morning moon
あれ?
社長どこいった。……また逃げられた。
何度目の朝だとか。
見上げる青空に浮かぶ白い月を見てつくため息の数とか。
もう数えるのも面倒なくらいには過ごした、慣れてすらしまったいつもの朝。
隣にはすやすやと眠る男が一人。
お互い裸で、ホテルのベッドの上となればやることはひとつだけど、この男は私の恋人ではない。
お酒の勢いで一晩を共にし、同じ会社に勤める同僚とわかってからずるずると続くこの関係は一体なんなのか。
ただわかるのは、この男には出世街道政略的見合いだとわかっている、明らかに金と権力目当ての女が好きだということ。
夜に置いていかれたあの月のように、私の心もどこかに置き去りのまま。
答えは出ないまま。
心だけが疲れはてて。
諦めて忘れることにした、勝手に決めた最後の夜だった。
「…………」
お腹に置かれた腕をそっとよけて、ベッドをおりる。
シャワールームに入ってお湯を出して浴びると、身支度を整えて部屋に戻った。
男のスマホにアラームをセットして枕元に置くと、その寝顔を眺めた。
男のくせに無駄にキレイな顔に腹が立ったのは大分前のこと。
女に不自由のなさげなこの男がどうして私に構うのかは未だに謎だ。
……謎は解けないままかもね。もうこんなことも終わるのだし。
結婚した男と不倫なんて御免だもの。
感傷なんてひたりたくはない。胸を占める想いを振り払うと寝たままの男を残して部屋を出た。
「二宮さん、この書類なんですけど」
「二宮さん、これデータが足りないみたいで」
「二宮経理から内線」
はいはい二宮一人しかいないからちょっと待って。
とりあえず内線に出ながら書類を確認してデータが入ってるUSBをパソコンに突っ込んで呼び出す。
「書類一枚抜けてるから探して? データ今そっち送ったから確認して印刷よろしく」
「二宮主任」
指示を出して部下を動かしていると後ろから声をかけられた。
「武藤、係長」
朝見た顔が笑ってこっちを見てた。
なんで販売促進部の係長がシステム管理部にいるのよ? 全然関係ないじゃない。
「……なにか?」
「俺のパソコン調子が悪くてね。データ保護のために他所に修理には出せないし、ちょっと見てもらえないかな?」
別件有りですと言わんばかりの態度に眉が寄る。
私が断るという判断はできないのかしないのか思わないのか。
「今、ですか」
「できれば。仕事押してるし」
「……わかりました」
エレベーターに乗り込んだ武藤がボタンを押すのを横目で見る。
正直二人きりなんて避けたいけれど、これは仕事と言い聞かせる。
さっさとパソコン見て終わらせればいいのよ。
「……朝はなんで起こしてくれなかった?」
……なのに、なんで踏み込んでくるのよ!?
「家に戻りたくて早く起きたから」
少しうつむいた私の顔を髪が隠した。
その髪を左手で耳にかけた武藤は右手で私のアゴをつかんだ。
「いつもならそれでも一声かけてくだろ?」
「アラームかけたじゃない」
なにが不満なのよ?
いいかけた言葉は武藤の唇に呑まれた。
いつ止まって開くかわからない密室でなにやってるのよ!?
遠慮無しに入ってくる舌は容赦無しに攻めてきて。
否応なしに下半身が反応する。
いやいやこんなとこでそんなことする奴にこの反応はないでしょうよ私!
「……は、なっ!」
離して。じゃないと膝から崩れ落ちる。力が入らなくなるから。
つかんでたスーツから手が離れたのに気づいた武藤の腕が私の腰を支える。
「……なん、で」
「それは俺の台詞だな」
「だっ、て……」
こんなとこ誰かに見られたら縁談に影響するんじゃないの?
なのになんで私を抱きしめたままなの。どうしたいのよ。
「だって?」
「…………」
「睦月?」
「……っ」
なんでそんな声で名前を呼ぶの? 甘くて優しい、その声に独占欲すら感じるなんて、瞳に熱情が見えるなんて、気のせいなのに。
「離して。誰かに見られたら勘違いされるわ。あなたの縁談にも響くでしょう?」
腕を伸ばして身体を押す。
「…………」
押すのに離れたいのに、なんでか更に力を込めて抱きしめられた。
苦しっ。なんなの、私を窒息させたいの!?
私の肩に埋まった武藤から吐き出されたのは長い長いため息。
「お前、あのウワサ信じたのか」
怒ったような呆れたような、笑いをこらえたような、そんな声に答える私は不思議顔で。
「ウワサ? 私は来年式を挙げるって聞いたわよ。相手の彼女だって何度も来社してはあなたに会ってたじゃない」
「確かに見合いはした。その場で断った。あれは諦めきれない相手の親子が流したウワサだろう。あの女は外堀固めにきてるだけだ」
……え?
