第一部・第三章:落ちる理由は、いつも上にある
警察に呼ばれたミオは、
放課後になっても戻ってこなかった。
教室の窓から見える校庭は、
昼間よりもずっと広く、
まるで逃げ場が増えたみたいに見える。
人は広さを見ると安心する。
それがどこにも行けない広さだとしても。
――思考を整理しよう。
事故現場は、旧校舎三階の外階段。
立ち入り禁止のはずの場所。
錆びた手すり。
監視カメラは、なぜかその日だけ停止。
完璧すぎる。
事故にしては、
あまりにも親切だ。
僕はノートの端に、
人差し指で小さな円を描く。
円は閉じている。
でも、
人は閉じたものを見ると、
無意識に出口を探してしまう。
――出口を作ったのは、誰だ?
⸻
ミオは夕方になって戻ってきた。
顔色は、
使い古された消しゴムみたいに白い。
「大丈夫?」
そう聞くと、
彼女は一瞬だけ、
子どもみたいな顔で笑った。
「うん。
……久城くんがいたから」
その言葉が、
胸の奥でゆっくりと腐っていく。
依存は、
甘い匂いがする毒だ。
「警察、何て?」
「普通のこと、聞かれただけ」
普通。
その言葉ほど、
信用できないものはない。
⸻
その夜、
僕はミオに連絡した。
「話せる?」
返事はすぐに来た。
『今、家の前』
夜の住宅街は、
誰かの人生が眠っている博物館だ。
ミオの家の前で、
僕たちは並んで立った。
街灯の光が、
彼女の影を細く引き伸ばす。
「ねえ」
ミオが言う。
「久城くんって、
怖いものある?」
僕は少し考えてから答えた。
「正常」
「……それ、怖い?」
「正常って、
誰かが決めた平均値だから」
ミオは黙って頷いた。
「ね。
あたし、あの日――」
彼女は唇を噛む。
「……手、掴まれた気がした」
風が止まった。
「掴まれた?」
「うん。
落ちる前に。
誰かに」
それは、
事故ではあり得ない。
「顔、見えた?」
「見えない。
でも――」
彼女は、
自分の胸に手を当てた。
「嫌な感じがした。
あの人、
“落ちる役”をやらされてた」
その表現に、
僕の思考が加速する。
役。
舞台。
台本。
――誰が、演出した?
⸻
数日後、
新しい噂が流れた。
亡くなった生徒は、
ある教師と揉めていたらしい。
金。
成績。
推薦。
噂は、
いつも現実よりも分かりやすい。
でも、
分かりやすい犯人ほど、
だいたい間違っている。
僕は、
旧校舎へ向かった。
立ち入り禁止のテープは、
人を止めるためのものじゃない。
越えた人間を、犯人にするための印だ。
テープをくぐると、
空気が変わる。
湿ったコンクリート。
埃。
時間の死骸。
外階段の手すりに、
わずかな傷があった。
爪。
いや、
指輪だ。
右手。
力の入り方が不自然。
「……なるほど」
僕は笑ってしまった。
落としたんじゃない。
“離した”んだ。
掴んでいた手を、
自分から。
それが意味するのは――
⸻
その夜、
ミオは泣いた。
理由は言わない。
言わない理由が、
理由そのものだった。
「久城くん」
彼女は、
僕の制服の袖を掴む。
「一緒に、壊れてもいい?」
その言葉は、
恋の最終形態だった。
「壊れるのは、
一人で十分だ」
そう言って、
僕は彼女を抱きしめた。
心臓の音が、
重なって聞こえる。
二人分の鼓動は、
一つよりもずっと不安定だ。
――守りたい。
その思考が、
僕を本当に狂わせる。
⸻
事件は、
教師でも、生徒でもない。
もっと単純で、
もっと卑怯な場所にある。
そして、
ミオはその中心にいる。
知らないまま、
守られる側として。




