サファイアの誘惑 6
「やっぱり見立て通り!とてもお綺麗よ、リビー様!」
マリア様が私に着せた黄色いドレスは、着てみると想像以上に可憐で清楚で、それでいて優雅だった。それにマリア様が施してくれた化粧は、私をとても大人っぽく見せてくれた。髪を結い上げるのはとても久しぶりで、うなじを人に見られるのが何だか恥ずかしい。肩が大きく開いたこのドレスも、似合っているのかわからない。だけど鏡の中の私はいつもよりご機嫌そうに見えた。
これで隣にローエンがいれば、一番良かったのだけど。
「マリアお姉さま、これで良いでしょうか?なんだか背中が…」
「それくらいで良いのですよ!貴女は背中が綺麗なんだから、見せないと!」
ルース様のドレスは、ルース様が思っていたより背中がばっくりと開いていた。確かに背中が綺麗なルース様は見事に着こなしている。
「気になるならサミュエルに背中を隠して、って言えば良いのです」
ルース様の顔は頬紅を顔じゅうに塗したように紅潮した。
5年ぶりに王城にやって来た。門番は、マリア様の顔を見ると招待状なんか無しで入れてくれた。私のことも。エスコートのいない3人は当然注目を集めた。マリア様は堂々としていて、エスコートがいないことなど気にしてもいなかった。マリア様の隣を歩きながら、久しぶりの感覚に胸が高鳴るのを感じる。
忘れていた、王女の時の、高揚感が。
綺麗なドレス、煌びやかなシャンデリアの光、ヒールの高い靴、胸元で輝くトパーズ。
「きょろきょろしては駄目です、リビー様。堂々となさって。それから、ローエン様が居ても反応しては駄目」
「どうしてです?」
「ローエン様から謝ってくるまで、待つのです」
マリア様に囁かれて、私は仕方なく前を向いた。
その瞬間、視界の端にローエンの姿が見えた。ローエンは私を見ていた。どきりと心臓が一瞬、張り裂けそうなほど強く鼓動した。ローエンと話したい。ローエンに隣にいてほしい。でも私は、私たちは、…喧嘩中だ。しかも家出中だ。
マリア様が立ち止まったので、私とルース様も止まった。止まった瞬間に、私たちは同年代の紳士に囲まれた。ルース様だけは、マリア様に背中を押されてこっそり外へ出て行く。マリア様は群がる紳士達を上手にあしらっていた。私はというと。
「踊りましょう、レディ」
「お飲み物はいかがです」
「お名前は何と」
男達の質問に、どう反応すれば良いのか分からず、首を傾げるばかりだった。
王女の時はこんな風に囲まれる前にローエンが助けてくれていたから、こういう時にどうあしらえばいいのか…
そうしていると、私にダンスをと誘っていた紳士が強引に私の肩を抱いた。
ぞっと背筋が凍る。ローエン以外の人が私に触れるのは、おぞましいとすら思った。
そして私は気が付く。私がローエンに他の妻を勧めたとき、ローエンはこんな気持ちだったのだろうかと。ローエン以外を愛せるはずもないのに。なのに私は、ローエンに私以外の誰かを愛するように、そう言った。なんて残酷なことだったのだろう。私は…なんと、浅はかだったのだろう。
一歩踏み出されそうになった瞬間に、その手が振り払われる。代わりに誰かの腕が私の腰を抱いた。
「…失礼、僕の妻に何かご用でも?」
ローエンの腕だった。ローエンは不機嫌そうに眉を寄せていた。男達はローエンの昏い瞳にじろりと睨まれると、「いや君の妻だとは思わなくて」「お綺麗な人だね」「また別の機会に」と言ってそそくさと消えた。
ローエンから謝ってくるまでは、黙っていないと。
マリア様に言われた通り、私は暫し沈黙した。どちらにせよ、何を言えばいいのか、分からなかった。今更距離感が掴めなくて、戸惑ってしまう。それにローエンも、苛立っているように見えた。
沈黙に耐えられなくなって、私は控えめに提案した。
「取り敢えず今は、喧嘩のことは置いておいて…女の方から誘うのは変かもしれないけど、良ければ私と、踊らない?」
舞踏会なのだから。
それに私は、ローエンと…踊りたかった。夢だった。
「…偶には僕から誘わせて」
その言葉は私にとっては嬉しいものだった。
昔の私とローエンはと言えば、舞踏会で私が「踊るわよ」と言って、ローエンが渋々「…殿下がそうしたいなら」と返してくるのがお決まりだったからだ。ローエンから誘ってもらえるなんて、思いもしなかった。