断った?
あの女って……。
「……は?」
「だから、結婚はするつもりだがあの女じゃない」
「……え?」
「睦月、お前わざとボケてるのか?」
「なにを?」
さらにため息をつかれた。なんでよ。
ていうか、いい加減離してよ。
「……ここでヤるか」
「は?」
なにやら物騒なこと言ったわよこの人。
ぐっ、と隙間なく身体を密着させた武藤は笑ってるのに笑ってない黒い笑顔を見せた。
「ここでヤってるとこを誰かに見られてウワサになれば、お前は諦めて外堀埋められてくれるんだろう? 俺以外とは結婚できないような派手なウワサにしないとな?」
な、にを言ってるの?
「武藤、私と結婚するつもりなの?」
思わず聞いたらなぜか脱力された。
「お前俺をなんだと……」
「だって、そんなの聞いてないし……そもそも好きだとか言われてない、し」
呆れきった眼差しに尻すぼみになる言葉。
「どこの乙女だよ。そもそも好きじゃなきゃ抱かないだろうが」
「言われなきゃわかんないわよ! だから身体だけなんだろうって諦めて!」
諦めたけど、諦められなくてずるずる続けて。
「私は私だけが好きなんだって! だからっ……だか、ら」
「睦月」
優しくそっと包み込むように私を抱きしめた武藤は、頬を両手で撫でて。そして片膝をついた。
「武藤?」
私の左手を取った武藤は、真剣な表情で見上げてきた。
「睦月。誤解させて悪かった。ちゃんと言わなくてもわかると思ってた俺の言葉が足りなかった」
……謝罪? いや、なんとなく私が鈍いって言われてる気もする。
「最初の夜をお前は酔った勢いだと思ってたみたいだが、俺は酔ってなかった」
……ん? 私は酔ってたわよ? あなたが呑ませたんじゃないの。
「まぁ、うまく持ち帰りたかったし?」
……は?
「だから、俺は最初からお前を狙ってたんだよ」
「…………はぁ!?」
「一目惚れした」
どこに!?
「飾らずに歩いてたとこ? システム管理課ってよく徹夜組だったろ」
まぁ、バグを探して完徹なんてざらだったし。
「みんな眠そうな顔してたのに、お前だけシャキっとして歩いてたんだよ。だけどその後給湯室で立ったまま寝てただろ?」
……あれを見てたわけ!?
「なんかもうあのギャップにやられた。だからあの夜お前に逢ったのはもう後がないチャンスだと思って」
武藤の好みのツボがわからないわ。
「睦月が好きだよ」
「…………」
「二宮睦月さん。俺はあなたを愛してます。俺と結婚してください」
「………………」
「……睦月」
ずっと膝まづいていた武藤が、立ち上がって私の頬に触れた。
「泣いてないで、返事は?」
泣いてる? 私が?
言われてもわからないなんてそんなわけ……。
武藤が頬に口づけて初めて気づいた。
確かに私は泣いていた。悲しいわけじゃない。むしろ逆だと思う。
どこかに置き去りになっていた心が戻ってきたような。
ようやく身体と心が一つになったような。
「睦月? 簡単だろう、俺と結婚して? 俺のになって。俺以外の男を見ないで」
「む、と……」
「違うだろ? 名前で呼んで。で、返事」
名前、で? 名前、武藤の。
「巽。たつ、み」
「うん」
名前を呼んだだけなのに、巽は物凄く嬉しそうに満足そうに微笑んだ。
「俺と結婚するよな?」
今までの懇願はなんだったのってくらい上からの問いかけに。
思わず笑って。そしてうなずいた。
「……はい」
「っよし!」
「きゃぁっ!?」
ぎゅうっと私をき上げてくるくるまわった巽はここがエレベーターの中だということを忘れてるみたいだった。
そして私も忘れていた。
ここが勝手に動いて開く密室であるということを。
静かに開いた扉の向こう。
驚きに目を見張る社員達によってこの話がウワサとして駆け巡る前に。
私は問答無用で巽に連行され、入籍することになった。
もう一人で寂しく月を見上げなくてもいい。
隣のあなたの腕の中で、温もりに包まれて私は微睡む。
武藤は本人に気づかれてなかったことに気づかず外堀を必死に埋めてました。
鈍感乙女の睦月さんはこれからいやというほど溺愛されて過ごします。
ガンバレ。




