4章の4
石畳に血痕を落としながら、岡田以蔵が身を退いた。
斬り上げから返す刀で、頭蓋を割るために落とされる真改の剣尖を紙一重でかわし、置き土産とばかり片手斬りを見舞って距離をとる。
志郎も巧みに身を捻って脳を抉ろうとするその太刀を回避し、靴底で地面を擦りながら後退する。
両者、構えを解かず志郎は八相、以蔵は下段のまま再び睨み合う。一進一退の攻防に未だ終わりは見えて来ない。
ふと、以蔵の視線が左手に少し下げられた。
視線の先は、拳銃のトリガーに掛かっていた人差し指。殆ど切断され、皮一枚で辛うじて繋がり垂れ下がっている。
不健康な色をした肌の中で、切断面の肉が微かに蠢いているのが嫌でも目についた。
「……」
そのミノムシのように揺れる指を、さも面白くなさそうな顔で見やると、すぐにふいと視線を元の位置に戻した。
指の切断面がびろびろと不気味な渦を巻くと、イソギンチャクのように肉の触手が伸び、切断面を寄り合わせる。瞬く間に合わせ目の肉が盛り上り、瞬間接着剤のような頑強さで指が再び接合された。
「相変わらず薄気味悪いな、化け物どもが!」
峰の湾曲に沿って血の滴る刀を手に、志郎が忌々しそうに吐き捨てる。
しかし、威勢の良さとは裏腹にやはり今回も内心は苦しい。
特に以蔵の炎を操る能力が厄介だ。
疎まれ続けた末、惨めに死んだ人斬りが現世へ抱く怨み故の能力だろうが、先のリボルバーを使用した遠距離砲火といい、これが本人の剣技とあわさると遠近共に隙が無い。
「大丈夫!?」
頭上から気遣いの声がかかる。黒装束をはためかせて、琴美が志郎の傍らに降り立った。
相棒も苦戦を強いられているようだ。よく見ると魔女の衣装は所々に土や木の葉が付着し、薄汚れている。
顔には疲労の色も濃く、荒く息をついて肩が大きく上下していた。
(人の心配してる場合かよ)
こんな時でも他人を気遣う辺り、彼女の情の深さを再認識させる。微かに笑って、志郎も気遣いの声を返そうとした。
しかしそれは叶わず、突然「危ない!」と琴美が切羽詰まった声を上げて志郎の身体へ飛び込んで来た。
薄手の生地越しに伝わってくる柔らかい感触を味わう暇もなく、二人して縺れるように地面を転がると、頭上から十数の鋭利な凶器が雨のように降り注ぐ。
暗闇に紛れて判別し難い、赤褐色の鋭く細長い錐のような凶器が、二人の立っていた位置に次々と突き刺さった。
「うぅ、あいつの能力厄介すぎ!! まだホームズやハールマンのほうが戦いやすかったわ!!」
魔女が空中を睨む視線の先で、ぶわりとドレスの裾を鳥の翼のように広がる。鼠をいたぶる猫を思わせる嗜虐性に満ちた表情で、エリザベート・バートリーが地面に降り立った。
「逃げ足が早いのね、お嬢さん」
美貌に浮かぶのは氷上に走った亀裂を思わせる、凄絶な笑みである。
「元気な女の子は大好きよ。はやく悲鳴を聞かせて!! はやく血を搾りたいわぁ……ッ!!」
だらりと下げた両手の、サーベルを握っていない左の腕がゆるゆるとした動作で持ち上がっていく。
「立って、早く!!」
その動作を目にした瞬間、共に地面へ倒れ込んだ志郎を、再び切羽詰まった声を上げて急かす。
「……分かった、しっかり掴まってろ!!」
何を思ったか、志郎がガキンと太く鋭い歯で刀の柄を口にくわえる。それに琴美が怪訝さを覚えた次の瞬間、
「うえっ!?」
ぐるりと視界が回る。
一瞬の浮遊感を経て、琴美の身体は背中から志郎の両腕にすとんと落ちていた。所謂“お姫様抱っこ”の状態だ。
足払いをかけられたのだと気付いた時には、志郎は彼女を抱えて踵を返し、猛然と走り出していた。
つい、とエリザベートの左掌が前方へ、走り走ってゆく二人の背中に向けてかざされた。大理石のように白い掌の色が、ぼんやりと暗闇に浮かび上がる。
