辿り着いた先1 -シェリー-
誰よりも美しく。
毎日のように鏡を見つめ、自分の体を確認する。
時々、どうしようもなく興奮した客が力の加減を忘れて痕をつけていくが、商売道具の体だ。簡単に傷をつけてもらっては困る。
シェリーはゆっくりと鏡を見つめ、首から肩、胸、お腹、足と順番に見ていく。シミ一つない白い肌は磨き抜かれており、高級な香油を刷り込んでいるおかげで触るとしっとりと吸い付く。
背中は自分では確認できないので、小間使いの少女にお願いする。すぐ側で控えていた少女は言われたとおりに背中を確認した。
つい先日、大金を積んだ男がシェリーを指名した。いつもなら初めての利用者は断るのだが、女将でも根負けするほど金を積まれての対応だった。
国外の人間なのか、見慣れない容貌の男だった。この国の人間は肌の色が白い人が多いのだが、男は褐色の肌をして金色の目を持っていた。力強い感じなのでガサツなのかと思っていたのだが、男は意外なくらい女の扱いに慣れていて、会話もひどく楽しかった。
陽気な性格と、優しい扱いに油断していたと言えばそうなのかもしれない。どうやら行為が終わった後、うつらうつらとしている隙に見えない背中に痕を付けられていた。
シェリーの面倒を見るためにやってきた少女が見つけて、悲鳴を上げた。驚いて鏡を使って背中を見れば、驚くほどの大量の赤い痕が広がっていた。正直に言えば何か悪い病気ではないかと思ったほどだった。
少女の悲鳴を聞いて何事かとやってきた女将も背中を見ては呆れていた。相手は知っていたのか、さらにたっぷりと金を置いていったから治るまでは休みにしてくれた。
「もう大丈夫のようですね。本当に我慢の聞かない客は迷惑です」
ようやく治って綺麗に消えたというのに、未だ怒っている。この娘はまだ12歳だったが、6歳の時からこの娼館にいる。高級娼婦の卵だ。貴族令嬢以上の教育と王宮にいる侍女以上の心遣いを叩きこまれている最中だ。手間と金をかけて高級娼婦の逸材として育てられているのだから、幼いながらもその美貌は飛びぬけていた。
シェリーに肌触りがさらりとしたガウンを着せると椅子に座らせ、丁寧に赤い髪を梳かし始める。
「本当にお姉さまの髪は紅い宝石を溶かしたようで綺麗。わたしの髪はいつもふわふわしていて扱いにくいの」
うっとりとした呟きに思わず笑ってしまう。
「貴女の髪だって素敵よ。綺麗に手入れして、愛してあげれば皆綺麗になるのよ」
「もっとわたしも手入れを頑張らないと」
高級娼婦になるにはそれなりに大変だ。美しさだけではなく、仕草や言葉遣い、それに知識も。この娼館では同伴は認めていないが、やってくる客が求めるのは快楽だけでなく、程よい緊張感のある会話も求めている。そのため、文化だけでなく政治経済、何を話しても通じる豊富な知識が必要だ。
シェリーのいる店は夜会や観劇への同伴を認めていないが、他の高級娼婦のいる娼館では同伴を認めている。外へ出ると、さらなる立ち振る舞いも求められるから高級娼婦は必死だ。それなのに、外に出れば嫉妬や妬みの対象になりやすい。
娼婦に向ける愛は偽りの愛だ。偽りの愛を娼婦に向けたからと嫉妬で狂う女も哀れだ。
「そういえば、聞きましたか? 昨夜、貴族と観劇に同伴した姉さまが切りつけられたって」
「切りつけられた?」
驚いて聞き返せば、少女は頷いた。
「なんでも、そのお客様は新婚だったようです。政略結婚で、正妻様が娼婦に入れ込んでいる夫に激怒したとか」
「まあ、それは大変ね」
貴族で政略結婚。
夫婦になったところで、お互いに冷めた関係も多い。愛人を囲うものもいるし、娼館にお気に入りを作る貴族もいる。それを許せない正妻はこうした行動を取ることも多い。ならず者をけしかける者も中にはいるので、それに比べたら純粋なのかもしれない。怪我をした娼婦にしてみたら、とんだとばっちりだ。怪我の具合によっては今後の生活にかかわる。娼婦の体は商品なのだから。
「この娼館は同伴がなくて本当によかった。同伴したら、お姉さまは幾つ命があっても足りません」
「そうねぇ」
起こってもいないことに怒っている少女が面白くてつい笑ってしまう。彼女は頬を膨らませた。
「お姉さまはこの店の、この王都で一番の娼婦なの。わたしが心配するのも当然でしょう?」
「ええ、わかっているわ。笑ってごめんなさいね。さあ、仕事の時間よ」
「……ドレス、用意します」
「今日は柔らかい色合いのドレスにしてちょうだい」
希望を伝えれば、少女はすぐに衣裳部屋へと向かった。
「……ここでずっと体を売るのもどうかと思うけど」
例えば借金を払い終えて、娼婦を辞めることも可能だ。
では、辞めた後は?
