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4章の5

 刀身から陽炎が昇り、熱波に空気が歪む。忠広の切っ先は真っ直ぐ志郎の心臓を捉えていた。

 あっという間に黒こげになるだろうか。

 またはロウソク化現象でも起きて、じわじわと内部から焼かれるのだろうか。


 どちらにせよあの刃を打ち込まれては、ただで済まない。死ぬのは変わり無いなら、せめて少しは楽なほうが良い。



(……さんざん殺してきたんだ、こりゃ因果応報かな)



 走馬灯のような、とはよく言ったもので、今までの人生が思い返された。十数年の短いものだが、それでも人並み以上に色々とあった気がする。



 初めて人を斬ったのは10歳の時だ。

 たまたまその相手が魔術絡みの犯罪者であり、現場を目撃したのが『ファウスト』の三幹部だった。

 三幹部たちは全て忘れてもいい、静かに暮らせと言ったが、志郎は記憶を消すことを頑なに拒んだ。

 正当防衛だった、仕方が無かったと彼らは言うが、人ひとり死ぬだけでも大事なのである。

 取り返しのつかないことをしてしまった自覚はあるし、現代の闇に潜む魔術師や怪物の存在を知った以上、それを見てみぬふりも出来なかった。

 それらを抜きにしても、あの日のことを忘れるのは嫌だと思い、そのまま『ファウスト』へ属することを選び、今まで戦い続けた。


 子供の頃は剣を振るうのが楽しかったが、初めて人を斬って以来、剣が嫌いになった。

 子供の頃に人を殺したのも、家族を失ったのも自分が剣を習っていたことに原因がある。少なくとも志郎はそう考えていた。


 剣を振るうと嫌な思い出が甦る。

 それでも剣は捨てられなかった。

 毎日毎日、木刀や真剣による型や素振りを、汗だくになりながら延々と繰り返す。


 いくら剣を嫌っていても習慣は変わることなく、その理由がわからないまま、人を殺し続けた結果がこれだ。



 夜気を焦がす高熱の剣が、ググッと胸元への距離を狭める。



 (死んだら、じーちゃんや両親に会えるんだろうか)



 そう考えて自嘲した。

 死後の世界があるなら、根っから人殺しの自分は地獄に堕ちるに決まっている。故人との対面など赦される筈がない。



(ああ、でもやっぱりまだ死にたくねえなぁ……)



 燃え盛る刃が、心臓へじわじわと落ちていく。逃れる力はもはや残っていない。

 いよいよ、終わりだ。

 覚悟を決めて、ぐっと瞼を閉じ、歯を食いしばる。


 以蔵が腕に力を込め、切っ先を突き立てようとしたその時、



「触るなあああああああああああああっ!!」



 風を巻いた琴美の黒影が、体当たりのように横合いから鬼へぶち当たった。

 杖に跨がったまま、ブーツの底に全体重を乗せた蹴りを以蔵の側頭部へ叩き込む。


 不意をつかれたか、以蔵はゴッという嫌に乾いた音と共に、首を奇妙に傾げさせて頭から石畳へ突っ込んでいく。

 しかし、琴美はそれには目もくれず、深傷を負って倒れた志郎を抱き起こした。


「大丈夫、大丈夫だから……!!」


 胸元の傷からだらだらと溢れる流血が、魔女装束に吸い込まれて重く濡れるのも関係ないとばかり、幼子を抱く母親のように頭を撫で、背中を擦りながら呼び掛ける。


「無視してるんじゃないわよ!」


 背後から苛立ちの籠った声が飛んできた。先刻まで琴美と戦闘を繰り広げていたエリザベートだ。

 志郎が以蔵の凶刃に敗れた瞬間、その存在を忘れたかのように琴美が自分から意識を外したことに、自尊心を傷つけられたらしい。


 自身の血液をたっぷりと付着させたサーベルの切っ先から、凝固した液体が薄く透き通った刃となって伸び上がる。刃渡り2メートルをゆうに越す、凶々しい赤き魔剣が完成された。