その中心部から、真紅の飛沫が弾け飛んだ。
赤い水滴は瞬く間に空中で凝固し、先刻の錐状の凶器となって二人へ襲い掛かる。
生前から血液への執着を抱くエリザベート・バートリーは、やはり魔人としての能力も血液に起因するものらしい。
マシンガンの掃射を思わせる攻撃から、悲鳴を上げる琴美を抱いたまま逃げる。
「ひいいいやあああああっ!!」
「喋るな、舌を噛むぞ!!」とでも一喝したいところだったが、生憎口は塞がっている。
苛立ちながらも背後に意識を集中しつつ走ると、真正面の樹との距離が狭まった。
猛烈な勢いを全く殺さぬまま、根元を思い切り蹴りつけて、上空へ跳ぶ。
足場にされた樹が身代わりとばかりに血針に貫かれておがくずのような破片を撒き散らし、幹を削られ痩せ細っていく。
まともに受ければ間違いなく、針刺しのように穴だらけどころか、粉々のミンチにされて死んでいただろう。
「んがぁッ!!」
気合いを絞り、宙で志郎が身を捻った。太い枝に足をかけ、肉体を矢のように、枝のたわみを弦のように利用して、一直線に身体を飛ばす。
血針の射線から僅かに外れ、黒いジャケットと腕の中の魔女のマントをはためかせ、エリザベート目掛けて飛翔する。
人間離れした反射神経と身体能力を目の当たりにしてか、それとも先程まで以蔵と戦っていた志郎へ攻撃対象にされたせいか、エリザベートは隙だらけの棒立ちとなっている。
口元に銀光を携えた黒影が、真紅のドレスと交差した!!
琴美を抱えたままエリザベートの横をすり抜け、地面にしっかりと腰を据えて着地する。ふたりぶんの体重に削られて、スニーカーの靴底がざりざりと抗議の声を上げた。
何とか勢いを殺して着地したその背後では、鼓膜が破れそうな大音響の悲鳴と、濃霧のような血煙が立ち込めている。
脇をすり抜ける瞬間、志郎は口元の刀に渾身の力を込め、エリザベートの首筋に斬りつけていたのだ。
弓なりに仰け反り、悲鳴を上げるエリザベートの首筋にばくりと深い裂け目が口を開け、おびただしい量の鮮血が噴き出された。
「この間の借りは返したぞ。舐められっぱなしは俺の性に合わんからな」
琴美を地面に降ろし、口元の刀を手に持ちかえて、冷淡な台詞を吐いてみせる。
確かにエリザベートの血を操る能力は厄介だが、本人の生前は単なる貴族夫人であるし、多くの女性を殺めたのも家臣の協力があってのものである。
以蔵やジルのように動乱期で戦火を潜り抜けてきたわけでもなければ、ハールマンやホームズのように権力による後ろ楯のない、一介の犯罪者として場数を踏んできたある種のクソ度胸があるわけでもない。
他の殺人鬼達と比べれば、志郎にとって比較的捉えやすい部類の相手と言えた。だからといって、侮りを抱いて簡単に倒せる敵でもないのだが。
「よくも、よくも私に血を流させたな下郎……!!」
炎を思わせる斑の血痕を顔面の半分に貼り付け、エリザベートが牙を剥いて二人へ向き直る。
治癒能力によって出血は既に収まっているが、常人ならば確実に失血死するほどの深傷である。
血液を生命と美容の根源と考え、強く執着する彼女にとって、志郎の行いは許しがたいものらしい。
先刻までの淑女然とした態度は消え失せ、血走った眼に凄まじい殺意の光が宿る。
ヴラド公爵と並ぶ吸血鬼伝説の原型となった、バートリー一族の気性の激しさと残虐性を物語る、まさしく悪鬼の形相だ。
「我が僕となれ、屍達よ!!」
再びエリザベートが掌をかざす。今回は掌を天に向かって真っ直ぐに掲げ、血針を虚空へ飛ばした。
上空からの攻撃を警戒し、志郎と琴美は身構えるが、二人に向かって来る血針は一本も無い。
十数の血針は見事な弧を描き、一つ一つが過たず、今までの戦いで死んでいった『アリオク』の戦闘員達の亡骸に突き刺さり、その肉の中へ潜り込んで消えていく。
