4章の1
月光すら差し込まない、暗闇に支配された廃屋の埃とカビの臭いに混じり、むっとする様な血生臭さが立ち込めている。
おそらく元はホテル等の宿泊施設だったのだろう。
構造的にはフロアに当たる広々としたスペースの闇のなかで、ぶらり、ぶらり、振り子のように揺れる五つの影があった。
。
血抜きをされる家畜のように足首を縄で縛られ、大型のシャンデリアから吊るされている。
いずれも十代半ばの、中高生程度の年齢であろう。一糸まとわぬ乙女たちの成れの果てだ。
皆既に息はない。
ある者は首筋の肉を噛み千切られ、ある者は心臓を抜き取られ、またある者は全身に無数の風穴を空けられ絶命している。
ぼたぼたと滴る鮮血の行き着く先は、その下に設置された浴槽だ。
乙女たちの命の溶けた生き血の風呂にその身を浸しているのは、大理石のように白く輝く肌と、燃えるような色合いの豪奢な赤毛の美女である。
見事な肢体に鮮血を絡ませ、時折恍惚の笑みを浮かべて掌に掬ったそれを喉を鳴らして飲み干していく。すると、不思議なことに髪の毛が更に赤く艶やかとなり、肌も張りを増していくように見えた。
「一晩のうちにこれだけやるとは、流石だな」
闇の中からマントの怪人が音もなく現れ、血で満たされた浴槽へ歩み寄る。
現在、見島市を恐怖の底へ叩き落している妖術師スカイスタンである。
その配下の一人である、未だ正体の定かではない女殺人鬼が自身ありげに胸を張った。
「ホームズとハールマンが抜けた穴は私が埋めてみせますわ。あの二人には負けませんわよ」
「ふん、我等のように生前戦に出ていない貴様なぞに負けるものか」
暗がりから、野太い声と共に甲冑の巨漢が顔を見せた。
「…………」
続いて、腰に日本刀を差した着流しの男が影絵のように浮き出てくる。
「あら、じゃあ今すぐ試してみましょうか?」
浴槽の傍らに置いたサーベルを拾い上げ、美女が血塗れの手で構えてみせると、巨漢が大剣を掲げ、着流しが刀の鯉口を切る。
「おっと、潰し合うのはまだだ。まあ、これでそろそろ首は揃いつつあるが」
ふむ、と手元にある髑髏の杖を弄びつつ、邪法を司る術者が思案している。
「儀式を行う前にあの狼と魔女、そろそろ潰しておくか」
彼女は夢を見ていた。
夢の中での彼女は怖い目にあい、ひどく怯えている。
最近実際に体験した出来事の記憶が夢に現れているのだ。
血煙が噴き上がり、怒号、絶叫、断末魔が間断無く夕闇の公園に轟く。
そこに広がる光景を目にするのを恐れ顔を手で覆っていたが、なぜかその時少し薄目を開けてしまった。
全身を刻まれ、芋虫のように這いずる肉塊が視界に入る。
瀕死の黒装束の手に握られたボーガンの引き金が絞られ、自分めがけて矢が飛来する。
動きはスローモーションのようにゆっくりとしているが、身体が動かない。
このままでは矢が顔面に突き刺さる。
間に合わない、と観念して目を瞑ろうとしたその瞬間、横合いから現れた少年がその華奢な身体を抱きしめ、盾となって代わりに矢を受ける。
痛みに脂汗を流しながらも、長く太い犬歯をむいて笑って見せ、耳元でこう口にする。
「無事か、御堂」
そこで目が覚めた。
「あ〜、最近なんか駄目だわ……」
思い出しただけで頬が熱くなるのを感じながら、御堂樹里はひとり朝の教室で机に突っ伏して悶えていた。
(だいたい耳元で言われてなんかないでしょ!! なに勝手に脳内補完してんの私!?)