 長大な刀身を得たサーベルが、獰猛な風切り音を巻いて二人へ襲いかかる。


 エリザベートは以蔵やジルのように剣術の心得はないが、それでも怪力にものを言わせて振り回す刃は脅威である。



 残像が闇夜のスクリーンに描き出す赤褐色の半月を、志郎を抱えたまま回避し、ギッと睨み返す。


 数歩の距離で、石畳がバキバキと凄まじい轟音を響かせて赤い刃に砕かれたが、その恐ろしい光景も今は彼女の闘志を更に燃え上がらせる。


 秘めたる母性の現れか、琴美の表情は子供を守るために、毛を逆立てて敵を威嚇する母猫のようだった。



「指一本触れさせない」


 もう一度、傷ついた志郎を強く抱きしめ、杖を掲げる。


 それを嘲笑うように、蹴り倒された以蔵がふらりと立ち上がり、奇妙な角度に傾いだ首をごきごきと鳴らせて強引に元の位置に戻すと、再び刀を構えた。

 その横では憤怒の形相のエリザベートがサーベルを携え、小さな声で呪いのような罵倒を吐いている。


 そこから離れた場所には、岩のような巨体をまんじりとも動かさないジルと、傍観するように薄笑いを浮かべたスカイスタンが立っていた。


 三人の殺人鬼は未だ健在であり、その後には彼らを束ねる妖術師スカイスタンがいる。


 実力も経験も自分より豊富な志郎が敗れた今となっては、絶体絶命と言うに相応しい状況だ。



「は、長谷川……無理せず逃げろ。お前だけなら逃げ切れる」


 腕の中の志郎が、掠れた声で逃げろと言う。最後の方はまともな言葉にならず、激しい咳に変わった。咳き込む音も血液によるものであろう水気を帯びて、聞くだけで気分が悪くなるような響きを伴っている。

