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その頃の『逢魔が時』

 夜半を過ぎ閉店となった『逢魔が時』は、先ほどまでの喧噪が嘘のように静かだ。照明を落とし薄暗くなった店内で聞こえるのは厨房で掃除する音と、小節(こぶし)がきいたゼオの鼻歌だけだ。セーラムは温くなったウイスキーを一気に喉に流しこんで腰を上げた。

 厨房は掃除も終わり綺麗になっていた。

「ごめん。これお願い」

「あいよ」

 ゼオは嫌な顔もせず、セーラムから受け取ったグラスを手際よく洗い、さっと片づける。そして一通り見回すと、厨房の明かりを消した。

「今日も忙しかったな」

 大きく息を吐きながらゼオはどかっとカウンター席に腰掛けた。一番端が仕事終わりの彼の指定席だ。セーラムはゼオと向かい合う形でカウンター内に再び腰掛けた。

「お疲れさま」

「ホールも大変だったろう。シャノンは四苦八苦していたしな」

 セーラムが自分の仕事を依頼する専属組織『ルーアルジャンテ』の一員であるシャノンは、今まで『逢魔が時』の仕事に携わったことがなかった。仕事が終わって手が空いていたらしく自らホールの仕事をかって出たのだが、生真面目で融通の利かない性格が接客では裏目にでてしまい、客を怒らせたり揉めたりしていた。その度にセーラムが場を収めていたが、彼女の記憶ではどんな新人でもこんなにトラブルになることはなかった。

 閉店後の掃除を終えて俯き加減で2階へ戻るシャノンの後ろ姿に、もう二度とやらないだろう。そして、もう二度と頼まないでおこう。と、セーラムは思った。

「明日はリーナが帰ってくるから大丈夫でしょ」

「何であの子なんだ?」

「……何のこと?」

「リーナだよ」

 何についての問い掛けか、気付いていて知らぬふりをしたセーラムにゼオは溜息を吐いた。

「お前さんの人の本性を見抜く目はすごいと思う。実際、ルーファスやクリスやシャノンは本当に良い子だ。リーナも悪い子じゃないと思う。が、それにしても肩入れしすぎていないか?」

 ゼオの視線を逸らすようにセーラムは煙管に火を着けた。

「器量の良いホールを確保できたし、しかも術符が作れる魔術士だったし。『逢魔が時』でも『ルーアルジャンテ』でも使える。一石二鳥じゃない」

「出会ってすぐに無期限無利子で40万を貸した上に、ここに住まわせた。しかも今日はルーファスまで護衛に付けたな?」

「だって持ち逃げされたら困るじゃない」

「あの子がそんなことをしないってわかってるんだろ? ルーファスだって薄々気付いている。でなければアイツが使いに付き合うわけがない」

 セーラムは顔を背け、無言で紫煙を吐く。

「お前さんがウチに引き入れる奴は()()()()()()が――彼女には何があるんだ? あの魔力か?」

 あのよくわからない魔力もそうだけど、とセーラムは言い、止まりそうもない追求にゆるゆると煙管を灰皿に置いて視線を店の入り口に向けた。

「一言で言えば、気になる、かなぁ」

「は?」

 ゼオは思いがけない返答に厳つい顔を盛大に顰める。

「彼女が初めて店にきたときね、一瞬あの人かと思った」

「あの人?」

 理解できない話の連続に、ゼオの顔は泣く子も黙る恐ろしい表情になっている。

「リーナは女性だし全くの別人なのだけれど、でもあの子を見ていると何故か彼を思い出して……。髪の色が似ているからか、何気ない雰囲気や面差しがどことなく似ているのよね」

「昔の男か?」

 まるで噛み付きそうな勢いのゼオに、セーラムはいつもようにフッと笑った。

「まさか……違うわよ」

 伏せられた緑色の瞳は、ゼオにそれ以上男について追求することを止めさせるには充分だった。

「ずいぶん感傷的だな」

「でもすぐに、それとは別のあることが気になって」

 すでにセーラムは、思い出に浸る一人の女性から情報屋の顔に変わっていた。

「もし仮にリーナが私の思っている通りだとしたら、この国は大騒ぎになる。下手すれば内戦になるかもしれない。それどころか、未だに大帝国の呪縛から逃れられずに内政が不安定なエルトア共和国やイヴァン教国をも巻き込む可能性もある」