ローエンは私の指に口付け、微笑みかける。それだけで頬が熱くなるのを感じた。
「踊っていただけますか、美しい人」
心臓が痛いくらいに鼓動する。ローエンにそう言われると、他の誰に誘われるよりも嬉しかった。死ななくて本当に良かったと、そう思った。
「勿論よ!」
だからとびきりの笑顔で応えた。ダンスフロアに2人で移動すると、途中で顔色の冴えないミッシェル様に出会った。化粧っ気がなく、髪も適当に纏められただけのように見えた。
「リビー様…?」
ミッシェル様は憔悴した声色で私の名を呼んで、それからローエンを見た。
「ミッシェル様、黙っていてごめんなさい。私がローエン・カドガンの妻の…リビー・カドガンなのです」
「……そ、そう、だったのね。…………ごめんなさい」
ミッシェル様はそう力なく言うと、ふらりと歩き始めた。ミッシェル様はとてもローズとは思えないような、古臭いライムグリーンのドレスの裾を揺らして庭に向かう。ローエンがその瞬間に手を伸ばして、ミッシェル様の華奢な手を掴んだ。
「ミッシェル嬢、マリア嬢に相談を」
「もう、無理だわ。何もかも遅い」
「ミッシェル嬢」
「貴方には分からないわよ!」
ミッシェル様はそう叫んで、ローエンの手を振りほどいて走って行った。
私がぽかんとその後ろ姿を眺めていると、ローエンがこほんと軽く咳払いをした。
「…ミッシェル嬢は知っているよね」
「勿論」
色んな意味で。気まずそうに目をそらす。
「…何て言えば良いかな。…平たく言えば彼女は、売れていない。…ローズの地位を落としたと言われ、ミッシェル嬢は窮地に陥っている。…助けられるのはマリア嬢だけ、だと思うのだけど」
「マリア様はローズヒルズ家の方だから、当然助けてくださる、でしょう?」
「もう違う。…マリア嬢はローズヒルズ家に絶縁された」
「な、」
絶縁は、重い言葉だ。
マリア様は明るくて一度も気付かなかったけれど、家族に絶縁をされてしまっていたらしい。だから「嫌われているから」と言っていた、のか。今更にその事情を理解して、それでもあそこに連れて行ってくれたマリア様に感謝した。
「…これでも僕は本気で心配しているんだ。…あの子、思い詰めすぎて死にかねない。…それが変に彼女を誤解させたかもしれないけれど」
「ローエン」
「…でも彼女を妻にする気はないから安心してほしい。…僕にはリビーしか、いない」
今更、疑ってもない。
私はローエンに微笑んでみせた。
ダンスフロアでは既に何人ものカップルがロマンチックなワルツに身を委ねていた。
その中に、一際目立つ組みがあった。というか誰もがそのペアを避けて踊っていた。どう見てもそれは女王陛下、そのひとだった。私は怖くなって足を止めてしまった。陛下に、帰れと言われたら。どうして呼んでもいないのに来たのかと言われたら。…心臓が凍り付いてしまう。
「…ああ、見つかってしまったな」
陛下が私とローエンを見つけて、ダンスを途中で切り上げてこちらへやって来た。ローエンは諦めたようにため息を吐き出す。
「ローエン!やっと来たな。それにリビエラも一緒か」
「…だからリビーだと何回言えば分かるんです」
陛下は嬉しそうに笑顔を零した。私は、一歩下がる。陛下は逆に私に一歩近づいた。恐ろしくて、私は冷や汗が背筋を滑り降りていくのを感じた。女王のくちなしの香水の甘やかな香りが、ふわりと香る。陛下はまた一歩私に近付いて、手を伸ばした。
「会えて嬉しい!」
陛下は、私に飛び付いた。私が何が何だか分からなくて目を白黒させていると、ローエンが無表情のまま私と陛下を強引に引き剥がした。
「お、お会いできて、こ、光栄…です」
何とかその言葉を紡ぐと、陛下は眦を下げて笑った。
「私のほうこそ、やっと来てくれて本当に嬉しい」
「やっと…?」
「5年間ずっと招待状を出していたのに、ずっと来てくれなかった」
陛下は拗ねたように唇を尖らせ、ローエンは居心地が悪そうに目を逸らした。
「後で会おう。謁見の間はどうだ?」
「お断りします」
「じゃあここから離れない」
「…1時間後に陛下の執務室に伺います」