 喉から溢れてくる血が赤い泡と化し、口端から次から次へ溢れてくると、志郎が喉を押さえてぶるぶると身体を痙攣させた。

 どうやら気道に血を詰まらせたらしい。


「……ッ!!」


「ダメよ、吐き出して!!」


 異常を察知した琴美が、大慌てで背中を叩く。

 指を喉へ突っ込んで嘔吐を促し、どうにか血の塊を吐き出せた時には、志郎の顔が蝋のような蒼白へ変色していた。

 出血多量、全身への無数の火傷と裂傷、呼吸困難。体力自慢の彼もさすがにこれだけのダメージを受ければ危険である。


 弱々しく肩を上下させながら呼吸する姿が、余計に琴美の庇護欲を強くさせた。


「すぐ戻るから、待っててね……」


 子供に言い聞かせるような口調で返し、そっと石畳の上へ志郎を横たわらせる。名残惜しそうに傷ついた相棒から視線を外し、殺人鬼と対峙した。

 やはりジルとスカイスタンは動かず、仕掛けてくる動作が見えるのは以蔵とエリザベートだ。


 苛立ちから再び偏頭痛を起こしているのか、頭を抱えているエリザベートを尻目に、鬼と化した以蔵がいきなり地を蹴った。


 猛然と突進をかけながら、手中の刃を長い爪の伸びた腕で小刻みに振るうと、瞬く間に残像が数十の剣へと枝分かれする。

 時に薙ぎ払い、時に突き、時に斬り下ろし、文字通り火を噴く連撃が執拗に琴美を追った。


 武術の腕で劣る自分がこれを受けては駄目だ。即座に殺られる。

 そう判断し、赤熱した凶刃を跳びすさって回避した。太刀運びが異様に速く、リーチも長い。



 一閃、二閃、三閃、凄まじい太刀捌きのひとつひとつをかわすのが精一杯だが、どうにか隙を伺う。


「グウウッ!!」


 水中の木の葉のように、ひらりひらりと逃げ惑う琴美に業を煮やしたか以蔵がうなり声を絞った。上段に運ばれ高く掲げられた一刀が、真っ向唐竹割りに振り下ろされる。


 火の粉を盛大に吹き散らしながら、鉄槌のような重さで斬り落とされるその斬撃は、爆弾なみの威力を備えている。

 しかし、琴美はそれに対して臆することなく大胆にも前へ出た。


 両者の影が交差した一瞬を経て、鬼の背後へマントを纏った魔女の姿が躍り出る。


 眉毛や前髪が焦げそうな高熱の太刀風に顔面をなぶられ、転倒させられるかと思った。しかし、奇跡的に回避出来ている。


 斬撃をかわしつつ、隙をついて立ち位置を入れ換えた。以蔵の背後へ廻ることに成功したのだ。


 後方で高熱の刃を受けた石畳が粉々に破砕され、瓦礫と土と玉砂利が撒き散らされるのを肌で感じ、どっと冷や汗が流れる。


 それでも、今の好機を逃すわけには行かない。

 震える手で杖を操り、反撃のための魔術を行使しようとするが、以蔵のほうが予想よりも遥かに俊敏だった。


「オオゥッ!!」


 怒声を発して強靭な肉体を翻し、地を這うような低い姿勢で足場を蹴ると、一気に距離を詰めてくる。

 牙を剥いて真っ赤に焼けた以蔵の鬼面が、ぐんと目の前に迫ってくるのはとてつもなく恐ろしい光景だった。


 赤光と火の粉を撒き散らし、鋭角な軌道を描いて忠弘が闇を割った!!


 志郎に重傷を負わせた、必殺の片手逆袈裟斬りだ。


 背後は境内と森を隔てる壁がある。このままでは逃げ切れない。



「うわああっ!!」


 絶叫を引きながら、咄嗟に後ろの壁を足場にした。重力を無視して数歩壁を走り、宙へ飛んで見せる。

 必死の形相に似合わぬ、とーん、とやけに軽い音がした。


 そしてそれをかき消すような轟音と共に、業火を纏った刃が先程まで立っていた場所の壁を一刀のもとに斬り崩す。


 ブスブスというきな臭い黒煙を上げて、クレバスのように深々と抉られた壁の断面が真っ赤に焼けただれていた。


 以蔵と同じく四大人斬りに数えられ、公武合体派の開国論者・佐久間象山を惨殺したことで知られる肥後の河上彦斎は、“彦斎流”や“不知火剣”と呼ばれる我流剣法の使い手として恐れられていた。


 その彼の代表的な技が、低い姿勢から素早く相手に接近し、片手で逆袈裟に斬り上げるというものである。

 志郎に見せた“龍尾剣”といい、以蔵はまるで幕末当時の幾人もの剣客たちの技を複合させているようだ。


 彦斎は以蔵とも交流がある勝海舟に、「真に恐ろしい相手」と言わしめたほどの実力者であるが、魔人の肉体を得た今の以蔵ならば、恐らく本家の“不知火剣”の技の冴えを上回っているだろう。

 それに加えて、今の彼には炎を司る魔人としての能力が備わっている。


 アゲハチョウのようにマントを羽ばたかせて飛ぶ琴美を視線で追い、以蔵が太い首を巡らせた。お互いの視線が合う。


 握り拳がすっぽりと収まりそうな大口が、ぐわりと顎が外れんばかりに開いた。地獄の門を思わせる、その真っ暗い口腔の奥で、青白い火花がバチバチと飛び交っていく。


 次の瞬間、ごう!! と猛火が活火山のように噴き上がった。


 市街地の明かりから遠く離れた山中の深い闇夜が、僅かな時とはいえ昼間のように照らされる。


 逃げる暇すら与えられず、琴美の身体が火の中へ消え失せた。


 黒焦げの無惨な屍を想像してか、殺人嗜好者達の笑いがあちこちで囁かれる。しかし、


「コルテコルコル、コルテコルコル、コルテコルコル!!