しかし、あんな経験は初めてだったのだ。
身を呈して危険から守ってくれる異性など、それこそ漫画やドラマのような遠い世界での出来事と思っていたが、それを彼は実際に自分にしてくれた。
ちらりと目をやる。その先にいるのは狗賀志郎だ。
相変わらずの仏頂面で、今日提出する宿題のプリントを書き込んでいる。
やや雰囲気が殺伐としている点を除けばただの高校生に見えるが、彼には拝み屋という副業がある。
既に消えかけて殆ど目立たないが、頬には未だに薄く狼の爪痕が残っている。それを見ると、あの日の出来事が鮮明に脳裏をよぎった。
あの腕が刀を振るい、異形の殺人鬼を討った光景を樹里は目の当たりにしているのである。
じっ、と視線を送っていると、今度は長谷川琴美が彼に近づく。
彼女は志郎の同業者であり、パートナー。
魔女の血を引く家系の生まれであり、その能力をはじめて目にした時は度肝を抜かれた。
その二人が何やら小声で話している。身振り手振りから察するに、琴美が志郎へ何やら頼み込んでいるようだ。
ほどなく、渋々といった体で志郎が折れるのが分かった。
(そういえば、調査って進んだのかな?)
教室で話せる話題ではないので、今は聞くに聞けない。
昼休みまで待つ事にした。
「駄目だよ、ぜんぜん駄目」
昼休みの屋上で、不愉快さを隠そうともせず志郎が吐き捨てるように言った。
八つ当たりのように昼食の安い菓子パンを荒々しく食いちぎり、これまた安物のコーヒー牛乳で流し込む。
「他のメンバーも協力してくれてるんだけどね。表ざたにならないだけで、確実に例の連中の被害者は増えてる」
琴美も悔しそうに唇を噛んだ。
「そっか……」
樹里もハールマンの一件以来、自分なりに事件の情報を収集して二人の協力をしてきたつもりだが、状況の打破には繋がっていない。
着々と、首狩りは行われている。
悪魔を喚起する儀式に突入して阻止するのは最後の手段だ。
できるだけ犠牲を最小限にして事件を解決したかったのだが、既に十分すぎるほどの死者を出してしまった。
琴美が未熟さに打ちひしがれる様に俯き、志郎もぎりりと歯を噛みしめる。
暗い様子の二人を励ますように、樹里は明るく声を出して聞いてみる。
「そういえばさ、何か朝二人で話してなかった?」
「ああ、長谷川が俺に剣術とか体術とか習いたいから、家に行ってもいいかって言ってよ。ま、しょうがねーから了承してやった」
「ごめんね、でも私強くなりたいの。一度くらい狗賀君の家でみっちり修行してもいいでしょ」
口調は明るいものの、表情に少し陰が落ちていた。ハールマン戦での敗北から、彼女の強さへの渇望は更に増している。
「分かってるって。でも無茶するなよ」
少し、樹里にはそれが面白くない。
志郎と琴美が、家で二人きりで過ごす。なんだか知らないが、それは樹里にとって歓迎できない事態のように思えた。
「狗賀君、私も行って良いかなあ!?」
疑問系ながら有無を言わせぬ迫力をこめた笑顔だった。
持ち前の大きな瞳の眼力には無言の説得力がある。
思わず志郎も「お、おう」とたじろぎながら頷く。
「あ、俺ちょっとションベン行ってくる」
不穏な空気を感じてか、志郎がそそくさと持ち物を片付けてその場を立ち去る。
「どういうつもり、御堂さん」
志郎が鉄扉の向こうへ消えた瞬間、眼に冷たい光を灯した琴美が地獄の底から響くような声で問いただした。
「別に、私もちょっと剣術とか興味あるし。あと狗賀君の家がどんなのか見てみたかったのよ」
それに対し、「クッ……」と小さくくぐもった笑いを洩らし、
「言っとくけど、絶対負けないから」
「さて、何のことやらさっぱり皆目見当がつきませんわ」
双方、笑顔だが目は全く笑っていない。
「フフ、ウフフフフ……」
「アハハハハハハ……」
どちらともなく、笑い出す。
「「ウフフフフフフフフフ…………」」
春の青空のなかに、どこまでも、どこまでも、二人の少女の笑い声だけが響いていった。
