代償
二人の男女が抱き合っている。
背の高いヒューバートが女性を抱きしめていた。
ぎゅっと心が痛くなった。震える両手を握りしめる。
落ち着け。
息を大きく吸う。意識してゆっくりと呼吸をする。
落ち着け。
先ほど別れる時に彼は何と言っていただろうか。明日は休みを取る、と言っていた。彼はそれしか言っていない。誰かと逢引きするつもりであれば、そのような約束はしない。
揺れる気持ちを押さえつけ、きちんと暗闇の庭を見る。
「婚約破棄した方が幸せになれると思わない?」
くすくすと笑うコンスタンス王女がわたしの不安を煽るように言うが、わたしはじっと二人の様子を見つめた。どくどくという変な音が頭の中に響くが、それでも目をそらさなかった。
ヒューバートの難しい顔に、少し押し返すような手の動き。
あら?
もう一度よく二人を見ていれば、何か言い合っているようでもある。言葉こそ伝わらなかったが、逢引きのような甘い空気はそこにはなかった。ここからでもヒヤリとした雰囲気を感じる。
「すぐに決断しろとは言わないわ。だけど、早いうちに―――」
「ヒューバート様があの方を愛しているとは思えません」
不敬にも言葉に被せた。でも、気にしない。
最悪マシュー殿下を頼らせてもらおう、とちらりと考えた。癖のある人だが、シェリーをよこしてくれた人だ。ある程度の罰は貰うかもしれないが、ひどいことにはならないはずと信じることにする。今は反論すべき時だ。
暗闇で抱き合うように見える二人から視線をそらさずに小さな声で告げた。
「ヒューバート様は抱きしめているときは耳元に唇を寄せて囁くのです」
「何を言って」
「あの方は押し切るつもりのようですが、ヒューバート様が氷のような冷たい空気を出しているのできっと違うと思います」
コンスタンス王女は淡々と説明するわたしを忌々しそうに睨んだ。きつい視線が向けられたので、彼女の方を見た。
「つべこべ言わずにわたしの言うとおりにしたらいいのよ」
「では、王女殿下からその内容をヒューバート様とお相手の方に言ってくださいませ」
怯む気持ちを隠して、ぐっと顔を上げた。意識して背筋を伸ばし、まっすぐにコンスタンス王女を見返した。王族らしい傲慢な空気に呑まれまいと足に力を入れた。
「わたしの方からの婚約破棄はしません。この場合、ヒューバート様がお相手の方と結婚したいがための婚約破棄です。それゆえに、申し入れは二人からするしかありません」
「何の話よ!」
「ご存じないでしょうか? この国の王族に認められた婚約破棄の手順です」
わたしはわざとらしく首を傾げた。コンスタンス王女が意表を突かれたような顔をする。どうやら知らないようだ。
「婚約破棄の手順?」
「ええ。上位貴族の方ならばそれもしなくてもいいかもしれませんが、わたしは子爵家、ヒューバート様は伯爵家です。それなりの手順が発生します」
なるべく感情が乗らないように淡々と説明した。コンスタンス王女があっと何かに気がついたような顔をした。
「確か男爵が……」
「ご存知のようですね。王命になるので、証人となった方に申し開きをし、そこで認められた後に賠償問題に移ります」
「あなた達の証人は誰?」
「オーランド殿下です。賠償は我が子爵家と証人であるオーランド殿下に支払うものです」
王族であるオーランド殿下の満足する賠償など支払えないだろう。その前に、説得するのも難しい気がする。婚約自体もかなり無理をして整えたし、その後の結婚に至っては王族の力を使っているのだ。
これは婚約破棄の話であって、離縁となるとまた別になる。どうやら周囲が結婚を急いだのはこのコンスタンス王女の存在があったからのようだ。恐らく、侍女一人の暴走であったら、放置まで行かなくとも結婚を早めることにはならなかった。
何か釈然としないもやもやが胸の中に生まれる。シェリーの言葉も、別の意味があるのではないかと疑ってしまう。ヒューバートとの噂を放置していただけでは説明がつかないほどの対応だと思っていたが、コンスタンス王女の様子を見ていれば、王族の方が警戒していたのは王女の方だ。
そこまではわかるが、それ以上の情報を持っていないわたしには推測すら難しかった。
「婚約破棄が難しいのはわかったわ。でも、あなた自身がいなくなってしまったり、結婚できない状態になければいいだけの話よね?」
呟くように言われた言葉が聞き取れなかった。確認しようと顔を上げれば、にこりとほほ笑まれる。
「面倒だから、消えて頂戴」
「何を……」
力いっぱい手すりに向かって押された。慌ててコンスタンス王女を押し返すように力を入れる。二階から落ちて死ぬことはなさそうだが、無事でいられるとも思えなかった。履きなれない靴を履いているためか、上手く体を支えられない。上半身を押され気味であと少し反ったら、落ちてしまいそうだ。
「誰か!」
護衛のことを思い出し、大声を上げた。
「無駄よ。ここに来る前に人払いしてあるから」
楽しそうな王女は力を入れなおす。わたしよりも少し小柄な彼女にどうしてこんなにも力があるのかわからない。
もうダメかもしれない。
反りすぎて背中も痛い。もう一度声を上げたいところだが、声を上げたら力が抜けてしまいそうだ。
「そこまでです、コンスタンス王女」
「離しなさい!」
