お二階の佐藤さん
「それはお二階の佐藤さんです」
私はこれで何度目だろう?と思いながら、困った顔した宅配業者にそう言った。
私の名前は佐藤里奈。このアパートで一人暮らしを初めて、もうそろそろ四年になる。しかしこんな風に間違った荷物が届くのは最近になってからだ。どうやら二階に同じ名字の佐藤さんが引っ越してきたらしい。
日本で一番多い名字なんだから、あってもおかしくない偶然ではあるのだが。宅急便や郵便物等が間違って届けられるのがやっかいだ。
お二階の佐藤さんは佐藤圭さんという事は、宛名でわかっている。しかし圭という名は男女問わずありうる名前なので、名前以外どんな人なのかさっぱりわからない。
引っ越しの挨拶とかもなかった。私もやらなかったし、東京では引っ越しても挨拶しない人が多いみたいだ。それほど特別な事ではない。
表札に下の名前まで書けば間違いはないのだろうが、女の一人暮らしですと宣言しているようなもので、不用心である。だから面倒だけどこの問題は放置して、間違いが届くたびに、宅配業者に訂正したり、郵便物をお二階さんの所に入れ直したりしている。
最近の私はもっと大きな悩みを抱えていた。この不況のさなか、次のボーナスがでなくなった。会社が残業代を浮かせるために、残業時間も前よりももっと減らせと言われた。おかげで収入が激減した。
このアパートは決して高級ではないが、一人暮らし用の割に広いので、少々家賃がかさむのだ。これからの収入を考えるともっと家賃の安い所に引っ越した方がいい。次の更新までには新しい場所を探さなきゃとは思う。
しかし住み慣れた土地を離れるのはつらいし、なかなかめぼしい物件も見つからず、どうしたものかと悩んでいた。
それに私には、このアパートを離れたくない理由があった。だから重い腰があがらず、更新まであと三カ月ほどとなってしまった。
そんなある日、次の日が燃えるごみの日だったので、夜のうちに出しておこうと玄関を開けたら、目の前に人がいた。スーツ姿に片手にバックとコンビニ袋を持って、会社帰りのサラリーマンっといった風だった。
まだ若い。たぶん20代後半くらい。向こうも突然扉が開いたからびっくりしたのか、一瞬無言で見つめあってしまった。しかし先に立ち直ったのは男の方だった。
物腰柔らかで隙のない笑顔を浮かべてお辞儀した。
「こんばんわ。佐藤里奈さんですよね?二階の佐藤です」
「こんばんわ。どうして私の名前を?」
佐藤と書かれた表札のある家から出てきたのだから、名字はわかって当然だが、表札には下の名前は出ていないはずだ。妖しい人じゃないだろうか?と私は二階の佐藤さんに警戒していた。
「間違って郵便物が届く事があるので。そのたびにポストに入れ直してました」
なるほど私の所に間違ってくるように、お二階の佐藤さんにも間違って私の物が届く事があって当然だ。しかし化粧品や服のブランドなどのDMとかもあるし、郵便物で私の好みとかばれてるかと思うと気まずい。
「ありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ。僕の郵便物もそちらに届いてませんでしたか?」
「はい。ポストに入れ直しておきました」
「お手数おかけします」
「それじゃあ。私はゴミを出すので」
そそくさと逃げるようにその場を後にした。佐藤圭という男と、これ以上話をしてはいけないような、気がした。
店の店員と話しているような、丁寧な言葉使いなのに、なぜか油断のならない男だと思った。初対面の隣人相手の会話なのに、落ち着きすぎているのかえって怪しく思えたのだ。
ゴミ出しを終えて一度部屋に戻り、明日の仕事の支度を終えて時計を見る。
確認するといつもの時間だった。いつもの準備をして私は部屋を出た。辺りを窺ってこっそりアパートの裏に回ると、男が一人しゃがみこんでいた。
なぜ?誰よ?と思いながら近づくと、その男は佐藤圭だった。そして佐藤圭は缶ビールを飲みながら、つまみのチーズたらを猫にあげていた。
さきほどのスーツ姿からラフなスウェットに着替えていて、先ほどより若そうに見えた。私が側まで来たのに気付いたのか、ふいに顔をあげた。
「どうもこんばんわ。この猫への餌やりですか?」
「ええ、まあ。佐藤さんもですか?」
自分も佐藤なのに紛らわしい。お二階の佐藤さんは、手の中のビールを軽く降って中身の残量を確認していた。
「このくらいの時間に、よく猫の声を聞く気がして、気になって来てみたらいました」
「『男爵』はいつもこの時間にここに来るんですよ」
「『男爵?』」
「体の模様がタキシード着てるみたいに見えません?」
口先と、首の下と、手足の先だけ白くて、後は黒い毛並みの猫だから『男爵』と勝手に名づけた。
「確かに。でもちょっとかっこよすぎかな。ぽっちゃりしてて、メタボな親父腹だし」
「この子愛想がいいから、よそでもいっぱい餌もらってるんですよ、きっと」
その時ふと気付いた。何で普通に猫話で盛り上がってるんだ私。さっきはあんなに警戒してたのに。男爵に餌あげてる所を見ちゃったから、うっかり同じ猫好きと油断してしまった。
男爵はチーズたらを食べ終え、今度は私に愛想を振りまいて、餌をねだっていた。もとより餌をあげるつもりで用意していたが、今高カロリーなチーズを食べたばかりで、メタボな腹が気になる。
「メタボ解消のために、私は今日の餌やり辞めます」
「その方がいいかも。十分毛艶いいし」