「何をしたの?」
手近な死体へ、琴美が怪訝な視線を落とす。首を志郎の一刀に叩き斬られ、四肢を投げ出してうつ伏せに倒れている。
もはやただの肉塊にすぎないはずだが、突如その死体が微かな痙攣を開始した。
注意していなければ認識できないほどの微かな変化が、目に見えて激しい動作へ移行するのにさほど時間はかからない。
油の切れた機械のようにぎこちなく、緩慢な動きで地面に転がった直刀を拾い上げ、カクカクと関節を震わせながら、四肢を踏ん張ってついに立ち上がる。
動きだけならば生まれたての鹿か馬のようにも感じられるが、見る者にそれが与えるのは、おぞましさばかりだ。
これを皮切りに、四方八方からズリズリと地面を這う気配が生まれた。
夜の冷たい空気の中で、芋虫のように鈍く、それ故に恐怖を煽る不気味な足取りで、屍の群れが武器を携え立ち上がって来たのだ。
四肢の欠損した者も、首を切断された者も、失血多量の者も、ひとつの例外なく、下手くそな奏者の操るマリオネットのように歪な足取りで、二人へ迫り来る。
「素敵でしょう?私の血を与えられた屍は、私の意のままに動く僕となるのよ!!」
死人の群れの中で、エリザベートが女王気取りでふんぞり反って哄笑する。
その傍らへ、マントを翻してスカイスタンが姿を現した。
「彼女は元は血を操る能力しか持っていなかった。これはホームズとハールマンが君達に殺されてから得た力だよ。
殺人鬼たちは人数が減るほど呪力を帯びて強力になり、悪魔へと近付いて行く。この国の蟲毒という呪術を参考にしたのだが、上手くいったものだ」
琴美の推測通り、やはり一連の事件は蟲毒の術を取り入れた儀式だったのだ。つまり見島市とその近隣が巨大な呪いの壷となっている。
だが、今その事について考察する暇はない。
最初に立ち上がった頭部のない屍が、切断面から盃のように血を溢れさせながら、剣を振りかざして琴美へ斬りかかって来た。
「うわああっ……!!」
顔をひきつらせて、斬撃から逃れる。攻撃を回避するというよりは、道端で虫か汚物を踏みそうになって、慌てて飛び退くような動きである。
「この、ビビらせるなっての!!」
恐慌寸前の心を辛うじて正気に保ち、杖で屍を薙ぎ倒す。胸を強かに打たれ、首なしがぐらりと背中から地面に沈んでいく。
その胸が先刻の志郎を襲った四人組と同じように、逆十字に裂けた。
高圧で噴出する鮮血の刃が、進路の死者を刻み、臓物と肉片が再び撒き散らされる。
「痛っ!!」
鮮血の刃を受けてしまい、琴美から短い悲鳴が上がった。幸い致命傷は免れたが、左の首筋が浅く裂けて赤黒い血が流れ出す。
「さっきの連中と同じ攻撃だ……なるほど、あいつらもあの女の力で操られてた死体だったんだな。って、納得してる場合じゃねえや。長谷川ぁ、大丈夫か!?」
志郎が踞って痛みに耐える琴美へ声をかけたが、すぐにその瞳に怒りの炎が燃えている事に気付く。
「狗賀君、私の近くは安全だから離れないでね。頭に来たからデカいの行くよ!!」
痛みと嫌悪に激昂し、マントの中から取り出したのは、細長い布だ。元はリボンか何かと推測されるが、使い古されて色はくすみ、生地の所々がほつれている。
何の変鉄もないゴミ寸前の代物だが、これも魔女が扱えば呪具に変わるのだ。
その布切れを地面の水溜まりに浸し、水を吸って重くなった先端を地面に叩き付けながら、呪文を唱える。
「我はこのぼろきれを石に叩き付け、悪魔の御名において嵐を起こす!! 我が望むまで、それは鎮まることは無いであろう!!」
一回、二回と紐を鞭のように振るい、石畳を弾く。そして三回目、地面が打たれるピシャリという音を合図に、琴美の周囲で暴風が旋回した!!
