十四話 真紅の少女は死を知らず
液体に浸かっている感覚を覚えながら、紅ずきんは重たい瞼をどうにか開いた。
呑み込まれたらしい、と気付いてから、すぐさま紅ずきんは状態を起こした。全身の気持ちの悪い感覚を無視して、液体の底に落ちていた自らの武器を掴み取る。白銀色の刃は、一本しか残っていなかったものの、確かに底にあった。
霞む視界で見渡せば、薄紅色の肉塊が脈打っているのが分かる。胃か。紅ずきんは口だけでそう呟いてから、自分の右腕を確認した。
でこぼこと醜く浮き出したその断片は、紛れもなく食いちぎられた痕だろう。酸で傷口が溶けたせいか、既に血は出ていない。少女はあわてる事無く、胃壁の端に歩いていって、酸から出た。幸か不幸か、胃液はそう多くは無く、胃酸から逃れる事は出来た。
右腕の消えない痛みに耐えながら、紅ずきんは胃酸の臭いを無視して状況を整理する。
自分は獣に食われたのだろう。右腕以外に断裂や裂傷が見受けられないことから、恐らくは丸呑みだ。普通なら胃酸が増えて自分が溶けるまで、恐れ続けることになるが、紅ずきんは違った。
軽く手の甲で胃壁を押すと、ぐにゃりとやわらかくその形を変えた。いかに強靭な獣とて、胃壁ばかりは柔らかいらしい。紅ずきんはニヤリと笑うと、手に持った刃を全力で振り下ろした。
刃は、胃壁に突き立つと同時に、かすかな抵抗を突破して胃壁を切り裂いた。確かな感覚が、紅ずきんの手に伝わってくる。
しかし、次なる一撃は放てなかった。胃の中で暴れだした紅ずきんに気付いたのか、獣が体を大きくゆらしたのだ。紅ずきんの小さな体でも狭く感じる胃壁内で少女は振り回され、反対側の壁へと叩きつけられた。急いで溶かそうとでも言うのか、胃液が更に増えている。
「……はんっ。自分で呑み込んどいて、吐き出そうってか? ――そうはさせねえよ」
吐き捨てるように呟くと同時、紅ずきんは、回し蹴りの要領で胃壁にブーツに仕込まれた隠し刃を全力で叩き込む。一瞬を逃さず、袖に仕込んだ刃も付きたてて、上下左右を考えずに滅茶苦茶に切り裂き始めた。
激しく揺れる獣の体だったが、紅ずきんは今度こそ飛ばされる事はなかった。僅かに感じる獣の筋肉の収縮で揺れのタイミングを読んで、壁に、天井に、床に、刃を突き立てて踏ん張るのだ。飛んで行くはずも無い。
狭苦しい胃壁内で、紅ずきんは暴れまわる。胃液が足首まで届こうとお構いなしで、蹴っては跳び、切っては跳ぶ。止まることを知らないかのように、少女の刃は段々と加速して行く。一切の無駄が無い流れの中、紅ずきんは福音の刃を壁から引き抜いた。
大量の血と油にまみれても尚、"福音"の銘を与えられた刃の輝きは鈍らない。自らの主を待っていたかのように、僅かに光を反射して煌いた。
紅ずきんは、片手でそれをもって、一閃。
体重移動、踏み込み、力の込め方、回転の力、その他の物理法則。それらを味方につけて、今、少女は胃壁を完全に引き裂いて見せた。鮮血が舞い、紅ずきんの全身を真っ赤に染め上げて行く。
迸る鮮血に、鼻は効かないし、もはや目も見えない。だが、紅ずきんは刃を振り上げて一歩、一歩とまた進む。ただ、獣を殺す為に。
あの日、あの時。むごたらしく殺された両親の仇の為に。その悪夢を、二度とよみがえらせない為に。
――親を守ることすら出来なかった、愚かだった、己を殺す為に。
今再び、紅ずきんは刃を握り締めた。
「何だ……? さっきから、動きが妙だな」
傷だらけの体で、猟師が呟いた。手に持った頑丈なはずの大鉈も随分刃こぼれが目立ち、帽子も何処かへと飛んでいってしまっているようだ。
他の狩人達も、多かれ少なかれ怪我を負っている。特に酷いのは、猟師と並んで前に立って、攻撃を受け続けていたソリッテだ。既に千切れた右腕を再生した影響か、彼の顔色は特に青白く、立っているのがやっとな状態にも見えた。
猟師の言葉に、シャナルが力なく頷いた。
獣の力は圧倒的であり、先ほどまでの調子であったなら、狩人達が蹂躙されていた事は間違いない。
その獣――仮に、夜なる獣と呼ぶ。