限界だと思って目を閉じた時に、ふっと圧迫感がなくなった。力の限り押し返していた反動で前のめりになる。誰かの胸に抱え込まれた。
固い制服の生地が頬に当たる。でもヒューバートではない。慌てて抱擁を解こうと手を突っ張った。
「大丈夫だから寄りかかっていて。今、一人で立てないだろう?」
低いが、確かに女性の声だ。顔を上げてみれば、わたしを抱きかかえていたのはローサだった。中性的な顔にほんのわずかだが、困ったような色を浮かべていた。
「本当はヒューバートが間に合えばよかったんだけどね。流石に無理だった」
期待した相手ではなくてごめんね、と囁かれて力が抜ける。
「よく頑張った」
小さく言われて、思い出したようにコンスタンス王女の声のする方に視線を彷徨わせた。コンスタンス王女は騎士に取り押さえられており、バルコニーの入り口には王太子とマシュー殿下がいる。
その二人を見つけて、ため息を吐いた。
「どこか痛い?」
痛いとしたら、心だ。だけど、それは言っても仕方がない。
「いえ、大丈夫です」
「……聞きたいこと、今なら少しだけ答えるよ」
声を潜めて囁かれた。わたしはローサを見上げた。
「王女が貴女を突き落とそうとすることを考慮していなかったのは、こちらの落ち度だから」
その言葉だけで確信した。
これはコンスタンス王女を嵌めるためのものだった、のだと。
わたしが理解したことがわかったのか、ローサが笑う。
「ヒューバートは一部しか知らされていないよ。貴女の側を少しの間、離れるようにと指示されただけ」
それだけでも彼は何が起こるのか、彼には推測できただろう。だから、あれほどわたしの側から離れるのを渋っていたのだ。
「すべてはきっかけに過ぎない。王女に分別があれば、そもそもこのような事態にはならなかったはずだ」
「……そうですか」
ようやく言えた言葉はこれだけだった。色々と聞きたいこともあったが、わたしには知らされないことであろうし、もし知らされてしまったら今後も組み込まれてしまう気がした。
シェリーの心配していることがなんであるか、はっきりとした形になって胸の中に納まった。それはわたしにはとても荷の重いもので、進んで背負いたいものではない。
だから、何も問わない。
時々は巻き込まれるのかもしれないが、できるだけ待つ立場でいたい。
わたしの思いがわかっているのか、ローサは小さな笑みを見せた。そっとわたしの頬に触れ、視線を合わせた。
「貴女にはそれがいいと思う」
近衛騎士の妻としてはどうなんだろうかと思わなくもないが、ローサの一言で許された気がした。
「エレオノーラ!」
「ヒューバート様」
やや切羽詰まった声に顔を巡らせれば、二人の王族をすり抜けて飛び込んでくる彼がいた。ローサから離れ、彼の方へと手を伸ばす。ぎゅっと抱きしめられて、ようやく安心する。
「ごめん、すぐに来られなくて」
「大丈夫。ローサ様が助けてくれたから」
ローサと聞いてヒューバートが表情を険しくした。少しだけわたしを離すと、頭の上から足の方まで念入りに確認する。
「ローサ殿に何もされていないだろうな?」
「助けてくれて、立っていられないわたしを支えてくれただけよ?」
不思議な心配をする彼に首を捻れば、ヒューバートは大きく息を吐いた。
「失礼な奴だな。わたしも恋愛対象は男だ」
「そんなはずはない。どれだけの侍女がローサ殿に……いえ、何でもありません」
ローサがヒューバートにわかりやすく怒気を向けたので、彼はすぐさま言葉を濁した。
「では、彼女のことは任せる。わたしはこれから後始末だ」
肩をすくめて、彼女は色々と喚いているコンスタンス王女のいる方へと向かった。
去っていく人たちを言葉なく見送っていれば、王太子がこちらにやってきた。王太子の口元に笑みが浮かぶ。
「明日からお披露目会まで、ヒューバートは休みだ。十分奥方を労わってやれ」
「承知しました」
ヒューバートと共に臣下の礼を取れば、今度こそ去っていく。彼らの姿が見えなくなって、ようやくヒューバートがわたしの顔を見た。そっと彼の手がわたしの頬に触れた。
「ごめん」
「すごく驚いたわ」
「抱きつかれる予定ではなかったんだ」
「本当に? 殿下たちの指示で気のあるふりをしたのではなく?」
あの状況になってしまったのは仕方がないことだとわかっているのに、どうしてもチクリと言いたい。違うとわかっていても、他の女性を抱きしめる彼がとても嫌だった。
こうして近くに立っていても、知らない香りがする。きっと抱き着いていたあの女性の残り香だ。さほどきつさはない香りだが、鼻について仕方がない。
「嫉妬している?」
「……嬉しそうにしないで」
むすっとして言い返せば、ヒューバートはふわりとわたしを抱き上げた。
「え?!」
「足、痛むだろ?」
「でも、まだここは……!」
夫とはいえ、抱き上げられて移動するなんて恥ずかしい!
顔が火照るのを止められず下ろしてもらえるように暴れたが、わたしの動きを抑え込み歩き出した。
「帰ろう」
「……ええ、帰りましょう」
上機嫌に歩き出すヒューバートにもういいか、という気分になった。
誰もいない回廊をヒューバートは迷うことなく歩く。
彼に体を預け、空を見上げた。綺麗な月が弱い輝きを放ち、柔らかく包み込んでいた。