ちなみにこれに前後して、目つきの悪い一人の男子生徒が悪寒を感じて保健室へと向かったのは果たして偶然であろうか。
放課後、約束通り三人で志郎の自宅へ向かう。
彼の家は町外れの郊外にある、広い敷地を白い壁でぐるりと囲んだ古い家だった。
本人曰く元は武家屋敷で、自宅兼店舗として使用している母屋のほか、離れを改修して作った武道場や、商品や先祖代々の品を保管している蔵なども備えているという。
「まあ、むさ苦しいところだけど入ってくれや」
『狛犬堂』と屋号の書かれた年季の入った看板の下。これまた古めかしい木製の引き戸を開けて、中に入る。
「おじゃましまーす」
元気よく挨拶して、まず琴美が足を踏み込む。それに樹里が続く形となった。
「そういえば、ご家族は? まだ仕事?」
失礼かと思いながらも、樹里がきょろきょろと周囲を見回しながら聞くと、
「いないよ」
あっけらかんと、言ってみせる。
「え……」
予想だにしない答えに、呆然とする。
「親父とお袋はガキの頃に死んでる。俺は爺ちゃんに育てられたんだけど、その爺ちゃんも10歳の時に死んだ。
幸い爺ちゃんが遺産だけは残してくれたもんで、親戚の援助も最小限でほとんど一人暮らしさ」
こんな話はどうでもいいか、と部屋から木刀などの道具を持ち出し、武道場の場所を示して先へ歩く。
つとめて感情をこめないようにしている、そんな印象だった。
道具袋を担いで歩くその背中が、琴美と樹里にはひどく寂しそうに見えた。
夕日の差し込む畳張りの武道場で、紺袴に防具の剣道着姿の男女が向かい合う。
「俺のお古で悪いが、洗濯してるからそんな汚れてないと思う」
志郎が籠手に覆われた手を腰に当てて伸びをする。
「大丈夫、いつもの衣装に比べるとちょっと動きにくいけどね」
琴美は感触を確かめるように竹刀を握り絞めた。
そして二人から少し離れた位置では、樹里が壁に背を向けてちょこんと座っている。
「じゃあ、これから稽古を始めるぞ。こんな格好してるが、剣道ルールに縛られずに好きに打ち込め。まずはお前の実力がどの程度か試してやるから、思い切りぶつかってこい」
「分かってるって!」
二人の持つ竹刀がゆっくりと持ち上がり、正眼の構えを作る。
両剣士は一足一刀の間合いで対峙する形となった。
「御堂、せっかくだから合図を頼む」
「うん!」
志郎に頼み事をされた喜び故か、樹里がやけに嬉しそうな顔でこくこくと頷く。
それとほぼ同時、メキッ!! と琴美のこめかみの辺りから、何かが壊れるような音がしたのは恐らく気のせいである。気のせいと思いたい。
「はやく来なさいよ!! 来いオラー!! ボケカスコラー!! なめこぶち折るぞー!!」
「お、おう……ていうかナメコってお前!?」
何故そこまで猛り狂っているのか志郎には判別が付かないが、琴美はたいそうご立腹である。地団駄を踏みながら面ごしに射抜いてくる彼女の眼光に押され、所定の位置につく。
「そ、それじゃ御堂、合図してくれ」
「いくよ……始め!!」
試合開始を告げる声が、武道場に鳴り響く。
「やぁーーっ!!」
先手を取ったのは琴美だ。
やり場のない感情を込めて、上段から脳天めがけて竹刀を降り下ろす。
すすっと相手の側面に廻る円の動きで、志郎はそれをかわす。
切っ先は虚しく空を斬り、踏み込んだ足からジンとした痺れが琴美の膝を伝った。
「くっ!!」
攻撃を易々と回避された事への焦りからか、やや無茶な体勢で片手斬りを見舞う。
しかし、これも志郎には喉元すれすれで見切られ、竹刀を手にした右腕が伸びきる。
その機を逃さず志郎がつうっと滑るように間合いをつめると、正眼の構えからごく自然な動作で、竹刀が琴美の右小手へ摺り上げられた。
鋭い音を伴い、竹刀が彼女の手元から離れ放物線を描いて宙を舞う。
「あぅっ!?」
「胴っ!!」
驚愕の声に間髪入れず、惚れ惚れするほど綺麗な太刀筋で竹刀ががら空きの胴へ吸い寄せられた。飛び退く暇すら与えない。
数瞬遅れて、竹刀が畳に投げ出される乾いた音が鳴り響く。
