第二部・第一章:普通という麻痺
社会に出ると、
世界は急に優しくなる。
優しいというより、
無関心になる。
大学のキャンパスは広すぎて、
誰が狂っていても、誰も気づかない。
僕とミオは同じ大学に進学した。
同じ学部ではない。
それが、ちょうどよかった。
恋人同士が同じ世界に閉じこもると、
たいてい息が詰まる。
ミオは心理学を学び、
僕は哲学を選んだ。
理由は単純だ。
狂気を定義する側に、
一度回ってみたかった。
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大学二年の春、
ミオは言った。
「ねえ、
あたし、カウンセラーになりたい」
その言葉は、
ガラス細工みたいに繊細で、
でも確かに光っていた。
「向いてると思う」
そう答えると、
彼女は少し驚いた顔をした。
「止めないんだ」
「止める理由がない」
ミオは、
人の心に立ち塞がらない。
寄り添う。
少し後ろから。
それは、
昔の彼女とは違う立ち位置だった。
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僕の方はというと、
相変わらずだった。
正常という言葉が嫌いで、
正義という言葉が信用できない。
でも、
事件は起きない。
それが、
一番の問題だった。
クレイジーな思考は、
使い道を失うと、
内側に刃を向ける。
夜、
一人でいると、
頭の中の裁判所が開廷する。
被告:久城レン
罪状:役に立たない狂気
判決:保留
保留ほど、
残酷なものはない。
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第二章:再発
事件は、
忘れた頃にやってくる。
大学構内で、
女子学生が倒れた。
意識不明。
薬物。
SNS。
分かりやすい単語が、
また並び始める。
人々は安心する。
分かりやすいと、
考えなくて済むから。
僕は、
嫌な予感がしていた。
倒れた場所。
時間。
周囲の人間。
――配置が、綺麗すぎる。
ミオは、
実習でその件に関わることになった。
「ねえ、
今回は関わらないで」
彼女は、
はっきりそう言った。
成長だ。
依存していない。
だからこそ、
胸が痛む。
「分かった」
嘘だった。
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倒れた女子学生は、
「良い子」だった。
真面目で、
空気が読めて、
相談に乗る側。
ああ、
嫌な一致だ。
彼女もまた、
装置だった。
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第三章:恋人であることの限界
ミオは、
僕の変化に気づいた。
考え込む時間。
黙る癖。
目の奥の熱。
「久城くん」
夜、
アパートのベランダで。
「今回は、
あなたが壊れる番だよ」
その言葉は、
正しかった。
「壊れない」
「違う」
ミオは首を振る。
「壊れるって、
暴れることじゃない」
彼女は、
僕の胸に手を当てる。
「ここが、
一人で全部抱え込むこと」
――敵わない。
彼女はもう、
僕を救う側に立っている。
それでも、
事件は進む。
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真相は、
学生同士の善意だった。
相談。
共有。
共感。
誰かの苦しみを、
みんなで分けた結果、
誰も責任を持たなかった。
薬を勧めたのは誰か。
止めなかったのは誰か。
全員で、
少しずつ。
集団の狂気は、
個人よりもずっと静かだ。
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第四章:選ばないという選択
今回は、
噂を流さなかった。
暴かなかった。
裁かなかった。
僕は、
何もしなかった。
警察と大学が、
時間をかけて処理した。
被害者は助かり、
加害者は曖昧なまま。
正義じゃない。
でも、
誰も壊れなかった。
ミオは、
それでいいと言った。
「ね。
世界は、
全部救わなくていい」
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最終章:クレイジーマンは、笑う
数年後。
ミオはカウンセラーになり、
僕は物書きになった。
テーマは、
狂気と日常。
売れないけど、
困らない程度には。
夜、
ソファで並んで座る。
「ねえ」
ミオが言う。
「もしまた、
大きな事件が起きたら?」
僕は少し考えてから答える。
「その時は、
一緒に考える」
狂気は、
一人で使うと危険だ。
共有できるなら、
それはもう、
ただの思考だ。
ミオは笑う。
「やっぱり、
クレイジーマンだね」
「うん」
でも、
もう独りじゃない。
それで、
世界は十分だ。




