ある執務室にて
キルリーク=トランバインは疲れていた。国王陛下の即位25年を祝し、長年の友好国であるバーリントン王国への訪問が近づいていたからだ。1週間の予定だが、随行人数や日程の調整、移動中の安全確認など仕事は山積みで、机の上にも今日中に目を通さなければならない書類が山となっている。
こなしても減らない仕事と溜まるばかりのストレスに、キルリークは椅子の背にもたれかかり溜息を吐く。おかげで唯一自分をさらけ出せる行きつけの店に顔を出せていない。あの居心地の良さと絶品料理は癒やしであり、何物にも代えがたい。
主人から情報をもらうという理由で近々行ってみようか。
そんな風に考えていると、扉のノックがキルリークを現実に引き戻す。不承不承、姿勢を正して笑顔をつくった。
「どうぞ」
「失礼します。二級事務官のマイルズ=クラークです」
入ってきた若い男――マイルズは目が合うと照れたように頬を赤らめ、恭しく頭を下げた。
自分の顔が整っていると自覚しているキルリークには見慣れた反応だ。
「バ、バーリントン王国訪問の保安対策に、トランバイン魔術士団副団長が携わっておられると伺いました」
「ええ、ベイス騎士団副団長と一緒に、ですが」
後々面倒になるのが嫌なので騎士団と共同であることを強調しておく。
真っ赤になりながら机の前に歩み寄ってきたマイルズは数枚の紙の束を両手で差し出した。
「先日、東の国境とアタキヤを結ぶ山道で乗合馬車が襲われる事案があり、その報告書になります」
面倒だな――キルリークは舌打ちをこらえて報告書を受け取った。
「容疑者4人はすでに捕まっておりますが、訪問の際にアタキヤを経由して国境を抜けると聞きましたので、念のためのご報告です」
解決済みなら行程を変更しなくても良いだろう。安堵しつつ報告書をめくり概要に目を通す。容疑者たちの他に彼らを捕まえた人物の名前を見つけた。今の時代に珍しい名前は同姓同名の別人とは考えにくい。武装している4人を1人で捕まえることくらい、彼にとっては朝飯前なのだろう。
報告書には馬車の馬が盗まれたが、容疑者確保の際に一緒に回収され、乗合馬車の乗客3人と御者が怪我を負ったがすでに回復していると記載されている。
事件は解決し被害者も回復しているとなれば憂いはない。軽微な事件だったのだろうと流し読みし始めたキルリークの目に、凄惨な光景が飛び込んできた。添付されていた写真は、大量の血で染まる馬車の中だった。
「この大量の血痕は……」
思わず声が出た。
「乗客の1人が怪我を負ったので、そのときのものだと思われます」
「よく助かりましたね」
これだけの大量出血なら死んでいてもおかしくない。むしろ助かったことが不自然だ。
「容疑者たちが馬を盗んで逃走した後、御者は近くの村まで助けを呼びに行きました。その間、乗客2人で重傷者を看ていたのですが、たまたま通りがかった魔術士が助けてくれた、と言っております」
「魔術士?」
同じ内容が報告書にも記載されている。文字を追いながらキルリークの眉間に皺が寄っていく。
「御者が村人たちと戻ってくる前に魔術士の姿を消したそうです」
「その魔術士の人相や年齢は?」
報告書のどこを見てもそれに関する記載がない。
「それが――」
マイルズは顔を曇らせる。
「外套を羽織っていて顔はわからなかったが手や声からして男性だと思う、と言っています」
「男――」
馬車の中は血で付けられた印が多数残されていた。飛び跳ねた血痕や血の足跡、擦ったような痕の他に、一つだけはっきりとした手形があった。写真を見つめるキルリークの視線は、男のものには小さすぎるその手形を見ていた。
「目撃者である乗客というのが、70すぎの老婦人と10にも満たない少年でして……。少年は重傷者を負った女性の息子で、母親が斬られたショックであまり覚えていないようです。また老婦人も突然のことでよく覚えていないと言っています」
その状況であれば、老婦人と子供がよく覚えていないという供述も不自然ではない。でも、何かが引っかかる。キルリークは報告書を机の上に置いた。
「関係ないとは思ったのですが、魔術士が現れたということで騎士団よりもこちらにお持ちしました」
「そうでしたか。ありがとうございました」
キルリークはもう帰れ、という空気を醸しだし笑顔でマイルズを見た。しかし彼は何か言いたそうにその場に居続けた。
「……もしかして、ユアン=シールなのでしょうか」
マイルズはどこか子供のように目を輝かせている。
何を言うかと思えば――。キルリークは内心呆れながらも表情を崩さなかった。
「別人でしょう」
マイルズは残念そうな不満そうな表情を見せた。仕方なくキルリークは再び口を開いた。
「もしユアンがこれほどの傷を治せる力をもっていたのならば、ラザレス様は今もご存命のはずです」
常にユアンが傍にいながら第2王子は戦場で命を落としている。
「ユアンがあの戦場でしたことは雷で敵を屠るだけでした。味方の傷を癒やすことはなかったと聞いています」
「そうですよね」
マイルズは恥ずかしそうに笑った。
「今でもユアンはこの国のどこかにいるのではと思ってしまって――失礼しました」
マイルズのように、この国を救った英雄に会いたいと思う人は今でも多い。幼い頃に一度だけ会ったことのあるキルリークですら、もう一度だけでも、と思うほどだ。
写真機が25年早く発明されていれば写真の1枚くらいは残っていたかもしれないが、漆黒のローブを纏っている絵しか残されていない。残念だと思う一方で、誰にも知られないほうがいいとも思っている。
「報告ありがとうございました。とても参考になりました」
「失礼いたします」
ようやくマイルズは頭を下げた。
部屋は再び静寂に包まれた。
事情を聞きに行かなければならないな。
行きつけの店に行く正当な口実に、キルリークはほくそ笑んだ。




