18.難題は突然やってくる
最初のきっかけは朝のセーラムの、この一言だった。
「術符、売ってみる?」
「――ジュツフ、ウッテミル?」
起床わずか10分後の頭では理解力が間に合わず、首を傾げたリーナは下手くそな鸚鵡のように言葉を繰り返した。
「このあたりは下町で飲食店も多く表通りには市場もあり、リーナの低ランクながら質の良い術符はきっと需要があるの」
刻み煙草をつまみながら、その所作と同じくらい美しい微笑みを浮かべる。
「返済も進むわよ」
片やリーナといえば、引きつった笑顔を返すのが精一杯だ。セーラムは売れる、と言うが、Fランクでは大して売れないだろうし、それに本音を言えば、この状況では術符を売りたくない。
ここに住み込む前は、術符が売れれば良いと仕事を探していたが、それはあくまで緊急を要していたからで、何か問題が起きれば自由に、後腐れなく王都を出立できる状況だったからだ。知り合いがいなければ、ただの旅人として行方をくらませられる。けれど、今はできない。セーラムには借金を肩代わりしてもらったり、住む場所や働き口までも世話になったりしている。ルファイアスは命の恩人だし、ゼオやシャノンも良い人で好感を持っている。クリスは――今のところは何もないが――。保身は最優先だが、それでもここに、ここの人たちに後足で砂をかけるようなことはしたくない。
王都で暮らす何十万人のたった1人など、よほどのことしでかさない限り目立つことはない。でも、ほんの僅かでも痕跡は残したくないし、知り合いはできるだけ少ないほうがいい。ただでさえ目立つ容姿をしているという自覚はある。王都に住み込んで仕事をしていることもギリギリ譲歩した結果なのだ。
リーナは飲み込めないでいるトーストを無理やりコーヒーで喉の奥に流し込んだ。
「どうした? 具合でも悪いのか? それともクソマズいもんでもあったか?」
いつのまにか目の前にゼオがいた。大きく厳つい身体を屈めて心配している姿が、妙に可愛らしい。
「ううん、ちょっと喉につかえて。朝食はいつも通り、最っ高です」
ゼオはようやくホッとした表情になり「これも良かったら食ってくれ」と皿をテーブルの上に置く。綺麗に切り分けられた柑橘類だった。名前のわからないそれは甘酸っぱい爽やかな香りがして、モヤモヤする思考を掻き消していく。
「ありがとうございます。いただきます」
無意識に一つを手に取り口に入れようとした途端、ゼオも「俺が聞いたところだと」と、口を開いた。
リーナは、しまった、と思ったが、半分口に入っているものは皿に戻せない。仕方なく口の中へと押し込んだ。
料理人や日常的に食べ物を扱う人は怪我をしても、匂いがきつくべたつく薬膏を使いたがらない。かといって傷は放置できない。しかし回復の術符は高価で買いたがらない。仕方なく包帯や油紙を巻いてごまかしている。
「俺もそうだが、低ランクで質の良い術符なら皆も喜ぶ」
同じ料理人の言葉だから妙に説得力があり、利益ではなく困っている人の役に立てれば、との思いも伝わってくる。熱量はそれほど感じられないのに、鼓舞するような、やる気にさせる何かがある。
「どうだろう、試しに少し作ってみないか? リーナがダメだと思ったらすぐに言ってくれ。対処するから」
ダメだと思ったらやめていい、とは言わない。でも同じ立場で味方だと言っている。人を従えたことがある人の言葉だ。
この人もただの料理人じゃないのか、とリーナは考えを改めた。最初はただ甘いと感じていた蜜柑は、咀嚼していくことでじわじわと苦みが広がってくる。リーナはこれ以上苦みを感じないうちに飲み込んだ。
術符を売れば、売上が僅かでも返済が進み、早めに王都を離れることができるだろう。でも術符には製作者の名前が必要になる。名前だけなら身バレすることはない。けれど術符に何か引っかかりを覚える人がいれば、名前から目の前に現れるかもしれない。
考えすぎだとは思うけれど用心に越したことはない。あちこちに敵がいる小動物の気分だ。二つめの蜜柑を口一杯に頬張りながらリーナは必死に打開策を考える。
2階から足音が聞こえた。見ると階段を誰かが下りてくる。細身な身体に金の長髪を無造作に頭の後ろで束ねている。特徴からクリスだとわかり、少しゲンナリする。朝食であまり一緒になったことはない。クリスも目が合うと露骨に顔をしかめた。
正直、今はそれどころでない。リーナは肩を竦めてやり過ごしたが、その瞬間、ある考えが閃いた。
けれど。リーナは打開策をくれた苦手な顔をちらりと見た。3つも席が離れている場所に腰掛けている。
目が合うとクリスは威圧するように睨みをきかせてきた。口の中はもう苦い。面倒になるけど仕方ない。ここで言わなくもすぐにわかることだ。口の中の欠片を飲む込み、セーラムとゼオをまっすぐ見つめた。
「一つお願いがあるのですが――」