 ハジルジ、ハジルジ、ハジルジ!!

 ゴハジル、ゴハジル、ゴハジル!!

 ゴルゴヴァジル、ゴルゴヴァジル、ゴルゴヴァジル!!

 これらの名で呼ばれる神よ、悪魔らを統べる者が恐れる祈りにて、悪魔らの恐怖から遠ざけたまえ!!

 すなわちバラヤと死産、ザールと悪霊憑依、唖と潜伏病、彼女、汝が僕、テクラ・ハイマヌトの娘を救いたまえ!!」


 燃え盛る炎の中から鋭く唱えられる呪文と共に、炎を押し返すように白い輝きが放たれた。その光の中心には、胸元にアサメイを留めた琴美の姿がある。


 間一髪丸焼きにされることを免れた琴美は青い顔色をしていたが、どこにも火傷を負っている気配はない。不可思議な力をもつその光の膜は、半透明の丸い壁となって琴美を覆い、炎を彼女へ寄せ付けかったのだ。


 魔女には苦手なはずの白魔術が、またしても彼女の命を救った。


 チチィッと口惜しそうに舌を打ち、以蔵が再び剣を構え、宙へ浮いた琴美へ斬りかかった。


 怒り狂う獣のように跳びはね、四方八方から無茶苦茶に凶刃を躍らせてくる。


 剣が光を叩くたびにグラグラと揺れて、膜が薄くなっていくのが視認できる。このままでは術が破られるのは明白だった。


 術が保っているのを確認し、再び呪文を唱え、膜の内側で琴美がアサメイを振るった。



「父は火、子は火、聖霊は火、悪魔の枷! ベタラニヨウ、べジュネ、カシュン! そしてベアイファ・サタヴィアス、マシュファタネルシェ、キーヤキー、バロンス、カトリヤノス! これらの名で呼ばれる神よ、悪魔らを縛り給え!!」


 これまで幾度か使用してきた、魔を縛る白魔術だ。

 切っ先から迸る鞭のような光が人斬り以蔵の右腕に絡みつき、剣を封じた。絞め殺さんばかりに、鍛え抜かれた腕にギシギシと音を硬い立ててめり込んでいく。


 グウウウウと唸りをあげて、鬼が呪縛を引きちぎろうと腕に力と意識を集中させた。その隙を突いて、魔女が術を行使させる。


「いでよ、水蛇ヒュドラ!!」


 高度を落として地上へ降り、杖の石突で足元を強く打つと、そこから勢いよく水が噴き上がった。地下水脈を刺激し、水流を呼び寄せたのである。

 自然の力を利用するのは魔術の基礎だ。水神を祭った神社にいるならば、それを使わない手はない。


 水は空中で竜のようにくねり、九つの頭をもつ大蛇の姿となった。

 まさしくその姿は、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが戦った、レルネー沼の怪物ヒュドラである。


「切り刻め!!」


 魔女の声に応えるように、九つの蛇頭が鎌首をもたげ、一斉に宙を裂いて発射される。


 高圧で撃ち出された水は強烈な切れ味を伴い、灼熱地獄を司る岡田以蔵へ殺到した!!