夜なる獣は、八メートルを越す巨体で俊敏に動き回り、全方位を見通す力を持ち、高温の光線を放つ事が出来るようであった。二つの能力を持っているだけなら、前例はあった。それだけなら、"夜狩り"の二人が居る以上、何とかなら無い事はない。
だが、それだけではなかった。両腕に電気を纏い、必死でつけた傷を一瞬の内に治してしまう再生能力をも使っている姿が確認されたのだ。影――すなわち、平面への――擬態能力も含め、歴史上存在しなかった数の能力を持った聖人食らいである。
それに加えて、紅ずきんが呑み込まれて十分前後してから、急に動きがよくなり始めたのだ。まるで、動きを覚えているかのように見切りだしたのである。それらの急な動きの変化に対応し切れなかったシャンダンテが、壁面に叩きつけられてダメージを負っていた。
しかし、先ほどからその動きに冴えが無くなり始め、急にもだえ苦しみ出したのである。時折、苦しみ暴れるときの余波の様な破片が飛んでくる事はあったが、それだけだった。
明らかに攻撃の意図を含まない、ただの苦しみだ。猟師の近くに無数の傷を受けたサワタリが跳んで来て、口元の布をずらして発言した。
「そうだな。先ほどから、暴れているばかりだ。奇怪な光も放ってこない。なにやら、苦しんでいる様子だが……」
そこまで言って、サワタリははたと思う。獣が苦しむともなれば、獣をも殺しうる酸などの激毒によるものか、さもなくば怪我の激痛からだ。
劇毒を扱う類の狩人は今ここにいない。せいぜいが紅ずきんが食われたときも道連れにしてやると腰に結わえつけていた程度であり、腹の中でその袋が溶けたのだとしても、これほど巨大な獣には少なすぎる毒だろう。
となれば怪我の痛みからという線がが、そちらもありえない。それは、怪我らしい怪我をつける事が出来ていないからだ。かすり傷をつける事は出来ても、すぐに直されてしまう。
だが、事実として獣は苦しんでいる。となれば、見えないところでの影響だろうか。五人の狩人は、じっと息を潜めてその様子を見ていた。猟師はソリッテを助け起こし、瓦礫の飛んで来ない範囲まで歩きながら、獣を眺めていた。
夜を切り取ったかのような漆黒の毛皮が、獣が苦しむ度、大きく脈動している様に見えた。苦しみぬいた末に、何度も建物に体を叩きつけていた獣は、のけぞった様な体制で制止する。
しばしの間、無音の風が吹く。
ドグン、と音が鳴って、獣の腹部から銀色の煌きが一本、飛び出した。
その煌きを、猟師は良く知っていた。何時も横で、的確に振るわれるそれに、何度も助けられてきたからだ。獣の体を内側から突き抜けた刃の奥に、彼が知る少女の姿があるのは間違いない。呆然とした様子で、猟師はその名を呼んだ。
「――紅ずきん!」
喉が張り裂けんばかりの叫びに、刃が一瞬震えたように見えた。
瞬間、刃が閃いて獣の腹部を内側より切り刻んだ。一瞬にして切り開かれた腹を、獣は咄嗟に腕で押さえつけた。
「ど、けえええ!」
猟師が跳ぶ。満身創痍の体を酷使して、高く高く跳んだ。手には大鉈と、手持ち砲があった。
彼は獣の手に着地すると同時、その腕と腹部の間に砲をねじ込んで発砲。轟音と共に、獣の手が僅かに腹部から離れる。いかな獣とて、戦艦に搭載するはずの大砲には適わなかった。
その一瞬の隙を逃さず、猟師は獣の腹の前まで躍り出る。そして、その手に持った大鉈を、全身全霊で持って叩き付けた。切り刻まれ、もろくなっていた腹部は、強烈な一撃によってとうとう崩壊を迎えた。バラバラと、獣の血肉が破片となって飛び散る。
猟師は、疲労で今にも気絶しそうな頭を働かせて、その破片の奥へと手を突っ込んだ。
すぐさま、確かに握り返す感触を得て、彼は一も二も無くそれを引き抜く。と同時に、獣を蹴り飛ばして後方へと跳躍する。
男は、自分の腕の中で、何時もの様に不敵な笑みを浮かべた少女が見えた。
「……よぉ。ひでえ有様じゃねえか、なぁ?」
獣の血に塗れて、真紅に染まった少女は笑う。そんな、自分の相棒の相変わらずの姿に、猟師は思わず苦笑した。