大威力の術を阻止するべく、屍の胴体から次々と逆十字が裂け、高水圧の鮮血の刃を吹き出すが、厚い風の壁の阻まれ、二人の肉体に到達することなく散っていく。
魔女が天候を操るという話は世界各国にあるが、特に風を操る術においてはロープや鞭など、紐状のものがよく用いられるという。
紐に結び目を作り、そこに風を捕らえるイメージを構築し、それをほどいて風を起こしたり、逆に結び目に風を封じて静めたりするという話が有名であり、フィンランドやスコットランドには紐に穏やかな風、普通の風、強い風をそれぞれ封じた三つの結び目を付け、航海に出る船乗りへ売る魔女が居たほどだという。
琴美が行ったのはスコットランドに伝わる、嵐を呼び寄せる為の魔女術だ。
「吹き飛べ!!」
猛獣へ鞭をくれる調教師のように布切れを振るうと、明確な攻撃性を孕んだ風が屍の群れを襲う。
手近な屍の肉体が肩から下腹部まで、巨大な斧を叩き付けられたように斜めに割れ、内臓を棚引いて旋風に巻き上げられる。やがて境内を越えて森に飛ばされ、見えなくなった。
同じように布切れを一振りするたび、巨人の拳に殴り付けられたように次々と屍が吹き飛び、微塵に切り刻まれ、周囲の地面や樹に肉片となって叩き付けられていく。
瞬く間に、荒れ狂う風の刃は群がる屍の大半を吹き飛ばしていた。
四肢、頭部、内臓、鮮血が盛大にぶちまけられ、地獄絵図さながらの光景になったが、自分の行使した術の破壊力に満足し、琴美がニヤリと笑う。
「うっ……」
そして、その表情のまま青い顔をして地面に膝をついてしまった。
大量に汗をかき、乱れる息を必至で整えようとするが、心臓が胸の痛みを覚えるほどに、異常な速度で脈打っている。
敵とはいえ他人の命を奪い、更にその屍を辱しめた事への嫌悪感や罪悪感もあるだろうが、それだけではなく重い疲労感が全身を蝕んでいるようだ。
天候を司る術は特に強い力と素質を必要とする。
即興でこれだけの力を出せる事は、彼女の術者としての秘めたる才能の証明でもあったが、術を使用した肉体と精神への負担は大きかったらしい。
すかさず志郎が烈剣を振るい、残りの屍を身動きできないよう胴体を真っ二つにし、脚を切断して動きを封じたが、それでも殺人鬼たちは未だ健在だ。
雑魚を倒すにしては大きな代償を支払う事になってしまった。
琴美の不調に気付いたようで、ジルを抑えていた三幹部のひとり、鳥羽が二人の元へやってくる。
「退却するか?」
「まだやれる!」
簡潔な問いに対して、激しい口調で拒絶を示す。
「見てください、雑魚はもう戦意がないみたいですよ」
琴美の使用した魔術に恐れをなしたか、黒ずくめ達は波が引いたように戦場から離れている。
覆面に隠れて表情は伺い知れないが、誰も彼も腰が引けて剣やボウガンを構えることすら出来ていない。そこから漂う怯えや恐怖は用意に感じ取れた。
「今なら余計な邪魔も入らない、三人のうち一人でも仕留めて見せるわ」
杖で身体を支え、何とか起き上がる。
魔女装束の襟元が首筋から滴る血を吸い、嫌な色に変色している。出血量が決して少なくはない事を如実に物語り、それに一瞬気が遠くなりかけたが、未だ戦う意思は折れていない。
「……根性なしどもめ。私がかつて生きていた時代の兵士達はもっと勇ましかったぞ」
戦闘員たちの不甲斐なさに興を削がれたか、依子とシュレックから距離を取ると、ジル・ド・レエが大袈裟な身振りで嘆く。
「そこをいくと、君達は実に素晴らしい。技の冴えだけでなく、不利な状況でも諦めない闘志。その若さにしては戦士の心構えが出来ている」
「あん?少年趣味でグロ趣味のド変態のくせに殊勝なこと言いやがる」
