赤いあぶくが溢れた。

 首が180度近く回転し、顔は背中を向いている。首の骨がとうとう限界を越えたのだ。


 頭上へ掲げられたまま天を突いた肥前忠広は、数秒間の痙攣の後、だらりと弛緩した手から滑り落ち、地面に投げ出された。

 かの坂本龍馬から譲り受けたという大業物が、無様に泥へまみれる。


 トドメとばかり、斧を入れられた大木のように以蔵が倒されていく。

 胴体が前へのめり、志郎の体重を浴びせられ、ひっくり返った後頭部から勢い良く地面に叩きつけられていた。まるでプロレスのカーフ・ブランディングだ。

 激突の衝撃に耐えきれず、片方の角が根本から折れて派手に血が飛沫いた。



 これだけの攻撃を食らうとは、さすがに以蔵も予想外だったに違いない。石畳に頭をめり込ませ、ビクビクと痙攣していた。

 じわりと周辺に血が広がっていくのが恐怖を煽る光景だ。



「オオオオオーーーーン!!」


 だめ押しとばかり、白眼をむいた鬼面の鼻先を思い切り踏みつけ、志郎が喉を反らして吠える。泥臭い殺し合いを制した、鬨の声だ。

 右手には今の攻撃でへし折れた、鋭い鬼の角がしっかりと握られていた。




「あははははは!! 凄い凄い、相変わらずの強さだ!!」


 腹を抱えて笑う依子にも気付かず、琴美は相棒の狂態に茫然自失している。


「なに、あれ……」


 悪い夢を見ているようだった。

 彼女の知っている狗賀志郎はあんな無茶苦茶な戦い方をしない。

 確かに、本人の激しい気性を体現した烈火のような殺人剣の使い手ではあるが、根底には正当な稽古で培われた武術の技があったはずだ。

 今の様子にはその技が全くない。あれではまるで本能のままに荒れ狂う獣である。


「あいつな、6年前にもああなったんだよ」


 能面のような無表情で、鳥羽が語る。


「10歳の時だ。剣の修行でじいさんと山に来ててな。そこで運悪く邪法を使って鬼を呼び出した阿呆と遭遇して、志郎を庇って襲われたじいさんが、目の前で重傷を負った」



「で、あんな風にブチギレて鬼も術者もグチャグチャに斬り殺した。それが彼の初めての殺人だった」


 シュレック子爵は懐かしむような口調だ。


「彼の祖父はその時の怪我が原因で亡くなった。相手は鬼、そして自分を庇って親い者が目の前で傷つけられる。君はこの志郎の抱えるトラウマを、見事に呼び起こしたというわけだ」