 爆音と共に、水蒸気爆発を起こしたような水煙が周囲を覆う。莫大な熱エネルギーを内包した相手に、大量の水をぶちまけたのだから当然だ。



 気まぐれに吹いた風がそれを取りさらうと、片膝をついた以蔵の姿が見て取れた。

 水蛇に冷却された刀は熱を奪われ、元の銀の地肌を見せている。


 あの炎の剣に一矢報いた。

 溜飲の下がる想いでそれを見つめていると、新たに深紅の影が琴美を襲う。


 物干し竿のような長さになった刃を振るう、エリザベートだ。


 木々を抉り、社を所々破壊しながらも、怪力で無茶苦茶にサーベルを振り回してくる。


「死ね死ね死ね死ね死ねえええええええええええッ!!」


「くそう、冗談じゃないわ」


 美貌にありったけの狂気をたたえ、半狂乱で死ねとわめきまくる姿に背筋を寒くしながら、杖にまたがる。飛行術を発動させ、命からがら刃の届かない空中へと避難した。

 理性を完全に失った様子で、空へ逃れた琴美へサーベルを投げつける。狙いは定まらず、でたらめな方向へ飛んだサ−ベルはブーメランのように回転しながら、その先の木に刃を食らいつかせた。


 まともに受ければ真っ二つにされていたと、冷や汗をぬぐう。

 それが更に自尊心を傷つけたようで、エリザベートの両眼が怒りで真っ赤に血走った。



「馬鹿にして、馬鹿にして……!!」


 ぴき、ぴき、と細く白い腕が軋み鳴く。


「私を誰だと思っているのおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 左右に広げられた両腕が、ビロードのような光沢を放つ黒褐色の剛毛にぴっしりと覆い尽くされていく。


 変異は腕だけでなく背にも及び、毛皮の下で背筋の塊がごわごわと蠢くのがおぞましい。

 続いて、小指の骨がごきごきと嫌な音を伴って長く伸びていく。親指は湾曲して反り上がり、太く長い鉤爪となる。

 そして小指の先端から腕、さらに脇へと薄い皮膜がつながり、マントのように広がった。



 大きく背中と胸元の開いたドレスを着ているおかげで、エリザベートの柔肌が強靭な肉体へ変化していく光景は、明確に視認できた。


「チスイコウモリ!?」


 琴美の驚愕の通り、エリザベートの両腕は全長4メートルをこえる巨大なコウモリの翼へと変じていた。



「キィーーッ!!」



 ガラスを擦り合わせたような耳障りな奇声を発する口から、鋭い牙が溢れ落ちる。獲物の皮膚を切り裂き、血を啜るのに特化した天然の凶器だ。

 ばさりと翼を一打ちすると、ドレスを纏った人間コウモリが地を飛び立った。

 恐ろしい速度でぐんぐんと高度を増して、黒い影は夜空に浮かんだ月の中にすっぽりと収まるほど小さくなってしまう。


 そこから、重力に身を任せて急降下を仕掛けてきた。


 サーベルは投げ捨ててしまっているが、彼女にはまだナイフ並みの切れ味を誇る爪と、先程得たコウモリの牙がある。



 全身に落下速度を乗せて、人間コウモリが爆撃のように迫り来る。


 わずかに爪が身を掠めて、危うく撃墜させられるところだったが、何とか回避した。身代わりとばかり、黒いローブの胸元の生地の一部が千切られ、ヒラヒラと羽虫のように切れ端が重力に引かれて落ちていく。