怪訝な表情で口にしたのは志郎だ。
公園での死闘の後、彼は自分の手で斬ったフリッツ・ハールマンについて個人的に調べ、改めてその所業に激しい嫌悪感を抱いていた。
ハールマンと同じく欲望のままに少年たちを犯し、殺したジル・ド・レエについてもそれは同様である。
あまりに歯に衣着せない台詞が可笑しかったのか、ジルは高らかに笑い出した。
ホームズ、ハールマン、エリザベートらが見せたような狂気に満ちた笑いではない。ある種の清々しさすら感じさせる豪放磊落な笑い声だった。
ひとしきり笑った後も、微笑を崩さず穏やかな顔で語りかけてくる。
「まあ否定はしない。私が背徳者なのは確かだが、これでも戦場では将を任されていたのでね。敵であろうとも、君達のような戦士には敬意を払うのが性分なのさ」
「騎士道ってやつか? そいつは結構。なら、俺が斬りたいのはそこの侍だ。改めてそいつとサシで殺り合わせろ」
志郎が片手で刀を掲げる。その切っ先の向こうにいるのは岡田以蔵だ。肩に刀を担ぎ、無表情なままじっと志郎と向かい合う。
「じゃ、私の相手はエリザベートね。女の子ばかり狙う奴を放って置けないわ」
琴美の視線も真っ直ぐエリザベートを射貫いている。
エリザベートからは相手を仕留められず、更に手傷を負わされた苛立ちだけではなく、苦痛に歪むような表情が見てとれた。
どうやら魔人になっても生前の偏頭痛は消えていないらしく、時折頭を抱えながら、血走った目が暗い殺意を宿している。
負けじと視線を叩き返し、マントの裾を払い、右手に杖を、左手にアサメイを持った戦闘態勢になる。
「スカイスタン様、手出しはご無用です。ここは二対二の決闘といたしましょうぞ!!」
「好きにしたまえ」
主君といえど決闘の邪魔はさせない、と言わんばかりの態度でジルが吠え、スカイスタンは飄々とした態度を崩さない。
ファウスト三幹部も成り行きを見守っている。やはりこの場面では手出ししない方針のようだ。
「イゾー、エリザベート、存分にもてなして差し上げろ」
スカイスタンの言葉を合図に、エリザベートが先手を取った。
「血、血、血、血ィ!!」
大量の血液を撃ち出した影響で飢餓状態にあるのだろう。口から涎を飛ばしながら、枷を外された猟犬のように琴美へ飛びかかってくる。
「おっと!!」
素早さは弾丸なみだが、攻撃自体は単調な一直線の体当たりのようなものである。
軌道を読んで平行移動してかわすと、戦場から離れた戦闘員たちから凄まじい絶叫と、血煙が迸った。
琴美を捉えられなかったエリザベートは、代わりに黒ずくめ達を補食し始めたのだ。
手始めとばかり捕らえられた一人が、サーベルで力任せに首を切り落とされる。
バケツをひっくり返したような大量の血の本流を、エリザベートは切り口から直接喉を鳴らして飲み干して行く。
異常事態を察知して逃げ出す暇もなく、二人目が張り手のように顔面を薙ぎ払われ、首が千切れ飛んだ。まだ殺戮は終わらない。
三人目の両腕を怪力で引きちぎり、四人目の胸を鋭い爪で貫き。
もぎ取られた頭や腕から流れる血と、胸から抉り出した心臓を次々と胃袋へ流し込む。
五人目の喉に食らい付き、柔らかい果物に穴をあけて中身をすするような品のない音を立て、新鮮な血を吸い出した辺りでようやく空腹が満たされたようだ。
声もあげられず、痙攣して悶絶する哀れな犠牲者をゴミ同然に放り、
「ふん、やはり男は不味いわ」
さも不満げな表情で、口を拭いながら吐き捨てる。
「散々食い散らかして、その台詞はないんじゃないの?」