志郎の剛力は防具越しでもひしひしと感じられる。
強い衝撃が胴体に伝わり、琴美は軽く咳き込んでしまった。
真剣ならば、防具があろうと腹部に緋牡丹の花が弾け咲いた事は想像に難くない。
「スゴい、全然見えなかった!」
改めて樹里が驚嘆を口にする。あっという間に志郎が一本先取した。
「はい、まず一本と。何だか知らんが力み過ぎだ、もっと力抜け。気迫はなかなかだけども、一手一手が大振りなのもマイナスだぞ」
「くっ、私としたことが少し取り乱してしまったようね」
「私としたことがって、お前普段から大して冷静じゃねーよ」
「にゃにをぅ!?」
もう一回だもう一回、と怒る琴美と再び対峙する。
「第二試合、はじめ!!」
再び、先手を取ったのは琴美だ。
低い姿勢から床すれすれに脛を払ってくる。
剣道・剣術のルールとしては反則もいいところだが、先の試合よりは彼女らしい戦法ではあった。
「と、と、とっ……」
リズミカルに呼気を吐きながら、その剣を後方に退いてかわす。視線は相手から外すことはない。
反撃とばかり面へ竹刀を斬り落とそうとすると、床を蹴る軽い音と残像を置き土産に残して、琴美の姿が視界から掻き消えた。
頭が天井に届きそうなほど高い跳躍だ。ドイツ語で魔女を意味する“hexe(垣根を越える女)”を体現した身の軽さである。
ここで示される垣根とは現世と異界の境界とされるが、まさに魔女の肉体操作には現世の物理法則に囚われていないかのような軽やかさがある。
志郎の頭を高々と飛び越え、後頭部めがけて叩き落とすような斬撃を見舞う。しかし、
「あっ!?」
樹里の喉から驚愕の息が漏れた。
頭上からの攻撃を、志郎が身を捻りながら回避する。
その反転運動が背後の敵へ伸び上がる凄絶な片手刺突へ変じた。
前回目にした時のような神業に近い剣速ではないが、その動作に彼女は見覚えがある。
それはまさしく、鹿島神道流“鴫羽返し”!!
「ぶっ!?」
フリッツ・ハールマンを下した必殺の剣が喉へ叩き込まれ、奇妙な悲鳴を迸らせるともんどり打って倒れ込む。
「二本目っと……意表をつくのはいいが、ちょっと正直すぎるな。どうせならもう少しフェイント入れろ。あと刃筋もきちんと立って無かったぞ。真剣を振るう感覚を忘れるな、竹刀と同じ感覚で扱えば剣はすぐに折れる。
……でも、“鴫羽返し”を使わせるとは思わんかった。自分でいうのも何だが得意技なんだこれ」
さすがに手加減はされているし、防具越しとはいえ、それでも剣術における突きは基本的に殺傷力の高い危険技である。喉を抑えて悶絶する琴美の痛苦は如何ばかりか。
少しやり過ぎたかと、志郎も珍しく心配になったが、
「ぐぅ、そりゃ、ど、どーも……次…いくわ、よ…」
喘鳴まじりの掠れた声で、そう絞り出す。この程度では彼女も闘志は衰えないようだ。
「おう」
それに対して、面ごしに犬歯を剥いて笑い返す。剣が嫌いと公言する割には、少しだけ楽しそうな表情だ。
普段一人で素振りをしている時のようなむっつりと押し黙った顔とは違うと、本人は気付いていないようだ。
この感情に彼が気付くのは、まだ少し先である。
「御堂、悪いんだけど家の方からバケツに水いれて持ってきてくれ!! 柄杓も一緒にな!!」
「はい!!」
ドタドタと小走りで駆けていく足音を尻目に、再び剣戟の音が鳴り響く。鍛練は陽が暮れるまで、飽きることなく続いていった。
「チェエエーー!!」
示現流の気合い“猿叫”を真正面から叩きつけられて琴美の身体が硬直したのを見逃さず、志郎が疾風のように踏み込んだ。
「チェストォ!!」
“蜻蛉”の構えから斬り下ろされる竹刀が、垂直に脳天を打つ。
視界を遮り身軽さも損なうと考え、既に頭部を保護する面は脱ぎ捨てているおかげで、ダメージもダイレクトに肉体を襲った。
疲労した頭から爪先まで衝撃が突き抜け、琴美の意識が遠退く。
もはや殆どトドメを刺されたに等しいが、更に胸元へ志郎が飛び込んだ。二つのひとがたが前へのめり、琴美の身体が空中で大きく円を描く。背負い投げだ。
