第一部・第一章:正常という名の檻
人はみな、頭の中に小さな裁判所を持っている。
被告席に座るのは、いつだって自分自身だ。
今日も僕は有罪だった。
理由は簡単で、朝起きてしまったから。
目を開けた瞬間、世界が「おはよう」と言わなかった。
それだけで、今日は失敗だと分かる。
世界が挨拶を返さない日は、だいたい碌なことにならない。
僕は布団の中で天井を見つめながら、
自分の思考が昨日の夜のまま干からびているのを確認する。
まるで使い終わった歯磨き粉のチューブみたいに、
どれだけ絞っても、もう何も出てこない。
――それでも、考える。
考えることだけは、やめられない。
それは呼吸と同じで、意識すると苦しくなる。
「正常でいよう」
そんな言葉が、頭の奥で小さく鳴る。
正常。
その単語は、透明な癖に刃物みたいだ。
正常って何だろう。
遅刻しないこと?
友達と笑うこと?
将来を心配すること?
もしそれが正常なら、
僕は最初から人間失格だった。
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僕の名前は久城レン。
十七歳。高校二年生。
そして、たぶん――クレイジーだ。
ただし、よくある誤解がある。
僕は錯乱していないし、幻覚も見ない。
電波も受信していない。
むしろ逆だ。
世界の方が狂っていて、僕の思考は一貫している。
それだけの話だ。
⸻
学校へ向かう道は、毎日同じ形で僕を裏切る。
曲がり角は必ず同じ場所にあるのに、
今日は昨日よりも鋭角に感じる。
アスファルトは灰色で、
人の心臓みたいに規則正しくひび割れている。
通学路を歩く生徒たちは、
まるで工場で量産されたネジみたいだ。
同じ制服、同じ顔、同じ会話。
「昨日のテレビ見た?」
「マジで?」
「やばくね?」
その三語で、世界は回っているらしい。
僕はその横を歩きながら、
心の中で勝手にルールを改変する。
――もし今、全員が同時に黙ったら。
想像すると少しだけ楽しい。
沈黙は暴力よりも平等だ。
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教室は水槽だ。
三十数匹の人間が、酸素不足に気づかないふりをして泳いでいる。
席に座ると、
机の表面に刻まれた無数の傷が目に入る。
爪で引っ掻いた跡、コンパスの針、意味のない落書き。
それらは全部、
「ここに閉じ込められていた」という証拠だ。
「久城、おはよ」
隣の席の女子が声をかけてくる。
名前は忘れた。
忘れたというより、覚える必要を感じなかった。
「おはよう」
僕は条件反射で返事をする。
人と会話をする時、
僕は自分を自動販売機だと思うことにしている。
投入された言葉に、
対応する言葉を返すだけ。
感情はお釣りみたいなものだ。
出てきたらラッキー、くらいでいい。
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一時間目の途中、
突然、校内放送が鳴った。
ザザ、とノイズ混じりの音。
それだけで、心臓が一拍遅れる。
「生徒の皆さんにお知らせします――」
放送委員の声は、
いつもより少しだけ震えていた。
その瞬間、
僕の中の裁判所がざわつく。
――来た。
理由はない。
根拠もない。
でも、確信だけはあった。
「本日、校内で事故が発生しました」
事故。
便利な言葉だ。
誰の責任でもないように聞こえる。
教室の空気が一斉に固まる。
魚たちが、水槽のガラスを意識した瞬間だ。
「現在、警察の指示に従い――」
そこから先は、よく覚えていない。
僕の意識は、
もう別の場所に行っていた。
事件は、
いつも静かに始まる。
まるで、
最初からそこにあったみたいに。
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その日、僕は思った。
世界が狂っているなら、
狂ったまま正しく生きるしかない。
それが、
僕が“クレイジーマン”になる理由だった。




