サファイアの誘惑 3
「夢は見なかった?」
「ええ、見なかったわ」
眠らなかったせいだけど。
朝日がさすとローエンは起きあがって私を覗き込み、優しく言った。
「…1人で寝てはいけないよ。…どうしても僕と寝るのが嫌ならせめて、エリザと一緒にいて。…それから蝋燭の火も絶やさないで」
「どうして?」
「それは、僕が、その、心配するから」
「何故心配なの?それだとまるで、私が魘されるのを見透かしているようだわ」
ローエンは明後日の方向に目を泳がせた。ローエンにしては珍しく歯切れの悪い言葉。それはまるで、私が昨日のように魘されているのを頻繁に目にしているかのようだった。ローエンは、確かにそう。確かに蝋燭の灯りを眠る時もずっとつけたままにしていた。少なくとも私が眠るまでは。それにカーテンも私が起きるよりずっと早く開いて朝日をわざと差し込ませていた。
つまり、ローエンは、ずっと私が魘されているのを、知っていた…?
「どうして教えてくれなかったの」
「…夜中に泣き叫ぶことを?…記憶にないのなら態々思い出すことは、ないでしょ」
「そう、私は、泣き叫ぶのね。毎日あの夢を見ているのね」
「…リビエラ」
「いつも朝になると喉が痛いのも、身体の筋肉痛が取れないのも、ぐっすり眠っているはずなのに疲れが取れていないのも。私はずっと、私の何が悪いのかを悩んでいたわ」
「…君の為を思って隠していたんだ」
「私の為?お優しいことね、私の旦那様は。ローエンには分からないわよね」
どうして、どうして。ローエンはいつも何も、言ってくれないの。
私はそんなに頼りないのか。私は、そんなに、役に立たない、のか。私の身体のことすら教えてくれないのに、マリア様とのことなんて教えてくれるはずがなかった。いっそ私がマリア様のように強くて美しければ良かったのに。ローエンの隣に立っても釣り合う人になれれば良かったのに。
「…僕はただ」
「私がマリア様だったら良かったのに。ローエンだってマリア様になら何でも言えるんでしょう、舞踏会にもお連れするのでしょう」
「…今、マリア嬢は関係ない話だと思うけど」
「いいえ、いいえ!貴女が私を公に妻として扱わないのが不満なの、私に隠し事ばかりする貴方が分からないの、私よりマリア様のほうがずっと貴方の妻らしくて怖いの、なにより頼りなくて役に立たない私が一番嫌なの!」
ローエンは驚いたように目を見開いて、続く言葉を探していた。何一つ否定しようとはしなかった。ローエンにとってマリア様が妻のようになっていることも、私が役に立たないことも。
何もかも、真実。私はローエンに全く釣り合っていない。私は、ローエンに相応しくない。マリア様の方が余程似合っている。マリア様どころか、あのミッシェル様の方が。
「ミッシェル・ローズヒルズ様が貴方の妻の座を狙っているそうよ。良かったわね。マリア様には…夫がいらっしゃるから。ミッシェル様は夫を探しているわ」
「…今度は突然何?…またその話?」
でも私はあまりに相応しくないから。
私に子供が出来ないのも、人前に出せないのも。ミッシェル様なら解決できてしまう。妻らしく振舞ってくれる。
ローエンは不機嫌そうに眉を顰めた。
「…君が身体のことや子供のことで思い詰めているのに気付かなかったのは僕が悪い。…それに、君に不必要な情報を教えなかったことも。それは、謝る」
「不必要な情報、ですって?自分のことなのに?」
「…君をただ苦しめるだけの情報を、どうして知る必要がある?」
「それは傲慢よ!」
「…傲慢?」
私が眉を釣り上げると、ローエンも静かに憤った。
ローエンは傲慢だ。ローエンの私への想いは純粋なものではない。いい加減それは理解している。私だって普通じゃないかもしれないけれど、ローエンの私への行いは、私のそれを遥かに超えている。私を傷付けないためとはいえ、世間から完璧に隔離して、私に教えたくないようなこと全てを黙って、何も教えてくれないのは、違う。納得できない。
「…決して君を傷つけるつもりはないことを最初に断っておく。…でも僕の方も我慢ならない。…僕は君に何でもする。…君が夜中に泣き叫ぶのも、子供ができないのも、直ぐに体調を崩すのも、それは僕の所為で、僕の咎だ」
ローエンは、低い声でそう言った。
「僕は残りの生涯全て君のために生きると誓っている。君のためになることは何一つとして惜しむつもりもない。…これは傲慢?」
「それは、」
それは、きっと嬉しいことではあるのだけれど。守ってもらっているのに我儘を言うのはおかしいかもしれないけれど。だけど、その守りはローエンのエゴでしかない。私の意思はどこにあるのか。ローエンの傲慢な優しさの押し付けには、もう。