「何とでもお言い。私はむさ苦しい男を食うより、貴女のような若い娘が良いのよ。さあ、美酒を絞るとしましょう!」
フェンシングに似た片手構えで、サーベルが掲げられる。
あまりの言い草に怒りを見せる琴美とは対称的に、魔人の顔には耳まで裂けるような笑みが浮かぶ。ちろちろと赤い舌が這い、エリザベートの唇をナメクジのように濡らした。
口元には彼女が生前愛用した拷問器具の数々を彷彿とさせる、鋭い牙がずらりと並んでいた。
「ふざけるな、葡萄みたいに簡単に摘まれてたまるか!!」
琴美が口元で小さく呪文を唱えると、手・頬・太股といった素肌が露出した部分が蛍光塗料を塗られたように淡く光り、白い肌に複雑な紋様を描き出す。
魔女が空を飛ぶ為に身体へ塗布する軟膏が、術に反応しているのだ。質の良いものならば、未熟な術者を補助するサポートとしても機能する。
「エスネイビー・ヒークスム!!」
節くれ立った杖に跨がり、宙に浮かび上がる。
すかさずエリザベートが跳躍して捕まえようとするが、琴美の方が遥かに俊敏だ。
ジグザグや、更に複雑な幾何学的模様を描くような軌道で、巧みに空中を飛び回りながら妖精の矢を見舞う。エリザベートは素早く、どれも頭部や胸部といった急所には届かないが、何もしないよりはマシだとばかりに連射する。
「セコいけど、正面からじゃ潰されるからね。せいぜい削らせて貰うよ!」
風を切って見舞われたサーベルをアサメイで受け流し、返す刀で逆手に持ったそれを心臓めがけて突き落とす。
豊かに実った乳房を微かに抉るのみに留まったが、エリザベートは瞬時に怒り狂い、サーベルと爪を無茶苦茶に振り回す。
それを命からがら回避すると、再び空中へ浮遊して距離を取った。
このままでは、やはり膠着状態となりそうだ。
「待ってろよ、長谷川」
苦々しい顔で呟いたのは、以蔵と対峙した志郎だ。
殺人鬼相手に消耗戦になれば、琴美はいずれスタミナの差で押し切られる。
それを考えれば少しでも早く加勢に行きたいところだが、こちらもこちらで他人を気にしながら戦って勝てる相手ではない。
相手の構えは下段。地面にどしりと根を這わせたようなベタ足で、ずりずりと摺り足で距離を縮めてくる。
相手の背が低いのもあり、どうしても攻める手が制限されてやりにくい。
心臓や鳩尾は狙い難く、こういった場合は上から斬り落とすのが定石だが、果たして動乱期に名を轟かせた邪剣士にそれが通じるかどうか。
「分かった、乗ってやるよ……!!」
毒づきながら“蜻蛉”の構えを取った。“猿叫”を発し、雪崩れ込むように斬りかかる。
「チェエエーイ!!」
左の肩口から真っ二つにする気迫を込め、真改が唸りを上げた。
低い姿勢を崩さず、摺り足を駆使して以蔵が後方へ逃れると、
「チェストッ!!」
すかさず、その太刀行きを右の首筋へと変化させる。
“持掛”という示現流の戦法だ。
左肩から袈裟に斬りトドメに右の頸動脈を断つという、基礎技故に示現流の一撃必殺を体現した剣である。
しかし、首を裂こうとするその横薙ぎの刃を、下方から昇った銀光が弾き返した。
ハンマーで叩かれたような重苦しい衝撃に、刀を握った腕ごと浮かび上げられる。
その隙をついて踏み込んだ以蔵の剣尖が、志郎の顔面を襲った。
「どわぁっ!!」
切羽詰まった声と共に、慌てて身を捻る。切っ先が白い線となって横へ流れ、睫毛が数本頬へ落ちてこびりつく。眼球を狙っていたのだ。
下段から相手を誘いこみ、更に摺り上げで弾き返し、カウンター攻撃を仕掛ける――――以蔵とは同年代の新撰組局長・近藤勇や、同じく新撰組の隊長の一人である永倉新八が得意としたとされ、現在も天然理心流が継承している“龍尾剣”に似た技だが、本当に何が飛び出してくるか分からない。