 面白がるように、底意地の悪い笑みを浮かべた依子が追い打ちをかける。


 琴美は何も言えない。ただひたすら、声もなく震えている。


「さて、エリザベートと以蔵はこれで戦闘不能だ。残る二人はどう出るかな?」




 岡田以蔵を叩きのめした志郎の前に、甲冑の巨漢が近付く。ジル・ド・レエだ。

 腰の剣を抜きもせず、殺気の乗せられた志郎の眼光を涼しい顔で受け流し、悠然と歩み寄って来る。


「ああ、先程までの激しくも華麗な剣はどこへ行ったのやら。日の本の国の剣士との決闘を楽しみにしていたというのに。

 以前に受けた君の太刀は素晴らしかったが、今の状態でそれは望めない。誠に残念だ!!」


 大仰な仕草で嘆きながら、天を仰ぐ。

 冗談ではなく、理性の吹き飛んだ志郎の状態を本気で悲しんでいるようだ。


 その様子に神経を逆撫でされたか、志郎が奥歯を噛み鳴らし、低く唸った。靴底が地面を踏みしめ、弾丸のように飛びかかる。


 空中で間合いを一気につめ、不意討ち気味に拳を放つ。鉄拳が鼻先にめり込み、グシャッと鼻の軟骨が砕けた。


 頭が血の帯を引いてハネ上がり、たたらを踏んで鎧を纏った巨体が後退した。しかし、流血に顔面を染めながらもジルは平然とした表情を崩さない。


「……効かんな」


 右腕が一薙ぎされ、志郎を蝿のように弾いた。軽々と吹っ飛ばされたが、猫のように身を捻って着地した。


 その様子を眼で追いながら、ジルが鼻を拭い、口から血を吐き捨てる。

 砕けた鼻の再生と共に、深い色をしたアイスブルーの眼が黄金へ変色し、瞳孔が小さな形に変わった。猫科動物の瞳だ。



「そちらが獣として戦うならば、私も獣の力を以てお相手しよう」


 静かな声に気迫を込め、腰の長剣が抜かれた。重厚な鉄塊が月影の中で鈍色に輝く。

 取られた構えは、ピタリと正中線上に切っ先を留めた中段だ。日本剣術の正眼に酷似している。



 ジルもいままでの殺人鬼たちと同じように正体を現した。


 鎧の下の筋肉が装甲を弾き飛ばさんばかりに膨張を始める。四肢を覆う鎧が突き破られ、手足の先端から、鋭く尖った爪が現れた。

 唯一露出した頭部はみるみるうちに、鮮やかな黄褐色を中心に、白と黒の入り雑じった縞模様の毛皮に覆われていく。恐らく鎧の下でも同様の変化が起きているに違いない。


 厚い唇が塩をかけられたナメクジのように薄く縮み、剛毛の中へ殆ど沈み失せてしまう。代わりに口の両端から、長い牙が姿を現した。


「グオオオオオーーーー!!」


 変化を遂げたジルが、猛獣の力を誇るように咆哮した。


 闇夜のなかで爛々と輝く金の眼と、密林において迷彩効果を発揮するという黄・白・黒の体毛は、虎のそれだ。密林の王座へ君臨する最強の獣と、かつてフランス最高位とうたわれた武人との融合である。

 ビリビリと大気を震わせる迫力も、今までの殺人鬼と比べて桁違いだ。



「ああ、なるほど虎か。どうりで衝撃が通らんわけだ。いかんねぇ、今の志郎とジルは相性が悪いぞ」


 依子の呑気な声が、琴美を更に絶望的な心境へ叩き落とす。


 しなやかな筋肉は、猫科動物のもつ特筆すべき能力のひとつだ。

 牛や鹿などの喉笛に食らい付いて離さず窒息死させる事が出来るのも、柔軟さと強靭さを併せ持つ質の良い筋肉あってのものである。

 虎や豹など、大型の種のそれはまさしく衝撃を吸収する巨大なゴムのような役割を果たす。つまり、殴る蹴るといった打撃を主体とする今の志郎との相性は最悪といっていい。



「ちょっと手を貸してやるかな」


 そう言って鳥羽が無造作に拾ったのは、戦闘員が落とした直刀だった。

 志郎が普段から扱う二尺三寸の日本刀に比べるとやや刃渡りは長いが、手応えと感触は軽い。たたら鉄とは比べるまでもない安物の合金製である。

 刀身も薄い造りで、少しでも扱いを違えば簡単に折れる代物だ。


「またえらい安物だな。しかしまあ、無いよりはマシか」


 顔をしかめ、舌打ちしながら右手一本で頭上に振りかぶり、手裏剣打ちに投げた。直刀はぎゅんぎゅんと風を斬ってフリスビーのように回転しながら飛行し、志郎の足元へ見事に突き刺さった。