激突の瞬間、志郎が自らの右足を背中と床の間に差し込んで衝撃を緩和したものの、背中から大の字になって畳の上に投げ出された琴美は何度も荒い息をついた。
竹刀で打たれ。
脚で転ばされ。
投げ技で畳に叩き付けられ。
そうして気絶するたび気合いをいれられ、柄杓で冷水をぶっかけられ、起き上がらせられる。
これを二十回程度は繰り返しただろうか。おかげで琴美の体力は限界に達していた。
「もう動けない、死ぬ、死んでしまう……もう無理ぃ……」
「大丈夫、だいたいそう言って暫くはもつ。うーん……でも、そろそろ腹も減ったし今日はここまでにしとくか」
その言葉は息も絶え絶えで喘ぐ彼女には天の助けであった。
頬は赤く染まり、口から吐く息が蒸気になりそうなほど身体が熱い。酸欠の金魚みたいに大口をあけて深呼吸を繰り返すと、防具に覆われた胸が大きく上下した。
額から滴る汗は視界を煙らせ、寝そべって見上げた天井は滲んで見える。
志郎も琴美ほどではないが、面を外した顔には玉のような汗が浮いており、面の下に巻いていた手拭いでそれをしきりに拭っている。
「お疲れ様、狗賀くん」
そこへすかさず、樹里がタオルと冷えた麦茶のなみなみと注がれたグラスを志郎へ差し出す。先ほど志郎が頼んで持ってきて貰ったものだ。
琴美が何か言いたそうだったが、生憎未だ疲労で上手く口が廻らない。
樹里が志郎には気付かれない角度で、ふふんと勝ち誇ったように笑い返した。本人的には不敵な笑みのつもりだが、如何せん彼女の童顔では迫力がないのが玉に瑕である。
色々後が怖い気もするが、彼女も琴美に負けるつもりはなく、アピールチャンスを逃すつもりもない。
「おお、何か悪いなぁ」
グラスの中身を一息に飲み干し、安堵のため息をついた。火照った身体に冷茶はこのうえない美味であるし、今晩は春にしては蒸し暑いのもそれに拍車をかけている。
「ふう〜、この一杯のために生きている」
どこかで聞いたような台詞を吐き、もう一杯とばかりポット(気が利いたことに、氷も入れてある)からグラスへ注いでいると、
「わ、私にも麦茶……」
ゆるゆるとした動作で手を伸ばし、喉を突かれた為に掠れた声で琴美が麦茶を要求してくる。
「悪い悪い、他のグラスは……おっ?」
視線をそらした瞬間、志郎の手からグラスを奪い、飲み干す。
しっかりと彼が口をつけた部位に唇を重ねていたのも、恐らくは偶然ではないだろう。
「ふぅ、ご馳走さま……あらやだ、これって間接キッス? 改めてご馳走さまでした、色々な意味で」
「お、お前な……からかってんのか?」
水分補給して落ち着いたか、さりげなく樹里へお返しとばかり猫を思わせる意地の悪い笑みを送る。
屋上での再現のように、両者の顔が笑顔のまま硬直する。
交差する視線の中点で火花が散ったような気がした。何故かそれに昼休みと同じ悪寒を感じつつも、恐る恐る志郎が質問。
「……なあ、喧嘩してんの二人とも?」
「そんなことないよ!?」
樹里がくわっと大きな目を見開き、
「そうそう、あたしらマブダチだから!! むしろソウルシスターっす!!」
琴美が樹里の肩を抱く。
「そ、そうか」
がっしりと肩を抱き合う二人。と見せかけて彼に見えないように背中から互いに脇腹をつねりあっているのだが、志郎は気付いていない。
彼女たちの勝負はまだまだ先行きが長そうである。
「で、私の実力はどんなもんかしら?」
「あん? 調子に乗るなクソッタレのゴミ」
無駄に自信に満ちた発言を一刀両断、切り捨てた。癪に障ったのか普段以上に口が悪い。
「はっきり言うが我流の気が強すぎだ、このままだとケンカ殺法の域は出ないぞ。一度誰かにきちんと武術を習ってみた方がいい。
剣はこれからもある程度俺が教えてやらんこともないが、杖の方が扱いに慣れてるなら、桐山の姉さんに杖術でも習ったほうが確実だな」
「桐山さんかぁ、私あの人ちょっと苦手なんだけど」