「貴方にそこまで守ってほしいなんて、お願いしていないわ」
「…僕が君を守らなければ、誰が君を守れるというの」
「守ってほしいわけじゃないわ。1人でも平気だし、貴方の隣に立っていたいの。わからない?」
「…平気?…一体どこが?…魘されて過呼吸まで起こしていたくせに」
言い返せない。確かに私は1人では生きていけない。ローエンに捨てられて、ここから追い出されたらもう死ぬしかない。でもローエンが守ってくれるまま、何も知らずに生きていくこともできない。
「夫婦だから何でも話し合いましょうって、前に約束したわよね」
「…言った。…僕はその約束を守れていないね」
「守るつもりもなかったでしょう」
「…………………そうだね」
ローエンは、渋々認めた。私との約束の、なんと意味のないことか。私は肩を落として、小さく深呼吸した。息を吐けば、胸のもやもやが、少しは晴れるかと思ったからだった。だけど、あまり意味があるとは思えなかった。
「教えて、ローエン。今また約束しましょうと言っても、貴方は私には何も教えてくれない?」
「…そもそも約束、できない。僕はどうしても君が傷付くような事は言えないし、知らなくて良いことだと思う」
「私がどうしても知りたいと言っても、それは変わらない?」
ローエンは押し黙った。沈黙は、肯定だ。
ローエンのスタンスは変わらない。今まで通り、私を守るつもりなのだ。何からも。そうして私はますます社会から隔絶されていく。そうされれば、私はきっともうローエンを信じられない。こんなの夫婦じゃない。マリア様に言われた通り、私はローエンという飼い主に飼われるペットだ。夫婦ではなくて、飼い主とペット。そんな関係は、今は望んでいない。
「…僕はもう行く」
「まだ話し合いの最中よ」
「…君を養うために働きに出るのだけど」
ローエンは立ち上がって、私を冷たく睨んだ。そう言われると、私は何も言えない。
「なら帰ってきてから話し合いをしましょう」
「…そうだね」
ローエンは歩きながら小さくそう言って、振り返りもしなかった。
夜までぼうっと、何を話し合うか悩んでいたのに、それは唐突に無意味になった。
「旦那様は今日は仕事が立て込んでいるため、城にお泊りになるそうです」
「そう…」
ローエンは、帰ってこないらしい。話し合い放棄のためなのか、本当に仕事が忙しいのか。
執事に言われた言葉に不満そうな顔を浮かべると、執事の方も残念そうな顔をした。
「何か伝言でも」
「良いわ、大丈夫」
ローエンが私に怒っているなら、きっと何を言っても無駄だ。帰ってくるのを待とう。
執事が肩を落として部屋から出て行くのを見送った。味気ない食事を胃に入れながら、時間が過ぎるのを、ため息をつきながら眺めた。
「ちょ、マリア様!困ります。旦那様が不在ですから…」
「知ってます。知ってて来ました。リビー様はどちらにいらっしゃるかしら!」
夕食を終えて、部屋に戻ろうとしていた所で玄関が騒がしくなった。執事が止めようとしていたが、マリア様が振り切ったらしい。マリア様は私の名前を何度か呼んだ。
正直気が重い。今会いたい、とは思えない。とりあえず私が出てお帰り願おう。
「私はここです」
廊下を大股で歩くマリア様に声をかける。マリア様は笑顔で私に駆け寄った。
「リビー様!今すぐここから出ましょう!」
「………へ?」
マリア様は私の両手を掴んでそう言った。私が目を丸くすると、マリア様は大きな声を出した。
「エリザさん!荷物は用意できました?」
「はい、マリア様」
私が何かを言う前にエリザが出て来て、大荷物を抱えていた。わからない、本当に、わからない。私の目の前で一体何が起こっているの?
執事も戸惑っていた。
「え、エリザ?どういうこと?」
「リビー様、家出しましょう」
「い、家出…?」
エリザは強く頷いた。
「このまま家にいても、旦那様は折れません。リビー様が出て行けば旦那様も頭が冷えるはずです」
「でも、ローエンが心配してしまうわ…」
「心配させるために出るんです!リビー様、もうこれ以上私は我慢なりません!」
「え、エリザ…」
「ローエン様はリビー様を守るためと言って、何もお伝えしないし、私にも、外のことやローエン様のことは何もかも絶対に黙っているように言います。リビー様が怒るのも当然のこと!」
「そ、そうね」
私がたじろいで一歩後退するも、エリザは引かなかった。
「リビー様が…自分が魘されていることに気付いたなら余計にもう黙っていられません!治療を受けるべきです!」
「治療を受ければ治るの?」
治せるものなの?普通に戻れるの?