真っ当な修行で技術を培ってきたぶん、志郎が最も苦手とするのが以蔵のような剣士である。
実戦で錬磨されたというだけでは説明できないほどの勝負強さはまさしくそれだ。確固たる理由もなく、理不尽に強い。
そしてそういうタイプほど、命を奪りあう実戦で遺憾なく実力を発揮するから始末に負えない。
「畜生がぁ!!」
身の捻りをダイナミックな回転に変え、距離をとりつつヤケクソ気味に棒手裏剣を放つ。
一本、二本と、以蔵の刃が手裏剣を叩き落とす。三本目が辛うじて防御を越え、どすりと胸元へ突き刺さった。
軽く片膝をつき、以蔵がうずくまる。それに怪訝なものを感じた。明らかに急所は外れているし、化け物じみた生命力を誇る殺人鬼にはとるに足らないはずの手傷だ。
ククククッと、下を向いたままの以蔵から笑いが漏れる。
「まさか……」
嫌な予感に珠のような汗が浮く。
その予感の通り、岡田以蔵の肉体が変異を開始していた。
うつむき加減のまま筋肉と骨格を軋ませて、肉体が一回り大きく膨れ上がる。突き刺さった棒手裏剣が筋肉に押し戻され、カランと音を立てて地面に落ちた。
元の体格が小柄なので、ホームズのような並外れた巨体には変化していないが、170センチはあるだろう。少なくとも志郎よりはこれで背が高くなった。
筋肉に押し上げられた生地の端々から漂うキナ臭い白煙と熱波が、全身を白々と縁取っている。
やがて着流しの上半身が熱と膨張に耐えきれず弾け飛ぶ。空中で黒い細切れが消し炭になり、跡形もなく飛散していった。
着流しの下から現れたのは赤銅色を通り越し、炉に放り込まれた玉鋼のような高熱と赤光を帯びた、筋骨隆々とした肉体である。
「う、うぅ、おおおおおお……ッ!」
地底から響くような唸りを上げて、長い爪の伸びた腕が深編笠を地面へ叩き棄てる。
そこから出てきたのは、櫛を何十年も入れた事がないような、伸ばし放題のざんばら髪。
こめかみの上部辺り、髪の生え際の左右が裂け、血に濡れてヌラヌラとした光沢を放つ、鋭角な骨が皮膚を突き破って生えてきた。角だ。
「グウゥオッ!!」
吠え声と共にバネのように跳ね上がった顔は、耳の脇まで裂けて鮫のような乱杭歯で埋まった口と、松明のように煌々と輝く両の眼から火の粉が溢れ出ている。
「殺人鬼が本当に鬼になるとはな」
岡田以蔵は、地獄絵図で罪人に責め苦を与える獄卒――まさしく鬼そのものの姿となった。
呆れと驚愕入り交じった志郎の台詞にみりみりと音を立てて、鬼面がひきつるような笑みを浮かべた。
人間の姿の以蔵はひたすら能面を思わせる無表情を貼り付けていたが、この状態は高揚した気分を伴うのだろうか。
ヒヒヒヒヒッと鋼のような肉体に似合わぬ甲高い哄笑と共に、鬼が忠広の太刀を振るった。
太刀風が熱波となって吹き抜け、うぶ毛が焦げそうなほどの熱さを肌へ伝えてくる。
(くそ、どうやって攻める)
体格が膨張したぶんリーチは伸びているし、恐らく炎を操る力も強化されているに違いない。
攻めあぐねていると、鬼が先に動いた。
刃を横へ寝かせ、胸の高さで腕を真っ直ぐに突き出す。志郎から見て刀身が点になり、全く見えない状態になった。
小野派一刀流では“本覚”と呼ばれ、太刀筋が非常に読みにくくなる上に、迂闊に打ち込めば鋭く切り返しがくるという厄介な構えである。
志郎が立ち位置をずらしても、コンパスの針のように以蔵も刀の位置を合わせてくるので“本覚”を破れない。
やがて殺気を込められた切っ先は志郎を幻惑し、鍔の向こうに鬼の姿が消えそうなほど巨大化する。
(これは、ヤバい……!!)