餌をやる必要が無くなったなら、もう用はない。本当は男爵と戯れたかったが、佐藤圭と一緒というのが何だか気まずい。私は立ちあがって、自分の部屋に戻る事にした。
「それじゃあこれで。ああそうだ佐藤さん。もしこれからも餌やりするなら気をつけた方がいいですよ」
「何が?」
「佐藤さんの隣の川上さん。猫嫌いで、猫に餌やってると怒られるんです」
「それなら大丈夫ですよ。お隣さんこの前引っ越しましたから」
「え!本当ですか?」
「2週間前くらいに、引っ越し業者が荷物を運び出してましたから」
それが本当なら朗報だ。正直、いつ保健所に通報されるかとビクビクしていたのだ。
「このアパートも入居者が少なくなりましたね。今入ってるの僕と佐藤さんくらいですよ。いっそこの子飼い猫にしちゃったらどうですか?」
「でもこのアパート、ペット禁止でしょう?」
「大家に内緒で飼ってる人はたくさんいますよ。ここの大家は遠方に住んでて、このアパートにはこないからばれにくいし」
「木造だから音漏れとか心配で。前に私の真上に住んでた人、何か飼ってたみたいで、とことことことこって足音聞こえたんですよ。人間とは思えない歩幅の音が。何飼ってたんだろう」
「鳴き声は聞こえなかったんですか?」
「そういえば鳴き声は聞こえなかったですね」
「じゃあ僕が飼っちゃおうかな。上から足音が聞こえても、佐藤さんなら目をつぶってくれるよね」
にっこりと笑った佐藤圭の顔が、いたずらを思いついた子供の様に可愛くて、思わず見とれてしまった。
「男爵を飼ったら男爵に会いに、遊びに来てくれますか?」
「行きません」
猫をだしに、女性を自分の部屋に連れ込もうとは不届きな。やっぱり油断のならない男だと思う。
「佐藤さんが飼ってくれるなら、男爵も安心ですね。私このアパートから出て行くつもりなんで」
「どうして?」
佐藤さんがあんまり真剣な顔で尋ねてくるので、思わず本当の事情を話してしまった。今日顔合わせたばかりの隣人に、収入が減ったなどと話すのはいかがなものかと自分でも思う。
でも家族や友達みたいに大切な人の方が、案外大事な話をしづらいものかもしれない。それにどうせもうじき引っ越して、顔を合わせる事もないだろう。そう思うと気楽に職場の愚痴が話せた。
「なるほど。そういう事か。それならならいい事を教えてあげる」
佐藤圭の顔が怪しい笑顔に彩られた。悪魔のささやきの様なその言葉を、ただ私は聞く事しかできなかった。
チャイムを鳴らすのにも勇気が必要だった。油断も隙もない男を思い浮かべると緊張する。しかし礼は言うべきだと思いなおし、私は何度か深呼吸してボタンを押した。
「はい。ああ。こんばんわ佐藤さん」
「こんばんわ。今回はお世話になりました。今後ともよろしくお願いします。お礼と挨拶をかねてそば持ってきました」
「引っ越してないのに引っ越しそば?」
くすくすと笑いながら佐藤圭は私の差し出したそばを受け取った。
そう私は結局引っ越しをせずにすんだのだ。しかもこの男のおかげで。
「でも良かったんですか?佐藤さん仮にも不動産屋が引っ越しを進めずに、家賃交渉させちゃうなんて」
「いいのいいの。プライベートだから。その代わり、佐藤さんの周りに引っ越ししたい人がいたら紹介してね。僕の営業ノルマに貢献してもらわなきゃ」
なかなかに、したたかな佐藤圭の態度に、遠慮は不要だったと思った。
実は佐藤圭は不動産屋の従業員で、このアパートの大家から管理を委託されている会社に、勤めていたのだ。
最近空き室が目立ち、募集しても入居希望者がいない状況で大家も困っていたらしい。ここで私にまで出て行かれるより、少しぐらい家賃を下げてでも、居残ってくれた方がいいと言うだろうと、佐藤さんに教えてもらった。
おかげで家賃を下げてもらった上に、更新料までサービスしてもらえて、このままこのアパートに住める事になったのだ。
「ところで佐藤さん。男爵を飼い始めたんだけど、見て行く?」
「見たいです」
猫に釣られて条件反射でそう答えると、佐藤圭は大きく玄関の扉を開けてにっこり笑った。
「どうぞ。あがって。奥の部屋で寝てるよ」
一人暮らしの男の部屋で二人きりになれという事か!その手に乗るものかと、私は警戒した。
「また今度」
私が逃げようと背を向けると、くすくすと言う笑い声とともに、佐藤さんの声が背後から聞こえた。
「里奈さんって野良猫っぽいよね。警戒心強くて、思ってる事が顔にすぐ出る」
腹がたって、一度背を向けたのに、また振りかえって正面から見据えた。
「佐藤さんっていじわるですね。それから下の名前で呼ばないでください」
「どうして?名字同じだからまぎらわしいじゃないか。僕の事も圭って呼んでもいいよ」
「佐藤さんはずっとお二階の佐藤さんです。それじゃあ、おやすみなさい」
佐藤さんの笑い声がまだ聞こえるけど、無視して自分の部屋に向かった。これからも何も変わらない。今までと同じ部屋に住み、またあのセリフを言い続ける事になるだろう。
いや、ひとつ変わった事は、男爵に会うためには、佐藤さんの家に行かなければいけないという事だ。それを考えると憂鬱だった。
そして今日もまたやってきた。
「それはお二階の佐藤さんです」
そう言うたびに、隙のない笑顔をしたあの男を思い浮かべて、私はひそかにため息をつくのだった。
私も偶然同じアパートに同じ名字の人が引っ越してきて、郵便事故が何度かありました。
そこから思いついたネタでした。
果たして佐藤圭は佐藤里奈を口説き落とせるのか?