治せるものなら、もちろん治したい。あんな夢をもう二度と見たくない。普通の体を、取り戻したい。
「何もしなければ治りませんし、何かすれば治るかもしれません。確約は致しかねます」
マリア様が答えた。少なくとも、ここでローエンに甘やかされているようでは治らないと、そう言われている気がした。
「ローズヒルズへ行きましょう。薬の産地ですから。もしかしたら、ローズヒルズにはリビー様に合う薬があるかもしれません。リビー様の症状を癒せる医者がいるかも、しれません」
「ローズヒルズ…遠いですね」
「汽車で1時間程度です。大丈夫、すぐに着きますから」
でも、私からローエンとの話し合いを拒否するのは、なんだか違う気がする。私が困っていると、エリザが一通の手紙を渡してきた。
「これは?」
「再来月のアルノルト夫妻の結婚式の招待状です」
「ステラさんの?いつ届いたの?」
「もう2ヶ月も前です。旦那様はリビー様に内緒で不参加で届けを出してしまいました」
「行きたいけれど、ステラさんの式なら遠いラガソール国でしょう?行けないと判断するのも無理はないわ」
「と思うでしょう?ご覧ください」
招待状を捲り、中を確認する。
式場は、この国の、それも王都の、それも我が家から比較的近いところだった。マリア様のお屋敷に行くより近い。
「何故、ローエンは断ったの」
「リビー様を外に出せないと」
「…私、こんなに近くで式を挙げるなら何が何でも参列したかったわ。ローエンも知っていたはずよ」
こんなに近くで結婚式をするのに祝福するチャンスすら、与えられないというの?どうして相談もしてくれないの?
静かに怒ると、エリザは私の手を握った。
「家出をしましょう、リビー様。それに、治療も。今のリビー様にはそれが必要です」
「ええ、そうしましょう。マリア様、お世話になります」
頭を下げると、マリア様は強く頷いた。
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ことリビエラに関してだけは、僕は子供よりも子供らしくなる。
リビエラに反抗されて、狭量な僕はかなり苛立った。リビエラのためを思ってしていたことを否定されると無性に腹が立った。僕だって完璧ではない。
「…で、何か言うことは?」
仕事が立て込んでいた。戦争が終息してすぐのラガソールとの和平条約はこんがらがったまま、ややこしい会議がずっと続いている。ステラさんとの結婚にうつつを抜かしたアルノルトのせいだ。内部の調整を任せているのにこれではラチがあかない。このままだと僕が遠いラガソールに出張させられる。どうしてもリビエラから離れたくないから、そうならないように根回しと書類仕事を可能な限り詰めた。結局その日は屋敷に帰れなかったし、翌日も夜中まで仕事は終わらなかった。
ふらふらの状態で、これからリビエラと実にならない話し合いをするのかと思うと頭痛がしてきた。しかし、帰宅すると居心地の悪そうな執事がひとり。
執事は非常に申し訳なさそうに、リビエラが家出したと申告した。僕は痛むこめかみを揉みながら冷静に言った。
「マリア嬢に連れ去られたんでしょ、どうせ。エリザがマリア嬢に手紙を出して何かしていたのはもう知っているし」
「リビー様ご自身の意思で出て行かれました」
「…執事のくせに止めなかったの?」
僕が睨むと執事は冷や汗を垂らした。
「…もういい。迎えに行ってくる。馬車を用意して」
「それが、マリア様のお屋敷には行っていないようで…居場所が」
「…居場所を言わずに出て行ったの?」
「まあ…その…はい」
怒鳴らないように歯を食いしばりながら、僕はゆっくり拳を握った。
「マリア嬢の領地のラインラルドか、マリア嬢があり得ないほど持っている王都の屋敷のどこかか。…サミュエルの家の可能性もある。他は…陛下を通して何処かに雲隠れか。僕はラインラルドだと思うけど、どう思う?」
「おそらく旦那様がすぐに気付くような場所には行かないかと」
「……………………………城に戻る」
城でマリア嬢の夫に聞く。他に方法が思いつかない。
「あの…一応リビー様から伝言が」
「何」
僕が不機嫌丸出しで聞き返すと、執事の冷や汗がまただらりと垂れた。
「暫くお互いに頭を冷やしましょう、と…」
「僕は冷静だ!」
思わず怒鳴ると、さすがの執事も「どこがだ」と言いたげな顔になった。我ながら情けなくて、それでも怒りの矛先をどこに向ければいいか分からず、執事に背を向けて玄関の扉に手をかけた。
「…怒鳴って済まない。…とにかく僕は城に戻る。…リビエラが帰ってきたらすぐに知らせて」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
執事はいつものように腰を折って僕を見送った。
執事はもちろんリビエラ・エリザ・マリアから固く口止めされています。カドガン家は基本的にローエンの意見<リビエラの意見。