 視線を落とすと、雪のように白い肌と、その奥で果実のように丸く実った谷間が外気に晒され露出している。偶然の産物だろうが、怒りでかっと頭に血が昇った。



 これはあんたのじゃない、と心の中で悪態を吐いて、空飛ぶ杖を旋回操作しつつアサメイをマントの下の鞘へ納め、代わりに長剣を抜刀した。

 しゃらりという刃の擦れる音と共に、銀の光が手元へ躍り出る。まるでよく出来た手品のようだ。


 柄と一体化した秀麗な細工を彫られた十字鍔が、月光を弾いて美しい。

 本来は儀礼用のため、志郎の扱う日本刀に比べると細身だが、それでも鉄塊の重みを腕に伝えてくるのが琴美には頼もしく感じた。


 今までも命のやり取りをしているのは同じだが、志郎に剣を教わってからはこの得物の扱いにも少しは慣れている。剣を握って戦う状況に、不思議な高揚があった。


 武芸者の精神が、この魔女にも徐々に芽生え始めている。



「よし、行くよぉ!!」


 気合いの一声を発し、爆発的なスピードで杖を急降下させる。


 地上近くまで高度を落とたエリザベートを、刃を手にした琴美が上から追いかける形だ。


 鋭角な角度でつきこむように、琴美が背後へ追いすがる。


 距離を狭めると、人間コウモリを飛行させる筋肉を備え、むくむくと蠢く背中へ片手突きを見舞う。背後から心臓をひとつきにするつもりだ。


 しかし、エリザベートもコウモリの羽で空気を打ちながら、方向転換することでそれを回避した。


 更に高度を落とし、地面すれすれまでググッと身体を下げていく。そこから一際強く、羽に掴んだ空気を地面へ叩きつけながら、大きくUの字を描くように再び舞い上がった。


 ばああっと砂煙が撒かれ、琴美の視界を眩ませた。はっとした表情で見失ったエリザベートを探すと、頭上から赤い刃が閃いた。


「シャッ、シャッ、シャアアッ!!」



 甲高い奇声を発しながら、再び月を背負ってエリザベートが仕掛けてくる。砂による目眩ましを食らわされたうちに回収したのか、その手には投げ捨てたはずの、血で塗り固められた長大な剣が掲げられていた。


 精妙さもなにもない野獣じみた攻撃だが、上下左右の区別なく飛び交いながら、闇を裂いて襲い来る剣と爪牙には苦戦を強いられた。


 負けじと琴美も鉄剣を振るい、小石を指で弾いて“妖精の矢”を繰り出すものの、その悉くをかわされてしまう。相手に予知能力でもあるのかと思うほど、攻撃が先読みされているのだ。


「不味いなぁ、攻撃が当たらない。って、相手がコウモリじゃあね……」



 コウモリが超音波をソナーのように使って獲物を捕らえたり、飛行中の障害物を避けて活動するのは有名だ。

 視覚に頼らない暗闇での活動に特化した能力の持ち主を相手にしては、なかなか有効打を与えられないのも当然である。


 蓄積された疲労で動きが鈍くなっていく琴美とは対照的に、エリザベートはコウモリの肉体操作に慣れたか、どんどん動作がスムーズになっていく。



「やっぱり、こいつら相手に小細工は通じないわね」


 もはや、こちらも覚悟を決めるしかないと感じた。



「狙うなら、一撃必殺!!」



 起死回生の一手を狙い、琴美が剣を八相に構え直した。

 鍔は耳の高さで、刀身を頭上右へ掲げるように高く置く。


 薩摩示現流“蜻蛉”の構えだ。


 初陣のホームズ戦で見た激烈な一太刀が忘れられず、琴美はまず最初に示現流の技を志郎に教わり、以降も重点的に示現流を彼から学んでいる。


 そして、その剣にこれから自分自身の魔術の威力を加算する。


 一人でエリザベートと戦うのではない。二人で倒すのだ。


 夜空にぽっかりと浮かんだ月の光に、白々と輝く刃を掲げてみせる。



「この通り我は求む。アラディア、アラディア、アラディア!!

 真夜中に、真夜中に我は野に分け入る!! 水とワインと塩を携えて、そして護符を持って、魔除け札を持って、それにいつも手に持っている赤い小袋を持って!!

 コン・デントロ、コン・デントロ、サレ!! 塩を中に入れて、水とワインで我は献身をもって我が身を祝福し、アラディアよりの、アラディアよりの好意を希う!!」


 口から流れ出たのは、イタリアの魔女術(ストレガリア)の女王である、女神アラディアへの加護の呼び掛けだ。


 ストレガとはイタリアで古くから恐れられる、眠っている男性や子供を好んで餌食にする邪霊の名である。

 普段は猛禽の姿だが、人間を襲う際には巨大な鉤爪、複数の不格好な頭、そして毒の詰まった乳房を持つ恐ろしい女となり、男性からは交わった後に生き血を吸い、子供がいれば毒の乳を吸わせ殺してしまうと言われていた。