その先は見えない。さらに悪くなる可能性だってある。
少なくともここではお腹がすくことも、寒い思いをすることもない。さらに理不尽な暴力は振るわれない。知らない男に媚を売り、体を好きにされるという面はあるが、貴族の政略結婚と何ら変わりはないのだ。
ただ。
無性に恐ろしくなる時がある。
いつまでも淀んだ時間の中に一人で彷徨っているような恐ろしさ。
守るべき家族も、守ってくれる家族もいない。
残っているのは愛して愛されていたという記憶だけだ。それも月日が経つごとに遠い記憶になっていく。
一体、何のために生きているのだろうと。
考えても仕方がないと一人笑った。
シェリーはその思いがあふれ出てこないように蓋をした。
******
シェリーは最近話題のお酒を男のグラスに注いだ。初老にもなろうかという彼は数か月前から通っている客だ。穏やかな紳士で、高級娼館とはいえこのような場所に通うような人物には見えない。理由はきっとあるのだろうが、シェリーは客の事情に深くかかわるつもりはなかった。
「どうかな、身請けを考えてもらえないかな」
男は穏やかな口ぶりで聞いてきた。シェリーは慌てることなくにこりと笑みを浮かべる。
「わたくしはここで十分よくしてもらっています」
「そうか」
「それに旦那様がこまめに顔を出してくださるので、無茶なこともありませんし」
何度も交わされた決まりきった会話。
初日から気に入ってくれたのか、すぐさま身請けを持ちかけられた。シェリーはこの店で4年目であるが、人気があるため店への借金は半分ほど返し終わっている。ただここを出ても行く場所がないため、特に頑張って返済しようとは思っていなかった。
この男性はこの店にとっても上客で、シェリーに甘い客でもあった。数か月前に指名されて以降、二日に一度は通ってくるが、夜一緒に酒を飲むだけで体は要求してこない。
それが不思議で理由を聞いたことがあったが、男は「男の見栄で娼館の一番人気を買っている」と笑って教えてくれた。貴族なので見栄が一番だが、それでも毎晩のように安くない女を買うなんてと呆れてしまった。この店でも一番人気のシェリーの一晩はとても高いのだ。
「残念だな。一日中、シェリーが側にいてくれたら最期まで幸せを味わえると思ったのだが」
「嫌ですわ。まだまだお元気でいてくださらないと」
艶やかな紅で色づいた唇を笑みの形に作る。いつもなら言葉遊びはここで終わるのだが、今夜は違った。
男は持っていたグラスをテーブルに置くと、ぎゅっとシェリーの手を握りしめた。男は何かを覚悟したかのような表情でシェリーから視線をそらさない。
「一度、妻に会ってもらえないだろうか。君の面倒を見たくてうずうずしている」
「……旦那様」
「君はすでに私が誰であるか、気がついているのではないのか?」
シェリーは目を大きく見開いた。立ち入ってはいけないところに、男は入ろうとしている。体が震えた。
「それは」
「グリーンバリー伯爵令嬢。お願いだ、君をここから連れ出させてくれ」
グリーンバリー伯爵令嬢。
シェリーの顔から表情が抜けた。
「……それは無理なお願いですわ。セロン侯爵様」
「覚えていたのか」
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
優雅に頭を下げた。セロン侯爵はため息をついた。
「今更だと思うだろう。だが、これ以上君をここに置いておきたくないんだ」
「どうかこのまま捨て置きくださいませ」
「もう、おじさまとは呼んでもらえないのだろうか」
シェリーは目を細めた。
「懐かしいですわね。前王妃様と一緒に甘やかしてくださったのはおじさまでしたもの」
「可愛い君をこんな状況にしてしまって……」
ぐっと握りしめられた拳をシェリーが優しく包み込んだ。宥める様に優しくさする。
「わたくしが今更ここを出て何になりましょう」
「グリーンバリー伯爵令嬢」
「嫌ですわ。わたくしはすでに貴族令嬢ではないのです。シェリーと呼んでくださいまし」
グリーンバリー伯爵令嬢だったのはすでに過去だ。
「10日だけ猶予を上げよう。私と一緒にここを出て領地の片隅で余生を過ごすか、見つかるのを待つか」
「何のお話です?」
彼の話がよくわからずに眉が寄った。
「君の存在がそろそろあの方にも見つかってしまいそうなのだ」
「このままではいけませんか?」
セロン侯爵は残念そうに首を左右に振った。
