守りたい人1 -ローサ-
マシューは執務机の上に置かれた紙をまじまじと見つめた。
流麗な文字で書かれた内容に感情がついてこない。混乱するマシューをよそに、ローサはよどみなく説明する。
「わたしの引継ぎはすべてヒューバートにしてありますので、特に問題はないと思います」
マシューは珍しく愕然としていて、特に何も言ってこない。問題ないと判断したローサは清々しい笑顔を見せると、頭を下げた。
「長らくお世話になりました。殿下の今後ますますのご活躍を―――」
「ちょっと待て! お前、何でやめる気でいるんだ!?」
ようやくマシューが我に返った。ローサは首を傾げた。
「今が辞め時なので」
「待て待て待て。ちゃんと説明しろ。仕事内容に不満があるのなら改善するし、他に問題があるようなら力を貸そう」
「マシュー殿下でもかなりの難題です。ですから、辞める以外の選択肢がありません」
ローサが自信満々に言い切った。マシューはとりあえず気持ちを落ち着かせようと大きく息を吐いた。
「まず仕事に不満があるのか?」
「いいえ」
「人間関係に問題が?」
「いいえ」
ローサは少しも思っていなかったことを質問され、面白そうに笑った。
「じゃあなんだ。辞めたいほどの理由は」
「実は、婚約破棄されそうなので婚約者を捕獲しに」
マシューが止まった。
「婚約破棄? お前の相手は確か……コールリッジの長男だったか?」
「ええ。ひどいと思いませんか。わたしはすでに25歳。行き遅れもいいところなのに、今さら捨てようだなんて」
「……お前が仕事ばかりで、なかなか結婚する気にならなかったのが原因だと思うが」
マシューの指摘を綺麗に無視して、ローサは仄暗く笑った。
「いつかは納得してくれると思って気長に待っていましたが、流石に捨てられるとなると話は変わります」
「ローサ?」
ローサはひんやりとした笑みを浮かべた。整い過ぎた顔が嫌に恐ろしげに見える。
マシューはいつにないローサの冷ややかな顔にやや引き気味になった。ローサの怒りがひしひしと伝わってくる。
「ふふ、純情な乙女の怒りをぶつけるべきだと思いませんか」
「純情の意味が間違っている気がするのは気のせいか?」
「では、純真でお願いします」
マシューはこつこつと机を指で叩いた。これまでの会話だけでもローサが普段の様子とは違うことがわかる。どうしたらいいかと、忙しく考えを巡らせた。
「お前が冷静ではないことだけは理解した。とりあえず、退団は保留だ」
「保留は困ります」
「まあ、話を最後まで聞け」
ローサが不満を表情に表しながらも口を噤む。
「一か月、休暇をやる。その間にどうにかしろ」
「……結果的に辞めるかもしれませんよ?」
「それはその時だ。今はダメだ。お前は冷静ではない」
ローサは納得できないのか、唇をきつく結んだ。反論はしないが、唇をへの字にしているところを見れば不満がありありとうかがえる。普段のローサなら顔に感情を出すことはしないが、婚約者が絡むと途端に頭の固い態度をとる。前々からその傾向はあったが、今回は特にひどい。
「わかりました。一か月は休暇を取ります」
「そうしてくれ。ああ、男女間の相談はシェリーにでもしたらいい」
マシューが手を振ると、ローサは出て行った。残ったマシューは大きくため息をついた。
******
ハワードとローサの婚約は17年前、家同士を通じて結ばれたものだ。ローサがまだ騎士になるつもりのない8歳の時だった。2つ年上のハワードは婚約前から付き合いがあり、可愛い幼馴染だ。
ハワードは白金色のさらりとした癖のない髪、柔らかな緑の瞳を持つ少年だ。年上ではあったが、婚約を結んだ頃は背丈はまだローサとは変わらなかった。
天使のように色素が薄く、柔らかな笑みを浮かべているものだから、幼い頃にローサは彼のことを本気で天使だと思っていた。
その天使と婚約者となってから、時間が合えば王都のお互いの家を行き来し、かなり親密な関係を築いていった。
ハワードは読書が好きで、時々一緒に読む。ハワードがその頃とても大好きだった本を一緒に読んでいたときだ。綺麗な挿絵が描いてある子供向けの絵本には、美しい女騎士が描かれていた。
子供の喜びそうな、強大な悪をやっつける物語。ちょっと変わっていることと言ったら、騎士は女性で、助けるのは王女ではなく王子だ。二人は手を取り合って困難を乗り切る物語だった。
「ローサはこの絵本のような素敵な女騎士になると思う」
「そう?」
「うん。ローサは綺麗だし、マントを翻して馬に乗るなんてかっこいい」
キラキラしい見た目でそんなことをうっとりと言われてしまえば、何となくその気になる。両親や兄たちの制止を振り切り、8歳の時に剣を手にした。
これが恐ろしいほど合っていて、きちんとした稽古を始めればあっという間に剣術の基礎を習得した。師の勧めにより12歳の時に騎士団養成学園に入学した。
この国の騎士団養成学園は在学3年、最長でも5年だ。入学できる年は12歳から15歳までとなっている。爵位を継がない貴族子息が多いが、たまに令嬢もいる。女性騎士は女性王族の警護には欠かせないため、男だけの世界であっても女性が差別されることはなかった。もちろん、へんに持ち上げるようなこともない。
騎士団養成学園に入った後は寮生活だったため、毎日のように会っていた二人だったが、長い休みにしか一緒にいられなくなった。ローサが騎士団養成学校に入ったのに対して、ハワードは文官の道を選んだ。男性の割には線が細く、あまり剣の素質がなかったのが大きい。それでも人並みには鍛えていたし、ローサと会えば馬を駆って一緒に出掛けたりした。