「そんな、大げさな――」

 続く言葉は、セーラムの真剣な表情のせいで唾と一緒に呑み込まざるを得なかった。

 エルトア帝国は25年前、独裁者だった皇帝が突然逝去したことで消滅し、今ではエルトア共和国と名を変えている。しかし未だに前皇帝派と大統領派とで対立しており内戦状態にある。皇帝の息子である3人の皇子は全員亡くなったとされていたが、最近になってもう一人、皇子がいたと噂され対立が激化している。

 唯一神イーヴァを信仰するイヴァン教国は、イヴァン教を国教とし国民は皆が教徒である。教皇はイヴァン教以外の神や宗教は全て無価値だと宣言し、イーヴァと対立する悪魔と見なされた者は「粛清」と称して処刑されるほど排他的な国だ。そのため光の神ベオルゼリアを国王の祖とするベオルーゼ王国とは宗教観から相容れず、25年前のエルトア侵攻の時も静観の立場を崩さなかった。

 ようやく平和になったベオルーゼ王国が激動する。その上、面倒な国々が干渉してくるかもしれない、と聞いただけでゼオの背筋に冷たいものが走る。

「もしそうだとして、そんな厄介ごとになるなら、ここに置いておくのは危険じゃないか。目を付けられたら店やお前さんだけじゃなく、皆にも火の粉が降りかかるぞ。冷静で客観的なお前さんならわかるだろ?」

 セーラムは小さく息を吐くと俯いた。

「左目を怪我したあの日――」

 指の背で眼帯を軽くさすりながら呟いた声は、まるで何かを絞り出すように掠れていた。薄暗い店内で彼女の表情は窺えない。昏い影が彼女の顔を黒く塗りつぶしている。

「私は悩んだ末にあの場を離れ、あの人を失った。だからあの日あの時、何があったのかを知りたくて情報屋になってこの店を始めた。でも、わからないまま25年が経って諦めかけていた時、あの人を思い出させるリーナが現れた」

 ゼオはセーラムが何かを探すためにこの店と情報屋を始めたことは知っている。左目は昔、仕事中の怪我で失ったことも聞いていた。しかしその理由の一端を聞いたのは初めてだった。

「二人は無関係かもしれない。ただの思い違いで杞憂かもしれない。でも、どうしても気になるし、ここで見放しちゃいけないって思った」

 ゼオは胸のつかえを感じて大きく息を吸った。

「結局、感傷的な話じゃないか」

「……そうね」

 ようやく顔を上げたセーラムは自嘲とも苦笑ともつかない表情だった。

 ゼオは店内を見回した。見慣れたこの店も目の前の主も、付き合いは20年以上になる。ここは家であり彼女は家族同然だ。出会った時から、彼女に付いていこうと決めていた。何があろうと誰と戦おうと、彼女の向かう先がどこであろうと。そしてそれは今も変わらない。己の揺らがぬ決心に満足し口角を上げた。

「ルーファスもクリスもシャノンも、俺もお前さんも()()()だ。今更面倒なのが一人増えたところで、どうってことはないか」

 それに皆、そう簡単にやられはしないだろうしな、とゼオは楽しそうに笑った。

「元諜報員にしては、お前さんのそういうところは嫌いじゃないぞ」

 セーラムは一瞬驚いた表情を見せ、そして、いつもようにフッと笑った。

「私も海賊船船長だったアンタのそう言うところは嫌いじゃないわよ」

「だから、俺はただ料理していただけだ、って言っているだろ?」

「料理していただけの人は、船長とは呼ばれない」

「……そういうもんか」

「そういうものよ」

 付き合いの長い二人はいつものようにカウンターを挟んで、いつものように静かに笑いあった。


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