「君の婚約者が君にたどり着こうとしている」
「婚約者?」
震えるか細い声でシェリーが問う。
「マシュー殿下は君を婚約者から外していない。君の死体がなかったからとあの日からずっと探し続けているんだ」
「4年間も?」
「そう。見つけられなかったのは、君は隣国で売られたと思われていたからだ」
探し続けてくれている。
その事実がとてもシェリーを喜ばせた。同時に、どうにもならない現実にも気がついて絶望が襲ってくる。
見つけてほしいけれど、見られたくない。
そんな気持ちしかなかった。できるならば彼には今の自分を見せたくない。
そっと目を閉じた。
「君の気持ちもわかるつもりだ。だから見つけた時、マシュー殿下には報告しなかった。もし、マシュー殿下に会いたくないのなら、私に身請けをさせてほしい」
「でも」
「これでも羽振りのいい侯爵家の当主だ。君一人、身請けしたところで大した額ではない」
ニヤリと悪い笑みを浮かべながら告げられて、目を瞬いた。
「では10日後に」
セロン侯爵は拒否をさせなかった。いつもと異なり、泊まらずに帰っていった。
一人部屋に残されたシェリーはぼんやりと部屋を眺めた。
「本当に? ここを出て行くの?」
ふわふわとした夢のような現実に、戸惑いしか感じなかった。
でも、セロン侯爵が言うようにマシューがシェリーを探していているとしたら、早めにどこかに隠れたい。会いたい気持ちもあるが、娼婦に落ちた自分を見てほしくなかった。
16歳の伯爵令嬢だったあの頃よりも洗練され、女としては磨かれているが、すでに数えきれないほどの客を取っている。その上、シェリーは妊娠しないために月の物を薬で抑えつけていた。毎日飲んでいる薬は娼婦にとっては当たり前のものだけど、摂取期間が長くなれば妊娠できなくなる薬。4年も薬を取り続けているシェリーにも影響が出ているはずだ。
憂鬱に思いつつ、ため息を漏らす。
「お姉さま、どうしてそんなに悩むの?」
「とても複雑な気持ちなの」
じっと部屋の隅で控えていた少女が不思議そうに尋ねた。
「あの旦那様だったらきっとひどい扱いはしないと思うから、身請けしてくれるのならしてもらった方が」
「そうね、それが一番なんでしょうね」
マシューに会いたくないのなら、セロン侯爵の言うとおりに身請けされ、どこかの僻地に、修道院でもどこにでも行った方がいいような気がしてきた。セロン侯爵の手を借りれば、マシューの目をごまかしてくれることだろう。
そんなことを思っていたこともあった。
思わず遠い目になる。あんな悠長なことを言わずにセロン侯爵の申し出をさっさと受け入れて、身を隠すべきだった。
セロン侯爵が見つけられたのだ。マシューが気がつかずにいたなんてことはないのだ。セロン侯爵が次に来る10日を待たずして、シェリーは彼に捕まった。
何の前触れもなく、シェリーの私室に踏み込んできたのだ。装飾品のない黒の軍服に身を包んだ彼は、記憶の中にある彼よりもはるかに逞しく強烈な存在感を放っていた。
開け放たれた扉の外には店の者たちが好奇心いっぱいに覗き込んでいる。その中に店の女将を見つけて、どういう事かと視線で問うが―――。
女将はどうにもならないと言わんばかりに、肩をすくめただけだった。
頼りにならない、そう判断すると、ちらりと部屋の隅に視線を泳がせる。
どうやって逃げようかと、頭を忙しく働かせていたが。
マシューはシェリーの右手を握り、反対の腕で腰を抱いた。密着するように体に寄せられる。
「シェリー。ようやく見つけた」
「王弟殿下様。ご無沙汰しております」
蕩けるような眼差しを向けられて、顔が引きつった。
誰よ、この色気が駄々洩れのおじさんは。
シェリーの記憶にある硬派な印象を持つ青年はそこにはいなかった。混乱するシェリーを見て、マシューはにやりと笑う。目はシェリーから逸らされることなく、掴んでいた右手に唇を当てた。当てられた唇にシェリーはびくりと体を揺らした。
「色々積もる話もあるが、今はすぐにでも君を抱きたい。君のすべてを上書きする権利をくれないだろうか」
絶対にこれは違う。
シェリーが淡い恋を抱いていた青年はこんな下品なセリフなど言わない。
優しい微笑みとほんのちょっと触れるだけのキスを贈ってくれたシェリーの婚約者は女慣れした自信溢れる残念な人になっていた。
心の中で宝物のように大切していたシェリーの思い出にひびが入った。




