02.必死な人ほど無茶を言う
変わらず降り続く雨は外套のフードを被っていれば苦にならない程度の弱さで、ぬかるみも酷くなかった。薄暗い森の獣道をしばらく歩き、乗合馬車も通る道に出た。森はまだ抜けないが整備されている道路はありがたい。この道を進むと1時間ほどで目指すアタキヤの町に着く。
自然とでていた鼻歌が熱唱になる頃、カーブを曲がった目の前の光景に足と歌をピタリと止めた。馬と御者のいない幌馬車が道の真ん中で静かに佇んでいる。リーナは慌ててカーブの手前まで戻り身体を隠した。急にやってきた緊張感を深呼吸で落ち着かせ、そっと顔だけで様子を窺う。辺りに不審な人物や魔獣はいないようだ。しかし幌馬車は、御者が座る席の後ろが風雨を防ぐシートで覆われていて、幌の中がここからではわからない。
道の両側は大人の腰の高さほどある藪で覆われていて迂回して進むことは難しい。しかし戻って回り道をすれば約束の時間には間に合わない。結論からすると馬車の脇を通り抜けるしかなく、自然と眉間にしわが寄る。
外套の右ポケットから護身用の術符を取り出した。火炎、旋風、凍氷、幻霧、回復の5枚のうち、リーナは幻霧以外の術符を再びポケットにしまった。状況がわからない以上、何かあればこれで目をくらませてとにかく逃げる。
そう決心したものの、ふと左ポケットに手を入れた。滅多に使わない1枚を指先で確認する。リーナは深呼吸を一つして再び歩き始めた。
幻霧の術符はすぐに使えるよう両手で隠し持ちながら慎重に馬車の脇を抜ける。馬車の後方に差し掛かると一旦歩みを止めた。幌の後方はシートがかかっていなかった。顔だけでそっと中の様子を窺う。床に横たわる人とその左右に座る老婦人と幼い男の子が見えた。
緊張のせいか、逆に緊張が解けたせいか、身体がぐらついた。体勢を立て直そうとしたが上手くいかず、幌の前までよろよろと出てきてしまう。老婦人がこちらを振り向き、ばっちり目が合った。
「誰?!」
怯えと怒りが混ざったような鋭い声にリーナは降参して両手を上げ、ついでにフードを取った。
「と、通りすがりです! 怪しくないです!」
しかし老婦人はこちらを怪訝そうに見たまま沈黙している。その視線の先に右手に持ったままの術符があることに気付き、慌てる。
「あ、これは攻撃するためではなく何かあったら逃げ……ではなく護身のためというか――」
老婦人は説明の途中でこちらに四つん這いで向かってきた。元々四足歩行なのかと思うほど動きが俊敏だ。そして日に焼けて皺だらけの手を伸ばし外套の袖を力強く掴んだ。抵抗する間もなくリーナは幌の中に引きずり込まれてしまった。
「何が――」
あったのですか、と尋ねようとしたがすぐにリーナは口を結んだ。幌の中は血の臭いで充満していた。一瞬息ができず思わず顔をしかめる。
横たわっていたのは若い女性だった。赤く濡れた身体は微かに上下している。傍らで「お母さん」と繰り返し震える声で呟いている子供は10歳にも満たないぐらいだろうか。母親の手を握りしめる幼い顔は、まるで人形のように青白く無表情だ。
自分が母親を亡くした年齢よりも幼い少年にリーナは胸が痛む。しかし感傷に浸る前に再び老婦人が腕を引っ張った。
「これ、何だっけ? これ。ほら――ほら、あれよ、あれ。あーもう、年取ると忘れっぽくて嫌ねぇ。ほら、誰でも簡単に魔術が使えるっていう紙でしょ?」
老婦人は術符を手にしているリーナの腕をがっちり掴んでブンブンと振り回す。
「術符のこと?」
「そうそう、それそれ!」
老婦人は満足げに頷き、リーナに詰め寄った。
「それって傷も治せるわよね」
リーナは小さく首を横に振る。
「……回復の術符はあくまで止血用です」
それだけ言うと口を噤んだ。死に瀕する人の命を救うことまではできません、とは、子供の前で声に出すことはできなかった。
「じゃあ薬は?」
老婦人の眼差しを振り切る様にリーナは再び首を横に振る。例え持っていたとしても、失われた体力や血液を補う回復薬も術符と同じく、瀕死の人を治せるほどの効果はない。
それでも老婦人はリーナに縋り付いてくる。
「この人何とかならないの? 治せないの?」
見ず知らずの老婦人の無茶振りにリーナは困惑するしかなかった。