 ローマ帝国の滅亡以降、キリスト教が定着した時代の民間伝承においては神に仇なす邪悪な魔女、ストレガリアはその魔女の扱う邪法の意として広く定着したが、本来はやはり自然主義の魔女による古代宗教である。



 その本来のストレガリアの紹介と復古において重要な役割を果たしたのが、19世紀アメリカの民間伝承研究家チャールズ・ゴッドフリー・リーランドだ。

 彼はイタリアに滞在していた時期、トスカーナ地方のマッダレーダという魔女と交流があり、1889年には彼女から伝えられた魔女伝説を『アラディア 魔女の福音』という一冊の著書にまとめ出版している。

 このマッダレーダがリーランドに教えたストレガリア『ラ・ヴェッチア・レリジョーネ(古い宗教)』の主軸になるのが、月の女神ディアナと光の神ルシファー(悪魔ではない)の娘として生まれた、女神アラディアなのだ。


 彼女は母ディアナによって地上へ遣わされ、豊かな者(キリスト教)に異教徒(ペイガン)と呼ばれ虐げられる貧しき者たちへ魔術や毒殺のための知識を授け、彼らを救済することを使命とする魔女術の祖であり、現在はウィッカ(現代の魔女)やペイガンに限らず、迫害に苦しむあらゆる者を救済する女神として広く信仰されている。


 この追い詰められた状況を打破するのには、アラディアの力が相応しいと琴美は考えた。



「汝は世に知られた最初の魔女、汝は世界中にあるもののうちの最初!!

 汝は毒殺の技を教える、全ての者の主である者達を毒殺する技を!!

 そう、汝はその者共を宮殿で死なせ、圧制者の魂を力で縛る!!

 裕福な農夫を見つけたら汝は教えよ、魔女に、我が生徒に、彼の全作物を恐ろしい嵐で、稲妻で、物凄い雷で、雹で、風で、破壊する方法を!!

 祝福をもって汝を傷付ける司祭があれば、汝は彼に二倍の害をなすが良い!!

 我が名において、魔女の女王ディアナの名において!!」


 呪文に熱が入ると同時、風にはためく魔女装束の端々から、蛍火のような淡い光の粒子が乱れ飛び始めた。月の魔力がチャージされた際に起きる現象である。


 精神を集中させることによって、蛍火は琴美の意思によって制御される。ひとつひとつの動きを操ると、手にした剣にそれらが集まり刀身を延長させていった。


 やがてエリザベートの剣にも匹敵する長大な刃が形成される。光を映さない血で塗り固めた剣に対して、こちらは闇夜の中の微かな光を凝縮したかのような輝く剣だ。


 大威力の術の連発で、体力と精神力は限界に近い。これを外せば後のない状況である。

 せめてエリザベートだけでも自分の手で仕留めなくてはならない。

 空中を自由自在に飛び回る人間コウモリに狙いを定め、跨がった杖を急速に前進させる。


 ごおおおお、という風の唸りが耳にまとわりつく。細長い杖は身体を預けるのにやや頼りなく、スピードを上げればバランス感覚を保つのも難しくなるが、ぐんぐんと速度を増していく。