喋り出したら止まらない解説マシンが脳裏を過る。自分以上に人を喰ったような飄々としたところのある性格に、琴美は一種の同族嫌悪も感じていた。
しかし、トウビョウ憑きで暴走した志郎を鎮めた杖捌きは本物だった。師匠として技を磨くには適切な人選だろう。
「まあ、考えておくわ。今すぐにってのはちょい急だし」
まな板がリズミカルに鳴り、その上の食材が志郎の妙に鋭い包丁さばきで刻まれ、鍋の中へ放り込まれ、皿へ盛り付けられていく。
「……ちょっと濃いかな」
小皿に取った味噌汁をひとくち含んで味見し、鍋に湯を足して調節する。
現在、台所で煮つけと刺身と味噌汁を調理中である。もう夜も遅いので、客人の歓迎をかねて自分を含めた三人分の夕食を作ることにしたのだ。
長年の独り暮らしで培った技術の賜か、自ら釣り上げたメバルはあっという間に刺身に変わり、味噌汁に変わる。年齢のわりには主夫じみた手際の良さだ。
かつて「いつどこへ出しても恥ずかしくない立派な“お嫁さん”になれるな」等と桐山依子に揶揄された事を思い出し、人知れず苦笑する。
知人の沖縄土産に貰った<海人>のロゴ入りエプロンも本人にとっては不本意だろうが、やけに似合っていた。
さっきから「可愛い可愛い超可愛い!!」と連呼しながら写メを撮っている琴美が少し気になるが、この際無視を決め込む。樹里まで顔を赤くして写メを撮っているがそれも気にしない。
煮つけは残り物を温めただけだが、それでも男子高校生の独り暮らしの献立としては手が込んでいるだろう。献立はやや和食に偏りがちであるが、さほど不味くはないと彼なりに自負している。
「いや、助かった。たくさんメバル釣れて処分に困ってたんだよ」
炊けた米を先に仏壇と神棚に備えてから、自分達の食べる分を茶碗に盛り、食卓の上へ。これも長年の習慣だ。
「悪いね、押しかけてご飯までご馳走になっちゃって」
「いいんだって。どうせ一人じゃ腐らせるところだったんだし、遠慮するな」
「そうそう、モタモタしてると私が全部食べちゃうよ」
恐縮する樹里に比べ、琴美はあまり遠慮がない。これは志郎との付き合いの長さと性格の差であろう。お前は少し遠慮しろとツッコミも飛ぼうというものだ。
「んじゃ、いただきます」
「「いただきます」」
家主が手を合わせて一口。それに二人が続く。
「美味しい……」
恐る恐るといった風情で、まずは煮付けを一口食べると、樹里から素直に称賛の言葉が出る。
普段は比較的食が細いのだが、自然と箸が進んだ。
「うまっ、なにこれうまっ」
激しい運動後の琴美はそれ以上の食欲を発揮していた。少々品がないが、茶碗から掻き込むような勢いで飯を喉から胃袋へ運んでいる。
「我ながら今日のは上手く作れたな、普段はもっとテキトーなもん食ってるんだけど。下手すりゃコンビニ弁当とか」
味噌汁をすすりながら、志郎も自画自賛する。
何だかんだと言いつつも、そこはやはり育ち盛りの高校生である。食卓の料理を綺麗に平らげるのにさほど時間はかからなかった。
「綺麗に食べたねー」
樹里は鼻歌混じりで食器を洗い、乾燥機に次々と入れていく。意外なほどに手慣れた動作だ。
本人によると両親は出張や夜勤が多いため、普段から家事はよく行っているとの事である。
「悪いなぁ客にこんなことさせて」
「いいのいいの、割と好きだしね掃除とか洗濯とか」
最後の皿を入れて乾燥機を閉め、借り物のエプロンで濡れた手を拭きながら恐縮する家主に笑顔で返す。
「気が向いたら、いつでも呼んでね。私が出来ることなら手伝ってあげるよ、なんせ命の恩人だし」
「いや、そこまで図々しい真似はできんて」
志郎はさらに恐縮したが、食後の後片付けを申し出たのは正解だったようだ。
先程まで道場で二人きりの稽古に励んでいた差を埋めるには至らないかもしれないが、アピールチャンスを逃すほど彼女は愚かでもなかった。
悔しそうに頬を膨らませてそっぽを向く琴美に、少しばかり意地の悪い笑みを送る。
お互い大切な友人であることに違いはないが、これに関しては譲るつもりはない。