そんな日常が変わってしまったのは、15歳の時、卒業が決まった後だった。その年は雨量が多く、各地で水害が発生していた。コールリッジ伯爵領も小さいながらも水害が起きており、ハワードも水害の対応に出かけていた。対策や被害確認など忙しい伯爵を手伝っていたのだ。
そこで起きた事故。地盤が緩くなっており、立ち寄った村の背後にある山が地滑りを起こした。それに巻き込まれてしまったのだ。ハワードはすぐさま護衛達に助けられたが、かなりの重傷を負った。
ローサにも連絡が入って、詳細も確認せずにハワードの元へ駆けつけた。ところが、屋敷ではまだ意識が回復していないからと会うことができなかった。会えるようになったら連絡するという伯爵の言葉を信じて、屋敷に帰った。
ようやく面会が叶ったのは、ハワードに合わせてもらえなかった日から一か月がたっていた。案内されたハワードの私室に入る。
ハワードはすっかりやせ細り、肌の色は白を通り越して青かった。
「無事でよかった」
ローサはたまらなくなってハワードに駆け寄った。ハワードはぎこちないながらも笑みを浮かべて、寝台の傍らに腰を下ろしたローサの頭を撫でる。
「心配させてごめん」
「無事ならいい」
ぽろぽろとローサは泣いた。無事だとわかっていたが、顔が見られなかったことと一か月も会えなかったことで嫌な想像をしてしまっていたのだ。ハワードはローサの涙を指で拭きとりながら、何でもないように告げた。
「ローサ、婚約解消しよう」
「え?」
「僕は伯爵家を継げなくなったんだ」
何を言われているのか全く分からなくて、ローサはまじまじと顔色の悪いハワードを食い入るように見つめた。ハワードは自虐的な笑みを浮かべる。
「両足が駄目になったんだ」
「ハワード」
「医師がね、どんなに頑張っても普通に歩くことも困難だと」
ハワードの声は震えていなかった。気持ちを整理するための一か月だったのだとローサは気がついた。
「わたしは爵位などなくても気にしない。ハワードと結婚したい」
このまま突き放されてしまうのではないかと恐れながら、ぎゅっとハワードの手を握りしめた。
「ダメだよ。ローサは伯爵家の長女だ。ちゃんと考えて」
「わたしは騎士になるから、貴族令嬢のような結婚は必要ない」
「ローサ、僕のお願いを聞いて?」
ちょっと首をかしげてお願いをしてくる。それはいつもローサがハワードに許していたお願いだ。ローサは顔を真っ赤にした。
「お願いなんて聞かない! わたしは絶対にハワードと結婚する!」
「僕の気持ちは変わらない」
ハワードはじっとローサを見つめたまま、静かに言った。ローサはますます彼の態度が気に入らなかった。
「わたしは、わたしは……!」
考えを変えることができないことが悔しくて、ぼろぼろと涙が落ちてきた。ハワードは大きく息を吐くと、自分のシャツの袖口でぐりぐりと涙を拭いてくる。
「今すぐ決められないと思うから、少しだけこのままでいよう」
「ハワード」
「ローサも広い世界を知ったら、好きな人が見つかるよ」
「ハワード以上に好きな人はいない」
ハワードは困ったような笑顔を浮かべた。
「ありがとう。僕もローサが好きだよ。だから、僕のことは気にしなくていい」
ローサは初めてハワードも言いたくて言っているのではないと気がついた。ただ、彼は優しいから。ローサが受けるだろう不利益が許せないのだ。
「……また来る」
ローサはぐすぐすと泣いたまま、ハワードに別れを告げた。
家に帰って、すぐにローサは自室に立てこもった。じっくりと作戦を考えるためだ。伊達に騎士養成学園で主席を取り続けているわけではない。
冷静になれ。
ローサは乱れる心を持て余しながらも、必死に冷静になろうと心を落ち着かせる。
「ローサ」
部屋がノックされ、すぐに入ってきたのは一番上の兄だ。傷心の妹を心配してくれたようだ。
「お兄さま」
「ハワードのこと、聞いたよ」
「……婚約解消しませんよ」
婚約解消するように説得しに来たのだと思って、牽制する。ぐるぐると噛みつきそうなほど威嚇すれば、お兄さまは笑った。
「君たちはお互いを思い合っているのを知っているからね。ちょっとした助言だ」
「なんでしょう?」
「ローサがハワードの立場になったら、何を心配するか、考えてごらん」
「ハワードの立場?」
理解できずに首を捻れば、ぽんぽんと優しく頭を叩く。
「そう。君がハワードのように体に傷を負った。思う通りに動くことがままならず、貴族には必要な社交など、することができない」
一つの例だよ、とお兄さまは言う。ローサは真面目に想像した。
貴族としては役に立たない自分。
今まで爵位を継ぐために必死に頑張っていても、できることが少なくて―――。
「わかりました」
「うん?」
「お兄さま、ありがとうございます! わたし、これから女らしさを捨てて男らしく生きます。ハワードの代わりにわたしが男になります!」
「ううん? なんか失敗した?」
ローサはその日から宣言通り、女性らしくあることをやめた。ハワードのできないところはローサが補えばいい。幸いローサは騎士だ。手はすでに剣だこだらけであるし、体も鍛えているから普通の女性よりも筋肉質で丸みが少ない。男性のように振舞うことも変な目で見られることは少ないはずだ。
女騎士であっても女性らしい先輩騎士が多い中、ローサは女性を感じさせないように振舞った。ハワードを参考に、性別を感じさせないことを目指す。
こうしてハワードとローサの婚約を巡る攻防戦が始まった。




