17.無言の魔術士
リーナがいつものようにホールで仕事を始めると本を手にした誰かが階段を下りてきた。一瞬誰だかわからなかったが、髪の色や特徴からクリスだと認識する。
クリスは誰もいないカウンター席にどさりと腰かけた。
「おっちゃーん。腹減ったー」
クリスは気の抜けた声で厨房へ声をかけた。溶けたチーズのようにカウンターに上半身を倒したその表情は、どこか眠そうで疲れている。
すぐにゼオが顔をだした。
「何だクリスか。珍しいな、こんな時間に」
言われてみれば開店直後にクリスが下りてくることは珍しい。
「もうすぐ魔術昇級試験だからDを目指して勉強中」
「えらいじゃないか」
ゼオは息子の成長を喜ぶ父親のように顔を綻ばせる。
「Eだと中途半端だからさ。ずっと暗記ばっかで、耳から呪文が出そうだよ」
照れ隠しのように肩を竦めたクリスはオムライスを注文する。ゼオが厨房へ消えると持ってきた魔術書を読み始めた。
クリスから魔力は感じていたものの、それほど強くなかったので魔術士だとは思っていなかった。珍しく今は客がおらず、手が空いているリーナは尋ねてみた。
「クリスさんって魔術士だったの?」
「どういう意味だよ」
疲れているせいもあるのか、一段と刺々しい声だ。けれど無視はされなかった。
どういう意味かと言われても返答に困る。魔力を感じ取れるから、とは言えない。人間じゃないと白状するようなものだ。
「……あんまり魔術士っぽくないなぁーと思って」
自分でも間抜けな言い訳だと思ったが仕方がない。
案の定、クリスは「魔術士っぽさって何だよ」とブツブツ言いながらも本から視線を上げた。
「内偵や潜入とかが主に俺の仕事。魔術は正直得意じゃないけど使えれば有利だし、ルーファスさんの足元にも及ばないけど腕にもそこそこの自信はある」
クリスはルファイアスの名前を出してどこか自慢げな表情を見せた。
「へぇー、器用」
あんなに空気が読めなかったのに、内偵とか潜入とか務まるのだろうか。
リーナはクリスがルファイアスの地雷を踏み抜いたことを思い出した。
「……お前、馬鹿にしてるだろ」
「そんなことは――決して」
首を横に振る。どうやらルファイアス以外への洞察力は本物のようだ。ものすごく嫌そうな顔をされてしまった。
クリスが初めて会った時「何か変だ」と言っていたのは、何となく違和感を覚えたのかもしれない。彼に対する認識を少し改めた。
「ランク上げとけば潜入とか身分を偽るときにも役立つからな。魔術士ランクが低いと意味がないだろ」
言うやいなやクリスはすぐにわざとらしい表情を見せた。
「ああ悪い。誰かさんは無言の魔術士だっけ?」
無言。ものを言わないという意味だが、魔術士に向かって使われる場合、それはもう一つの意味を持つ。
「――クリス。それは冗談やおふざけで気安く使う言葉じゃない」
オムライスを持ったゼオが真顔で窘める。クリスはバツが悪そうな表情で顔を背けた。
この国では魔力を持つ16歳以上の者は魔術士登録をしなければならず、一番下のFランクは簡単な魔力の基礎講習だけで取得できるようになっている。そのためFランクだけ持っていても魔術士としては不足と判断され、魔術士を目指すしている者のほとんどはFランク取得と同時にEランクも受ける。よってFランクは、能力が低い者や魔術士として仕事をしない者で、魔術士でありながら呪文を唱えないことから『無言の魔術士』と揶揄される。本来は別の意味を持っていたが、今では蔑称として使われてしまっている。
「すまんな。気を悪くしないでくれ」
代わりにゼオがリーナに謝った。
「気にしていないので大丈夫です。実際、魔術士としては何もしてないし」
無言の魔術士という言葉は、リーナにとって怒ったり不機嫌になったりするものではない。その雰囲気にクリスはホッとしたのか毒気を抜かれたのか、いつもの表情に戻っていた。
「……お前は試験受けないのか?」
クリスの口調は少し柔らかくなっていた。
「受けないよ。どうせ受からないし」
「ふーん」
何かが気になるのか、クリスがジッとリーナの顔を見ている。仕方なく言葉を付け足した。
「……呪文を覚えたり唱えるのが苦手だから」
嘘ではない。真実でもないが。
リーナは物心ついたときから魔術が使えていた。呪文を覚えたり唱えたりしたことは一度もない。小さい頃は周りもそうだと勝手に思っていたが、ある日、他の人は呪文を覚えたり唱えなければならないと知ってとても驚いた。家に帰り母親に尋ねると、しばらく考えた後「呼吸をするのに考えたり努力したりしないだろう?」と微妙な返答だったことを今でも覚えている。
一時期、他の人と同じように呪文を唱えようしたが、結局魔術はうまく発動しなかった。しかも無意識に集中してしまうのか、魔力が高まって瞳が赤くなることもしばしばで、詠唱実技があるEランク以上の試験は諦めた。幸いリーナは母親から教わった術符作りで何とか糊口を凌げていたので、昇級に関してはあまり悲観せずに済んだ。
「それはご愁傷様」
本当の意味での無言の魔術士に向かって馬鹿にしたような呆れたような表情を浮かべたクリスは、オムライスを口に掻き込むとさっさと部屋に戻っていった。