「ああ、ところで長谷川よ、明日俺はまた見廻りに行くつもりだが、お前は大丈夫か?」
「私も平気だよ、そろそろ相手の尻尾くらいは掴みたいしね」
ここで、志郎が見廻りについての話を始める。むくれた顔を元に戻して、琴美も真面目な顔になった。
「それに、ちょっと明日狙ってみたい場所があるの、泥谷地区の噂を知ってるかな?」
泥谷は見島市内でも最東端の、寂れた地区だ。
少し前に市町村合併によって市に取り込まれたが、それ以前は村と呼ぶのも少し厳しい規模の小さな集落だった。
住人の過疎化と高齢化が進み、よそ者がうろつけばかえって悪目立ちする場所なので、あまり積極的には調査していない場所であったが、彼女によると最近そこである噂が立っているらしい。
「あそこの神社に、最近ろくろ首が出るんだって」
「ろくろ首ぃ?」
古典的な妖怪の名前を聞いて、思わずすっとんきょうな声を出すのは樹里だ。もはやオカルト否定派には戻れない身であるが、この辺りはやはりそう簡単には変わらない。
少しムッとした顔で、琴美が反論する。
「そうバカにするもんじゃないよ、頭部だけで空を飛ぶ怪異ってのは世界中にあるんだから。よく知らないものを、オカルトってだけでバカにするのは良くないと思うわ」
「ごめんごめん、で、そのろくろ首の噂って?」
「そのまんまよ、最近泥谷の神社周辺で、夜中に生首が飛んでるっていう怪談が噂されてる。で、例の組織や殺人鬼の手掛かりにならないかと思ってね」
しかし、志郎はその噂の調査にはあまり乗り気ではない。
無駄足を踏み続けたせいか、殺人鬼達との関連性を疑っているかのような言葉が出る。
「でも、ただ首が飛んでるだけなら自然発生の妖怪じゃないのか。確か元の伝説だと、さほど人に害のある妖怪じゃねえぞ」
「元の伝説って?」
「よろしい、教えてあげましょう」
首をかしげる樹里に、待ってましたとばかり琴美が丁寧に説明する。こういった事をそちら方面には疎い樹里へ説明するのも、最近は楽しみのひとつである。
首が夜な夜な伸びる、もしくは胴体から首が抜けて空中を飛び回るろくろ首は、飛頭蛮と呼ばれる古代中国の怪異を原型とするのが定説だ。
有名なのは中国晋代の怪奇小説集『捜神記』に紹介されている、南方に住まう落頭民という民族に関する話だろう。
元は彼らの集落で“虫落”なる祭事があった事からこの名で呼ばれたそうだが、名は体を現すというのか、この民族はその頭がしばしば身体から離れて空を飛ぶそうなのだ。
『捜神記』によると三国時代、呉の将軍・朱桓がこの落頭民の出の女を下婢として雇ったところ、夜な夜な頭が胴体から抜け出し、耳を拡げて翼のように羽ばたかせ、窓や犬潜りから外へ飛び出ていく。
首の抜けた身体は常よりも少し冷たく、夜明け近くになると首が胴体へ元通りに帰って来る。これが毎夜続くのである。
昼間は普通の人間と変わり無いがさすがに気味が悪く思い、ついに朱桓将軍はこの女へ暇を出してしまう。
後に話を聞くと、他の幾人かの将軍も南方への出征の際には、そのような妖しい者と出会った事があるらしいとの事だった。
また、唐代の書物『南方異物誌』にも洞窟に棲む飛頭蛮に関する話が紹介されており、これによると空を飛んでいる間の首は羽虫やミミズなどを食べており、本人はその記憶は覚えていないが、朝目覚めると腹は満たされている感覚があるとの事である。
大昔に大陸から日本に渡ってきた、所謂『渡来人』の子孫に当たる家系には、覚醒遺伝を起こしてこの飛頭蛮になる者がいてもおかしくはないだろう。
「『捜神記』のように先天的なものという説もあれば、霊的症状の発作が引き起こす現象という説もあるから、この辺の解釈はまちまちね。何度でも言うけど、あたしら妖怪や幽霊や魔術への明確な理屈付けは好まないし」
「なるほど……でも狗賀君の言う通り、それなら放っておいてもいいんじゃないの? 確かに不気味ではあるけど、夜中に虫食べてるだけでしょ?
