第一部・第二章:恋は論理をすり抜ける
事故が起きた日、
学校は一枚の濡れた紙みたいに静まり返っていた。
廊下を歩く音がやけに大きく聞こえる。
人の気配があるのに、誰も生きていないみたいだ。
クラスメイトたちは、
事故の話を「噂」という薄いビニール袋に包んで持ち歩いていた。
破れないように、でも中身を覗きたい。
そんな目をしている。
僕は知っている。
噂は、必ず破れる。
⸻
昼休み、
屋上へ続く階段で、僕は彼女と出会った。
非常階段は、学校の中で唯一、
「使われなかった時間」が積もる場所だ。
そこに座っていたのは、
見覚えのあるようで、ない顔。
セーラー服の襟が少しだけ歪んでいる。
髪は肩に触れるくらいで、
光を吸いすぎた墨みたいな黒。
彼女は、
階段の踊り場に座り込んで、
弁当箱を開けもせずに見つめていた。
「それ、食べないの?」
気づいたら、声をかけていた。
自分でも驚くほど自然だった。
彼女は顔を上げて、
一拍遅れて瞬きをする。
「あ……うん。食べるよ」
声は、
少しだけ割れたガラスみたいだった。
「じゃあ、どうして見てるの」
「……逃げ道を確認してる」
その答えに、
僕の中の裁判所がざわつく。
「逃げ道?」
「うん。
食べたら、戻らなきゃいけないでしょ」
その言い方が、
まるで戦場に戻る兵士みたいで、
僕は少し笑ってしまった。
「それなら、ここは安全地帯だ」
「ほんと?」
「少なくとも、屋上から落ちない限りは」
彼女はくすっと笑った。
その瞬間、
世界の彩度が一段階だけ上がった気がした。
――危険だ。
恋は、
思考を鈍らせる麻酔だ。
⸻
彼女の名前は早乙女ミオ。
同じ学年、別のクラス。
事故が起きた場所の、
「一番近く」にいた人間。
それを知ったのは、
彼女がぽつりと漏らした一言からだった。
「……あたしね、見ちゃったんだ」
彼女は、
弁当の卵焼きを箸で突きながら言った。
「何を?」
「落ちる前の顔」
その言葉は、
音もなく僕の胸に沈んだ。
事故で亡くなったのは、
三年生の男子生徒。
公式発表では、
「足を滑らせた不慮の事故」。
でも、
落ちる前の顔を見る余裕がある事故なんて、
聞いたことがない。
「怖かった?」
そう聞くと、
ミオは首を横に振った。
「違う。
……悲しかった」
悲しい。
それは恐怖よりも、ずっと厄介な感情だ。
「ねえ久城くん」
「なに」
「もしさ。
あの人が、落ちるって分かってたら――」
彼女はそこで言葉を切った。
続きを言えば、
何かが壊れると分かっていたみたいに。
「分かってたら?」
「……助けられたと思う?」
僕は少し考えてから、答えた。
「助けなかったと思う」
彼女の目が、わずかに見開かれる。
「どうして?」
「人はね、
落ちると分かってる時ほど、
誰の言葉も信じない」
これは、
僕なりの真実だった。
「でも――」
「だから」
僕は続けた。
「助けるなら、
落ちる前じゃなくて、
“登らせない”しかない」
沈黙。
階段の隙間を風が通り抜ける。
ミオは、
しばらく僕の顔を見てから、
小さく息を吐いた。
「……変な人」
「よく言われる」
「でも」
彼女は、
ほんの少しだけ笑った。
「嫌いじゃない」
その言葉は、
銃声みたいに僕の中で鳴った。
⸻
その日から、
僕とミオは昼休みを一緒に過ごすようになった。
恋は、
気づいた時にはもう始まっている。
それは病気と同じで、
自覚した時には手遅れだ。
彼女はよく笑い、
よく黙り、
よく世界に怯えていた。
そして、
僕は彼女を守りたいと思ってしまった。
――致命的な誤算だった。
クレイジーな思考は、
誰かを守るために使うと、
必ず事件を引き寄せる。
⸻
数日後、
警察が再び学校に来た。
事故ではない可能性。
第三者の存在。
消えた監視カメラの映像。
噂は破れ、
中身が教室に散乱する。
そして、
ミオが呼び出された。
その背中を見送る時、
僕は確信していた。
この事件は、
僕の思考を必要としている。
そして同時に、
この恋は、
僕の狂気を試している。