「勿論リビエラも一緒だからな」
陛下はにっこり笑って、男性の手を取ってまたダンスフロアに戻って行った。
「…あれは陛下の愛人」
「愛人…」
金髪の見目麗しい青年は、陛下とはまさにお似合いだった。くるくると楽しそうに踊る2人を見ているとうずうずしてくる。私はローエンの手を引いて、ダンスフロアに入った。ローエンは小さく笑って、私をリードし始める。
「リビー、踊ろう」
「喜んで」
ロマンチックなワルツに身をまかせると、昔に戻ったようだった。私が長く求めていたものだった。騒がしいフロア、光るシャンデリア、重く美しいドレス、ダンスに音楽。何もかも、楽しくて仕方ない。何もかもが懐かしい。隣には楽しそうに微笑むローエン。なんて素晴らしい時間なの。
これこそ私が求めていたもの。
2曲ほど踊って、私たちはカンテラの灯りがロマンチックな庭に出た。入れ替わりでサミュエル様と仲直りしたらしいルース様が気恥ずかしそうにフロアへ戻っていく。目があって、お互いに小さく会釈した。ローエンはすれ違いざまにサミュエル様の肩を軽く叩く。
「…はい、踊り疲れたでしょう」
東屋のベンチに腰掛けると、ローエンは一旦中に戻って、直ぐに外に出てきた。私に飲み物を手渡し、私の隣に浅く腰掛ける。
「ありがとう」
受け取ったグラスを揺らすと、中の薄桃色の液体が、かすかに桃の香りを放って揺れた。アルコールの香りはしない。安心して口をつける。
「…その」
グラスの半分ほどを飲み干すと、ローエンは遠慮したように言った。昏い瞳が揺らいでいるように見える。私がじっと見つめると、ローエンもこちらを伺うように目を上げた。
「…リビーの言う通りだったと、思う」
「私の?」
「…僕は傲慢だ。君を支配しようと、していた。閉じ込めておけば安心だと、思っていた。…昔牢獄に閉じ込めたように…足が動かなければ良いと、酷いことを言ったのと同じように」
ローエンは眉を下げてそう言った。
「あの時散々反省した、同じことはしないと思っていたけれど…そうじゃなかったらしい。僕は事ある毎に君に対して間違いを犯してばかりいる。…ナタリーのこと、とか。…極め付けに、僕は未だに君を、窮屈に縛りつけようとしていた。…守るという大義名分を掲げて、やっていたことは昔と何も変わらない」
正直言って、私は驚いた。
ローエンがここまで考えを改めたとは、ここまで折れたとは、思いもしなかったから。話し合いをすれば、また大喧嘩になると…そう思っていた。
「…この5年間のことは、本当に申し訳なかった。…許してくれるなら、側にいても良いなら、どんなことでも君の望む通りに、する」
「許さないわよ」
私が意地悪くそう言うと、ローエンは息を詰まらせた。
この5年、私の体調やその他諸々を黙っていたことは絶対に許さない。私への侮辱もいいところだ。
ローエンはぎゅっと眉を寄せて、1度瞬きをしすると、私に向かって苦しそうに微笑んで言った。無理しているのがよくわかる微笑みだった。
「…分かった。…離婚の手続きは全部僕がする。…離婚したからといって君への支援を惜しむつもりはないから、あの屋敷も人員も好きに使ってくれ。…金銭面は僕がどうにでもする。…僕は他に家を借りるし、君の目の前には2度と現れない。…それで、いいかな」
「ローエン、まだ分かっていないのね」
私が求めているのは、謝罪でも、離婚でもない。離婚なんて以ての外だ。どうして離婚なんて思ったのだろう。許さない、という言葉が、ローエンには嫌いという言葉に変換されたのだろうか。…でも、ローエンが私の反応に思い詰めていたのは理解した。家出は相当効いたらしい。
「私が不満なのは、ローエンがなんでも1人で決めてしまうこと。今の離婚話だって、勝手に決めたわ。関係修復のチャンスすらくれない。それに今度は全部私の言う通りにする、ですって?そんなの私は望まないわ、私が色々1人で決められるわけがないもの」
「…」
「私が欲しいのは、2人で話し合いをして、決断する仕組み。離婚でも、単独の決定権でもないわ。ただ話し合いがしたいの。除け者にされたくないの」
一緒に決めたいだけ。全部共有して、分かち合いたいだけ。夫婦なのだから、一方的に与えられるだけの関係でいたくないだけ。ローエンに寄りかかって生きるより、隣で自分の足でしっかり立っていたい、それだけ。