「使え、それくらいは頭が回るんだろう?」


 志郎がきょとんとした顔で、鳥羽と突き刺さった直刀を交互に見やる。幾度かの逡巡を繰り返し、地面から刃を抜いた。


 背を丸く屈め、両手で構えた刃の切っ先を真っ直ぐ敵へ向ける。ヤクザ映画の鉄砲玉のような姿だ。重心は定まらず、切っ先がフラフラと揺れて頼りなかった。



 くぐっと膝が曲げられた。今にも飛びかかりそうな気配の志郎とは対照的に、ジルは中段で迎え撃つ姿勢を崩さない。


 ウオッと短く吠えて、志郎が跳んだ。

 切っ先を前に突き出して、体当たりのように突進する。

 刃はジルの鳩尾と同じ高さに留められていた。体重を乗せ怪力を一点に集中すれば、あるいは鎧を貫き串刺しに出来るかもしれない。


 ジルは僅かに切っ先を下げるだけで動かない。暴風のような突進でどんどんと距離が狭まる。


 両者が、一足一刀の間合いに到達した。


「ふんっ!!」


 転瞬、ジルの切っ先が跳ね上がった。鋭い金属音と火花が走り、直刀が半ばから折れて砕ける。

 以蔵が使用した“龍尾剣”と酷似した剣技だが、ジルの方が無駄がなく、流れるように鮮やかな太刀筋だった。


 手を伝う破壊の衝撃と、剣の残骸のきらめきに、一瞬志郎が驚いたように怯んだ。飛び交う鋭利な破片が額の皮を裂いて、顔面が更に血で染まる。

 それにも構わず、長さの足りない刃を手に、鎧に守られていない首筋へ打ち込もうとした。ぶぅんと直刀がうなり、片手斬りが弧を描く。


 刃は届かず、僅かに身を引いてかわされた。

 銀の弧になぜられ、黄褐色の剛毛がちぎれて綿のように宙へ飛び散っていく。


 間髪入れず、攻撃を外された志郎へ魔人が追撃する。


 上段に構えて強く踏み込みながら、返す刀での斬り下ろしが志郎を襲った。

 突風のような剣圧によって土が盛大に吹き飛んだ。驚異的な脚力で飛び退き逃れたが、短くなった直刀が煽られ、手元から吹き飛んで行く。


 それだけでは飽き足らず、ジルの振るった剣の延長線上に沿って、深々とした亀裂が地面に真っ直ぐ走っている。凄まじい威力だった。

 まともに食らえば脳天から股間まで、真っ二つに両断され即死していたに違いない。


 本能でジルの危険性を察知したか、志郎は再び飛びかかる事もせず、距離を保ったまま様子を伺っている。


 ジルはまたも中段に構え直し、再び彫像のように不動となった。牙をむいた獣面に不敵な笑みが浮かんでいる


 ジルは鎧を纏った巨体故に一見うっそりとした印象だが、身のこなしはかなり速い。まさしく野を駆ける虎そのものだ。

 その剣技も、無駄なく最短で素早く敵を追い詰める合理的な動作である。

 若さ故の未熟さを、気迫と勢いで埋めざるを得ない部分のある志郎や、おびただしい手数で相手を必要以上になぶり、切り刻む以蔵と比べても、明らかに剣士として練達している。

 悪魔の汚名を残したとはいえ、やはりフランス最高位の騎士の称号は伊達ではない。


「どうした、来ないのならば、こちらから行くぞ!!」


 仕掛けることに躊躇する志郎へ雷鳴のように吼えて、ジルが手に握った剣を腰の鞘へ納める。

 両腕がべたりと地面に降ろされた。


 軋みを上げて、ジルの骨格が二足歩行から、四本足で地を駆ける獣への変態を遂げていく。


「グウゥオオオオオーーーー!!」


 鎧を纏った巨大な猛虎が鋭い爪で地面を捉え、その身を烈風と化す。志郎も獣じみた動きでそれを迎え撃った。


お互い、肉眼で動きを視認するのが困難なレベルで打ち合い、体当たりのような激突を繰り返す。しかし、すぐに志郎が押され始めた。

 胴体は堅牢な鎧に守られている上、唯一剥き出しの頭部も殆どの衝撃を吸収してしまう。

 接近戦を挑めば豪腕から繰り出される爪が猛威を振るい、距離を取れば大砲の様な威力のタックルが襲い掛かる。

 ヒットアンドアウェイの単純な戦法だが、理性の吹き飛んだ志郎はどん底までこの策に引っかかった。

 本能のまま戦う獣は、知恵を備えた魔獣になすすべなく翻弄されている。


 また、爪の一撃を食らった。

 人形のように弾き飛ばされ、擦過傷にまみれて玉砂利へ投げ出される。

 偶然にも、首をひっくり返らせた以蔵の傍らの位置だ。


「あまり痛めつけるのも忍びない。そろそろ終わりにしてあげよう」


 四肢の爪を血で染めたジルが、余裕に満ちた動作で歩み寄る。

 四本足の変態を解き、人虎の形態へ戻ると、抜剣した。大上段に剣が掲げられる。


 志郎の目に狼狽が濃く浮かんだ。このままでは不味いと理解しているのだ。 

 そのとき、右手が硬い感触を脳に伝えた。感触の方向から熱気が漂っている。


 それを拾い上げ、渾身の力を込めて逆袈裟に斬り上げた!!