 幾何学模様を描くような複雑な動きで、エリザベートも琴美に向かって両手の翼をはためかせて迫る。



 視界を覆い尽くさんばかりに、ビロードに似た光沢の毛皮と皮膜が左右に広がった。半透明の膜に赤黒い血管が走っているのが嫌でも目につく。


 ギイイイイイ、と弦楽器の弦が引きちぎれる音に似た、肌の粟立ちそうな奇声がエリザベートの喉からもれた。



 牙の生え揃った口が限界まで開かれ、おびただしい量の血液が幾本もの赤い帯となって吹き出される。


 血の帯は琴美の周囲全方位をぐるりと囲む軌道を描き、歪な楕円形を形作ってひとつに繋がり、凝固した。楕円の内側には無数の鋭利な突起がビッシリと植わっている。

 逃げ出そうとするものを傷付ける、鮮血と悪意で塗り固められた巨大な鳥籠だ。


 エリザベートが『流血の伯爵夫人』と呼ばれる所以となった、乙女の血を搾るために作られた拷問具のひとつが、魔人の能力によって体現されたのである。


 重力に引かれ、頭上から鳥籠が獰猛に風を切って迫った。まともに喰らえば頭蓋骨を棘に刺されて死ぬか、身動きとれぬまま鳥籠もろとも地面に叩き付けられてしまう。


「うあああああああああああッ!!」


 琴美がとった行動は、驚くべきものだった。

 蜻蛉から振りかぶった刃を、渾身の力をこめて自身の身体ごと縦に回転させたのだ。

 光が寄せ集まった剣は巨大さに似合わぬ軽さで、満月のような真円を描いて、鳥籠を真っ二つに断ち割ったのである。


 死を招く拷問具を脱出すると、息つく暇もなく血の刃を携えたエリザベートが距離を縮めていた。

 細長く伸びた指が、右手一本でサーベルを掲げている。


「チェストオォッ!!」


 琴美も“猿叫”を迸らせて、月の魔力をこめた剣を振るった。

 

 エリザベートの斬り下ろしが唸り、琴美の胴払いが闇を裂く。

 

 赤と黒の影が、月夜の中で交差した!!

  


 刹那、短い悲鳴が上がる。


「ギッ!?」


 エリザベートの右脇から、どす黒い飛沫が弾けた。

 脇腹の肉が深々と抉れ、右側の皮膜が中程までザックリと切り裂かれている。

 

「ギェエエエエエーーーーー!!」


 これではもはや空を飛ぶことは出来ない。

 凄まじい絶叫を虚しく響かせながら、エリザベート・バートリーは山中の闇へ墜落し、消えていった。


 木々の枝が折れる音と、厭に乾いた激突音だけが、遠くから聞こえる気がする。


 生死の判別はつかないが、生きていたとしても、おそらく暫くの間は動けないだろう。


 ゆっくりと高度を落とし、杖から降りて地面に足をつける。ずいぶん長い間、空を飛んでいたような気がして、足元がおぼつかない。



「なんとか、勝てたかな……ちょっと高くついたけど」


 マントとローブから赤い雫が滴り、地面に吸い込まれていく。彼女も無傷とはいかず、右肩にエリザベートの攻撃を受けていたのだ。


「あ、あれ……変だなぁ? やけに眠いや」


 ふらふらと血を流しながら足を運んだ先には、志郎が横たわっている。

 大威力の術の連発に加えて、本人が思っている以上に傷が深いらしい。歩いた後の道しるべを示すように、点々と血痕が垂れている。


「あ……」


 もつれる様に、前のめりに崩れ落ちた。力を振り絞って地面をはいずり、どうにか志郎の下へたどり着く。


 青い顔で震えているが、相棒には意識はあるらしい。ほっと安堵の息を吐くと、気が抜けたのか上体が痛々しい刀傷の刻まれた胸へ落ちていく。


「ごめん、私も血まみれだから汚れちゃうね……」


 血の気を失い白くなった手が、志郎の頬をそっと撫でた。

 声にならない、血を吐くような絶叫が少年剣士の喉から迸る。その様子がなんだか悲しそうで、今にも泣き出しそうな表情だと思った。


「泣かないで、大丈夫だから」


 疲労と流血で、視界が闇に塗り替えられていく。


「好きよ……」


 隠された本音を口に出した途端、意識を失い、がくりと首が落ちた。そして、



「オオオオオオオオオオオオオオオ!!」


 それと引き換えに、あらゆる人間的な意志を飲み込んだ獣の咆哮と共に、深手を負ったはずの狗賀志郎が立ち上がっていた。

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