「…リビー、僕のこと、嫌いになったわけじゃ、ないの?」
「どうして嫌いになるの?私、ローエンが私を好きでいてくれた期間よりもずっと長い間、貴方のこと大好きだったのよ。貴方が私を想うよりずっと好きの度合いは大きいわよ、多分。そんなに簡単に嫌いになったり、離れたいなんて思うわけがないじゃない」
「…僕の他に良い人ができる、とか。…僕が他に妻を娶っても、気にならない、とか」
そんなこと、あるわけがない。ローエンの今にも泣きそうな顔は、初めて見た。いつもすましているから、こんなに辛そうなのは初めて。私がローエンを捨てると思って、苦しんでいる。
「その件は、間違いなく私が悪かったわ。貴方を手放す気も、1番を譲る気もないのに馬鹿なことを言ったわ」
ローエンの中では、私が別の妻を勧めたのは、きっと私も他の可能性を探していると思ったからだろう。そんな気は、ない。ローエン以外の誰か、なんて、考えられるわけがない。
「ごめんなさい」
頭を下げる。3秒心の中で数えて、頭をあげると、ローエンは後ろを向いていた。肩が小さく震えている。
「…もしかして、泣いてる?」
「泣いてない。…けど、情けない顔をしているからこっちを見ないで」
ローエンは何度か深呼吸して、こちらを向いた。うん、泣いてなかった。泣く一歩手前くらいだった。
「…そう言われて、安心した。…僕のことを他の誰かに譲る程度の気持ちになってしまったのかと、」
「貴方のことを小さい頃からずうっと欲しがって、やっと手に入れたのに、そう簡単に人にあげるつもりはないわ」
「…ありがとう。…僕はその件でもう全然怒っていないし、今はただ嬉しい。…でも、僕のしたことは、やっぱり許さないでいて」
さっき許して欲しいと言った言葉をローエンはあっさり撤回した。
そ、れって。私と、離婚したい、って、こと?
急に目の前が真っ暗になる。
許さないといえば、ローエンは離婚を提案した。許すかどうかはそれくらい重い価値判断だった。なのに、ローエンは、許すなと。急に喉がからからになって、舌がもつれて上手く言葉が出ない。脳がフリーズして、心臓がぎゅっと絞られるような感覚。嫌だ、って言いたいのに、呼吸もできない。
そんな私を見て、ローエンは慌てて言った。
「…いつも僕は言葉選びが下手だね。…僕は馬鹿だから、反省したと言えばそれで満足してしまうし、リビーがここでいつものように笑って許してくれると、この件を忘れてきっとまたどこかで同じことをする。…だから許さないでいて。絶対に許さないと、覚えていて。…そうすればきっと僕は、君を失うのが怖くて、同じことはしないと思うから」
「離婚、したいわけ、ではないのよね」
ローエンは首を振った。
「…君が、僕のことが嫌いになって、どうしても一緒にはいられない、と言わない限りは。…居ても良いって思ってくれるなら、間違いなく死が2人を分かつまで側にいるし、来世でも追いかける」
「それじゃ、私たちは永遠に一緒だわ」
私たちはお互いに、歪みあっている。相手を思うあまり、ねじ曲がってしまっている。私にローエンしか見えないように、ローエンにも私しか見えない。別の人を妻に、夫に、なんて土台無理な話なのだ。
「わたし、永遠に貴方がしたことを許さないわよ。それでもいいの?」
「…それでも側にいてもいいなら」
「側にいてほしいわ!当たり前よ!」
もう、離れたくない。もう2度と。
私がローエンに飛びつくと、ローエンは鼻をすすった。やっぱり泣いてるじゃない、強がりめ。とはいえ私の方も涙腺が緩みに緩んで、化粧をきれいさっぱり落とすくらい泣いた。泣いたらすっきりした。
「…これからは、なんでも2人で決めよう。…なんでも話すようにする」
「私からも積極的に聞くようにすると、話しやすいわよね」
「…そうしてくれると、嬉しい。リビー、本当に、今までごめんね」
2人で指切りをして、笑い合うと、元の夫婦にやっと戻れた気がした。元の夫婦よりも、ずっと良い関係になれば良い。そうならねばならない。
リビエラからの言葉が1番効くローエンでした。
まだもうちょい続きます!