 志郎が拾ったのは、以蔵の肥前忠広だった。偶然の産物だが、これが間一髪で彼の命を救った。

 甲冑が未だ高温を纏ったままの刃に焼き斬られ、その下の筋肉を裂く。


「がはっ!!」


 血を吐いて怯むジルへ、さらに一太刀、二太刀、三太刀と浴びせかける。

 志郎の怪力が合わさった人斬りの刃が鋼鉄を紙のように破り、ジルの全身からねずみ花火のように血花が弾けた。


 トドメとばかり、頭蓋めがけて一刀を落とそうとした。そのとき、妖気を孕んだマントが視界を遮り、志郎の刃を弾く。


 膝をついたジルに代わり、彼らの主であるスカイスタンが傍観の立場を解いてそこに立っていた。


「油断したな、ジル」


「……申し訳ございません」


「まあ良い。もう下がっていろ」


 主の命におとなしく従い、ジルが後退した。飄々とした態度を崩さず、スカイスタンが志郎の前へ出る。

 その手にあるステッキの石突が、地面へ突きたてられた。正面を向いた形の髑髏が、天を仰ぐようにぐるりと上を向いた。

 大きく開いたその口の中から、漆黒の刃が出現した。


「我が愛剣、抜くのは久しぶりだ」


 ステッキ部分を剣の握りにし、半身の片手構えを取る。フェンシングの構えだ。

 黒い剣の刀身は細身だが、見ているだけで不安や恐怖を呼び起こす凄味があった。 

 これが妖術師と合わされば、何倍もの妖気に変換される。


「行くぞ」


 うおん、と黒い刃が風を斬る。ジルや以蔵のような力強い剛剣とは違う、どちらかといえば柔剣だが、異様に鋭い突きが、四方八方から志郎を刻んでいく。マントがあらゆる方向ではためいて視覚を惑わせ、傍から見ている琴美たちさえも幻惑されてしまうほどだ。


「ウアアアアア!!」


 なんとか正面にスカイスタンの姿を捕らえ、咆哮をあげて斬りかかる。しかし、スカイスタンは嘲笑を浮かべて攻撃をかわしながら、突きつけた切っ先を奇妙に揺らしている。切っ先が描くのは、魔方陣だ。


「サータン・サータン・オムシグ・デニルス、サータン・サータン・オムシグ・デニルス、サータン・サータン……」


 呪文とともに黒いマントがにじむように広がり、志郎の視界を覆いつくし、暗闇へ閉じ込める。幻術だ。

 術中にはまったことも理解できず、志郎はめくら滅法に凶刃を振り回し続けている。





「いかんな、そろそろ潮時だ」


 鳥羽が水晶をはめた腕をかかげた。翼をそなえた操り人形が姿を現し、頭上を旋回する。


「長谷川、辛いところ悪いんだが、邪視は使えるか? 使えるなら、お前が志郎の動きを邪視で止めろ。止めたら俺が山地乳であいつを捕まえて、あとは逃げるぞ」


「わかりました……」


 殆ど底をついた精神力から、邪視を使えるだけの力を呼び起こすべく、深呼吸して心を落ち着ける。失敗は決して許されない。


「エコエコ・アザラク、エコエコ・ザメラク、エコエコ・ケルノロス、エコエコ・アラディーア……」


 精神統一の呪文を、小さく唱える。しかし、まだ足りない。搾りカスのような僅かな力でも、今はほしい。

 風を操る魔術に使ったボロ布を、再び手にする。


「一に魔術は始まり、二にそれが真実となり、三にかくあるべし。四に力を蓄え、五で魔術は生命を得、六では魔術は固められん。七で事が起こり、八にそれは運命となり、九つ目の結び目でなされし事、全て我がものとならん」


 数え歌を歌いながら、布に念をこめた結び目を作っていく。イギリスやアイルランドに伝わる“魔女のコードスペル”だ。糸のように運命を紡ぐ女神に由来するという術で、隠された能力を引き出す効果がある。

 九つ目の結び目を作った瞬間、体の底から微量ながら、活力が湧き上がる。


「準備できました!!」


「よし、シュレック、依子、めくらましだ」


「はいはい了解。

 をんばだろしゃ、牙の吹く息突く息、地吹く風天吹く風に、千里遥かに生えたる蔦が、生きて根を絶ち葉を枯らす!!

 下より奈落の火炎もて、上より真黒き雨をもて、はや吹き込める狂いの魔風!!」


 手印をすばやく切って、よどみなく依子が呪文を紡ぐと、瘴気を孕んだ暴風が吹き荒れる。

 それに乗ってシュレック子爵の放った呪術タロットが飛び交いながら、志郎を守るように周囲を円を描いて旋回する。

 どさくさにまぎれてその円の内部にもぐりこみ、琴美は志郎と対峙していた。


 すでに傷だらけで倒れているが、目だけが異様にぎらぎらと輝いていた。魔女には恐怖よりも哀れみと悲しさを感じさせる。


「ごめん、貴方をこんなにしたのは私だ」


 理性が飛んでいるならば普段よりも術にはかかりやすいが、十分に注意を払う。視線があった。

 琴美の瞳が黄金の光を放つと、一瞬電流を流されたように志郎が小さく痙攣し、崩れ落ちた。

 脱力した体を、強く抱きしめる。柔らかい乳房に、志郎の顔が埋まりそうなほどだ。

 その二人を山地乳の爪がしっかりと捕まえ、闇夜の向こうへと浚って行った。


 苦い敗北の夜の、終わりであった。


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