それに病気なら尚更、なにもしてない病人を殺すわけにもいかないでしょうし」
ガリガリと頭をかきむしりながら、琴美は苦い顔になる。樹里の意見には残念ながら賛同できないようだった。
「どっこい、人に害を成す場合もあるからそう楽観はできないのよ。
小泉八雲の『怪談』には、出家する前は武勇の誉れ高い武将だった旅の僧・回龍が遭遇した、山で親切を装って家に泊めてやり、夜には食い殺そうとしてくるろくろ首が登場してる。こういった話の影響で、狂暴な性質に変異する個体もいるかもしれないからね。
それに、飛頭蛮以外の空飛ぶ首の怪異は元の伝承の時点で比較的狂暴だし。チリのチョンチョンとか」
こちらは南米アンデス山脈の麓に住まう原住民アラウカノ族の伝承で恐れられた怪物である。
落頭民と同じく耳を翼とするが、人の胴体にあたる部分は持ち合わせず、巨大な頭だけが空を飛ぶのだという。本来は霊界を棲家とするが夜になると人間の世界へ現れ、魔術師だけがその姿を見ることが出来る。
その存在は死の前兆とされ、危篤に陥った病人や老人のいる家を見つけると周囲を「チュエ、チュエ、チュエ」と不気味な甲高い鳴き声(これがチョンチョンという名前の由来である)を発しながら飛び回り、病人が死ぬと魂を食ってしまうのだとか、または死体の血を吸い尽くすのだとか言われる。
また、魔物たちの中でもチョンチョンは優れた術者であり、五芒星陣でしか捕らえることが出来ず、性格も非常に執念深いため自分の邪魔をした人間は必ず首をもいで殺してしまい、仲間に引き入れるのだとも。
「……それが出てきたらどう戦うの?」
話を聞いただけで不安そうな顔の樹里に、琴美は失礼だと思いつつ軽く吹き出してしまう。
「例えよ例え、さすがに日本でチョンチョンに遭遇する可能性は低いだろうしね。でも、対策はしやすいよ。空飛ぶ首の弱点は日光が多い。強い熱や光があれば何とかなると思うの」
『捜神記』では首を銅の蓋で遮られて元の身体へ戻れなくなり、朝を迎えて日光を浴びた瞬間死んだ落頭民の記述が見られるし、チョンチョンも朝日が昇ると霊界へ帰らされ、活動できなくなるという点は類似している。
「もう対策のための物資も取り寄せてるし、無駄にしたくないから行ってみましょ?」
「ああ、分かった」
「じゃ、もう少しここに居させてね。ゲームでもやろうか!!」
「あんっ!? 遅くなるから帰れって!」
「いいじゃないの、ちょっとくらい!」
「く、狗賀君私ももう少しいてもいい!?」
「御堂お前そんなキャラだったっけ!?」
翌日に控えた激戦を前に、少年少女たちの夜は楽しく、騒がしく過ぎていった。