焦りが心を埋め尽くす。知らず知らずのうち、踏み込んでいた。不用意としか言いようが無い。
転瞬、真っ直ぐに突き出された刃が槍のように伸び、首筋を削ぐ。血肉を焼き斬られ、凄まじい激痛が走った。
視界を眩まされ、摺り足で間合いを詰められていることに気付けなかったのだ。下手をすれば、今の突進で串刺しにされていただろう。
傷から生臭い滴がばあっと撒き散らされ、空中で熱に炙られて蒸発する。鉄錆の焦げたような異臭が充満した。
苦悶の表情で志郎が逃れようとするが、ざんばら髪に火の粉を散らしながら、以蔵は容赦なく剣を振るった。
数度の打ち合い。今回も互いに決定打は与えられず、ばっと後方に跳んで距離を作る。
志郎は柄を握った両手を右肩へ引き、切っ先を下方へ流す霞に構え、以蔵は下段から切っ先をわずかに上げて、背筋を伸ばした正眼になった。
志郎が白煙を上げる真改を見ると、刀身の所々が激しく刃こぼれし、黒く焦げ付いていた。
対する以蔵の忠広は炎を纏い、白煙に縁取られているが、どろどろに熔けて崩れることもなく反り立った刃の形を維持している。
スカイスタンの術を込められた剣は、魔人の能力との併用にも耐えられるようだ。
その熱せられた刃を機は熟したとばかり満足げに眺め、以蔵が再び構え直し、
「ウオオオオオーー!!」
地鳴りのような咆哮とともに、突撃を仕掛けた。
腕の中で赤熱した凶刃が巧みに操作され、小刻みに上下左右とうねり、熱風を巻きつける。
残像が枝分かれして分裂し、まるで数十本の剣を以蔵が一人で操っているような光景になった。
以蔵は鏡心明智流門下において粗野な殺人剣を疎まれながらも、『撃刺矯捷なること隼の如し』と評されるほどの迅速剣の使い手として知られていた。
その真骨頂がまさに発揮されている。
凄まじい手数に志郎は防ぐだけで手一杯となり、四肢のあちこちに次々と裂傷・火傷が刻まれていく。そのたび鬼面の笑みが深くなる。じわじわとなぶり殺しにするつもりだ。
焼けつく痛みに顔をしかめながら、何とか反撃の機会を見出だし、防御から攻撃へ転じようとする。炎の太刀を受け流し、霞の構えから首元へ袈裟に斬りつけた。
切っ先が肉を裂く感触はなく、虚しく陽炎を斬った。熱源が脇をすり抜け、背後へ移動している。
「なんだとっ!?」
背後を簡単に取られた驚愕の声を発するより早く、条件反射に近い動きで身を捻る。鹿島神道流“鴫羽返し”だ。
片手突きが銀光を閃かせて、熱源へ鋭く迸った!!
鴫という鳥は非常に美味であり、古くからフランス料理等でも美食家に珍重されてきたが、身体の小ささと旋回能力の高さから狩猟が非常に難しい鳥でもある。
Snipeという言葉も本来はシギ猟、Sniperはシギを撃ち落とせるほどの腕前の持ち主を意味する。
“鴫羽返し”はその名の由来となった鳥のような、鋭角な動きによる返し技だ。
しかし、焦りが最高潮に達した状態で繰り出された剣は、狼男を斬った時とは比べ物にならないほど精度を欠いていた。
顔の横を鉄塊が通過し、ざんばら髪を切っ先が数房斬り落とす。ただそれだけだった。
突きは死に太刀の言葉通り、攻撃を外された腕が伸びきり、致命的な隙を生む。
好機を逃さぬ隼は、翼の折れた鴫を一切の慈悲なく捕らえていた。
「貰ッタァッ!!」
千変万化の魔剣に翻弄される志郎に対して、けたたましい声を発した以蔵が刀を逆袈裟に斬り上げた。
地獄の業火と鬼の豪腕を乗せた、片手殴りの一刀!!
燃え盛る剣はそれを受け止めた刀を焼き斬るようにへし折り、全く勢いを殺さぬまま、志郎の胸板へ焼き印のような真っ黒い刀傷を刻んだ。
「お、俺の真改がっ……!!」
皮肉なほど涼やかな音を伴い、粉々になった玉鋼の残骸と、半ばほどで折れた刀身が宙を舞う。
それに少し遅れて血煙のなか、斧を胸にぶちこまれたような重い衝撃で弓なりに仰け反り、血ヘドを吐いて背中から倒れ込む。
「ぐあ……」
血の滲むような呻きだけが、喉から漏れる。
起き上がり、戦おうとする意思はあるが、身体がついていかない。
へし折れた真改はもはや熱でボロボロに崩れている。明らかに使い物にならない。
何とか脇差しに右手がかかった時には、岡田以蔵が傍らで高々と刃を掲げていた。
せめてもの抵抗に脇差しを投擲しようとしたが、巨大な足に腕を踏みつけられ、封じられる。
「があああああ!!」
ボキボキと骨が砕ける、おぞ気立つ感触と激痛に絶叫する。痛みで気が遠くなった。
「冗談じゃねえ、ここで終わりかよ」
熱気に炙られたおかげで、右目の目蓋が腫れて視界が遮られている。不明瞭な視界のなか、炎を纏った刃だけが網膜へ鮮明に焼き付いた。




